03
吐く息は白い。冷たい雨が街を包む。
先日テレビで放送されていた予報が正しい情報であれば、あと数日もすれば初雪を観測するだろう。もしかすると、このまま雨が雪に変わるのかもしれない。はあ、寒い。
フードトラックで購入したベーグルは、たっぷりのマヨネーズベースのエッグフィリングと、薄くスライスされたハムがサンドされている。そしてお供に熱々のコーヒを2人分。暖を取りつつ、雨露から紙袋をかばいながら進む。
テンポよく古ぼけ軋む階段を登ればすぐだ。
「ハァイ!シュウ君おはよう!今日は雨!絶好の美術館日和だ‼」
「……」
「おはよー!」
「……おはよう」
◇◇
ベッド脇のサイドボードには、本が積み重なっている。また夜ふかしをして、ミステリーを貪っていたのだろうか。
朝がめっぽう弱い彼から過激な言葉が出る前に、コーヒーとベーグルを渡せば、のそのそと口に運び、食べ終わる頃には覚醒したようだった。
シュウ君はブラック。僕は砂糖とたっぷりのミルク。どうもなんでも黒っぽいものが好きみたいで、クローゼットと呼ぶにはさみしい棚に並べられた数着の服も、重たい色合いのものが多い。
「あー、今日の予定か……。いつも以上に寒い。それに雨だから、家でゆっくり本でも読む、だったか。そうだ、ちょうど読み終わったいいミステリーがあるから貸してやる」
「それじゃあ僕はデリの配達員じゃん!そうじゃなくて、美術館に行こう!」
「ああ、デリはうまかった。ありがとう」
「どうも!ええと、本はありがたく借りるけど、これ、大丈夫?シュウ君が貸してくれる本って大抵……心臓に悪いというか。後を引く怖さが、夜に寝れなくなる……」
「ユーリが弱すぎるんだ。人が死なないミステリーは手元にあったか……」
「ミステリー以外は手持ちにないんだね……。じゃーなーくーて!その手には乗らないよ!美術館、行くよ!」
「無理……さむ…勘弁してくれ……」
残念ながら、僕は朝食のデリ配達員ではないのだ。
流石に一度引っかかった手口にはもうかからない。彼のバイブルとも言えるホームズを渡され、言いくるめられたことは記憶に新しい。もちろん、借りたホームズは大切に読みました。
ベッドに戻ろうとする彼に、着替えを渡し、無造作に転がっているニット帽を無理やり被せ、黒いマフラーを首にぐるりと巻いてやり引っ張ると、シュウ君は観念したように、その長い脚を踏み出し、ようやく動き出した。
◇◇
前に訪れた自由の女神像から距離はさほど離れていない。
セントラルパーク内に重厚な姿で佇む、メトロポリタン美術館。
さすが世界最大級の美術館。ここもコテコテの観光名所であるので、雨にも関わらず多くの人で賑わっていた。地元民にはMET(メット)の愛称で呼ばれるここは、普段からピクニック感覚で愛されている。
晴れの日は、入口前の階段で読書をする人々も少なくない。流石に今日は濡れた広場に座り込む人はいなかったけど。
館内はそれはもう圧倒的な空間だ。実はすでに勉強や趣味で数回訪れたことがあるが、それでも広すぎるので、全てを観覧したことはなかった。日本の美術館とは違い自由なここは、入館料はあくまでもドネーション、つまり寄付であるという考えの為に、支払う金額は観覧者が任意で決めることが出来るのも、日本で育った僕には新鮮な考えだった。
最初はシュウ君にあわせて一緒に展示をふらふらと回っていたが、僕がとある絵画の前で動かなくなると、彼はいつの間にかいなくなっていた。帰ってきた彼からは、ほのかに煙草のにおいがしたから、どこかで吸ってきたのだろう。
すっかり歩き疲れてしまった。館内のソファに腰掛け、団体客や小学生の課外活動、学生らの会話を片耳に聞きながら、ぼそぼそとくだらない会話をする。もちろん小声ね。会話も可能というのもいいよね。迷惑になってしまう声量はダメだけどね。さすが自由の国。
最初は僕が絵画の解説をしていたはずなのに、いつの間にか、僕らの前を通る女性についての話になってしまったから、僕らもまだまだ若いよね。いや若いんだけどさ!
「アレは論外だ。胸元を広げすぎている。こんなに寒いのに何を考えているんだ。それにすれ違った時に、臭ったのは大層なブランドの香水だ。付き合うには金がかかる。まあ、ワンナイトにはいいお相手かもしれないが。……ユーリは胸がでかい女ばかり見ているな」
「まあ……僕、おっぱいだいすきだし……。シュウ君はさあ、意外と大和撫子っぽい女の子が好きだよね。バーに通ってくれている、えーと…アメリアだっけ。ブロンドのボインちゃん、せっかくアピールしてくれているのに見向きもしないから、この前彼女に、シュウはゲイなの?って詰め寄られたんだけど」
「アイツはアバ……好みじゃない。俺は身持ちの硬い大和男子なんでな、あんまりしつこいようならゲイ案もいいかもしれんな。そのときはおまえもゲイに仕立てて、ゲイカップルでも演じるか?」
ベンチに投げ出していた僕の指の又を、シュウ君の骨ばった指がするりと撫でる。
笑いながらとんでもない提案をするなあ。
流石に閑静な美術館内ではいつものスラングは飛び出なかったが、日頃スラングを聞いているので、みなまで聞かなくても言いたいことは分かってしまった。そもそも、身持ちの固い大和男子ってなんだよ。ちゃんと君は後腐れのない関係と遊んでいることを、知っているぞ。
「ええ…僕とばっちりやだ……。その案なら、君だけがゲイになってくれ」
怪しげな動きをする指から逃げて、とんでもないことを言うのはこの口か!とシュウ君の薄い頬をつまめば、やっぱり髪の毛を鳥の巣状態にされた。見るも無残な乱れ具合である。
◇◇
美術館を出れば、雨は止んでいた。
すっかりと暗くなっているというのに、階段には地元民や、観光客がたむろっている。空気は刺すように冷たい。雪は振らなくてよかった。
ハァイ!と目のあった学生っぽいの女の子グループに挨拶されたから、お返しに、へらりとした笑みを浮かべながら軽く手を振れば、きゃっきゃと色めき立ってくれた。うれしい。でも知っているぞ。こんなに喜んでくれているけど、君らが目当てなのは、僕じゃなくて、隣の真っ黒な男だってことは!
「余計なのを釣ってくれるなよ」
「やっぱりさあ、女の子にはみんなに優しくありたいじゃん。好感もたれたいし」
「その結果、変な女を引き当てて、警察沙汰になったのはどこの誰だ」
「あー、ええと。まあ、そうなんだけどさ……。その節はお世話になりました……」
べつに全くモテないというわけではないけど、隣の彼がありえないくらいにモテるから、ちょっと悔しい。確かにシュウ君は男の僕から見てもいい男だけどさ。
僕はというと、いろんな人種を見てきた米国の彼女らの目には、アジアとヨーロッパが混じった、細っこい容姿は頼りのない幼い少年に見えるらしい。それを気にしてトレーニングをしているが、筋肉が付きにくい体質なのか変わった様子はない。シュウ君はムキムキである。
だからなのか、少年趣味の女性とか、嗜虐志向の女性を引き寄せる。
この前、バーで知り合った女性に、変な薬を盛られた上、気がついたら見知らぬ部屋で拘束された状態で、鼻息荒くマウント取られていたときはいろいろ覚悟した。シュウ君が助けてくれたけど。
ぼんやりとその時のことを思い出しているときだった。
突然、腰をつかまれる。おおう、シュウ君どうした。
「お前が釣った女たちがついて来てる。お前が蒔いた種なのだから、覚悟しろよ」
彼の吐息混じりの低い声がぽそぽそと、耳元で響く。くすぐったい。
ねえ、なんだか悪目立ちしすぎじゃありません?ぴったりと身体を密着させられ、スタスタ歩く彼の長いコンパスに併せて、慌てて足を動かす。なんだかんだ言ってカップルの振りするの楽しんでいるよね⁉僕の微妙な表情見て笑っているし!それに結構歩いたけど、まだついてきているの?女の子たちしつこすぎない?そして、本当に君は足が長いな!
「もういいんじゃないかな。それにしても、君すごーく手が冷たいね⁉ってうわ!」
「ホォ――?」
やられっぱなしも悔しいので、ガッチリと掴まれていた腰の手を外そうと奮闘すると、あっけなく外される。おお、珍しく素直だと思ったのに、彼は意味深げにニヤリと笑うと、冷たい手を首元いれてきたのである。
「ぎゃあ!つめたい!つめたすぎ!やめて‼」
するすると伸びる手は、首元を通過して背中まで侵入してくる。冷たすぎる。上機嫌な彼にゾワゾワと悪寒を感じ、逃げようとすると容赦なく、もたれかかるように体重までかけてきやがった!つぶれるってば!
「もう女の子達、追いかけて来てないでしょ!」
「なんだ、気づいていたのか」
「流石に気づくよ!ただ暖を取りたいだけだろ!」
容疑者シュウイチは、寒すぎたせいだ、と供述。初犯ということで情緒酌量の余地ありとし、ようやくこのふざけたじゃれあいも終わらせた。
でも味をしめたようで、たびたび首元に容赦なく手を突っ込まれるようになったから、勘弁してほしい。僕が仕返しで同じことをやり返そうとすると、すぐに察知して逃げるから、今後の対応を検討する必要があるなあ。