あれはなんだ、あれは。あいつは、いったい。
蛇口をひねり、流れる水を止める。
排水溝に吸い込まれていく水のようには胸のざわつきは綺麗に収まってくれる筈もなかった。鏡の前には男がひとり。頬に大きな火傷を負った死人の顔。目的であったFBI捜査官の反応の調査。特徴のある帽子をかぶっていたことで、無事にターゲットのFBIをおびき寄せることを成功させ、ドイツ系の大柄な男性捜査官の前に死人の姿をチラつかすことができた。残念ながら、結果は自分の思い描くものではなかったが。そして、どうやら余計なものまでおびき寄せたらしい。
嫌な瞳だった。心がざわついた。あの瞳で見つめられたら、遠い昔に置いてきたはずの何かを思い出しそうだった。それに…、思考を無理やり止める。気分が悪い。
知らない男だ。どう見ても奴の所属する機関とは無関係だろう。もちろん、組織とも。数年前、不本意にも同じチームを組まされていた間の奴の姿を思い出しても、どうにもしっくりこない。どうしてあんな男が、アイツと繋がりを持っているのか、腑に落ちない。くそ。探り屋として一度芽生えてしまった疑問は、徹底的に洗い出すのが性分だ。
「…は、いつ見ても、腹が立つ」
ビリ、と引き裂くような音が誰もいない化粧室から響けば、死人の顔はもういない。
そこにいるのはバーボン。冷たい瞳をした別の男がそこにいた。
◇◇
「ダメよシュウ!外に出ないで‼」
米花百貨店では、夏のクリアランスセール、全国うまいもの市といった催事が行われ、近年客足が遠のいている百貨店業界の悩みも吹き飛ぶような賑わいを見せていた。そして、予期せぬ賑わいも。――爆弾騒ぎである。
しかし、その爆発予告の騒ぎも犯人が捕まり、怪我人が出ることもなく、事件は収束した。依然、熱の冷めない野次馬を除き、人々はなに食わぬ顔をして先ほどの騒ぎなどもう忘れてしまったかのように、買い物を楽しんでいる。
その中で女性の悲鳴は、フロアに響いた。もちろん、ここにいるはずのなかったユーリにも。
だめよ、しゅう。そとにでないで。しゅう、…しゅう?
暑さとは別の汗が頬を伝った。朦朧とした脳内は処理が追いつかないようで、今の悲鳴が音として処理された。未だ、言葉の意味としては捉えきれていない。しゅう、くん。本能のように、人の波をかき分けながら、音の方へすすむ。だめよ、しゅう。まって、おねがい。もう一度。そうしないと、僕は――。
「あ、え……」
小さく見えたのは、真っ黒な後ろ姿だけであった。
キャップをかぶった彼は、前だけ見ている。くそ。こっちみろ。こちらを振り返る様子はない。止まる気配もなしに、人の波に飲まれて消えていく。まって、お願い。もうすこし。喉はたしかに震えているのに、引きつったようなかすれた声しか出ない。こんなんじゃ、届かない。
ひとつのことに没頭すると、周りが見えなくなるのは悪い癖だな、なんて遠い昔のぶっきらぼうの優しい声を思い出す。身体が心にぜんぜん追いついてくれない。ああ、視界は端からじわじわと黒いモヤが覆いかぶさってくる。あ、これ、まずい。
――遠くかすんでくる意識の中で、最後に見えたのは、求めていたなつかしい緑のような気がした。
原作軸スタートです