赤井秀一には親友がいる。
いつも真っ黒でお世辞にも愛想が良いとは思われない彼は、職場の付き合いに顔を出しはするが、唯一がいるようにも思われていなかった。恋人の存在がちらつくこともあったが、常に1人。孤高の存在。冷たいようで、信念を灯すその瞳に映るものは、難事件しかないと思われていた。
だから、ごくわずかの事実を知る人々は驚くのだ。
まるで正反対。柔和な笑みを浮かべ、赤井秀一の隣に立つ親友。
――ユーリの存在について。
01
「おい。そちらへ進むのは危ないぞ」
まるで、先の見えない暗闇でもがいているようだった。
焦りと、不安と。良くないものだらけが心を占める中、低くゆったりとしたその声は、よく響いた。
振り返れば、男がひとり。
その男は近場の店に勤める店員のようだった。休憩中なのか、白シャツの襟元を崩し紫煙をくゆらすその姿は、裏通りの怪しげな雰囲気と相まって、こちらの目が醒めるような存在感があった。
「ありがとうございます、でもどうしても探しているんです」
同郷だろうか、と根拠ない勘を働かせ日本語で返すと、少し目を見開かれる。
見つけなければ、先に進めないと思った。
一つのことに集中すると周りが見えなくなるのは、昔からよく言われる悪い癖だ。
自分でも気がつかないうちにこんなところまで来てしまったらしい。街中の雑踏も聞こえない、つまりここで窃盗など犯罪に巻き込まれたとしても、自分の助けは誰にも届かないだろう。
「だとしても、焦りすぎだ。あと少しでイカれた連中の狩場にぶち当たる。お前が大事そうに抱えている荷物の中身も、すべて持って行かれるだろうな。たとえ言葉で拒絶しても、連中にはどんな言語も通じない。唯一通じるのは、暴力だけだ」
「そ、そんな……」
ずいぶんな脅し文句に驚きながらも、その場を離れない自分をその男は苛立たしい様子でにらみ、深く紫煙とともに息を吐いた。
「……何を探している?モノか?人か?」
「店を。――という店をご存知ですか?」
遠い昔にきいた店の名前、場所。街の案内マップはおろか、地図アプリでもお店は検索に引っかからなかったのだ。当時から隠れ家のような場所だったと、笑う彼らの、両親の声が遠くで聞こえる。それでも、諦めるわけにはいかなかったのだ。
「ああ、よく知っている。俺はそこの店員だ」
◇◇
案内された店は、両親からの話に聞いた通りだった。
隠れ家のような入り口を通された先には、古めかしいバーがあった。もちろん、お店の看板はない。あたたかみのある照明が暗い店内と、所狭しとならんだ数多の酒瓶を照らす。陽が落ちてから間もないというのに、そう広くない店内は早々と客で賑わっていた。彼らはどうやってこの店を見つけたのだろうか。
カウンターでは老年のマスターがグラスを磨き、奥にはこじんまりとしたステージもある。
母はここで弾き語りし、客であった父に出会ったらしい。お互いに一目惚れだったそうだ。黒光りしたピアノも鎮座しているが、長い間、演奏の予定はなかったらしい。ワインレッドのカバーは埃で薄汚れている。
「見ない顔だね、きみはピアノに興味があるのかい?よかったら弾いていく?」
ぼんやりとピアノを眺めながら、グラスを傾けていれば老年の男性が話しかけてきた。
「いえ、楽器はさっぱりなもので…あのピアノは母と父の運命だったらしいので、気になって。どうしても、会いたかったんです。」
一生懸命にピアノを教えてくれた母の姿を思い出す。
だが、どうしても音楽の神は自分に微笑むことはなく、逆にここまでとは、と家族で笑いあったのも懐かしい思い出だった。今は、もう大好きだった母の音色を聴くことも叶わない。母の名前を告げると、マスターは目元を濡らした。
「ああ、そうか。きみが、彼女と彼の息子か…」
「どうしても、両親のはじまりであったこの店に訪れてみたくて……。でも、今はもう演奏はされていないんですね」
「たまに地元の連中がリサイタルライブとしてこの店を使ってくれるが、昔ほどは……だが、せっかく来てくれたんだ。少し待っていなさい」
その言葉を残し、マスターは奥へと引っ込んでしまう。
待つこと数分。じんわりと照明が落ちるのと同時に、店内にかかっていたレコードは徐々にフェードアウトされ、ステージにライトが当たる。
やわらかな光のなかに写ったのは、あの男の人だった。
親切な人。優しい人。僕の道を、照らしてくれた人。
その人は、抱えたアコーディオンをゆっくりと奏で始める。深く切ない音色が店内に広がり、しっとりと空気を震わせる。その場に居合わせた他のお客さんからしたら、なんでもない1日のおわりの、ちょっとしたスパイスなのだろう。
ただ、その名前もわからない曲はじんわりと自分の胸をしめつけた。温度のある音色は、じんわりとつかれた体を包んだ。熱い何かがこみ上げる。限界まで引き伸ばされ、悲鳴をあげていた糸がきれると、あとはもう崩壊するだけで。
そこで、ようやくだった。
とつぜん、家族をいちどに失ってから、はじめて僕は涙を流したのだ。