side Furuya
書類を確認しながら、感覚で掴んだマグを傾ければ落ちてきたのは数滴の雫だった。そうだ、先ほどで飲みきってしまったのだ。ちょうどキリもいい。降谷零は凝り固まった身体をほぐしながら、マグを片手に立ち上がった。普段から締め切ったままのブラインドからのぞく空の色はすっかり暗い。明るすぎる都会の空では、瞬く星は地上の光に打ち消されてしまい、月だけがポッカリと浮かんでいる。風景の一部のビル群は、時間も時間だというのに、星の代わりと言わんばかりにギラギラと輝いていた。
リフレッシュとして、マグの中身を補給しに立ち上がれば、避けていたことに思考を支配される。自分をコントロールすることには長けていると自負していたが、持て余しているこの感情は無視をしても、放っても悪化しそうで気持ちが悪い。そのため、ここ最近は仕事にがむしゃらに打ち込み、体も脳みそも酷使していたが、少しでも緩むと雑音が聴こえてくるのだ。ユーリのことばかり考えてしまうのだ。
肝が冷えた。風見から報告を受けたあの日、怒鳴りつけに行きたくて仕方が無かった。あの男が、どれだけ危険かわかっているのか、と。いや、わかっていないと理解はしている。なんの知識もない一般市民に対して、勝手すぎる言い分なのは承知している。だからこそ、腹の底に渦巻く感情は吐き出しようがないのだ。
だが、それだけではない。安室透は探偵だ。その事は伝えているというのに、そもそも、なぜ、俺に話さない。
レストラン店員にトレーニング帰りの外国人男性は来ていないか、だなんて。彼が人探しをしていることなど、風見の報告で初めて知ったのだ。
安室透は探偵だ。それはあの男も知っている。以前、米花町に訪れた理由を聞いた時には「友達と家族に挨拶とかかな」とはぐらかされてしまった記憶が、脳裏をよぎる。そのときは深入りするのを諦めた。しかし、そうか、人探し。一言ぐらい相談があってもいいのではないか。
目眩がするほどの強烈な怒りを感じる。いつの間にか、強く握り締めていた拳はきつく爪が食い込んでいた。サーバーで補充したコーヒーは一瞬で飲み干してしまった。落ち着くために深く息を吐く。どうした、降谷零。こんなこと、流してしまえばいいじゃないか。ただでさえ成さねばならないことが多いのに、余計な首を突っ込んでどうする。無理やりクールダウンをしたところで、スーツのポケットにあるスマートフォンがずっしり存在を主張しただけだった。
数週間ぶりに、声を聞けばまた変わるかも知れない。このよくわからない怒りも収まるかも知れない。
一方的に連絡を絶っていたが、まだユーリには聞かなければならないこともたくさんあるのだ。そう、これは仕事だ。しっかりしろ降谷零。日は暮れているが、非常識な時間ではないはずだ。何度も開いては閉じてしまった電話帳から慣れた手つきで目当ての名前を選択して通話ボタンをプッシュする。つながるまでの空白の時間が、やけに長く感じた。
「……あああくそ‼」
聞こえてきたのは、ツー、ツー、と冷たいビジートーン。話中音である。降谷零の怒りは、まだ収まりそうもない。
◇◇
「…もしもし。こんばんは、あ、そっちだと、おはようかな」
通話中の電話が繋がっていたのは、海の向こうだった。早口で捲し立てるように喋る癖は何年たっても変わらない。降谷の電話がつながるよりも先に回線を奪っていたのは、古い付き合いの男――ドミニクだった。
「まったく…名前と特徴だけだなんて、調べるのも骨が折れましたぞ!」
「えへ……調べものなら、ドムに頼らない手はないなって思って。それでも、ちゃんと調べてくれたんでしょう?」
ユーリは地道にホテルで張り込みをするのと同時に、旧友に助けを求めたのだ。ジョディ・サンテミリオンとアンドレ・キャメル。子ども達から得た断片的な情報を伝え、何者なのかの調査を依頼した。なにしろ、彼は優秀な情報通だからである。あ、フレークの音が聞こえる。朝食中なのかな。
「もちろんですぞ!見くびらないで頂きたい。それで、ミスターを探し回っているのは、とんでもない連中ですな!まあ、それでも特定することは可能でしたけどね!驚かないで欲しいものですな、そう。奴らです。聞いて驚かないでくださいよ!」
「うん…、おねがい。教えて」
ドムには多くを伝えていない。自分と同じようにシュウ君を追っているカップルだと伝えてある。米花百貨店に現れた彼らは一体何者なのか。
「ユーリが探しているという、ジョディ・サンテミリオン改めジョディ・スターリングとアンドレ・キャメルは、ビュロウの捜査官ですぞ…‼」
「びゅろう…」
「あまりピンと来てないですな⁉そんなことあります⁉」
「教えて、最強のハカー、ドミニクさま……」
「ごほん、そこまで言われては仕方がないですな。お茶の間のドラマではよく登場していたから、馴染みがあると思ったんですがね…⁉ってああ~!そうか、たしかにユーリ氏の好みの展開は少なそうだ!血なまぐさかったり、暴力表現を伴う作品もありますしね。では解説に入りましょう。それでビュロウというのはですね。単刀直入に申し上げますと、連邦捜査局、つまりFBI!」
FBI。なるほど警察関係者。
だけど、なぜ警察関係者が彼を探しているのか?それにどうして本来アメリカにいるはずの連邦捜査官が日本に?ドムの情報収集能力は信頼できる。なんてったって最強のハカーだからだ。(本人談)彼は、普段『依頼』があれば調べ上げて報酬を得ているらしい。つまり情報で食っているのだ。世の中には様々な働き方があるものだと驚いたのは数年前の出来事だ。
「これは…もしかすると、もしかしてかもしれませんぞ…FBIの関係者が探しているとなると、穏やかではありませんな。アブナイにおいがむんむんしますぞ。お覚悟を決めておいた方がいいかもしれませんな」
「う、ん…」
結局まだ会えていないアンドレ・キャメルさんとジョディ・スターリングさん。たしかに、あの時のアンドレさんの眼光は驚く程に冷たかった。あの彼に探されている、だなんて、ただ事ではない。
シュウくんが死んだ、と聞いてからあの映像を見るまではまるで死人のように過ごしていた。じくじくと痛む心から目を背けるために感情も閉ざして。偶然見つけることができた銀行強盗のネットニュースがなければ、自分はまだ動けないままだっただろう。だけど、わずかな希望があるのなら。例え、どんなことがあろうとも、諦めるわけにはいかない。だから、
「……だいじょうぶ、僕はシュウ君を信じているから。大丈夫だよ」
ドミニクだって、信じたかった。少々乱暴者で口も悪かったが、ユーリと並ぶシューイチ・アカイは面白いやつだった。しかし、この件はきな臭いと長年の勘がむずむずと告げている。深入りするのは危険だ。『情報』を取り扱う際には、己の領分を見極めなければ待っているのは身の破滅である。だけど、ほかならぬユーリの依頼だからこそ調べたのだ。
そして、遠からず予感は当たってしまった。調べたのはユーリに依頼された、日本にいる外国人カップルの素性だけだ。それ以上は触れていない。敵の多いビュロウの情報なんて叩けばボロボロと出てくるだろうが、ここまでが、自らが関与できる領域だからだ。
ユーリに幸あれ。普段人の幸せなんて祈ったことなどなかったが、ドミニクは自然とユーリの幸福を願うくらいには愛着を持っていた。このお人好しが死人に戻りませんように、と。
「…それはそうと!ユーリ氏は今屋外でござるか?ホテルの部屋にしては風の音が入ってきますな」
「そう。前の部屋もだったんだけどさ、ホテルって意外と電波がよくないようなんだよね。今はホテルからちょっと歩いたところにある公園にいるよ。夜の公園ってドキドキするね。さっき通り道のサラリーマンが僕を見て逃げていったんだけどなんでかな」
それは、なまじ見目の良いユーリがぼんやり月明かりに浮かんでいたら、誰だって幽霊だと思うだろう、とドムは思ったが珍しく口には出さなかった。それよりも気になることがある。
「と、いいますと?電波が悪いとは災難ですな。日本の回線は快適だとばかり思っておりました」
「ね、なんでだろう…。仕事でね、出版社の方と電話をしたんだけど、その時にノイズがはいったんだ。それが何度も続いたから、電波に問題があるのかなあって。それもあって、前の部屋から今の張り込みしているホテルに移動したんだけど、やっぱり変わらないんだ。2度も電波がよくない部屋に当たるなんて運がないよね」
通話中にノイズ。ドミニクはこの電話が室内ではなく屋外で行われたことに心底安心した。今の時代、誰がどこで聞き耳を立てているのかはわからないのだ。やっぱりきな臭い。
◇◇
「くまくんおはよ」
「……」
返事はない。ただのぬいぐるみである。
くまくんは相変わらず、お行儀よくルームチェアに座ったままだ。ひとりと1匹の部屋は静かな空間である。もぞもぞと緩慢な動きでパジャマを脱ぎ捨て、顔を洗う。時間には十分に余裕があった。
紙袋から取り出した服のタグを外して袖を通せば、ようやく目が冴えてきた。最近の流行がわからなかったユーリはこの日のために、遠出をしてショップの店員にコーディネートをしてもらったのである。なにせビックイベントだ。一緒に連れて行かないのか、と心なしか寂しげな表情をしているくまくんに行ってきます、と声をかけて返事のない部屋を出れば、見慣れたホテルマンさんが挨拶をしてくれた。長く住んでいると顔見知りも増えるのである。
「素敵なお召し物ですね、お出かけですか?」
「はい、デートなんです」
◇◇
side Bourbon
「バーボン。あなた最近楽しそうなことをしているわね、私も混ぜてくれないかしら?」
「……なんのことですか?」
用件を告げられることもなく、電話一本で呼び出されたバーボンは、車のハンドルを握りながら薄い笑みを貼り付け、意識をしながらゆっくりと返答をした。見なくてもわかる。隣の助手席に座っている女は食えない笑みを浮かべて、鮮やかに彩られたルージュを弓形に弧を描いているのだろう。
ただの足なら、組織の末端を使えば良い。この秘密の多い女の周りには甘い蜜のお零れに預かろうと、群がる蟻のように存在しているのだ。カルヴァトスが消えてからもそれは顕著で、手足として使われている様子を、たびたび目にする。組織の一員らしく、それらが手段も選ばないところも。
わざわざこの女が、わずか移動のために呼び出した理由をバーボンは理解した。心当たりは一つしかない。
「あら、ごまかしてもダメよ。あなたが組織から薬をくすねたのは知っているのよ。随分と手段を選んでないようだけど、そんなに手強いのかしら」
「あなたこそ、僕の行動がそんなにも気になるのですか?大丈夫ですよ、約束は守っています。あなたの秘密も――」
「バーボン、私はそんな会話のために、あなたを呼び出したのではないわ。質問に答えなさい」
いつかユーリのアルコールに混入させた薬物を思い出す。使い勝手が良かったので、他の対象にもたびたび使っていたが、この女にはユーリに使用したことも筒抜けなのだろう。くそ。咄嗟に話題を変えようと焦ってしまったが、さすがに誤魔化されてくれるはずもない。伊達に組織の幹部ではないのだろう。この女に余計な手出しをされるリスクに加え、最近の自分の行動を把握されてはいないだろうか、と冷たい汗が背中を伝った。ユーリの存在を知られてしまったことも、状況としては芳しくない。赤信号で減速をする先行車に合わせて車を停止させ、重たい口を開いた。
「…別にあなたが気にするほどの男ではないですよ。僕の計画で利用価値がありそうだったので周辺を探っているだけです。それ以上でもそれ以下でもありません」
「ふうん。今はそういうことにしておいてあげるわ」
「お気遣いありがとうございます」
相手が納得する答えではないことはわかっていた。しかし、苦々しい様子のバーボンをみて満足したのか会話はそこで途絶える。殺伐とした車中からは、母親に手を引かれながら横断歩道を渡る子供が見えた。
子供の手には、空に向かってふわふわと漂う風船へつながる紐が握られている。掴みどころがあるんだか、ないんだか、単純に見えて捕まえることが出来ないところがそっくりだ。
思い通りならずに、好き勝手に飛んでいってしまうところも。
◇◇
休日ということもあり、賑わう人の隙間を縫うように順路を進む。水槽の中をゆったりと泳ぐ魚の方がよっぽど快適だろう。米花町から離れたここは、近年オープンしたばかりの水族館であった。
「はい、真純ちゃん。チョコミントで良かったんだよね」
「ありがとな、ユーリさん!」
水族館のペアチケットをもらったのは偶然だった。日本で懇意にしている出版社の方がくれたのだ。誰と行こうと、携帯の着信履歴を開けば一番上には安室透の表示が。そうだ、ドムとの電話中に着信が入っていたが、用事があるのなら、また連絡をくれるだろうと折り返すことをすっかりと忘れていたのだ。
そういえば、あれだけ会っていたのに最近はぱったりだとプッシュをするも、電話は繋がらず。運が悪い。
残念だけど、しょうがない。透くんはまた次の機会に誘おう。なにせ観覧したいプログラムの終演が迫っていたので、すぐにでも約束を取り付けたかったのだ。そうして、2番目のドムの履歴に下にあった可愛らしい女子高校生を誘ったのである。
「でも、本当によかったのか?ボクじゃなくてもユーリさんなら…」
「まだポアロでの会話を気にしているのかな?お恥ずかしいことに、米花町に友達と呼べる人が少なくてね。頂き物のチケットだから、気にしないで。むしろ一緒に来れて良かった」
ひとつひとつの展示に、誰かを彷彿とさせるような瞳を輝かせ、弾むような軽快さは一緒にいるだけで楽しかった。ペンギンの仕草に二人で癒されながら、ショーステージが行われるエリアのベンチに腰をかけて、ようやくひと呼吸をつく。ステージでは、派手な音楽と光の演出で、イルカがのびのびと演技をしていた。最前列に陣とっている小学生たちは、これでもかとびしょ濡れになるまで水をかけられては、きゃあきゃあ騒いでいる。
「それで、もっと聞かせてくれよ!ユーリさんのアメリカでのやんちゃ話!すっごく面白いな!」
「ふふ、やんちゃをしたのは僕じゃなくて、親友だよ。そうだなあ、あとは何があったっけ……。あ、お店でマナーの悪いお客さん相手に大立ち回りした話はしたかな。自分の倍ある体格のお客さんをポーンと投げちゃった時はビックリしちゃった」
真純ちゃんとのデートで話題に上がったのは、アメリカでの生活についてだった。真純ちゃんは3年ほどアメリカのスクールに通っていたらしい。当時の思い出を明快に話してくれた。そして、僕も同じように思い出を話す。もちろんどの思い出にも彼が出てくるので、「ユーリさんの親友さんってカッコイイな!」と覚えられてしまった。
ボクって日本に居てもアメリカにいても、男の子に見られたんだぜ、まあこれから成長予定だけどな!と誇らしく語ってくれた彼女の愛嬌ある笑顔は、年相応の少女らしくとても可愛らしい。イルカは大ジャンプをする大技を決め、しなやかに水面へと戻る。細かい水しぶきが頬にまで当たり、拭っていると、興味深そうな視線で射抜かれる。
「あれ、ユーリさんってピアスを開けていたのか?」
「うん、昔のことだから、もう塞がっちゃっているけどね。アー、例の親友のピアスホールを手伝ってね。ついでに僕も開けてもらったんだ」
もちろん、それぞれピアッサーを用意したよ。親友なんて、最初は安全ピンでやろうとしてさ…、危ないから真純ちゃんは真似しちゃだめだよ、と続ければ、想像をしたのか痛そうな表情を浮かべていた。
「ユーリさんもやっぱりいろんなやんちゃして来たんだね」
「うっ、そうなのかな…」
自分では自覚がないが、そうなのかもしれない。その後はのんびりとした時間を過ごし、暗闇にぼんやり美しい光でライトアップされた幻想的なクラゲの展示や、水族館近くのカフェでパンケーキに舌鼓を打った。
あまり年頃のお嬢さんを遅くまで振り回してはいけないと、日が沈む前に解散しようと二人で駅まで向かえば、今日一番の好奇心を含んだ目線で、とある広告ポスターを彼女は、じいっと見ていた。あ、これって。
「そういえば、真純ちゃんって探偵さんなんだよね」
「そうさ!女子高校生探偵ってことで、この前も事件を解決したんだ!もしかして、依頼かな?なにか困っていることがあるのかい?ユーリさんなら特別に請け負っちゃうよ!」
「ええと、依頼じゃないんだけどね、謎解きとかが好きならこれもどうかなって」
園子ちゃんとも知り合うきっかけになった、鈴木家の分家筋に当たるらしい方と先日お会いした際に頂いたのだ。
「こ、これってもしかして…!」
「うん、オリエント急行を模した豪華列車なんだって。よかったら、一緒にどうかな?」
小ぶりだけど、しっかりとした作りのそれを、彼女の掌の上に渡す。列車の紋様が刻まれているそれは、漆黒の特急・ミステリートレインのパスリングである。