07
「懐かしいね。ヤシの実…ココナッツジュース飲みにいったの」
「ああ、そうだな」
「そう、その後のこと覚えている?もう大変。僕も君も日焼けは残らなかったけど、鼻まで真っ赤になったよね」
「それでユーリが泣きついてきたのは覚えている。ああいうプレイはしたことがなかったが、シーツがぐちゃぐちゃに…」
「う、保湿用冷感ジェルをシュウくんのベッドでぶちまけちゃったのは本当に悪かったと思っているって…」
どんどん言葉尻が小さくなっていくのを、バドワイザーをちびちびと口に含むことで誤魔化す。彼はもう何本目だったろうか。
「あの夜は激しかったな」
「激しかった……?あ、確かに、ふたりともジェルまみれになったねえ。おかげで日焼けを長く引きずらないで済んだけど」
いつも思慮深そうに澄ました顔をしているから、多くの人が彼のことを誤解しているが、彼だってふざけるしお酒が入れば陽気になる。それに、機嫌が悪い時に出てくるFワードだけでなく、あの心地の良い低い声で際どいジョークをかまして僕を振り回すことだってある。
「そういえばさ、ドムって何者なのか未だによくわからないんだよね」
「……?」
「ドム、ドミニク!僕の隣の家に住んでいる、前にカリフォルニアの叔父さんからのオレンジを分けてくれた彼だよ!いかつい単車も何台かコレクションしていたあの彼!最近だと餞別ですぞ〜、って君にナパ・バレーのワインをくれたドム!」
「ユーリのモノマネは似てないな」
「ドムのこと、わかっているじゃないか!」
「ワインで思い出した」
小さい口を結び首をかしげる姿はとってもキュートだけど、本気なのかわからないジョークが飛び出てくるのは、とっても小悪魔的だ。こればっかりは長く一緒にいても、判断が難しい。
「へへ、シュウ君と一緒に呑んで、僕もいける口に成長したかなぁ」
「酒に呑まれないでいられるのが、乾杯の1杯から2杯目に変わっただけじゃねぇか」
「それでも、おおきなせいちょうでしょ、ふふ」
「ああ。…ただ、気をつけろよ」
これからは、俺がそばにいるわけではないんだからな。
◇◇
最後まで、僕は自然な笑顔でいられただろうか。
冷たいクラフトビールで乾杯して、いつものように他愛のない話をして、僕が笑って、彼も笑って。そして、あっけなく僕たち別れた。
昔から嘘をつくのが下手だ、と言われてきたけれど、自分のためではなく、人のための偽りは得意だった。
ここぞという時に、自分を押し殺し、ほんとうの気持ちを嘘で塗り固めてなかったことにしてしまうのだ。ここから車で数時間の距離だ、心配するな、また会える。と、彼は言ったけれど、別れはいくつになっても辛い。心にぽっかりと穴が空くような寂しさを感じさせる。その相手がシュウ君ならなおさらだ。
それに、なんだよ。
「明日からワシントン郊外に住む。詳しいことは教えられないが、それでも落ち着いたら連絡をする」って。彼はもともとおしゃべりな奴ではないが、必要なことはちゃんと話してくれる。教えてくれなかったのは、彼にとって僕ってその程度だったのかなあ。
僕は聖人でも何でもない、ただのユーリだから、いくら表情や言葉がやさしくっても拒絶を感じてしまった。彼が大きな秘密を抱えていることは、とっくに気づいていたし。
それでも、彼のことは許してしまう自分がいる。
嫌いになんてなれっこないし、これっきりなんてありえない。ただ、心配するな、って言ってだけど、これで、もしなにかが彼に起きたら、怒ってやろう。怒って、そうして、すごく心配したってことを散々に言ってやるのだ。多くを知らせてはもらえないけど、心配する権利ぐらいは僕にだってあるだろう。
これじゃあまた、ボロ泣き野郎めって、笑われちゃうなあ。そう思いながらも、真っ暗な自室のベッドに乱暴に飛び込み、枕を濡らした。
◇◇
それから僕らは年を重ねた。
ありがたいことに僕は絵本作家として、軌道に乗ってきた。
結局シュウ君は、何をしているのかは、僕に教えてくれないままだった。
彼がワシントン郊外にいたのは数年。その後は、忙しそうに国じゅうを飛び回っているみたいで、どこに住んでいるのかは、全くわからない。
僕らの連絡は3つ。
まずひとつは電話。まるでこちらの様子などお見通しというタイミングでかかってくる。まるで君はホームズみたいだね、と言ったら電話口で大笑いされた。彼曰く、「いいや、俺はワトソンさ」らしい。
あとはポストカード。差出人の名前だけが綺麗な字で添えられ、美しい風景や観光地の写真が送られてくる。
3つ目は、正しく言えば連絡とは言わない。出版社宛にS、というイニシャルでファンレターが届くのだ。隠す気ないだろ。
その手紙は、新刊が発行されるたびに届いた。電話でも話しているというのに、不思議とそれが文字になるだけでより特別なもののように感じられるのだから不思議だ。それに、シュウ君は文字の方が饒舌なのだ。感想と、応援の優しい言葉。恥ずかしさやら照れくさい気持ちで毎回いっぱいいっぱいになってしまうが、嬉しい。手紙でしか素直になれないなんて、困ったちゃんめ。
僕が彼に連絡を取ることはできなかった。送られてくる手紙には、一方的で彼の住所は載ってなかったし、電話もいつも公衆電話や非通知だった。
それでも、大概一ヶ月に1度くらいは連絡をしていた。忙しそうながらも予定をあわせて、二人でこの広大な米国の誇る観光地も巡った。もう大丈夫だろう、と彼に空港にも観光で連れて行ってもらったこともあった。だが、相変わらず体質は変わらないようで、立ちくらみを起こし、すぐにシュウ君から退場を言い渡された。結局、この米国からは出られていない。
そう、僕らの友情は続いていたのである。
◇◇
「今度、日本に行く」
「え、あ、うん」
いつか、彼がこの地を離れる前に訪れた地中海料理が美味しいお店で、同じようにピタをほおばっていた時だった。
この数年で、彼は髪を伸ばすことにしたらしい。癖のある前髪を撫で付け、一括りにしている。揺れる様子はなんだか尻尾のようで、手慰みに僕のおもちゃになっていた。
この日も突然だった。運良くまとまった時間が取れたという彼が、突然近くまで来てくれたのだ。僕が軽い調子で、君の昔の城とか、マスターに挨拶に行く?と誘ったが、なにか思いつめた様子でさっさとお店の個室に押し込まれた。珍しい。
いつも、これからどこへ行くだなんて教えてくれたことはなかった。大概、ポストカードで事後報告だし。今までで一度でも彼の口から教えてもらったことはあっただろうか?
「…今後長い期間会えなくなる。連絡も出来ない」
「うん、それってどれくらいか聞いてもいい?」
「わからない。ただ、数年は掛かる」
「すうねん…」
「…そんな顔をするな」
目を伏せながら告げてきた彼は、すぐに手が出るとことは変わらないようで、やさしく頬を摘まれる。僕はどんな顔をしていたんだろうか。そうか、やっぱり、さみしいなあ。彼はいつも前を向いて進んでいるから、僕が彼を止めることなんてできない。僕も、そろそろ前を向かなければならないなあ。だけど描くことができるのは、いつまでも沈んでいる心を表しているように、かなしげな作品。ふと一人になった時に過るのは空虚ばかりで。飛行機も乗れない。故郷である日本は、ずっと遠くの場所になってしまった。
「これを」
手のひらに握らされたのは一枚の紙切れだった。並んでいる数字の列は、電話番号。今まで、彼が頑なに教えてくれなかった、連絡先だ。
「…?連絡していいの?」
「ああ、だが…そうだな、一度だけだ。ユーリが、どうしようもなくなったときは教えて欲しい。そんな時が来ないことを、願うがな。取れるかもわからないが、お守り替わりと思って持っていてくれ」
「ふふ、イギリスのクイズ番組みたい。ライフラインのテレフォン、だっけ」
くすくす笑うと、日本行きを告げた時の彼のこわばった顔もだいぶ穏やかになった。相変わらずだなあ。まったく、もう。それでも僕は目を細め、笑顔を向けた。彼は、いつかみたいに、心配するな、大丈夫だ、と告げ、この話は終わりだ、とばかりにクラフトビールをあおったあとは、また他愛のない話で笑いあった。
これで、もし、彼が危ない目にあっていたら怒ってやろう。なんで怒るのかって?大切な存在だからだ。
そして、僕はきちんとあの日と同じように、彼の言う気の抜けた笑顔で送りだした。
ただ、このとき素直に見送ったことをこれほど後悔するとは、この時の僕は露ほど思わなかった。怒る相手が、この世から、いなくなってしまうなんて。