「おつかれさま、検査結果もまあ問題ないし、きみ、退院ね。もうこれっきりにしなさい。もっと自分をたいせつに。お大事にね」
「はい、ありがとうございました」
数日意識を失っていたままだった僕が目覚めたのは、昨日。
情けないことに、米花百貨店でひっくり返った僕はそのまま救急車で病院まで運ばれた。百貨店内の救護室に運ぼうとしてくれた人もいたらしいが、爆弾騒ぎで気分を悪くした人で混み合っていたこともあり、僕の容態を心配して気をきかせてくれた人がいたらしい。
しかもその人たちが、救急車の付き添いまでしてくれたのだ。病気ではない。先生は細かく症状を説明してくれたけど、簡単に言えば疲労と、不養生が祟ったということ。あとストレス性の、なんとか。運ばれたときに、大掛かりの装置を使ったり採血をして、内臓の機能から血液濃度まで調べたらしいが、よくまあこんな状態で来日したねえ、かなり辛かったでしょう、意識もほとんど朦朧としてたんじゃないの?空港で引っかからなくてよかったね、という言葉をもらった。正直に答えた食生活に対する指導とともに。
少ない荷物を片付けていると、看護師さんが現れた。あれ、そういえばこれ誰が用意してくれたんだろう。おはようからおやすみまで見守ってくれたのは、1匹のくまのぬいぐるみまであった。
なぜぬいぐるみ。しかも大きい。手触りはふわふわで、毛並みはやさしいブラウン。膝に座らせるとちょうどよいくらいのフィット感がある。病棟に生花の持ち込みを禁止されているからって、ぬいぐるみで室内をにぎやかされるとは…。ちょっと照れくさい。
「ユーリさん、元気になってすぐに退院できてよかったですね」
「はい。ここ、静かなのは好きなんですがこのままいると、ボケちゃいそうで…お世話になりました」
書類を抱えた看護師さんが来てくれた。彼女は僕の担当さんだったらしく、いろいろお世話してくれたらしい。僕の意識はなかったけど。
「そういえば、荷物やぬいぐるみってどなたが用意をしてくれたんですか?救急車を呼んでくれた方でしょうか?」
「あら。それなら、ファンの方と聞きましたよ。米花百貨店で転倒したのを目撃した、って。詳しくは聞かなかったんですけど、ユーリさんって絵本作家さんらしいですよね」
「え?」
ファンの方。たしかにメディアにも何度か顔を出したことはあるけど、よくわかってくれたなあ。自分で言うのもなんだけど、ゾンビみたいな顔をしていたと思うし。
「最初は、ご家族の方かとおもったんです。なので、入院に関する案内とか説明してしまったんですけど、話が終わったあとに困った顔で自分はファンだ、とおっしゃっていて」
「はあ」
「顔立ちはそっくりと言うわけではなかったのだけど、不思議ねえ。どこか同じ…そう、髪よ。とっても似ていらっしゃったから、お兄さんかと。あなたを見る目もなんだか優しそうでね。それにその方、毎日いらっしゃったのよ。一応お名前を伺ったんだけど、一介のファンですので、って断られちゃったのよねえ」
残念ながら僕に兄はいない。思い当たるような親戚も。毎日お見舞いに来てくれたというその人は、いろいろと世話をしてくれたらしい。こんなに親切にしてくれて、似た髪色。ぐったりした顔を見ただけで、絵本作家のユーリだとわかってくれた。何者なんだろう、……もしかして。
「よほどのユーリさんのファンなのかしらねえ」
それだ。
◇◇
いつもそのファンの方が現れるという時間帯まで粘っていたが、待てども来なかった。今日は何かあったのかなあ、まだ見ぬその親切な人が心配だ。結局、僕の目が覚めてからパタリと来訪は途絶えてしまい、彼の正体は不明のまま退院を果たしたのである。
呼んでもらったタクシーに乗り込んで、向かったのはホテルだった。
実家もあの事件以降、とっくに手放していたし、事実からは目を逸らしたままだったから。米花の町に近い場所に居を構えた方が手っ取り早いというもっともらしい大義名分を言い訳のように自分に言い聞かせてぼんやりと外を眺めた。夕方といっても、まだまだ明るい。淡紅と橙と藍色をベールのようにまとったような鮮やかな夏の夕暮れ空だ。
遠くからは、ひぐらしの物哀しい鳴き声も聞こえる。ああ、ついに帰ってきてしまった。日本だ。帰ってくることなんて、ないと思っていたのに。
あの日、自由の女神像が手元に戻った日から死んだように生きていた僕の心臓に火を灯したのは、偶然閲覧した1つのネットニュースだった。母国で銀行強盗があったという記事を開けば、現地のニュース映像まで動画配信されていた。その動画で見たものは、彼の姿だった。もう帰ってくることはないと思っていた、大切なひと。シュウ君。
米花町の帝都銀行。それだけを頭に入れて、そこからは、もう、無我夢中だった。真っ暗な暗闇のなかに現れた一筋の光だったのだから。あれだけ鬼門だった飛行機も、吐き気やめまいを誤魔化すためにお医者さまの言うぼろぼろの内臓に薬を流し込み、無理矢理突破をした。そのおかげで今回の入院もちょっと伸びたらしいけど。
果たして往路は死に物狂いで来たが、復路のことはしばらく考えられないなあ。行きはよいよい、かえりはなんとやらってね。
僕のゾンビ紀行は強力なサポーターの支援なしには成し得なかった。チケットの用意。
それと、「ユーリ氏にとってミスターが大きな存在だとはわかっていたけれど、本当には理解できていなかったようだ!そもそもユーリ氏は己の体調わかっているのかい⁉最後に口にしたものは…いやいい、その様子をみればロクなものを摂っていなかったのなんてすぐにわかりますぞ。(このあとは早すぎて聞き取れなかったけど、とにかく心配してくれていることは伝わった)でも行くのでしょう。まったく!君たちは手がかかる!ミスターからいつかのバイクの借りは返してもらえてないままですが、他でもないユーリ氏の頼みなら断ることなんて出来るはずがない!さあ、これを」とニュースに映っていた彼の服装より調べたという、購入元の米花百貨店を割り出した資料とカルフォルニアのオレンジを渡してくれたドムに感謝だ。
フラフラになりながら、空港からまっすぐ米花町に来て帽子について聞き込みをしようと百貨店に入れば、事件真っ只中だったのである。そして、思わぬ収穫も。
倒れる瞬間に、ふつりと変なスイッチが入って安堵してしまった。いや、むしろスイッチはオフになったから今の心は凪いでいるのだろう。なぜか。まだ、目的は達成されていないのに。突然姿を消してしまった彼は、まだ遠い存在のままだというのに。うすらぼんやりと見えた緑は願望からの妄想ではないのか、と懐疑的な気持ちもあったがピンと張った緊張状態はいつの間にか余裕を取り戻している。感情は追いつかないが、よほど身体は都合の良い方向へ考えると決めたらしい。
「ああ、もう。…次会った時は、覚悟しておけよ」
彼と出会ってからスラングの語録は随分と増えた。滅多に使わないスラングとともに呟いた言葉は、ホテルの一室にある華美な椅子に座らされた、くまのぬいぐるみだけが聞いていた。