病院から家への帰り道。
歩き慣れた道を、少女は──春華遥はどこか物珍しそうな、好奇心に満ちた目で見ていた。
肩ほどまでに整えられた、濃く鮮やかな茶色の髪。
『視る』ことが許された事で、ようやく仕事を得た純黒の瞳。
最後に、通り過ぎる誰もが二度見する程の、整った顔と体付き。
いつもと違う年相応の少女の顔は、新鮮味があるがミスマッチな雰囲気が漂っている。
そんな遥の隣を浮いて付き添う晴は、少し苦笑しながら彼女を急かす。
「はるはる〜。ゆっくり歩くのは良いけど、遅すぎるとオバサン心配しちゃうよ?」
「……それもそうね。ペースを上げましょうか」
ハッと我に返った遥は、いつも通りの無表情に戻る。
不機嫌そうにも見えるが、晴からしたら随分機嫌が良さそうに見えた。
周りに聞かれない程度の小さい声で会話をしながら、帰り道を歩く。
元々無かった視力を補う為に、常人より優れた他の五感が遥に帰り道を教えてくれる。
見慣れぬ景色でも、歩いた感覚はそうそう変わらない。
自分の感覚だよりに、遥は家と言うゴールまで自力で完走した。
最初は、母親である恵子が一人で帰るのを反対したが、主治医である浅川が「いずれはやらなければいけないのだから、早めにやらせても損はない」と言ったので渋々の了承を得たのだ。
見慣れぬ家のドアを、慣れた手つきで開けて中に入る。
すると、入った途端に恵子が玄関に飛んできた。
「大丈夫!? 怪我とかしてない?」
「心配し過ぎよ、母さん。歩き慣れた道で転ぶほど、私は終わってない」
「そう……。ご飯が出来るまで少し待っててちょうだい。自分の部屋、分かる?」
「二階の奥でしょ? それぐらい分かるよ」
恵子の心配の言葉を、遥は辟易とした様子で聞き流し階段を上がっていく。
優しくしてくれるのは嬉しいが、恵子は過保護が過ぎるのだ。
…過保護過ぎる割には、遥の部屋を二階にして、日頃から階段の昇り降りの練習をさせているのだが……
「お邪魔しま〜す」
「邪魔するなら帰っていいわよ?」
「揚げ足取りしないでよ〜!」
階段を昇り、二階の奥にある自室の前まで辿り着く。
中に誰かが居る訳でもないのに、遥はそっと、初めて見る自室のドアを開けた。
そこには………………驚く程に何も無かった。
壁に一定の高さで設置された手すり、寝る為のベット、盲学校の宿題や勉強をするための机、服を入れる為のタンス、最後に唯一の娯楽であるテレビ。
殺風景も良い所だ。
とても、華の女子高校生には見えない。
…それもその筈だ。
彼女が『視る』と言う行為を出来ない以上、視覚を必要とする物や、見て癒される物は必要ない。
故に、少女らしいぬいぐるみやファッション誌、アイドルの写真集等は存在しない。
……いや、ぬいぐるみは触感を味わう為に有っても良いのだが、視力を補う為に中途半端に優れてしまった触感は、並のもふもふ柔らか具合では満足出来ないのだ。
「何時見ても、殺風景な部屋だね〜。この際、買い物にでも行って、何か買ってくれば?」
「…そうしたいのはやまやまだけど、やる事があるからそれは全部が終わってから一人で行くわ」
「?? …まぁ、別にはるはるがそれでいいなら良いと思うけど。やる事って?」
外に出る事に、遥は不安がない。
盲学校で一般教養自体は習っているので、外に出ても、周りから見れば、少し世間知らずな女の子…と言った反応で済むだろう。
バリアフリーが進んでいるこの時代、例え前の状態でも晴が隣に居れば、遥は外に出る事を怖く思うことはなかった。
だが、遥のやる事は──やりたい事は、ただ外に出る程度の事でなはい。
旅だ、旅に出るのだ。
今まで出た事の無い、自分たちが住んでいる街、埼玉の越谷から旅に出る。
宛のない旅路ではあるが、目的は有る。
……晴が居なくなった未来で、どうやって生きていくかを見つける旅だ。
その為には、自分の知らない世界を知らなければならない。
ようやく仕事が出来るようになった目で、何時も支えてくれた五感たちで、多くのものを知らなければいけない。
「旅に出るのよ。…私は世界を知らない、井の中の蛙で終わるなんて真っ平よ。……折角貰ったものがあるんだもの、活用しないなんて失礼だし──可笑しいでしょ?」
「……ふふ。そうだね。人がどういうものか、社会がどういうものか、自然がどういうものか。色々知らなくちゃいけないね」
遥の言葉を、晴はバカっぽい笑顔で返事をした。
その言葉が嬉しかったから笑って、彼女の口元が少しだけ緩んでいたから、苦しんだ。
(あぁ〜あ。もっと早く、その顔が見たかったなぁ)
過ぎた時は戻らない。
時間と言う概念は不可逆で、進む事はあれど戻ることは無い。
……遥を救う選択に後悔はない、ない筈なのに。
胸が苦しくなってしまうのは何故なのか、晴はそんな心の内を誤魔化してバカみたいな笑顔を続ける。
きっと彼女は、自分のこういう笑顔を望んでいるから。
──────────
「どう? 美味しい?」
「いつもと変わらない。美味しいよ」
「そう……」
安堵したのか、恵子は手を付けていなかった夕食を食べ始める。
煮魚、きんぴらごぼう、沢庵、豆腐とワカメの味噌汁にご飯。
味がしっかりと染みた煮魚は甘塩っぱくご飯に合うし、きんぴらごぼうに沢庵もご飯との相性は最高。
豆腐とワカメの味噌汁は白味噌だけで作られており、食べ慣れた甘い味と温かさが心地良い。
(……違う! 料理を楽しむのは間違ってないけど、言わなくちゃいけない事が…!)
「…母さん。私、突然だけど旅に出ようと思うの」
「た、旅!? ど、どこに!? と言うか、そんなのダメに決まってるでしょ! 通院の約束も有るし、まだあなたを外に出す訳には……」
「…だよね。あっ、そうだ。母さんさぁ、私に黙ってる事有るでしょ? すっごく大事な事。…ううん、大事な人の事」
遥の言葉に、隣に浮いていた晴と、正面に座って食事を取っていた恵子が同時に凍りついた。
恵子に至っては、さっきまでの心配や怒りの表情がなりを潜めて、段々と血の気が引いたような青白い顔になっていく。
明らかな動揺だった。
言葉で言うよりも雄弁に、顔が──雰囲気が語っていた。
「…ご、ごめんなさい。私、悪気があって黙ってたんじゃ──」
「知ってる。母さんが優しいのなんて、昔から知ってるよ。黙ってたのも、術後すぐの私を不安にさせないためでしょ?」
「……………………」
「無言は肯定って事よね? ……私も、晴の死を知って、まだ時間が経ってないから、全然整理が着いてないんだ。…でも、これだけは分かる。私は、晴の死を悲しんでる…。だけど、私は晴の死を悲しみだけで終わらせたくない。晴から貰った目で、色々なものを見たいし、知りたい」
演技ではない。
本当に悲しいし、本当に苦しい。
死ぬのは自分の方が良かったと言いたい。
でも、それは冒涜だ。
今、隣に居る、自分を命懸けで助けて、色彩のある世界を与えてくれた彼女への……冒涜だ。
だから、言えない。
言ってはならない。
本当に彼女の事を大切だと思うのなら。
その言葉を口にしてはいけない。
「…幾ら欲しいの?」
「貰えるだけ」
「…はぁ。待ってなさい」
恵子はそう言うと、イスから立ち上がり、近くにあったタンスの中をゴソゴソと漁る。
漁ること数分、分厚い茶封筒を持った恵子が帰ってくる。
晴が目光らせてそれに手を伸ばそうとするが、遥は睨んでそれを阻止した。
その行動の所為で若干違和感を持たれるかと思ったが、恵子は特に気にせず遥の前に茶封筒を置く。
「…親戚の人達から貰っていたお金よ。あなたの為にって。…最も、あなたは全然物を欲しがら無かったし、私もこのお金に手を出す気は無かったから使ってなかったの。…中には三十万くらい入ってる筈よ、好きに使いなさい」
「ありがとう、母さん」
「但し、道中お金が無くなったらその時はその時よ。バイトでもしなさい、良い経験になるわ。……どうせ、夏休み丸々使う気でしょ? 普通科高校への転入手続きは勝手に済ませておくわ。晴ちゃんが行っていた所で良いでしょ?」
「母さんって、本当は結構サバサバしてるよね。凄く優しいけど、相手と自分でちゃんと境界線を決めてる」
「…あなたのやりたい事は、なるべくやらせてあげたいのよ。それと、これ」
差し出されるのはスマホ。
見た事のない遥にとっては、ただの薄い板であり。
見た事のある──と言うより自分のスマホである晴にとっては、慣れ親しんだ相棒。
「…はるはる、これ私のスマホだよ!」
「母さん、これって?」
「スマホよ。聞いた事はあるでしょ? 今時の必須アイテム。…これは晴ちゃんのよ。親御さんたちが、あなたに使って欲しいって。少しでもいいから、あの子のことを覚えていてやって欲しいってさ……。開いて、写真のフォルダ見てみなさい」
遥は恐る恐ると言った手つきで慣れないスマホの電源を入れて、事故で奇跡的に助かったスマホを開く。
パスワードの必要はなく、画面は勝手にホームへと移動する。
数あるアプリの中から、遥は写真を見つけて、年代別に別れているフォルダからテキトーなものを選ぶ。
そこには────
「私と、晴?」
優に数百を超える写真の数。
全てが全て、遥と晴のツーショット写真だ。
一枚たりとも、片方で写っている写真はない。
不気味だと思うより先に、疑問が思い浮かぶ。
何故、一枚も一人だけで写っているものがないのか。
「母さん? 何で、私と晴の写真しか無いの? 晴一人とか、私一人とかの写真が無いんだけど。……あと、私の許可無く撮ったであろう写真が何枚もあるんだけど?」
「後半は知らないけど。前半の理由は知ってるは。……確か──」
「あぁぁぁぁあああ!!! 言っちゃダメ、言っちゃダメだからオバサン!!!」
「一人だと寂しそうに見えるから、だったかしら。あとは……そうそう、ずっと一緒に居るって事の証明だって言ってたわ。…直接言うのは、恥ずかしかったみたいだから、私にだけ言っていたは」
「へぇ、そうなんだ……」
嬉しそうに微笑む遥だが、晴と恵子とで見方が違う。
恵子の場合は、大切にされている事を喜んでいるんだと思う。
だが、晴の場合は、新しいオモチャを見つけて喜んでいるだと思う。
実際、どっちも正解なのだが、二人は知る由もないだろう。
──────────
「ねぇ、晴? 私の事、凄く大切に思ってくれてたのね。嬉しいわ」
「ぅぅぅぅぅう。もうやめてぇ……」
「…冗談よ。ほら、旅の支度があるんだから手伝ってちょうだい。まず、タンスから下着を三セット」
「……はい」
大人しく従う晴。
遥は機嫌良さそうに、晴から貰った下着やらを、旅行用のスーツケースに詰め込んでいく。
そこでふと、遥は思い出したように晴に聞いた。
「晴、少しいいかしら?」
「なに〜?」
「あなた、スマホにパスワード付けてなかったの? 勝手にホーム画面に飛んだけど」
「……私、忘れっぽいからなぁ、付けてなかったよ」
「そう。ごめんなさい、変な質問して。さて、準備に戻りましょうか」
晴は出来るだけ自然な口調で嘘を吐いた。
バレたくない一心だったのだ。
彼女だってパスワードは勿論付けていた、誕生日で。
(はるはるの誕生日にしてたって言ったら……)
弄られることは確定だし、何より……恥ずかしい。
晴はこの事実を、あの世まで持っていく事を決めたのだった。
次回もお楽しみに!
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