目覚めは、慣れないコーヒーの香りだった。
とろりと押し寄せる眠気も吹っ飛んだのは、知らない部屋だったからだ。やけに、殺風景である。綺麗すぎる空間は、誰かが暮らして生活を営むというよりは、まるでモデルルームのような印象を持った。
ええと、ここどこだ。革張りのソファから身体を起こせば、毛布が一枚。心なしか体も痛い。
あ、そうだ。家主に借りたんだった。そう、僕は酔いつぶれたのである。
「……お目覚めですね、おはようございます」
「とーるくん…ほんと、ごめ…ごめんなさい……。おはようございます…」
人様に迷惑をかけるほど飲んでしまったのは学生以来かもしれない。次の日を考えずに遊んでいられたあの頃、幼馴染や友人に連れられ全国チェーンの居酒屋に入っては、グループでピッチャーの注文を頼み、結果的には面倒を見てもらってばかりだった。それからというものの、自制してそれは米国でも続けていたのだけれども今回はダメだったらしい。年長者としてちょっとくらいはビシッと決めたかったのに、惨敗である。
キッチンから現れた家主、透くんはとっくに身支度をすませて、マグを片手に挨拶をしてくれた。
「起こしてしまってすみません…。無理にお酒を勧めてしまったのは僕なので、むしろ申し訳ないです。気にしないでください。それよりも体調は大丈夫でしょうか…?」
「ひと晩寝たら随分すっきりしたよ。毛布、ありがとね。でもなんでだろ。こんなに酔ったの久しぶりかもしれない。アルコールに弱くなったのかも…」
安室くんは朝食の用意までしてくれた。おいしい。さすがカフェの店員さんである。傷一つないダイニングテーブルに並んだのは、トーストに半熟の目玉焼き。目玉焼きにはどれがいいですか?とソースに醤油、ケチャップを並べられたが、塩味で十分だったので何もかけなかった。彼はしょうゆ派らしい。
誰かと一緒に食べる朝ごはんは久しぶりで、普段あまり選ばないコーヒーがやけに美味しく感じたのはそのおかげだろうか。
「食欲もあって、顔色も良いようで安心しました。本当に大事ないようでよかったです。欲を言えばもう少しユーリさんのことを知りたかったのですが、それはまたこれから機会を作れば良いですからね」
「本当に迷惑かけたよね…でも、これに懲りずにまた遊んでくれたら嬉しいな」
「ぜひ、こちらこそ」
どこまでも紳士な彼は嫌な顔や苦い顔を一切せず、次の約束までしてくれた。
ああ、彼と一緒にいる間に流れる空気が好きだ。良くも悪くも、まだ僕らは出会ったばかりで多くのことを知らない。例えば、僕の過去を知る昔からの地元の友人とはまた違った気軽さや安心感がある。知っているからこそ気を使われ、腫れ物を扱うような空気も流れることがあるのだ。ビジネスの関係でもないので、肩の力を抜いた会話も出来る。
それが、僕にとっては充分だった。遠く離れた知らない街で、ようやく見つけた息をつける場所であったのだ。
それにしても体が痛い。ソファーで寝たからとか、節々の痛みではなく、まるで打ち付けたような痛みだ。おかしいと思いちらっと腕や脚を見たら身に覚えのない痣があったので、きっと酔った最中にぶつけたのだろう。
◇◇
side Amuro
この男と朝食を囲む。変な気分だ。
ユーリを引きずるように戻ってきた拠点の冷蔵庫はもちろん空っぽであったので、慌てて補充し朝食を拵えたのである。コンビニPBの食パンと中途半端に余った生卵が2つ。一人暮らしにしては大きすぎる冷蔵庫に残っている。4つパックしか売ってなかったのだ。どうせ食べないのだから、ひとり2玉使った目玉焼きを作れば良かった、なんてどうでもいいことを考えながら口に運ぶ朝食は多少投げやりに作った割には美味しく感じた。
この家は人を呼ぶことを想定していないのでペアのマグなんてあるはずもない。使わない食器棚には、なにかの景品でもらったマグが箱に入ったまま仕舞ってあったので、封を開けてなんとか2人分のそれらしい食卓を完成させたのである。ワレモノの破棄を面倒がって残しておいた過去の自分を褒めたい。
安室は目の前で、ふうふうとマグに息を吹きかける男をじいと眺めた。なんだ、思ったより体調は普通そうだ。不謹慎にも、心のどこかで残念にも思う自分がいた。
ぐずぐずとすすり泣きながら寝ていたと思ったら、顔を真っ青にさせて突然立ち上がった時は驚いた。ふらふらと店内の奥へ行ってしまったので、まさかと思って後ろを追いかければ、鍵のかかっていない個室から吐瀉音が響いたのだ。薬の相性が悪かったか。
疲れた顔をして手洗い場でうがいをしたユーリの背中をさすってやれば、死にそうな声で「も…ごめん…ぼくかえる…きょうはありがとね…」と力なく会計に向かおうとしたので、タクシーに押し込み安室透名義で借りているマンションまで連れてきたのである。
タクシーでえずいたときは、運転手が 「シートは汚さないでくださいねぇ、それやられちゃうと今日の営業できなくなっちゃうんですよぉ」とトゲのある言葉が苛々としている心中に油を注いだが、ことの元凶は薬を盛った自分である。道端にこの男を捨て置くことも出来た。
しかし、この人は隙がありすぎるのだ。自分と出掛けたその夜に犯罪にでも巻き込まれたら寝覚めも悪い。苦い顔をしながら引きずるように部屋まで連れ、そのままソファーに転がした。道中にゴン、だかドン、だか鈍い音を立てたのはご愛嬌ということにしておく。痣ができるなんてしるか。
過失の割合はどう考えても安室の方に天秤は傾くが、理不尽に腹を立てたままだったのでユーリの脛と腕は犠牲になったのだ。翌日見事に紫色に腫れ上がった原因はこれである。鬼ではないが、聖人でもない。見られて困るものは家にはないが、自分の中で存在を消化しきれていない男にベッドを貸すつもりはなかったので、夏用の薄手の毛布を貸し与え、枕元に洗面器(部屋を汚されたら困る)、スポーツドリンク(脱水症状対策である、アルコールを摂取すると陥りやすい)を置いてリビングに残し、書斎にこもった。破格の対応だと思って欲しい。安室はこの時点で、自分が薬を持ったことは勝手に水に流している。
人がいる家で寝れるわけもないので、その後は夜が更けるまでキーボードを叩いて気を紛らわしていた。仕事はちっともはかどらなかった。
「実は乾杯してからの記憶が全然ないんだけど、失礼なこと言ってないかな?大丈夫?ほんとごめん…恥ずかしい…」
「本当に僕は気にしていないので、謝らないでください。そうだ、そこまで言うのなら今度は僕が行きたいところに付き合ってもらおうかな。あなたと過ごす時間は、とても楽しい」
本心を覆い隠す笑顔で、嘘を吐く。脳天気にもお前に薬を盛った犯人が目の前にいるっていうのに気づかない姿に苛々するんだ。今すぐその顔をひっぱたいて、驚いた顔をしたコイツに真実を告げたらどんな顔をするんだろう。
この男と一緒にいると、気さくで、親切な、やさしいという、安室透を見失いそうになる。心に潜む暗いドロドロとした何かを隠しまま、黄身が潰れた卵を口に運んだ。
◇◇
探偵ごっこが上手くいくのは、フィクションの世界だけの話である。
きっと大丈夫、すぐに見つかると意気込み、例の外国人カップルを探して闇雲に米花町を歩き回ったけれども、数日経ってもひっかかりもしないのだ。流石に気落ちする。公園のベンチで休憩がてら、うなだれていたら小さな影が現れた。
「ねえお兄さん!お兄さんは迷子なの?」
「え?」
カチューシャがよく似合う小さな女の子が無邪気に話しかけてきた。ランドセルを背負っているから小学生か。
「お兄さんからは…なにか困ったオーラが出ていますね!」
「困ったことがあったらオレたち少年探偵団にまかせろ!」
あっという間に男の子達にも囲まれる。そばかすが特徴的な子にふくよかな子。みんな同じ学年なのかな。絵本作家という肩書きを持っているけれど、実際に子どもと触れ合う機会は多くないし、最近の子の発育は良いのだ。とんと検討がつかなかった。それにしても、少年探偵団か。たしか、江戸川乱歩の小説にも登場していたなあ。
「おい!オメーら突然走り出して…ってユーリさん!」
この子達を追いかけるように現れたのは、毛利探偵事務所で会った江戸川コナンくんだった。数日ぶりの再会である。わあわあと、子ども特有の軽く高い声をあげながら囲まれたときはどうしようかと思ったが、彼が上手く状況の説明をしてくれた。
メンバーである元太くんが、この米花公園で落し物をしたようで学校帰りにみんなで寄り道をしたらしい。落し物自体はすぐに見つかったので、これから日頃お世話になっているという、はかせさんのお家でみんなで宿題を片付けるとのこと。あとコナン君から僕は迷子ではないという説明もしてもらった。僕の表情が迷子のように不安そうに見えたらしい。子どもって感性豊かだ。
「みんなで落し物を探すのと、はかせさんの家に寄るのはおうちの人は知っているのかな?心配していない?」
「それなら大丈夫だぜ!」
「僕らには、頼れる助っ人がいますからね!」
「ユーリさん安心して、近所に住んでいる大学院生の人と帰り道に偶然出会って、落し物探しに付き合ってもらったんだよ」
コナン君がまた上手に説明をしてくれた。小学生と仲の良い大学院生。へえ。そんな親切な人もいるのなら、安心だ。――どんな人なのかな。
「あれ?そういえば、昴のお兄さん来ていないね?哀ちゃん知っている?」
カチューシャの子、えーと、たしか歩美ちゃんが、これまたクールそうな女の子に話しかけた。彼女はのんびり屋さんなのか、走った様子もなく登場した。哀ちゃんと言うのか。
「ああ…あの人なら、あなたたちがこのお兄さんを見つけて駆けていった時、博士のお茶の準備を手伝うって先に行ってしまったけど。そういえば、随分慌てていたわね…」
慌てて行ってしまったのか。残念だ。――ぜひ会ってみたかった。
会話にちょっと出てきただけの人物が不思議と気になる。この米花町で一人でも友達を増やしたかったからなのか、自分でもうまく説明ができないが、とにかく興味を覚えた。慌てて行ってしまうなんて、その人は忙しいのだろう。学生さんだししょうがないか。学業も大変だろうに子どもの面倒もみるなんて、素晴らしい人なんだろうな。
「……」
「どうしたの?」
「いえ、別に…」
会えなかった大学院生さんに思いを馳せていると、気のせいではない視線を感じた。
哀ちゃんが、こちらを伺うように視線を向けている。気になって笑ってみたら、フイと知らないふりをされた。ちょっと悲しい。落ち込む僕は未だ少年探偵団に囲まれたままだった。随分かわいらしい表情をしながら、コナン君は口をひらく。
「ねぇユーリさんは、ここで何をしていたの?」
コナンくんの瞳はあいかわらず、不思議な力を持っているように輝いていた。悩んだけれど、まあ、とりあえず話すだけなら、ありかも知れないなあ。それで彼らも、納得してくれるだろう。心をときめかすような大事件の予感を期待している少年探偵団の諸君も、きっとちっぽけな問題にがっかりして飽きてしまうだろう。期待に添えなくて申し訳ない。そう思いながら、僕は口を開いた。
「人を、探しているんだ。ね、君たち…メガネをかけた金髪の美人な女性と、大柄な男性の外国人カップルって、知っているかな?」
その時の少年探偵団の表情ったら。子どもって、素直で、かわいい。
そして僕は、新たな手がかりを得ることになる。