――時は、おおよそ半日ほど遡る。
毛利探偵事務所へ訪問する前、米花百貨店に立ち寄ったのはもちろんお礼の品を購入するだけではなかった。
ドムが調べてくれた、あの帽子。後頭部側に入っているという特徴的な米の字のワンポイントはこのデパートのオリジナル限定商品ということを示したのだ。果たせなかった一筋の手がかりを求め、各フロアをさ迷い、たどり着いたのはスポーツ用品売場だった。あの日のフロアはまるで物語の舞台のようであったというのに、その痕は一切うかがわせず、爆弾事件などまるでなかったかのように夏らしいさわやかな音楽が流されていた。あれだけ大騒ぎだったのに、呆気ないな。
「あの、すみません。この帽子について聞きたいんですが…」
「あら…そんなにその帽子って特別なものだったんです?」
「え、特別って」
「実はお客様で3人目なんですよ、そちらの商品についてのご質問をいただくのは」
うわ、ドキドキと心臓が音を立て騒いでいる。 思わず口の中に溜まった唾を飲んでしまった。和やかに話してくれたのは、販売員の中年の女性である。僕で3人目、僕以外にも同じように探している人がいる、か。
「あの、変な質問かもしれないのですが…もしかして、その人たちは帽子の話の他に、顔に火傷の跡がある男の話をしていませんでしたか?」
「そうなのよ!みなさんの探し人のようで…。特に外国の女性がしきりに聞いてきたのよ。残念だけど、その人達にも話したように、そのようなお客様は来られていないんです。力になれずごめんなさいね」
ここだけの話、どうしてみなさんその方を探しているのかしら?もしかして、貸したお金が帰ってこないとか…、それならわたくし共ではなく警察に相談してみても…というアドバイスに笑みでうやむやに誤魔化す。ああ、唯一の手がかりもダメだったか…。ここには来ていない、かあ。いや、まだだ。落胆している暇などないのだ。まだ知らなきゃならないことはある。僕よりも先に、火傷の跡がある彼を探しに来たという人たちのことを問えば、親切にも丁寧に教えてくれた。(本当に聞いてしまってよいのだろうかというためらいもあったけど、そうも言ってはいられない)
「そうね、たしかひと組目は外国人のお客様だったわ。体格のいい男性と、メガネをかけた金髪の美人さんね」
「外国の…。最近は観光客の方も多いですから大変ですね。店員さんは語学も堪能なんですね」
「私は海外の言葉はからっきしよ。その外国人のお客様が日本語ペラペラでねえ」
日本語が堪能な外国人のカップル。随分と目立つ組み合わせである。米国であれば不可能に近いけれど、彼らが日本の米花町から離れていなければ、特定することは可能かも知れない。
「あともう1人の方はどんな人物でしたか?」
「そうねぇ…その外国のお客様たちが去ってすぐに来たのよ。たしかその方もメガネを掛けていて…特徴ねえ…。あ!目元ね。細目をしていたわ。メガネの度が合っていなかったのかしら…」
メガネをかけた細目の男か。この特徴じゃ、探すのは難しそうだな。やはり、外国人カップルを探すのを優先させたほうがいいのかもしれない。彼らが僕が探す人の手がかりを持っているかは、もちろんわからないけれど何もせずに足踏みをしているという選択はなかった。
「では、店員さんがこの…キャップと火傷の男性の話をしたというのは、僕を含めて3人なんですね。お忙しいのにすみません。ありがとうございました」
聞きたいことは聞けたので、さてこれから毛利探偵宛にお礼の品の手土産を買いに行こう。その時だった。
「あ…、話をしたのはもうひとりいたわ。毛利探偵と一緒にいた小さな男の子も、気にしていたみたい」
「小さな男の子…」
「それと…メガネの男性。よく思い出してみたら、なんとなくだけど、…あなたに似ていたかもしれないわ」
◇◇
「安室くん、こんにちは。お待たせしたみたいでごめんね…。今日はよろしくおねがいします」
「ユーリさん!僕も先ほど着いたばかりですよ…こちらこそよろしく、おねがいします。それと…僕のことは、透、と呼んで欲しいお願いしたのですが、やはり難しいでしょうか」
「あー、えーと。透くん、とおるくん、とーるくん…よし、透くんね。透くんが声をかけてくれて本当によかった。もし、透くんが行きたいところがあったらさ、遠慮なく教えてね。せっかく、そう。友達になれたんだし」
「いえ、お気になさらないでください。ユーリさんにそう言っていただけて光栄です。……そのときは、よろしくお願いしますね」
夏らしく抜けるような青さが澄み切る、晴れた日だった。外にいるだけで汗ばむ気温で、途中で暑さに耐え切れず購入したペットボトルの麦茶は結露でべっちゃりとしている。心なしかもうぬるい。
彼と出会った日、すぐに出かける日程は決まった。車を出すと提案してくれたが、実際に歩いて米花町を覚えたいと申し出れば快く頷いてくれたのである。
米花ホテルまで迎えに来てくれた彼とともに、僕にとっては初めての街をのんびりと歩いた。ここで暮らしている人々は、どんな毎日をおくって、どのように生活を送っているのだろう。
地元の人にとっては代わり映えのない景色かもしれないけれど、過去から連綿と続く人の営みの集合体の形が、今のこの街なのだ。それってとても特別なことで、素晴らしいことだよね。米花町のシンボルである東都タワーはどの場所にいてもよく見える。いつか行ってみたいね、なんて透くんと話しながら、書店から穴場の古本屋さん、さらに図書館も教えてもらい、貸出カードを作るところまで付き合ってもらった。行く先々でスマートに道案内や地域のイベントのことまで説明してくれるのだから、きっと彼は真面目な性格なのだろう。
ぜひ夕食も一緒にということになり、連れられたのは小洒落たイタリアンのお店だった。畏まりすぎないので、カップルばかりということもなく、駅からの立地も良いために女性はもちろん、多くのスーツ姿のサラリーマンさん達まで席を埋め、店内はおおいに賑わっている。
「ユーリさん、他になにか…知りたいことであったり気になる場所はありませんか?」
「うーん、透くんのおかげでほとんど解決しちゃったしなあ…」
せっかくなので、と透くんに勧められ生ビールで乾杯をした。とりあえず生、ってやつだ。久しぶりに聞いた言葉だな。相変わらずアルコールは得意ではないけれど、昔よりはほんの少しだけ許容キャパシティは増えたはず。それに、お酒の場の雰囲気がすきだ。賑やかで、陽気で、楽しい。その感覚を透くんとともに共有したかった。僕らのはじまりは偶然のもので、彼がファンと言ってくれたことがきっかけであったが、今日という短い時間でも僕はもうとっくに透くんのファンになっていた。
喉を過ぎていくキンキンに冷やされたビールは、暑さで火照った体に染み渡る。実は久しぶりのアルコール摂取である。おいしい。
「ユーリさんは、とても本がお好きなんですね」
「うん。でも実は、若い頃はいまほど読まなかったんだけどね。ええと、そう。友達に読書家の奴がいて…彼の影響かなあ」
「へえ、そうなんですね…そのお友達も作家さんなのでしょうか?」
ジョッキから一口喉を潤す。そう、そうなのである。本格的に目覚めたのは、米国に渡ってからなのだ。くぁん、おや、あれ。体の軸がふわっとゆれる。ああ、酔いが回ってきたのかもしれない。だって仕方がない、身体がびっくりしているのかも。
「いや、彼は…ええと…。それがさぁ、よくわからないんだよねえ…あーでも、そうなのかなあ。実は、彼も作家…?すごいクールで、格好いい奴なんだ。それでときどきね、すっごく情熱的で詩的な表現に、言われた僕のほうが照れちゃってさ…いや、まさかな」
透くんは変わらぬ笑顔で問いかけてくる。カプレーゼおいしい。シンプルなのに最高においしい組み合わせだ。芸術か?芸術なのか?カプレーゼ…。汗をかいたから、なのかな?頭がふわふわと揺れる。脳みそが、くわんくわんするのだ。
「そうなんですね…何か、特徴とかはないんでしょうか?自分、探偵なので、もしかしたら推理でなにかわかるかもしれないですし」
「うーん。僕がわかるのは、いろんなところを転々としていたことぐらいかなあ。なんだかとーるくん、僕よりも友達に興味があるみたい。もしかして、心当たりがあったりする…?」
「いえ、まさか。先生の…ユーリさんのことは、なんでも知りたんですよ……」
なんだかとんでもないことをさらっと言われたな。じい、っと向けられた視線は熱い。ううん、いや僕があついんだ。目の前まで揺れているので、真面目な顔をして覗き込んでくる透くんは3人くらいにみえる。
「あはは、すごい!熱烈な口説き文句だあ。かわいー女の子に言ってあげて。でもうれしい、ぼくも、とおるくんのこと、たくさんしりたいな」
アルコールで正常な判断ができない僕は、空いていた手を彼の頭にのせて、ガシガシと乱暴になでる。まっすぐでやわらかい髪の毛がきもちいい。あー。彼が、しゅーくんが、ぼくの髪の毛をよく触ってきた気持ちが少しわかるかもしれない…。あいつは人のは触っておいて、自分のは帽子で隠す、ずるいやつだった、くそ、…ああ、はあ…。
◇◇
「っと、ユーリさん。大丈夫ですか?…、って、え…?」
もちろん避けることもできたが、安室透がそれをやれば不自然だ。甘んじて彼の手を受け入れ、顔を上げれば、目の前にある瞳から、はらはらと静かな雫が溢れていた。酔っ払いは泣いている。
「うー…くそ…いつか、ぜったいに帽子をひん剥いてぐしゃぐしゃにして…一発お見舞いしてやる…くそ、ううう…」
涙でぼろぼろの彼が何を言っているのかうまく聞き取れない。繊細そうな見た目に反して、涙を腕で拭うのは勇ましかった。ふうん、こういう一面もあるのか。そして、手の届く距離にいるはずなのに目の前の人が見つめいているのは、随分と遠い景色にいる誰かのように思えた。
白い肌が上気して汗ばみ、頬は血色よく染まっている。唇からは顔に似合わないえげつないスラングがこぼれた。日本語でなくてよかった。
でろでろの酩酊状態である。酒に弱いのは事前に知っていたが、ここまでひどく酔いが回るとは思わなかった。用量を少なめにしておいてよかった。組織からくすねた薬物、後遺症はもちろん水に溶けて痕跡も残らない酔いを促進させる粉末をアルコールに混入したことは、自分、安室透しか知らない。
通常、前後不覚の人間が漏らす言葉は母語だ。それなのに、彼があえて海の向こうの国のスラングをブツブツとつぶやいているのは、汚い言葉を知っているのがあの国のものだけなのか、今ユーリが脳裏に思っている人間と関係があるのか。
やはりこの男は自分にとって、嫌な人間だ。近づくのは危険だと、遠くで警報が鳴っているのが聞こえる。コイツと一緒にいると、心の奥を無遠慮に踏み荒らされ、抉られているような気持ちになるのだ。探り屋として、関係性を確かめ利用できるか調べるために近づいたが、らしくもなく後悔をしていた。頬を伝う涙が、妙に羨ましく映る。自分も、ああやって、みっともなく人前で喚いて、心をさらけ出すことができれば何かが変わったのか、なんて。馬鹿らしい。そんなことを考える自分に吐き気を覚える。くそ。気分が悪いどころではない。最悪だ。
女に取り入るのは、簡単だ。容姿と甘い言葉を利用すれば堕ちない女はいなかった。上司に取り入るのも苦労はしない。自分の有能さ、相手が求めることを提供すればいいのだ。仕事上の人間関係は簡単に取り繕えた。そうやって、今までうまく生きてきた。
――なら、友人は?目の前で、泣きながら眠りこける男の前では、何をすればいいのか検討もつかない。何をこの人は安室透に求めているのか。
確かに、出版された作品を褒めれば喜んだ。だが、彼が自分に心を預けてくれる言葉は検討もつかない。そんなもん知るか。とっくの昔に、忘れた。穏便にせずに、一般人相手に柄でもないが弱みを握り揺すればよかった。そうしたら、今、こんなに悩むことはなかったのに。
「あーー、くっそ。ムカつく。寝るんだか、泣くんだか、どっちかにしろよ。それに友達ってなんだよ…簡単に言いやがって…。ともだち、って難しすぎるんだよ、くそ…」
誰にも聞こえないつぶやきは、グラスに残ったビールの泡と一緒に乱暴に消えていった。眠りこけた男に構うことなく、もう一杯のアルコールを頼んだ。当たり前だが、こんな状態でウイスキーなんて、飲む気はなかった。すぐに用意されたのは2杯目の生ビールだった。