06
長年住んだこの部屋とも別れだ。
赤井秀一はようやく念願の連邦捜査局、FBIに名を連ねることになるのである。
実際に確認することもなく、立地と家賃のみで即決してしまった部屋だが、日当たりが多少悪いくらいで他に目立つ問題もない。気が付けばそれなりに愛着も湧いていた。業者を手配するほどの荷物もないので、奴との約束までの時間には十分間に合うだろう。新居では家電や家具は備え付けのものを利用するので、用意したダンボール1箱で事足りてしまう。
衣類と、本。酒は荷物になるので、残り数日で空けてしまう予定だ。残った細々としたものをダンボールに詰めていると、すっかり部屋に溶け込んでしまったが忘れてはならないものが目に入る。
この部屋の唯一と言ってもいいユーモアだろう。洒落っ気というには主張の強い自由の女神像を模したジッポーが目に入りる。
懐かしい。
奴との出会いももう数年前になるのか。まだ出会って月日がそう経っていないあの頃、むっすりとした顔で引きずられていたが、無関心であったわけではない。ただ、素直ではなかったのだ。冷たい手を引いてくれるあたたかな手は心地がよかった。だが、今まで経験したことのない感情にどうすればよいのかわからなかったから、ぞんざいな態度をしてしまうこともあった。
それでも、楽しかった。こうして思い出すくらいには。さんざんに市内を連れまわされたあとは、奴の出版祝いと称して酒盛りをしたのだ。この部屋で。ああ、そうだ。たしか当時所有していた中でも一番の上物で乾杯をしたが、奴は結局最初の1杯で出来上がってしまったんだ。本題はそこではない。一服するかとタバコをくわえた時だ。「あっ!」とまるで待っていました!とばかりに嬉しそうな声が聞こえたのだ。
「ん?」
「じゃーん。実は、きょうは、プレゼントがあるのです!」
自由の女神が持っているトーチ部分に灯る小さな火を自信満々に差し出されたのだ。ここまでふざけたジッポーも初めて見た。
「ふふん、シュウくんのために選んだんだよ 」
「……あー、それは、どうも」
くらりとしたのは、アルコールのせいか、それとも惜しげもなく向けられるその表情にか。酔ったせいか、いつもより数段しまりのない口調で渡されたそれ。 頬を上気させながら、あんまりにも誇らしげに渡してくるので、うっかりかわいいだなんて思ってしまったが俺も酔っていたのだから仕方がないだろう。
変に気を使ってこの部屋に物を置いていこうとしない奴が、置いていった唯一の品である。自分のテリトリーははっきりさせているので、女を連れ込むどころかこの数年で奴以外を招いたことなどなかったが、それを伝えたこともなかったから無理もない。
普段はマッチを持ち歩いている。利便性もだが、火を灯した瞬間に肺に流れる煙に火薬特有の風味が広がる感覚が好きだから。しかし、このジッポーを手放す理由にはならない。部屋で思い出に浸りながら使うには十分だった。丁寧に古新聞で包み、ダンボールへ詰める。
私物が少ないのは今更だが、一つ一つに思い出はある。確かに世間一般で荷造りに時間がかかる訳を、秀一は改めて感じた。
雪深かった季節も終わりの兆しを見せ始めたころ。ブルックリンへ花見を、桜を見に行こうと誘われたこともあった。
「ねえ、桜はちり紙じゃないよね⁉シュウ君はそんなこと言わないよね⁉」
珍しく取り乱しながら、すごい剣幕で迫られたのはこの数年でもあまり見ない表情だった。聞くと次に出す本の参考資料として、日本の桜の写真を南米出身の担当に見せたら「アー、日本の桜はまるで丸まったちり紙がくっついているみたいね?」と言われたことにショックを受けたらしい。確かに南米の鮮やかで華美な花に囲まれ育ったら、そう反応をされてもおかしくない。
落ち込む奴を宥めて、いつもとは逆に俺が奴を引っ張って桜を見に行けば、「アメリカの桜って、主張が強い…」と呆然としていた。「なら、いつか日本の桜を見せてくれ」と交わした口約束はまだ果たされていない。
――奴は初の出版以降は、自分の書籍の出版日など詳しいことを俺に伝えることはなかった。だが、その数ヵ月後に出版された、情緒ある淡い色があふれる、日本の桜をモチーフに描き上げられた内容の本であることを秀一はちゃんと知ってる。本棚に並んだ数冊の絵本と、ホームズの文庫本を共に詰めた。
その並びには、2つのヘルメットが並べられている。車の代替として、足として利用してきた相棒の単車は売っ払ってしまった。そのため残念だが、これも処分だ。これにも思い出はある。奴の「ヤシの実にストロー刺した、いかにも!って感じのココナッツジュースを飲みに行こう」という唐突な思いつきの元、当ても無く海岸沿いを単車で駆け抜けたのだ。ようやくそれらしいフードトラックの移動販売を見つけた頃には、喉がカラカラに乾き、食い気味にトラックの定員に注文をしたのも覚えている。俺たちの期待値といったら、オアシスを見つけた旅人のようだった。
ヤシの実の緑の外皮とともに中央が五角形にくり抜かれ、その隙間には紫の花まで添えてあるジュースはずっしりとした重みがある。 ようやく念願のヤシの実ジュースにありつけたことがよっぽど嬉しかったのか、笑いながら「デンファレにはわがままな美人って花言葉があるんだよ」といじっていた花は結局どうしたか。味は覚えていない。ただ長時間太陽が降りしきる中での移動で火照った体には、ココナッツジュースはとにかくぬるくて物足りなかった。そりゃあ、あんな殻が分厚いんだから冷えにくくて当たり前だ。
結局コークを買って飲んでいたら、風情がないなー、でも僕もサイダー…と二人してキンキンに冷えた別のものを飲み干したのも、いい思い出なのだろう。そのあと、二人して日焼けで苦しめられたというオチもある。
クローゼットを整理すれば、丁寧に保管していた冬用の手袋まででてきた。黒の本革製のそれは、丈夫な作りで冷たい外気から隙間なく守ってくれる。受け取って以降は毎度冬が訪れる事に活躍した。
いつかのクリスマスプレゼントで受け取ったものだ。たしかあの時、俺からは耳あてを送った。奴の色素の薄いあまい鳶色の髪に似合うと思ったモノが、偶然女物だったのだ。いつもの意趣返しというか、どんな反応がかえってくるだろうかと、ちょっとした悪戯心で贈れば、「ちょっと可愛すぎない?」と疑問に思われたが、似合うと伝えれば「ならいいか~ありがと!」とそのまま納得したのである。それでいいのか、少しは人を疑うことを覚えろ。
あまり使われることのなかったキッチンには、来客時にしか使うことのなかった紅茶のティーバックがある。自分は飲まないし、奴が新居に来ることはできない。勿体無いが、残りの数も少ないから破棄だ。
振り返れば、奴との出来事ばかりだな、と苦笑してしまう。
あと少しすれば、自分はようやく念願の連邦捜査局、FBIに名を連ねることになる。ワシントン郊外にある研修センターの寮に訓練生として入寮するのだ。
誰にもビュロウになるとは一切告げてはいなかった。だが、ユーリにだけは、この地を離れることだけはきちんと告げた。
もちろん奴以外とも付き合いはあった。だが、別れを惜しむほどでもなく、それまでの関係だった。今まで家族以外で執着を持ったこともなかったし、長く続いたこともない。だから、この地から離れることを、当然のように奴に伝えた自分に驚いた。きっと数年前までの自分であれば伝えることはなかった。奴と出会った数年で、なにかが変わったのだ。
やはり、失い難い。この数年、先の見えない焦燥感や飢えを感じることもあったが、冷たい心を満たし、安寧を与えてくれたのは、あのやさしい友人だった。穏やかで気の抜けた笑顔は、不思議と心を落ち着かせた。キャンパスに命を吹き込むあたたかな指先は、俺の心にも目には見えない何かを吹き込んだのだ。
ともに過ごす時間は、かけがえのなかった。ああ、友人と表すには、物足りない。この関係を、なんと呼べばよいのだろうか。もっと深い繋がりのようにも思う。
そうだな、ティーンの青臭い友情みたいで笑えるが、奴、ユーリは俺にとっての親友、なのだろう。
今まで、関係性に対して意識したことなどなかったが、それはしっくりとくる響きだった。親友。そうだ、ユーリは俺の親友だ。感傷に浸りながら、残りの荷物を片付ければ、気づく頃には約束の時間が迫っていた。
どこへ行き、何をするだなんて、詳しいことを伝えることはしない。友人だから、親友だからといって全てをさらけ出す必要などない。それは互いに共通している。目的を達成するための手段が一つ、手に入った、だからこの地から離れる、と伝えれば、揺れる瞳に寂しさを隠しきれていなかったがそれでも自分のように喜んでくれた。
そして「なら、お祝いだね」と。うまい飯を奢ると張り切っていた。
たしか、地中海料理の名店で、ピタが名物だと。食には対して関心はなかったが、与えられるものがどれも旨いので、この数年で舌も肥えた。奴が選ぶ店にはハズレがないから楽しみだ。
大切なものがたくさん詰まったダンボール箱をしっかり梱包し、秀一は軽い足取りで家から出た。この別れは、おわりではない。自身にとっては、始まりだ。さあ、親友に会いに行こう。たいせつな、親友に。