ぼくときみのかくれんぼ   作:善吉

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第8話

08

 

 ――安らかな眠りをお祈りいたします。

 

 おばあさまが、亡くなった。穏やかな顔で、眠るように息を引きとった。老衰である。僕は黒を身に纏い、いっぱいの花に囲まれた祖母を、静かに見送った。

 手先から徐々に感覚がなくなるような呆然とした喪失感は、薄情かもしれないが数週間もすれば、大丈夫だと、思ったのだ。時間が解決すると。それに、頭の中できちんと覚悟をしていた。すかすかの心はいつもよりも冷たいが、むしろ落ち着いていた。大丈夫、別れは初めてではない。心を放っておけば、雪解けのように自然と凍てついた大地と同じで、普段通りの生活を取り戻せると思ったのだ。

 しかし周りの目から見た僕はひどいものだったらしい。

 まわりの人たちは、随分と僕のことを心配してくれた。「ユーリ、大丈夫かい?」、笑っちゃうくらいに誰もがこの言葉を僕に向けた。

 

 鏡を覗けば、ひどい顔をした暗い表情の男が映っている。頬がこけ、いつか誰かに褒めてもらえた瞳の色は暗く澱んでいた。血色もわるい。あは、まるでゾンビみたいだ。ユーリ、大丈夫かい?自分のことなのに他人のように思えた。でも、大丈夫、時間がきっと解決してくれる。一瞬よぎった真っ黒な彼の姿は、すぐに脳内から消した。

 

 その時の僕は、人に頼るということは心が弱っていることを認めてしまったかのように感じてしまったから。その代わりに、もっと昔のことばかりを思い出すようになった。春の芽吹きに咲き誇る桜の花、袖が余ってしまった真新しい学生服。早く、あたたかくなってくれないかな。

 

 日本に置いてきた大切な人たちとの思い出ばかりが溢れる。脳内の棚からぽつりぽつりと花開くように、存在を主張するのだ。

 おばあさまと過ごした家は早々に引き払ってしまった。大切にしていた家財に埃が積もっていくことが忍びないから、という大義名分を掲げたが、結局は逃げ出しただけだ。日本から逃げるように離れた時みたいに、思い出から、目を背けるように。

 

 あの時も、無かったことにするために、すべてのつながりを絶った。連絡先は誰にも伝えなかった。

 いつか、大人になったら、謝ろう。音も相手も存在しない独りよがりの懺悔を何度心の中で呟いたか。大丈夫。きっと笑って許してくれる。でも、それは結局10年近く経っても実現していない。あの人たちは僕のことを覚えているかな。覚えているといいな。日本に残してきた、大切な彼らは、今は何をしているのだろう。記憶の彼らの時は、学生服を着たままだった。

 

 大人ってなんだろう。年を重ねても、1通りの経験をしても、いつまで経っても自分の知っているような大人にはなれない。考えたって答えの出ない問いで、気を紛らわすように、過去の美しい思い出に縋って自分を保っていた。そうでもしなければ、崩れ落ちてしまいそうだったのだ。

 

 ゆるやかに、元の生活に戻っている。「ユーリ、大丈夫かい?」、もう大丈夫。鏡に映る男も、相変わらず頼りない痩せっぽっちだったが、少し前までよりはずっと健康そうに戻っていた。それだというのに、夢を見るのだ。大切な人たちの夢を。

 空の色は今よりもずっと深く、青い。夢だからか。僕達を取り巻く景色は、流れる汗ですら輝いている。二度と戻らない学生時代の思い出は、ささいなものでも、時が経つにつれかけがえのない、特別なものだ。

 

 僕には、幼馴染がいた。家族ぐるみで付き合いのあった、年下の頼りになる彼。兄弟のいない僕にとっては彼が弟のような存在だったが、手を引いてくれるのは彼ばかりであったので、彼のほうがずっと兄らしかった。大切な、うつくしい思い出。

 

 入道雲。アスファルトは茹だるように揺らめいているが、肌にまとわりつくような暑さは感じない。それもそうだ、夢なのだから。二人で加えているのは、割り勘で購入した氷菓子。そう、いつも彼の方が早く食べ終わってしまうのだ。そして口淋しいのか、空になったプラスチック容器をいつまでも加えていたのだ。懐かしい。なんてことのない、下校道。

 

「…、……」

 

「なあに、けんちゃん。わからないよ」

 

「……、…」

 

「わからない、わからないよ…」

 

 一生懸命何かを伝えようとしているが、声は届かなかった。

蝉の喧しいばかりの主張は聞こえてくるのに、なぜ彼の声は聞こえない。彼は伝わらないと気づくと否や、寂しそうな顔をし、立ち止まってしまった。夢はそこで終わってしまった。 

 

 なんで、立ち止まるんだよ。距離こそは離れているが、君だって君の人生を歩みつづけているのだろう。

 

 彼はどんな大人になったのだろうか。やだな、そんな、夢枕に立つだなんて。過去にばかり目を向けてしまっているからだろうか。 縁起でもない。勝手に逃げ出してしまっても、僕は今でも君の幸せを願っている。きっと、日本で元気にやっているのだろう。そうだ、そうに決まっている。

 

 それだと言うのに、出版社へ僕宛のとある手紙が届いた。嫌な予感がした。送り主は日本人。聞き覚えのある、苗字。日本に残してきた幼馴染の、お母さんからだった。

 

「うそだ…」

 

 手紙は、幼馴染が7年前に亡くなったという内容。

 なんで。彼は、僕の両親が亡くなった飛行機事故が起きてから、連絡がつかなくなった僕のことをいつまでも心配していてくれたらしい。そのことを覚えていた彼のお母さんは、ある日、書店にならんだ僕の本を見つけて、たいそう驚いたそうだ。そして、いつか日本に戻ったときには、墓前に手を合わせて欲しい、って。そんな内容が綴ってあった。

 

 また、心臓が凍りついた。

 

 こちらが勝手につながりを切ったというのに、身勝手にもいつまでも、当たり前のように待っていてくれると思ったのだ。僕よりも年下なのに、僕よりもしっかりしていて、まるで兄のように振舞うおちゃらけた彼。きっと帰れば、「おせーんだよ!心配したんだからな」と額を小突いてくるんだろうな、なんて。彼のことだから、とっくに可愛い奥さんをもらって、幸せな家庭を築いているだろうって、思ってた。情けないことに、彼が夢として追いかけていた警察官になったということも、その手紙で初めて知った。それなのに、もう、7年も。

 

 凍てつく心臓と一緒に冷え切った指先。慌てて、デスクをひっくり返し、眠っていた紙切れを取り出した。一度しか使えないというお守りを取り出した。シュウ君の連絡先だ。

 そのとき、何を思ってその電話にかけたのか。渦巻く感情は、悪いものばかりだった。ただ、あの低く落ち着いた声を聞いて安心をしたかったのかもしれない。幼馴染が知らないうちに死んでいたからって、俺も一緒に殺すな、大丈夫だ、なんて言葉を聞きたかったのかもしれない。とにかく、大丈夫であるという確証が欲しかった。今の自分をあたためてくれるなにかが。

 

「おかけになった電話番号は現在つかわれておりません、…」

 

 慌ててかけたから、番号を間違えたのだろう。震える手で、再度プッシュしなおしたが、相変わらず同じアナウンスが流れる。何度も、何度も、かけ直しをしたが、ついぞ、つながることはなかった。

 心臓が大きな音を立てている。静かな部屋で自分の鼓動がやけに響いて聞こえた。悪いものがひたひたとこちらに近づいているような。体中の血の気がスウ、と引いていく。

 

 でも、だいじょうぶ。きっと、だいじょうぶ。根拠のない「大丈夫」を無理やりのみこんで、自分を騙し、数日を過ごした。でも、ぜんぜん大丈夫ではなかった。

 

◇◇

 

「これを、君に、って、アイツが」

 

 出版社に現れたのは目元と鼻先を赤く腫らした、大柄な男性だった。彼は筋肉質の大きな身体を縮こませながら、小さく鼻をすする。なに、だれ。見知らぬ男は、ちいさな紙袋を携えていた。

 

 渡されたのは、いつか僕がリバティ島で買った自由の女神像のジッポーであった。これを渡したのは、あなたじゃない。ぼくは彼に渡した。どうしてあなたがこれを持ってくるの?聞きたくない。

 

「シュウのやつ…写真ひとつない、色気のないデスクだったんだ。でも、それだけは、彼のデスクにあってね。ふざけた俺が、彼のデスクからふざけて持ち出そうとしたときにはメチャクチャ怒られたよ。普段自分のことなんて、話さないやつなのに、大切な贈り物なんだ、って」

 

「…」

 

「その時に、そんなに大切なら君が吹っ飛んだときは、どうするんだい?形見として、俺がもらってやろうか?ってつい憎まれ口を叩いてね。アー、俺もバカだよな、同じチームだった、っていうのに。勝手にライバル視して嫌っていたんだ。あのシュウイチだっていうのに。そしたら、アイツがな、テメエがふざけた責任として、元の持ち主に届けろって、また偉そうに話したんだ。だと言うのに、元の持ち主の話は一切ないんだぜ?その時の俺は、アイツの無茶ぶりに怒って話は終わったが、珍しいこともあるんだと、シュウがそう言っていたのをいつまでも忘れられなかった」

 

 彼の声が、だんだん遠くに聞こえてくる。あの時の俺は、気になっていた女の子を取られちまった後だったから突っかかったとか、そんなの、どうでもいい。

大柄な男はべらべらと余計な言葉を並べているようだったが、そんなの、知ったことか。極限まで擦り切れ、ゆらゆらと危ない不安定な、大丈夫という言葉で騙し続けて、どうにかつなげていた糸が悲鳴を上げている。やめろ、その先は、聞きたくない。

 

「彼のデスクの荷物は俺らの上司が預かる、ってさっさと引き上げられていくのを、こっそり拝借したんだ。それから、調べた。捜査官としての腕はアイツに勝ったことはないが、これでも優秀な方なんだ。もとはあんたのものだったんだろう?」

 

「…、そう。僕が、渡したものだ…」

 

 なんとか喉を震わせて返した言葉は、情けないほどに小さかった。いやだ。なんでだよ。どうして、みんないなくなってしまうの。そんな。こんなもの、いらないから。

 今すぐ彼を、彼を。

 

 

「――君の親友は、先日、日本で殉職した。赤井秀一は立派な最後を遂げたよ」

 

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