サイコキネシス文芸部   作:氷の泥

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04 エスケープ

 七月。少なくともぼくが住む地域では、文字通り肌を焼くような日差しが、今か今かとスタメン入りを待ち構える気候になっていた。

 ニュースは毎日「本格的な夏到来」と「昨日から一転した涼しさ」を交互に語り続ける。まだ夏は来ない、まだ熱中症での死者は出ない、と言い聞かせているかのようだった。あと一週間もすれば、蜃気楼が見えてきそうな夏が来るに違いないと、誰もが理解しているのに。

 文芸部の部室にエアコンは無い。もしも真夏日をここで過ごすというのなら、天井近くに設置された扇風機だけを頼りにしなければならない。だがその扇風機は、リハーサルのような暑さの現在でさえ、「無理無理」と首を横に振っている。

 必死に首を振りながら、申し訳程度の風しかくれないのだ。首を固定して、ぼくにだけ風を集中させる方法を、せいぜい一生徒である自分は知らない。そんな扇風機を頼りに現代日本の夏へ立ち向かうのはあまりに無謀、無茶だ。

 アブラゼミの鳴き声が窓を貫通してきて鬱陶しい。音は時として、弱った人間をさらに追い込んでくる。ぼくは心頭滅却して、手元の文庫本に視線を戻すことにした。しかし確実に湧き続ける汗が、いつか落ちるのではないかと思うと集中できなかった。心頭滅却とは?

 帰ろうかな、そう思った時、ガタガタとドアが唸った。気を持ち直して、制服の袖で額の汗をぬぐう。ハンカチはすでに水分過多で死んでいる。

「あっつい」

 やって来た先輩がお決まりの台詞を言わなかったので、よほど参っているのだなと理解した。

「いや、何度見ても小さいな」

 扇風機を見上げながら、忌々しげに言う先輩。とっくに済んだ衣替えで半袖になった彼女に、「それ意味あるんですか?」と聞くのはもうやった。

「撤収だ、来栖。こんなところにいては死んでしまう」

「まだ今日は最高気温35℃ですよ。ジャブみたいなものです」

「ゴリラのジャブは人を殺すんだ」

「いつから夏はバナナ好きになったんですか」

 しかし言われてみれば、バナナは暑い環境で育つイメージがある。ゴリラは夏のことを気に入っているのだろうか?

 先輩が心底嫌そうな顔で「早くしろ」と急かすので、ぼくは荷物をまとめて部室を出る。そして校舎からも出て、そういえばあの部屋は日差しが当たりづらいのだったと思い出した。屋根の下を抜け出してみると、ジャブでも直撃すればたまったものではなかったのだ。

「今日をもって、文芸部の活動はしばらく休止だ」

 頭上に浮かべた鞄を気休め程度の日除けにしながら、部長から事も無げにそんな宣告が下された。

「え、活動って、あの部屋でお喋りすることですか?」

 学校から最寄りの駅へ向かって歩を進める。暑さを拒む物がない「外」から早く解放されたくて、足を動かす速度は無意識のうちに早まってしまう。するとさらに汗をかくことになるのだけれど。

「それ以外に何がある?」

「いや、ていうか、今さらですけど、文芸部ってそれでいいんですか……?」

 入部から三ヶ月。夏休みの入り口が見えてきている今日この頃になって、ようやくそんな話題をぼくは持ち出したのだった。自主的かつ独断による活動休止を言い渡されでもしなければ、「そもそも我々は今まで「活動」をしていたのか?」……なんてことに興味を持ちはしなかったように思う。我が校の文芸部員は不真面目だ。

「それでっていうのは、もっと物質的な意味で成果を残さなくてもいいのか、ということ? それとも、勝手に休んでもいいのかということ?」

「前者です。で、その話をするなら、物質的以外の意味でも、ぼくらに成果って無くないですか? 文芸部としては。確かにお喋りは楽しいですけど、それって文芸じゃないような」

 スカートのポケットからハンカチがふわりと現れて、先輩の汗をぬぐった。

「……そもそも文芸とは何だ」

「え? 哲学的な話ですか?」

「私は文芸が何かを知らないんだよ、後輩」

 ハンカチは元の場所へ帰った。

 ところで、先輩がやはり頑なに、ぼくより高い位置に頭を配置しようとするので、話を聞きながら彼女の方を見ると、どうも胸元のあたりが視界に収まってしまう。

 ……何か、男には馴染みのない物が見えた気がして、ぼくは眉ひとつ動かさず前を向いた。ぼくもそうだけれど、先輩は汗かきだ。

「文芸が何かを知らない? ……哲学的な話ですか?」

「おちょくってるのか……?」

「いや全然」

 どこかで聞いた話、人間の物事へ対する理解度と自己肯定度は、グラフにすれば谷折りの曲線を描くらしい。理解が浅いうちと、とても深く理解した時が、自己肯定感の高い状態で、中くらいに理解している時が、一番自信を失ってしまうらしい。

 だから先輩の「文芸とは何だ?」発言は、彼女が中くらいの場所にいるからなのかなと思った。……でなければ、彼女にとっての文芸とは、浅いどころの話ではなくなってしまう。

「まさかとは思いますけど」

「うむ」

「先輩は文芸部の部長をやりながら、文芸部が本来何をするべきなのか、何も知らないんですか?」

 ジージーというセミの鳴き声が忙しなく、サイレンのように鳴る。鳴り続ける。

 永遠に耳の中でこだましそうな、その不愉快な音が、かえって先輩の声を際立たせた。

「知らない」

 毅然とした態度で堂々と言えば、何でも格好がつくんじゃないか。そう思わされてしまって、自分の価値観や感覚を疑わされた。

 と、どこからか飛んできたセミが、壊れた玩具みたいなうめき声を上げながら、先輩の顔面に突っ込んでくる。しかし、それは先輩に触れるより先に、ガシュッと軽い素材が潰れるような音を立てて、消え失せた。

 ジッ、……と短い断末魔。ぼくの背筋は急激に冷えた。心臓が縮んだ気がする。

「えーと、文芸部というのはですね」

「うむ」

「とにかく何か文章を書くんですよ」

「……というと作文か、あるいは自作小説?」

「エッセイでも批評でも宣伝でも、とにかく何でも」

「書いて、それでどうする」

「部誌にまとめて、文化祭とかで売るんじゃないですか?」

「最後だけ投げやりに言ってないか?」

「中学一年の今頃、ぼくは部活をやめてましたからね。最低限の知識以外は知らないんですよ」

 あの時の文芸部が部誌を刷ったのか、刷ったとすればどんな内容だったのか。ぼくは一切知らない。興味もなかった。

 けれどこれだけは知っている。言ってはなんだけれど、仲良くもない素人の書いた文章なんて、わざわざ見るほどの物ではないのだ。

「部誌か。……書きたい?」

「いや」

「私もだ」

「……それで怒られたりしないんですか?」

「うーむ」

 車が一台、ぼくらを追い越して走っていく。この国の法律は、超能力による運転に免許を与えるのだろうか? 今度先輩に聞いてみよう。

「ゴーストライターに書かせようか」

「え?」

「我が部のゴーストを誰か、ライターにしよう」

「あぁ」

 そうだった。本当の本当に一度も顔を見たことがないので、文芸部の部員は決してたったの二人ではないことを忘れていた。

「書いてくれそうな人、いるんですか」

「書かせるさ」

「ど、どうやって」

 さっきのセミの断末魔が頭の中に帰ってくる。あれで「次はお前だ」と言われたら、ぼくなら書く。

「君はそもそも幽霊部員たちが、どうして籍を置き続けるのだと思う? やめてしまえばいいじゃないか、何もしないのなら」

「はぁ、たしかに」

「なぜ幽霊たちはいつまでも部員なのか。答えは、帰宅部という肩書きの肩身が狭いからだ」

「……そんなことで?」

「そんなことでだよ。まぁ、私から「何か書け」と言われるまで、幽霊たちはそれをノーリスクだと信じきっているからこそ、そうするのだろうけど」

 なるほど、タダならもらっておこうの精神か。何百人と存在する生徒の中からほんの数人くらいなら、確かにそういう理由で籍だけ置く人もいるのかもしれない。

「けどそれだと、面倒を感じた瞬間辞めちゃいませんか?」

「私はそれはないと思っている」

「なぜ」

「来栖、相手は「私は帰宅部です」と言うことにさえ気が進まないような人間だぞ。籍だけ置いて顔は出さず、少しでも不都合があればエスケープ。……なんて根性があるようには、私には思えない」

「なるほど」

「誰もが君のように恐れ知らずなわけではないんだよ」

 そう言われてしまうと、ともかく納得するしかない。今までの人生で、自分が少数派であるらしいことは重々自覚させられた。君の感覚は間違っていると言われればそれまでだ。

 でもたぶん、先輩も相当な少数派だと思う。明らかに生まれのせいではあるけれども。

「というわけで、適当に誰かを脅そう。自分が三年生であることを幸いに思ったのは初めてだ」

「いや、言い方」

「君にそれを言われるとは」

 駅に着いた。二人とも通学定期でスムーズに改札を抜ける。エスカレーターでホームに降りたら二つ三つ遠い乗車口を選んで電車を待つ。先輩もぼくの隣でそうしていた。

「あれ」

「ん?」

「なんで一緒に帰ってるんですかぼくたち」

「え、今?」

 早く帰るぞと急かされて部室を出てから、なんとなく流れでここまで来てしまった。先輩とお喋りをすることがルーティーンと化した結果なのかもしれない。ぼくと先輩は普段、ぼくが傘を忘れでもしない限り、一緒に帰ったりなんかしない。

 大抵は先輩が「よし、帰るか」みたいなことを言って、先に帰っていく。そのタイミングは不規則だ。予定があるから帰るのか、飽きたから帰るのか、きっとその日ごとに理由があるのだろうけど、時間がランダムなこともあって全く法則性が掴めない。

 ぼくは先輩に対して、必ず少し間を置いてから帰る。読みかけの本が気になることが理由である日もそこそこあったけれど、基本はいつも変わらない。特に理由もなく女子と並んで下校することが恥ずかしいからだ。

 なぜ恥ずかしいのだろう、誰も見てやしないのに。自分でもそう思うけれど、強いて言えば先輩が見ている。ぼくには部室という舞台と、部活という名目が必要なのだ。

 ……と思っていたのは、単なる自己暗示だったのかもしれない。

「まぁいいじゃないか、たまには。しばらく会わなくなるっていうのもあるけれど」

「あー」

 プライベートで先輩に会ったことはない。学年が違うのだから当然、部活を除いて学校でも会わない。文芸部の活動が休止されるということは、再びあの部室に役目が与えられる時まで、先輩の顔を見ることもなくなってしまうわけだ。

 当然お喋りする時間なんかは、万に一つも成立しなくなるだろう。

「なに、もしかして寂しい?」

「それはまぁ」

「……そんなに可愛らしいことを言う後輩だったっけ?」

「どんな後輩だと思ってたんですか」

「さぁね」

 電車がやって来て、ドアが乗車口からほんの少しズレてから止まる。車内の冷房は期待ほどではなかったけれど、それでもかなりありがたい物だった。

 中はそれなりに混んでいた。パーソナルスペースが何重にも重なることはなくても、空いた席は一つとしてない。

 発車してすぐに、雨の中家まで送ってもらった日とまったく同じことを思った。超能力者は浮いているから、電車の揺れをものともしないのが羨ましい。ぼくは吊り革を持つ。

「昼休みにでも来ればいい」

 どこを見るでもなく、それを聞いた。

「他学年他クラスの生徒が遊びに来たって、とやかく言う人はいないよ」

 がたごと鳴る車輪、何度聞いても聞き取れない英語の案内音声。窓の外に見えた誰かの家のソーラーパネルの輝きが、水を得た魚のように感じられる。

「私が君の教室に行ってもいい」

 一つ目の駅に着いて、ぼくらの背中側のドアが開いた。誰も降りず、誰も乗ってこなかった。

「先輩って、そんなに後輩思いでしたっけ」

「私を何だと思っているんだ」

「体重を確かめさせてくれない人」

「ははは!」

 座布団がもらえそうなウケようだった。

「じゃあまぁ、お邪魔させてもらいます」

「おお」

「先輩ってクラス何なんですか?」

「Dだよ」

 放課後の部員顔合わせが昼休みにズレ込むことくらい、別に何でもないだろう。エアコンも設置してもらえない辺境の小さな教室から、設備の整った大きな教室に一時避難するだけだ。実質それは部活である。

 どうせ近々夏休みに入ったら、それが明けるまでぼくらは一度も会わなくなる。それを何も自分たちから早めることはないっていう、それだけの話だ。

「慣れない場所でも先輩のことは見つけやすそうですよね」

「どうかな」

 二つ目の駅に着く。数人が乗り込んできて、それからあらゆる他人がそうするのと同じように、先輩のことをチラと見たあと、何でもなさそうな顔をする。

 ぼくが初めて彼女のことを見た時も、同じように感情のこもっていない顔をしていただろうか。そんな顔が出来ていただろうか? 基本一人で帰っていたからか、未だに、先輩の姿を見てギョッとする人を見たことがない。ただの一度も見たことがない。

 隣で先輩が大きなあくびをした。口元を隠すためにハンカチ等が飛び出してくることは、どうやらないらしかった。

 

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