晩秋。連日続いていた空を埋め尽くす雲霞はついに根気も失せてしまったようで、稜線の向こう側に消えゆこうとしていました。雲間から覗く柔らかな月明かりが気まぐれに大地へと注がれ、一瞥を恩恵として受け濡れそぼった空気がきらきらと照らしあげてられています。そんな肌にまとわりつく濃霧の呪いから解き放たれつつあるもしかし未だに澄みきらない世界には、天地の間にいくつもの光の柱が屹立していました。天空、浮雲の狭間より降り注ぐ真白い光と烏の濡れ羽色の暗闇の光景が世界の祝福の証であるなら、撒き散らされた星の灯火は天の喜びの証であり。また、大地に広がる靡き伏す草々がみせるような色とりどりの光は、そこに生きる人々の陶然を示しているのでしょう。
まるで世界が生まれ変わったかのようでした。行きがけにあった肌に纏わりつくようだった水分はすでに空気中を直進する光を周囲へと撒き散らす反射板へと変化しており、やがて完全に役目を終えると茶色い地面をしとどにふやかして失せてゆくのです。地面へと姿を消すことをよしとしなかった生きる意志に満ち溢れた水滴は、人造の灰色大地の上を鏡面に塗り替え、世界を光で満たす一躍を未だに担い続けていました。
濡れそぼった世界を光が彩る光景のなんと美しいことでしょう。天空に瑕疵の一つない姿で浮かぶ満月が切り取った世界はまるで波打つキャンバスで、広がる光景はまるで『世界』と名付けられた絵画のようでした。それは数年前、この街にやってきてから始めてみる光景でした。いえ、それ以前の思い出せる限りの昔にまで記憶を遡らせても、このような美しい夜に出会ったことはありません。
――家に帰れば、あっと驚くようなことが待っているに違いない。
湧き上がる予感を愉しみながら月明かりと街灯が柔らかく照らす濡れた大地を踏みしめながら歩くと、雲間から漏れる光が進む道を祝福するかのように家路への道を示してくれています。家路を進むさなかに突如として現れた光景は、ここ数ヶ月もの間、激動の荒波の中にあって鬱屈の最中にあった気分を瞬時に向上させてくれました。導きに従うようにして歩を重ねていくと、湿った静寂を引き裂くヒールの音だけが、まるで舞台の上のよう甲高く世界へと響き渡っていきます。わたしはまるで世界を舞台に踊るプリマになったかのような気分でした。
――この幸せな気分をもう少しの間味わっていたい。
思いとは裏腹に、月明かりの伴奏に踊らされるようにして足を進めていると帰路の歩みは自然と早いものとなるもので、わたしは気がつけば家の前へと辿り着いていました。
*
わたしの住む家は、よくいえば歴史を感じさせる、率直に飾らない言葉を述べるのであれば不便で古臭いだけの、二階建ての横に長い洋館です。館はだだっ広い土地の中心に建てられており、家の入り口に辿り着くまでには屋敷の立つ土地の入り口には設けられた鉄格子の門から数分もかかる道を歩かなければなりません。いつもなら鬱陶しく煩わしいだけのそんな館と土地と道ですが、世界が生まれ変わっていたこの日に限っては、まるで別物でした。雲間から覗く月の光と長雨のうち空気中に散らばった水の霧によって、門から屋敷までの道と、屋敷のある部分だけをまるでスポットライトを当てでもしたかのように照らしだされています。それはまるでわたしの進む未来を祝福するかのような光景でした。
逸る気持ちのままにするりと鉄の門を通り抜けると、それだけで胸の鼓動はさらに早まってゆきます。いまや三人となってしまった住人にとって広すぎる家は、まるで舞踏会の会場であるかのよう、月と雨の化粧によって艶やかに輝いていました。屋敷に続く道を駆け足気味に進むと、すぐさま洋館の大業な造りをした両開きの扉が見えてきます。扉の前まで進んだのち、そのうちの片方だけを解放して中へと身を滑り込ませると、わたしは闇に向かって声を投げかけました。
「ただいま帰りました」
返事は当然ありませんでした。とある事情があって雇っていた使用人全てに暇を与えた広すぎる家の中に、もはや帰宅した誰かを迎えてくれる人は、今のところいません。けれどそれを承知でありながら、ほとんど蟄居状態を保っている誰かの返事を期待して久し振りにこのような言葉を館に放り込んでしまったのは、月光の美しすぎる祝福の所為なのでしょう。
とはいえ、僅かながらに抱いていた期待が外れてしまったことに少しばかりの落胆がありました。しかし家の中が珍しく静寂に保たれている事実に希望を抱いたわたしは、気を改めてそのまま家の奥へと歩を進めてゆきました。館の長い廊下は、規則正しく配置された窓から飛び込んでくる月光と窓枠の淡い輪郭によって、独特のチェック柄へと一時的に染め上げられています。作られた光のタイルの上をそろそろと歩き、いくつかの部屋を通り過ぎて廊下の最奥にたどり着くと、わたしは音を立てないようにそろそろと部屋の扉を開き――
――そこで奇跡を目撃しました。
そこは赤を基調として彩られた豪奢な部屋でした。使用人がいることを前提に作られているその広い部屋の中央には、天蓋とカーテンを持つ大きなベッドが置かれています。正式な持ち主を失って久しいベッドは、寂しさを埋めるかのように、月明かりをその身の上に横たわらせています。そうして堂々と逢瀬を行う不埒者の脇には、わたしの姉の夫――つまりは、わたしにとって義兄であるその人が、静かに瞑目して姉のベッドの横に力を抜いて上半身を預けていました。寂しがりやの持つ魔力に引き寄せられたのか、相憐れむかのようにベッドに抱きつくような格好の義兄は、久しく見せることのなかった穏やかな様子と表情をしていたのです。絶えることなく滂沱の涙を流し続けていた瞳と眼窩はついに休息を得られたことを喜ぶかのよう緩やかに閉じられ、数ヶ月もの間、嗚咽と世界を呪う言葉ばかりを吐きだしてばかりいた唇にはいまや薄い笑みが浮かんでいました。
それはつい数ヶ月前、義兄が最も愛した彼の妻であるわたしの姉と死に別れるという、彼にとって思いつく限り最大の悪夢と最悪の絶望とに身罷られた義兄が、その瞬間から今この時に至るまで、終ぞ見せることのなかった表情でした。その顔は、つい数日前に彼のそんな苦悩と絶望を更に深いものにしてしまったわたしがどうしても見たいと望み、しかし今の今になるまで目撃することかなわなかった表情でした。
部屋の中には月光の光と静寂と芳醇な闇だけが満ちており、義兄を包み込んでいました。わたしは義兄がついにそんな生まれ変わった世界の美しさに触れ、姉の死と決別し、安らかさを手に入れたのだと思いました。わたしはそして願いを叶えてくれた世界の祝福と義兄の心の強さに感謝をして、その場を静かに立ち去りました。義兄はおそらく、そんな奇跡みたいな自然の暖かさに包まれたが故に、ようやく平穏を取り戻したのです。ならそれをわたしという人間の不純物で乱すのはいかにも無粋だと思ったのです。
わたしはその場を離れ、自らの部屋へと戻りました。その日、わたしは、残りの時間を幸せに過ごしました。その日、わたしは、義兄に安寧をもたらしてくれた世界に感謝して過ごしていました。わたしの幸せは、深夜、この家の主人であるわたしたち姉妹や義兄とは異なり、世間の平均値、中央値と比較しても醜いと以外に表現する事がかなわない容姿の浅見さんが帰宅するその時まで続きました。いつものように帰宅した醜い容姿の浅見さんは、おそらく姉の部屋から義兄の悲嘆にくれた嗚咽と咆哮が聞こえないことを不審に思ったのでしょう、わたしと同じように帰ってきたその足で姉の部屋へと向かい、そしてわたしは、浅見さんが帰ってくるまで続いていた幸せと幸福の予感が虚構と過ちである事を知ったのです
世界が見たこともないほどの光に美しく染まったその日、義兄は姉の部屋で死んでいました。そして、たしかにその日、世界はわたしの予感通りに生まれ変わってしまったのです。世界は希望という名前の光によって祝福によってではなく、義兄の死という絶望によって、暗黒無明のものへと生まれ変わってしまったのです
そしてわたしの世界は完全に崩壊してしまいました。
*
心底間抜けな話です。義兄が安らかな顔を浮かべていたのは、姉のことを吹っ切ったからではなく、自らも姉という愛した伴侶のいない世界という地獄から解放されると悟ったからこそだったのです。わたしはそんな義兄の思いを見抜くこともできずに、義兄の安らかな寝顔を自分の都合の良いように解釈して永久の眠りについた義兄のことをしばらく放っておいてしまったのですから、間抜けとしかたとえようがありません。
自分の間抜けさと愚かさを浅見麗というわたしの遠縁の親戚に当たる存在の言葉によって気づかされたわたしは、おそらくその時点よりずっと正気を失っていました。わたしの記憶はそこからずっと欠落と亡羊ばかりが続いています。義兄が死んだその時点より世界は私にとって無価値な醜いものへと変貌していました。義兄のいなくなってしまった、先輩のいなくなってしまった世界は、わたしにとって、路傍の石ころよりも価値のないガラクタに成り下がっていたのです。
その時わたしは、はじめて、姉が死んでからの日々を嗚咽と喉が張り裂けんばかりの叫びに過ごした義兄の想いが理解できたのです。わたしにとっての姉の死はただ悲しいだけでしたが、義兄の死はこの身を割かれるに等しい苦痛でした。
――心の底から愛していた人が死ぬのは、こんなにも耐え難い
義兄にとって己の魂の向かう先が天国であろうと地獄であろうと関係なかったのです。姉という最愛の伴侶を失った義兄にとってこの姉のいなくなった世界は、地獄よりもなお恐ろしい白昼夢に過ぎなかったのです。記憶の中に残る姉と過ごした暖かく幸せの思い出だけがあの時の義兄にとっての救いであり、だからこそ義兄はそんな姉のいないこの世界とお別れできる事を心から喜んだ。姉不在という痛苦を突きつけてくる凍てつくような世界は、義兄にとって地獄以外の何者でもなかった。だからこそ義兄は姉の袂へ旅立てると予感したその時、あんなにも穏やかな微笑みを浮かべ、そしてこの世界から旅立ったのでしょう。
義兄にとってこの世界は姉が死を迎えたその時点で終焉を迎えてしまっていた。すでに心が終わりを認めてしまったにもかかわらず生き長らえてしまっているというその辛さは、今まさに義兄と同じ状況になったわたしにとって理解できる苦しみです。
あの時よりわたしの時間は止まったまま、決して動こうとしてくれません。あの日より私の世界の中において更新されたのは、義兄が死んだというそんな堪え難い苦痛の記憶だけです。あの日、あの時、義兄は死に、そして遅ればせながら同じ日のうちに、わたしの世界も終わりを告げたのです。だからわたしは、姉を失った後の義兄と同じようにして、日々を過ごすようになりました。
――こんな醜い世界なんて終わってしまえばいい
その日以来、終わりが来ることを待ち望むだけが、わたしのたった一つの望みとなったのです。
*
それからどのくらいの時間がたったのでしょうか。その日は皮肉なことに、わたしの気持ちとは裏腹の、世界は義兄の肉体までもが呪いから解き放たれた事を祝うかのよう、晴れ晴れとした空模様でした。義兄の身体は叔父の手配の元に荼毘に付され、魂に遅れて天へと旅立ってゆきました。煙突より燻る煙が伸びて行く空には雲ひとつなく、燦々と輝く太陽の直射日光は濡れた地面を焼き、揮発した水分が足元に薄く微温い霧を発生させています。肌にまとわりつくような水気を嫌うかのよう煩いくらいに虫がざわめき、風が濃い緑の匂いを運んできていました。生命の謳歌する周囲の様子は、まるで短い生涯を全力で駆け抜けた義兄への鎮魂曲のようでした。
わたしの火葬場での記憶はそこまでのものしかありません。いまやわたしの脳は義兄関連の記憶以外を留めておくことができなくなっていたのです。やがて気づいた時、わたしは再び屋敷の入り口でぼうっとしていました。この数ヶ月のうち立て続けに二人の住人を失った家はしんと静まり返っています。屋敷の中は外に響いていた合奏が嘘のように静寂が保たれていました。屋敷の中にはもはや何も存在していません。死別より落涙、狂乱を経て、やがて再びの死別と鎮魂の後、最後には空疎へと至った屋敷にはついに光も、音も、匂いも、感触も、その全てを失ってしまっていたのです。屋敷は蟄居していた義兄の旅立ちとともに、完全なる死を迎えてしまったかのようでした。
扉を閉めると、すぐに自室へ戻るべく、廊下へと向かいました。廊下は規則正しく並んだ窓より飛び込む太陽の光によって絨毯がチェック柄に彩られています。それはまるで檻のようでした。きっと、あの日からこの家は、わたしをこの醜い世界に閉じ込めておくための牢獄になってしまっていたのです。時刻によって不規則に柄を変える絨毯を歩くと靴の踵が床を叩く音が耳孔より飛び込んできます。ですが、音は脳裏に記憶として留まることなく通り抜け、すぐさまもう片方の穴から抜け出ていってしまうのです。
連日の鬱屈を晴らすかのよう強烈に落とされ続けている太陽の光を浴びた黒服は、やがて肌が焼けると思えそうなほどの熱を帯びてゆきます。服に溜まった熱は逃げ場と捌け口を求めるかのように接する肉の体へと侵入し、暴れまわりました。滾る灼熱の憂さ晴らしに付き合わされたわたしの体は汗を生み出し、体内より滲み出てきた汗を受けた服は打ち水を喜ぶかのように、水分を求めてわたしの体に密着してきます。
そんな体を芯から温める熱は意地悪なことに、わたしの意識をわずかばかりに覚醒させてしまいました。わたしはそして、いつのまにかペタペタと行儀の悪い音を絨毯に残してしまうほどの汗をかいていたことに気が付いたのです。本来なら不快、不行儀と思うだろうそれらの感覚と恰好をしかし、その時のわたしはまるで何とも思うことができませんでした。多分わたしは、屋敷の同じ場所をぐるぐると歩き回っていたのでしょう。体を垂れ落ちてゆく滝のような汗がその証拠と言えました。でもその時のわたしは、そのことをなんとも思えなかったのです。それどころか、その時のわたしには、どこをどれほど歩いていたのかという記憶すらも残っていなかったのです。
それは間違いなくわたしの世界がすでに終わってしまっている証でした。わたしにとって義兄のいない世界とは、完全に無価値な存在なのです。わたしはそんな無意味さだけが広がっている世界に自分が存在していると認めることすら億劫でした。わたしの頭はすでに暑さ寒さといった感覚どころか、時間や空間といったような世界の絶対的なものですら曖昧にしか感じられない状態に成り果てていたのです。
世界とはわたしにとっては、地獄の別名でした。わたしの中では現実と夢幻の境界はすでに崩壊してしまっていたのです。この世界はすでに、妖精や魔物のすむ場所となんの変わりもない醜い世界に成り代わってしまっていました。わたしはすでに現実の世界から弾き出され、自分の周囲で起きている物事を曖昧にぼんやりと知覚するだけの存在でした。全ての内在、すなわち主観が失せてしまった部屋の中で、しかし時の流れに身を任せるという矛盾じみた行為に浸っていると、詮無く昔のことばかりが思い出されます。おそらくそれは義兄の喪失により主観的世界すら失ってしまったわたしの本能が行わせる、主観世界の再構築作業だったのでしょう。あるいは脳が過去の記憶から心を救うための手段を探そうとしているのかもしれません。心とは別に、精神の異常を察知した肉体は死にたくないと必死に足掻いているようでした。そんな肉体の本能が行なっているのだろう挙動に抗う気力も湧き出なかったわたしは、溢れ出てくる過去の記憶の奔流に身をまかせる事としました。
*
鈍色をした重苦しい雲が空一面を覆い尽くしていた冬のある日のことです。まだ幼かったわたしたち姉妹は両親を失いました。事故でした。四人家族がいきなり二人姉妹になりました。あまり仲のよろしくない、何のために行われているのかわからない親族の会合に向かう際中、飛行機が墜落してあの人たちは亡くなったのです。不幸中の幸いにして、両親は資産家であり、また同時に、有名な会社の役員であり、さらには母方の血筋が紐解けば樹木に纏わりついて藤色の花を咲かせる名家にまで辿り着く家の本筋にあたるという事情がありました。つまりわたしたちは、古くから続く裕福な名家に生まれたのです。故にわたしは、わたしたち姉妹が路頭に迷うことはないだろうと、わたしは幼いながらに打算の算盤を弾いて自らを安心させていました。
「こんにちは。こんな時に突然すまないね。私の名前は浅見麗だ」
やがて幼くして両親を失った私たちの前には一人の男が現れました。浅見麗、と名乗った母の遠縁であるというその人は、ひどく太った、容貌整っていない、顔の造形乱れた、遠慮なく一言でいってしまうならひどく醜い容姿をした人でした。わたしたちの母方の家系は、代々、その時代の美の基準において最も美しいと言われるような見た目で生まれてくるという不思議な特徴を持っていました。その中でもわたしたち姉妹は別格の美貌を持ってきて生まれてきました。自賛ではなく、わたしたち姉妹は、客観的にいっても間違いなく世間で最も美しいといって過言でない見た目をしていました。母も、母の親族も、わたしたちたちには劣るものの、そのほとんどが基本的に美形と呼んで差し支えない顔をしていたのを覚えています。それ故にわたしは、わたしはその醜い容貌を見た瞬間、この人はわたしたちの親族なんかではなく人攫いで、わたしたち姉妹を外国に売り飛ばそうとしているのではないかと考えてしまったのです。こう言うのもなんですが、浅見さんは百人が見れば百人が気持ち悪いと不快感を露わにするような、本当に醜悪な見た目をしていました。
「君たちさえよければ、これからは私が君たちの面倒を見よう」
だから、字面だけならば恰好の良くも聞こえるそんな言葉を、肥えた丸い顔の中央上に位置する細い目のさらに上へ脂汗をにじませながら、ふぅふぅと息を短く繰り返し、膨れ上がった腹を揺らす浅見さんのそんな様子に、わたしが瞬時に嫌悪感を抱いてしまったのも仕方のないことと言えるでしょう。樽型の肥満体型も、丸顔のくせにエラ張って目細いその顔も、短い首にこびりついた脂肪も、隠れるような体力に乏しく汗っかきな体質も、阿るようなその声色も、その全てが私を不快にさせる材料に他なりませんでした。
「その、失礼ですが、どちら様でしょうか」
「――ああ、これは失礼した。私は君のことは知っていたから、つい、君たちも私の事も知っているだろう体で話を進めてしまった。ええと――、ああ、これだ」
わたしのそんな侮蔑と嫌悪と疑念混じりの視線を浴びた浅見さんは、しかし気にした様子もなく鞄の中から数枚の書類を取り出すと、わたしの隣で腕を組み浅見さんを眺めていた姉へと渡しました。それらは遺言書や、自身と私達の母との関係性を示すための数枚の公的の書類や、財産に関する公正証書でした。
「いや、訝しむ気持ちは理解できるつもりだよ。それに見ての通り私は君たちや君たちの母方の親族と違って、こんな容姿だ。信じられない気持ちも、疑う気持ちも理解できる。だけれども信じて欲しい。私は本当に君たちの母親方の血筋の人間なんだ」
浅見さんがわたしたちと血縁である書類の提出に引き摺られる形でよくよく過去の記憶を掘り起こしてみれば、浅見さんのその見目に麗しくない容貌は、たしかに親族の会合でなんどか見たような顔でした。加えてわたしは、たしか一言二言話をしたかもしれないという記憶もありました。
「そうそう。とは言っても君がすごく幼い頃に一度会ったきりだから覚えていなくても無理はない。君たちが会議に参加していた幼いその頃、僕は会議の間、基本的に離れの茶室の方にいたからね」
浅見さんが親族会議の行われる場所の正確な情報を言ったことで、ようやくわたしはこの人がわたしたちの親族で血縁の存在である事を認識しました。それでもわたしは、この目の前の人物の脳裏に強烈な印象を埋め込む浅見さんと言う人物の存在を、薄らぼんやりとしか思い出せないでいました。そうやって必死に記憶の片隅までを掘り起こしもわたしが彼のことを思い出せないのはおそらく、まだ幼かったわたしが浅見さんの顔に対してひどく嫌悪感を覚え、その醜さをこの世のものでないと思ってしまったが故に、記憶の奥底に埋め込んでしまうことを無意識のうちに選択したからなのでしょう。浅見さんの顔は、成長したいまのわたしですらも気を抜けば思わず目をそらしてしまいそうになるくらい、強烈なものだったのですから、幼かったわたしがそのような防衛本能を働かせたとしても、不思議ではありません。
「そう……、でしたか」
わたしは正直、この浅見さんと言う人が生理的に好きでありませんでした。好きになれそうにもないとすら思っていました。醜いもののそばに身を置きたくなかったのです。生存や存在を拒絶するつもりはないが、出来ることならば自分と無関係な場所で生きていてほしい。そう思ってしまうのは、理屈ではなく本能でした。だからなのでしょう、わたしはこの浅見さんの申し出をよく思っていませんでした。浅見さんの容貌は世間一般でいう変質者に近いものがあり、わたしはだから、このわたしたちの面倒を見ようという浅見さんの狙いは実のところ、母の血筋の特徴を色濃く受け継いだわたしたちにあり、つまりは手篭めにしようというそんな所にあるのではないかと想像していました。
「そうなんだよ」
わたしが向けていた訝しげな視線に気づいたのか、浅見という人はなるべく敵愾心を煽らないためにしたつもりなのでしょう姉の後ろに隠れるわたしへと微笑みを向けてきます。しかしそうして宥めるために浮かべたのだろう笑みもまた思わず目を逸らしてしまいたくなるほどにあまりにも醜いもので、わたしの気持ちはさらに疑問一色に染まっていきました。母の容姿を受け継いで整った顔立ちをしたわたしたち姉妹に比べて浅見という人の容貌があまりにも醜いという事実が、わたしの彼に対する好感度の底値を更新し続けていました。わたしは出来ることならばこの人の世話になりたくないし、出来ることならば全力で断ってやりたいと心の底から思いました。ですが、両親を失ったばかりの未成年のわたしたちにはそれほど多くの選択肢があるわけではありません。
「それで、どうかな」
浅見さんの申し出を断ればわたしたちは、世間体と外面だけは立派な、しかし内面醜い親族の会合で嫌味を投げかけてくる有象無象のいずれかの家に引き取られることになるのでしょう。親族たちは物事をはっきりというわたしたちの両親を嫌っていました。そんな彼らの嫌悪はそして、その娘であるわたしたちにも向けられていました。子供ながら、しかし子供だからこその豊かな感受性で彼らの敵意を感じ取っていたわたしは当然そんな親族のことを嫌っていましたし、そういった事情を考慮すればあるいは親族の元に身を寄せたとしても、遺産だけ回収された挙句どこぞの施設に放り込まれる事になるかもしれません。
「もちろん無理にとは言わないよ。あてがあるなら他を頼ってくれて全然構わない」
わたしたちを嫌っている、わたしたちの嫌いな親族のもとに行ってそのような未来を迎えるくらいなら、あるいは施設という良し悪しもわからない選択をするくらいなら、醜いというところに目を瞑るとして、醜いというところに必死で目を瞑れば、一応はわたしたちのところまで実際に足を運び、こちらの意思を問うことまでしてくれる、遺産を取り上げようと言う意思のなさそうな浅見さんを選んだ方がまだましかもしれない。
「ええ、わかったわ」
わたしがそんな打算と保身まみれの結論に達したとき、浅見さんから手渡された書類を読んでいた姉は渡された書類より顔をあげました。その時姉はひどく複雑な、怒ったような、困惑したような、憐れんだような、そんな感情が入り混じったような表情を浮かべて、浅見さんとわたしの顔を見比べていたのを覚えています。
「貴方のご提案とご厚意に、有り難く甘えさせていただきたいと思います」
やがて左右させていた視線を浅見さんへと集中させた姉は損得計算を終わらせたのでしょう。姉は浅見さんの言い分をあっさりと聞き入れてみせると、見るものを魅了するような幼いながらも麗しい笑顔を浮かべ、浅見さんのお世話になることを承諾する返事をしていました。姉はそして呆然とする浅見さんの手を取ると、「ご迷惑をお掛けする事となりますが、姉妹共々、どうぞよろしくお願いします」、といって、わたしの方へと視線を送ってきました。その視線はとても鋭く、諭すようなものが含まれていました。わたしはその視線に、すでにわたしには拒否権というものがないのだということを悟らされてしまいました。
「ね、椿」
「――はい。楓姉さん」
わたしには姉の考えが完全に理解できたわけではありませんでした。ですが、多分、姉もわたしと同じような事を考えた上、わたしを気遣い、そのような結論をだしたのだろうと考えました。ならばおそらく、先ほどの姉の所作は、姉の迷いがそうさせたものであるに違いありません。姉はおそらく、わたしのためにその提案を受け入れたのです。ならばそんな姉の選択をわたしが拒絶するという訳にはいかないでしょう。
「そ、そうか! うん、もちろんだとも!大歓迎だ! ああ、じゃあ、返ってハウスキーパーに部屋の準備をさせなきゃ! 」
私は――、正直に言って仕舞えば、浅見さんの元へと引き取られるのが心底嫌でした。ですが、今や姉以外に頼る人物もいなくなってしまったし、姉の気遣いを無碍にするのも心苦しかったので、わたしは姉の決定におとなしく従い、浅見さんの家にお世話になることとしました。そしてその日から、わたしたちの浅見さんの家で過ごす生活が始まったのです。
*
「椿ちゃん。何か不自由はないかい?」
浅見さんの家での生活はわたしの薄暗い予想とは裏腹に落ち着いたものでした。浅見さんは親権や財産、転校などの諸手続きを済ませてわたしたちの生活環境を整えると、時たま何かとしてほしいことはないかと聞いてはわたしたちの機嫌を取ろうとするような態度を取る以外の事を何もしようとはしませんでした。
「……いえ。浅見さんのお陰で助かっています。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「そう……、それは良かった」
わたしからすると変質者じみたその外見をした浅見さんのその誘いは、如何にも下心に満ちているようで生理的嫌悪感をひどく覚えさせられるものでした。世の中にいくらでもいる甘い言葉と一緒に寄ってくる有象無象と同じくらいに、浅見さんはわたしにとって気持ち悪い人でした。そんな人と並んで歩くと考えただけでも、背筋に寒いものが走ります。だからわたしはいつもその誘いを断っていました。すると浅見さんは、残念そうな態度ながらも、しかしどこか嬉しそうな顔をして素直に引き下がるのです。そのさまは如何にも不気味で、心底気味の悪いものでした。
「あ、浅見さん。私の方は用あり。ちょっち欲しいものがあるから、買い物に付き合ってちょうだい。悪いんだけど、荷物持ちをついでにお願いできないかしら」
「……! ――ああ、ああ、もちろんだとも」
わたしよりも度胸があり、また強かな性格でもある姉は、欲しいものがあった際には素直にその提案に乗り、浅見さんと共に出かける事をよしとしていました。ですが、わたしからすればいくら欲しいものがタダで手に入るからと言って、あのような不気味で醜い容姿の人と出かけようとは思えません。わたしは姉のあの感性を正直理解できませんでした。
「ありがとう。いつも助かってるわ」
「いいんだよ、いいんだ。引き取った以上、僕には君たちが不自由な生活をしないようにする義務があるからね。アクセサリーでも、服でも靴でも宝石でも家でも、なんでも言ってくれて構わないんだよ」
「いや、コスメと乳液切れそうだから補充したいだけなんだけど……」
とはいえ、姉は姉。わたしはわたしです。姉がよしとしている行動に対してわたしはわざわざ文句を言おうとは思いません。それに、そんな時たま発生する不気味な出来事を無視してしまえば、わたしたちは浅見さんの広い屋敷において、使用人を複数人従えて世話をしてもらえるという、両親が死ぬ以前よりもずっと良いの生活をすることが出来るようになったのです。だから、わたしは浅見さんの行動に文句をつけることはしませんでした。
「じゃあ椿。言ってくるわ」
「はい。いってらっしゃい、楓姉さん」
わたしと姉はそして浅見さんという庇護者のもと、平穏と呼べる生活を取り戻したのです。
*
「あのこ、ちょっと顔がいいからってかなり調子に乗ってない?」
「ほんとほんと。マジうざいよね」
もちろん、住居や日常生活面での不安がなくなったからと言ってそれ以外の全ての自体もすぐに元通りというわけにはいきませんでした。特に住環境が一変したことで起こった問題はいくつも起こりました。なかでもとりわけ最も大きかったのは、転校先の学校の同級生との不仲。つまりは、同じ学校にいる彼女らからの嫌がらせによるものでした。
「男連中もバカだからさー。すーぐあーいう、猫かぶって大人しくしてるの小食で小さな感じの綺麗めの悪女に騙されるのよねー」
「ほんと。内面よりも外見重視するなんて、ほんっと、浅はかよねー。あの子の腹黒い中身の事なんて知らずに、マジ馬鹿みたい」
自分で言うのもなんですが、わたしたち姉妹は十人が見れば十人は振り返るくらいには整った顔立ちをしています。スッキリと通った目鼻。切れ長で二重に伸びた瞼。エラのない骨格。全体的にシワになりにくい肉質。クセのない髪の毛。高すぎない身長に程よく大きく実った胸と腰のくびれなど、今の時代で美人と言われる人がおよそ兼ね備えている全ての性質をわたしたち姉妹は持ち合わせています。母方の血筋がそんな顔立ちの人ばかり生まれてくる家系であるらしく、浅見さんと言う例外は存在するにしろ、わたしたちの親族は大概がとても整った顔立ちをしています。死んでしまった母や、今も存命の親族達はそんな綺麗な顔立ちに生まれてくる事を利用して、ネゴシエイトやプラニングの会社を経営していたと言うくらいには、つまりはさまざまな交渉ごとにおいて美貌にて確実な優位を確保できるくらいには、わたしたちの血筋はその容姿が整っているのです。
「おーおー、性格も外見も醜いブスの僻みは見ていて気持ち悪いものですなぁ」
「なー。せめてそのデコボコのジャガイモみたいな顔と洋ナシ体系をどうにかしてから言えってんだ」
そんな美形ぞろいの親族の中でも群を抜いて目立つくらいには均整とれた顔立ちと体型をした一つ違いのわたしたち姉妹は、いつでもどこにいこうと、騒ぎを引き起こしてしまうのです。転校してきたその日など、わたしたちが転入した共学の学校はその日、お祭りみたいな騒ぎになったのを覚えています。はじめの頃は女子の声掛けのほうが多かったのですが、時が経過するにつれてその比率は逆転するようになりました。男は好意の視線と言葉を多くよせてくるようになり、それにつれて、女子の方は露骨な悪意と陰口をたくさんぶつけてくるようになっていったのです。
「おい、男子! 今お前らなんつった!?」
「デブでブスは黙ってろって言ったんだよ、この豚足デブスと寸胴貧乳コンビが!」
――また始まった
女生徒が放った陰口に対して男子生徒が反応し、わたしの擁護を勝手に始めます。こんなことがしょっちゅう続くのです。事態が繰り返されるに伴って女子から声をかけられる回数は顕著に減ってゆき、それに伴い男子がわたしを庇う回数が劇的に増加して。そしてついには、女子から飛んでくる罵声や悪口を男子が勝手に迎撃して両者が勝手に不仲になるという最悪の悪循環が出来てしまったのです。
「女の子に顔とか体系のこというなんてサイテー!」
「あんたらどんだけデリカシーがないのよ!」
「デリカシーをお前らが語るかぁ、えぇ!?」
「特大ブーメラン頭に刺さってんぞ、ばーか!」
一ヶ月もしないうちに、わたしたちはクラスの女子のみんなから無視されるようになってしまっていました。一ヶ月もしないうちに、わたしたちはクラス中の男子生徒を虜にしてしまったのです。
*
「まったく、ガキよねー、あいつら。あんたの方は、どう?」
「はぁ、まぁ。多分、姉さんと同じようなかんじなんじゃないかな、と」
「あー、もう、全く、いつものこととは言え、馬鹿馬鹿しいったりゃありゃしない」
とはいえわたしたちの容姿が整っていることでそのような騒ぎが起こるのは珍しくない事です。僻みも悪口も、妬みによる無視も、わたしたちにとっては昔から慣れたものです。持たないものが持つものに対してあれやこれやと粗探しをしてはこちら否定して必死に自己肯定をする無様に、今更思うようなことはありません。むしろそんな事でしか自己の存在価値を周囲に示す事が出来ない彼女たちの憐れさは、そうしたイジメという惨めな行為にはしって然るべき理由になるとすらわたしは思っていました。多分、姉もわたしと同じように考えていたのでしょう。だから、そんな騒動程度でわたしたちの生活が乱されると言うことはありませんでした。
「実害は?」
「多少悪口が耳障りで、連絡の不備が面倒なくらい。あとは特に……。だいたい、わたしが言う前に大抵周りの男子たちが、代わりに攻撃して追い払ってくれるから……」
女というものはどれだけ取り繕おうと、本能を優先する生き物です。故に彼女たちは、それまで自分たちの領域であった場所にわたしたち姉妹という異物が侵入してきた挙句、領域内にいるオスの興味をことごとくかっさらっていった私たちを脅威として感じ、本能的に気に食わないと判断したのでしょう。初めは友好的だった彼女たちの態度は、すぐさま無視となり、やがて陰口となり、罵声となり、私物の窃盗や連絡の不備となり、濡れ衣をきせる行為へと発展しゆき、そして攻撃はどんどん苛烈なものに変化してゆきました。
「あー、ダメね。長引くパターンだわ、それ。男子どもに迎撃をさせてるあたりが何よりの悪手だわ。椿。あんたもっと、人の思いにまっすぐ正面から立ち向かいなさいよ。他人の手に任せてばかりじゃ、あとあと面倒になるのは貴方自身なのよ」
姉はそれを真正面から叩き落とすような人でした。姉は、自身や身内の誰かが他人から嫌がらせを受けた場合、ことごとく律儀に敵対する存在へと噛み付き返し、反逆の牙を突き立てては十倍以上にしてやり返す、そんな積極的に解決に乗り出す強気な性格の馬鹿にも真正面からぶつかる律儀さを持っていました。
一方わたしは、こちらのことを悪しく言っては嫉妬をぶつけてくるだけの存在と関って気力を浪費するのなんて馬鹿らしいと思っていました。わたしに敵意をぶつけてくる彼女たちと争うためにまっすぐ立ち向かうためには、彼女たちの幼稚な精神レベルのところにまで自分を下げ、その上で彼女たちの思想や理念を理解しなければなりません。もちろんそんな真似をできなくはないですが、彼女たちはあまりの思想や行動原理は実に幼稚で、何とも野生の動物じみています。わたしはそんな人間というよりはケダモノじみた馬鹿の相手をして自分の時間を無駄にはしたくなかったのです。だからわたしは、彼女らの嫌がらせに対して無視の態度を貫いていました。だからわたしは、わたしはわたしの周りにいる男子生徒が勝手に番犬のよう彼女たちを追い払ってくれるならそれに越したことはないと思っていたのです。
「それはまぁ、そうかもしれませんが……」
おそらくはそんな男子たちによって勝手に守られ、そして無視の態度を貫いている、という状態が、彼女らの間に癇に障り、あるいは増長を呼んでしまったのでしょう。程度の低い女の嫌がらせというものは、マウンティング行為の延長線上にあります。自分の方が偉いから勘違いするなよと言う行為に対して、それを歯牙にもかけない無視の態度を取られ続ければ、その態度が猿の頃から残るメスの本能を刺激して、彼女たちの攻撃性がより増してしまう事も当然考えられる出来事でした。
「ああ言う手合いは野生の獣と同じなんだから、最初にキチッとボス猿を絞めて、どっちが上の立場なのか分からせてあげないとね!」
「はぁ」
「はぁ、ってアンタね。自分の事なんだから、もっとシャキッとなさいな!」
「はぁ、まぁ、そのうちに、ですかね」
「全く、あんたは本当に呑気なんだから。何かあってからじゃ遅いのよ?」
「姐さんが性急過ぎるだけです。それに、いくらなんでも同性同士、学校って言う男子や先生もいる場所で、彼女たちが何か起こすわけないじゃないですか」
「だといいけど」
そして、わたしたちにとっての――、いえ、特にわたしにとって取り返しもつかない事態になりかけた問題は、それからしばらくもしないうちに起きました。
*
やがて彼女らの攻撃はエスカレートしてゆきました。わたしは出会った多くの人から無視され、あるいは、ちょっとした嫌がらせを受けるようになったのです。そしてまた、その攻撃は陰湿かつ、ほかの人にはバレにくいようなものへと変化してゆきました。そして――、それは、そんなある日におきました。
「生意気なんだよ、アンタ!」
「きゃっ!」
男女混合クラスのうち、男子の全部が私の味方につき、女子の全部がわたしの敵になった頃、それは起きました。クラスの中から男子という味方を完全に失った彼女たちは、ついに直接行動を起こしたのです。クラスの女子らは、クラスの男子全員から冷たい視線と批難の言葉を向けられ続けるようになったことが耐え難かったのでしょう。
「おいおい、聞いたかよ!『きゃっ!』、だって。カマトトぶっちゃってさぁ!」
「アンタたちがこの学校きてから、がっこがつまんなくてしゃーないんだよ!」
「ほんとほんと! どいつもこいつも、楓、椿、楓、椿でさ! へ、オウムかお前らは!」
多くの場面において男子という防壁に守られているわたしが、しかしそれでも無防備にならざるを得ない場所がいくつかあります。それは男子が一歩でも足を踏み入れたのであればその時点で変態のそしりを受けるどころか、下手をすれば退学騒動にまで発展してしまう、男子禁制の女が身に纏う衣服を脱ぐ場所。すなわちわたしは、更衣室という男の目と手から隔離されたで彼女らに襲われたのです。
「や、やめてください。暴力は――」
「ウルセェ!」
「――っ!」
「はぁーあ、ほんっと、世の中ってのは不公平だねぇ! 小柄でキレイな顔! 細い腰と張りある胸! スベスベの白い肌にツヤツヤの髪! おまけに頭もよけりゃ、運動神経も悪くないときたもんだ! 持ってるやつはなんでも持ってやがる!」
「アンタがそんなだから、私たちが毎日どんだけ惨めな思いをしてると思ってんの! えぇ!?」
「そうそう! このままじゃあまりに不公平よね。だから――」
女子クラスメイトからのいじめが始まったばかりの頃は、多少体をはたかれたり、わざとものをぶつけてくるとか、陰口、ものを隠される程度ですんでいたのですが、その日は違っていました。
「っ、ひ……、痛ぅ!」
ピリッとしたかと思うと、次の瞬間にはつぅ、と肌を液体が流れて行く感覚。地面に落ちた新鮮な赤色をした半球を見た途端、わたしは自分の身に何が起きたのかを理解しました。そしてわたしは、怒りと憎悪に震える彼女らの手によって、わたしの服は破かれ、痣になるような打撲を加えられ、持っていた化粧用具やその辺に落ちていた文具などで、皮膚を鋭く引き裂くような怪我を負わせられました。傷口から流れ落ちた血が地面を鮮やかな赤に染めてゆきます。出血は派手ではありませんでしたが、わたしは随分と深い傷を負ってしまったようだと、青ざめました。
「多少痛めつけた程度じゃ、美人さを引き立てるアクセントにしかならないってか? ――馬鹿にしやがって!」
しかしそれは、彼女たちから余計に怒りを引き出すものにしかなりませんでした。
「や、やめ、やめてください! ――イヤッ、誰か、誰か助けて……っ!l
無論、私は抵抗しましたし、助けを求めて悲鳴もあげました。ですがわたしたちが着替えに使用していた女子更衣室は、私のクラスがある校舎と渡り廊下一つ離れた部活棟の人目のつかない場所にあります。校舎一つ挟んで反対側にある男子たちの耳にまでわたしの悲鳴が聞こえる可能性は限りなくゼロに近い。
「無駄だよここは部活棟の端っこで、学校の端っこだ」
「そしてここは女子更衣室。あんたの取り巻きがどれほど多かろうが、あいつらにこれるような場所じゃあない」
「裏は山だし、だからこそ女用の更衣室を建てたんだろうが、流石のお利口さんもこんな時までは頭が回らないか」
「ひ、ひっ……」
「ま、別にそこまで酷いことをしようってわけじゃあない。ただ、調子に乗ってるにアンタにちょっとばかし消えない傷を負ってもらわないと、私たちの気が治らないんでね」
「や、やめて!」
迫ってくるのは、どこにでもある、髪を軽く整える時に使うタイプのギザギザスリットのハサミ。それが、数人がかりで押さえつけられ動けないわたしの胴体に近づいてきます。
「安心しなって。顔はやらないよ。ま、アンタはちょっとばかし転げて、運悪くその拍子にカミソリとハサミが刺さって、お綺麗なお腹や胸に数本の醜い傷跡が残るだけなんだから」
「いや! 離して!」
銀色に鈍く光る尖った先端がこんなにも怖く感じたことはありません。皮膚を冷たい金属が裂くたび、心までもがそれ以上に傷ついていました。どうすればいいかわからず、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていきます。眼窩より次から次へと噴出するそれらは、しかし彼女たちの行為をやめさせるどころか過熱させる材料となり、銀の棘が幾度も振り回され、纏った服を裂き、肌着を裂き、肌を切り裂いてゆきました。
「い、いやぁ!」
「ムカつくんだよ! そんなになってもお上品とか、私たちを馬鹿にしてんのか!」
わたしの胸の底から生まれてくる恐怖と痛みに対して行う反応が、ますます彼女たちを不機嫌にさせてしまいます。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはまさにこの事なのってしょう。彼女らの行為はさらにエスカレートしてゆきました。髪はざんばらに刻まれ、肌には次々と醜い傷跡が増え、恐怖が心に蓄積されてゆきます。彼女たちはまさに獣でした。彼女たちはその知能が、自らの縄張りに侵入した異物を排除するためならまるで躊躇わないメス猿と同じくらいに退行していたのです。
「うぜぇ。なぁ、おい、やっぱ、お前、ダメだわ。ちょっと、生意気すぎ」
「やっぱその綺麗な顔ダメにしないとダメだわ。おい、ちょっとカミソリこっち貸して」
「――や」
やがて銀の刃が私の体に取り返しのつかない傷を残しそうになったその時。
「何をしている!」
よく通る声とともに堅牢な守りを保っていた扉が開かれました。その人は今まさに振り下ろされようとする刃の停止を懇願してあげた私の悲鳴を聞きつけてやってきたのです。強いに日差しを背に現れたその人の顔を、はじめのうちわたしは見ることがかないませんでした。ですがその人がやがてわたしに近づいてきてくれた時、わたしはその人の顔を見る機会を得ることが出来ました。その人は私たち姉妹に負けず劣らずして整った容姿の男の人でした。わたしは、一度壇上に上がるその人のことを全校集会のときに見かけた記憶がありました。その人は姉と同じクラスの上級生の人でした。その人は先生に言われて次の授業の道具を取るためにこの部活棟へやってきていたところ、私の悲鳴と周囲の囃し立てる声が響く様子を聞きつけ、不審に思ったそうです。そして気は引けるものの、中の様子に対して外から聞き耳をたてて聞いていたところ、部屋の中がただならぬ状況であることを認識し、あらゆる誹りを受ける覚悟で肌着だらけの女子生徒がいるこの場所へと突入してきたというのです。
「――ちょ、おま、なに勝手に入ってきてんのさ、この痴漢!」
「変態! ぜってー訴えてやる!」
「黙れ、クズども! これは立派な傷害だ! 何より大勢で一人をいたぶるなんて、卑怯にもほどがある! 恥を知れ! ――――――大丈夫か? 悪い。勝手にさわるぞ」
「え――、きゃ!」
私の周りにいる彼女たちは当然彼のことを責め立てました。しかしその人は部屋の中心にいた服や肌着を破られ、身体中から血を流し、痣ができていたわたしを見つけた瞬間、誹謗中傷を物ともせずに彼女らを一括してその場を鎮めると、彼女らを押しのけて私の前までやってきてわたしを抱え込み、そうして気をやられた彼女らを置いて私を保健室へと連れていってくれたのです。わたしはそして地獄のような場所から救い出されました。それはわたしにとって夢のような瞬間とひと時でした。
*
「おいおい、聞いたか、あの噂」
「おう。ついにやらかしたらしいな、あいつら」
その後、学校はちょっとした騒ぎになりました。わたしたちのクラスの女子生徒たちは女教師の方々の手によって少しの間更衣室へと閉じ込められました。その際、わたしのクラスの女生徒たちは、ほとんどが彼を変態であると非難し、先生などに抗議して彼に罰則を与えるか、退学させるよう迫りましたが、先生たちはそれを取り合いませんでした。
「おまえら、なにをしたかわかっているのか!」
「ちょ、せんせー、あたしらの話も――」
「事情はすでに把握している! 今更馬鹿どもの頭の悪い言い訳なぞ聞く耳もたんわ、このクソ餓鬼どもが!」
先生たちは、わたしが彼の手によって保健室に運ばれたそのすぐ直後に事態を把握していたのです。先生たちが事態を把握していたのは、わたしが保健室に運ばれたその時点でどうしてこのような傷をおったのかを保健の先生に話し、深刻を悟った保健の先生がすぐさま担任に連絡を取ったからでした。保健の先生からの報告に慌てたわたしの担任の先生は、すぐさま手の空いている周囲の女教師と男性職員に協力を頼んでわたしを傷つけた彼女らを更衣室へと軟禁し、その間にわたしのクラスの男子生徒から事情聴取を行ったそうです。
「いつかはやると思ってました」
「あいつらの態度、あまりに露骨だったもんな」
担任の先生は、クラスの男子たちから、わたしが彼女たちからこれまでにどのような仕打ちを受けてきたのかを聞いたといっていました。担任の先生はまた、協力を頼んだ女教師から、わたしが男子たちを誑かして自分たちを虐めさせたといっていたと言っていました。彼女たちはまた、自分たちの無罪を主張し、わたしの傷は自演によるものであり、それを止めようとしたところ、あのうざったい痴漢の男子が乱入してきてしまったせいで事態が大きくなってしまったのだ。むしろ私たちは被害者で、わたしと、女子更衣室に乱入しきてきた男子生徒を加害者として裁くべきだと主張していると言っていました。
その言葉を聞いた途端、わたしは頭が沸騰してしまいそうでした。わたしはそして、なにかを叫びまくりました。何を言ったのかは覚えていません。彼女たちに怒りを覚えて何かはしたないことを叫んだのだろう事だけは記憶にありますが、わたしは怒りのあまり、何をいったのかをまるきり忘れてしまっていたのです。ですが、その時わたしが放った言葉と、周りの男子たちの証言が決定的なものとなったらしく、わたしを助けた彼がお咎めを受けることはありませんでした。そしてむしろそんな事件を起こした彼女らにこそ、裁きの鉄槌が下りました。彼女たちは学校側から保護観察の処分を受け、次の日には学校が作った特別クラスへと編入されてしまったのです。
「いや、すまないね。こちらの言い分を飲んでもらって」
「いえ……、私も、もっと早くに相談するべきでしたから」
それはそこそこ古い歴史を持つ学校の記録紐解いても一切事例にない、あまりにも特別すぎる対応でした。それは、事態を表沙汰にして騒ぎを大きくしたくない校長の思惑と、事態を大きくされて生活を乱されたくない私の思惑が一致したが故の出来事でのようでした。
「ちょっと、椿! あんた、正気なの!?」
話を聞いた姉はそれに怒り狂って事件をもみ消す様な真似をするなんてとんでもないなんていっていました。姉はわたしと違って、白黒はっきり決着をつけないと気が済まないような人だったから、それは当然の怒りといえました。
「ええ。私としては、両親が死んでまだ心の整理もし終えていないこの時期に、他の問題を心に抱える余裕はありませんから、これでいいんです」
「そう……、そうね。そうかも知れないわね」
ですが、姉は同時に、他の人の言い分を聞いて理があると感じたのならば、他の人の意見を採用する様な分別を持った人でもありました。だからこそ姉は、親が死んですぐのこの状況において最後には騒ぎを大きくしたくないというわたしの言い分を聞きいれてくれたのです。
「いや、本当に助かるよ」
「もういいんです。――それより、先生。私を助けてくれたあの人は誰なんでしょうか?」
校長は事件を表沙汰にしなくていいといった私にひどく感謝していました。ですが、わたしそんなことはわたしにとってすでにどうでも良いことでした。その時、わたしの関心は、わたしをいじめていた彼女たちよりも、短くなってしまったわたしの髪よりも、わたしの体に出来たいくつもの傷よりも、わたしの怪我の手当てをしてくれた保健師の先生よりも、わたしのためにすぐに動いてくれた先生方よりも、わたしに有利な情報を渡してくれた同じクラスの男子生徒たちよりも、わたしに礼を言う校長よりも、わたしのために怒ってくれた姉よりも、わたしが心底恐れたあの時、わたしのことをそんな恐ろしい場所から颯爽と助け出してくれたあの人のことで頭がいっぱいでした。
「あ、ああ、彼か。彼の名前は秋海正義。君のお姉さんと同じクラスの男の子だよ」
「秋海、正義……」
「品行方正で人望厚く、弓道部では主将を務めていたはずだ」
「そうですか」
そうです。わたしはその時から、あのわたしを助け出してくれた先輩に恋をしてしまったのです。次の日からわたしは、頭の中があの人のことでいっぱいになるようになりました。わたしはそしてすぐさま同じクラスの男子生徒や姉からその人のことを聞き出し、そしてその人が所属するという弓道部に入部しました。
「――先輩」
「……あれ? 確か君は――」
わたしはそして学校生活での平穏を手に入れると同時に、わたしにとって憧れの存在を手に入れたのです。わたしはそれから幸せな日々を過ごすことが出来たのです。
*
「――あれ、先輩?」
「や、やぁ、椿ちゃん。こんにちは」
そんな幸福の日々にわずかな亀裂が入ったのは、私たちが浅見さんの家で暮らすようになってから一年ほどたった冬のある日のことでした。
「え、あれ、――なんで?」
「えっと……」
「私が連れてきたのよ、椿」
その日、三日三晩続けての働きを二度も繰り返した憎らしい雨雲は消え去り、冬の寒空は嘘のように晴れ渡っていました。雲の支えを失って今にも落ちてきそうな空に浮かぶ太陽に負けないくらい晴れ晴れとした笑みを浮かべた姉は、私の一つ違いのその先輩を連れて我が家へとやってきたのです。
「楓姉さんが?」
「そ。ちょっと、浅見さんに報告しときたいことがあってね」
姉がその言葉を口にした直後、先輩は照れたような顔を見せ、瞬間、わたしの胸は大きく高鳴りました。しかし同時に、わたしは彼の態度に、背筋に寒いものが走る感覚を覚えました。わたしは先輩に憧れていました。もっとはっきりというと、恋をしていました。好意を抱いていました。いつもはのほほんとしているくせに、いざとなれば何でもできないことはないようなそんな先輩のことが好きでたまりませんでした。私がそれまでまるで興味のなかったその部活を選んだのも、そんな先輩がいるからでした。わたしのそれは、彼に対する愛といっても過言ではなかったでしょう。わたしは、消しゴムに先輩の名前を書いて使い切ろうとするくらいには、枕に名前を書いた紙を潜ませるくらいには、いつか白馬に乗ってわたしの家に私を迎えに来てくれることを願うくらいには、少なくともその先輩に懸想していました。
「浅見さんに……、先輩と?」
「ええ」
いつかはその人を私の家に招き、あわよくばもっと深い仲になりたい。などと考えていたそんな折にその人が突如としてわたしの家にやってきたわけですから、その時のわたしの内心の喜びと言ったらありませんでしたし、実際、小躍りしたくなるような気分を必死で抑えながら平静の態度を保ち、憧れの先輩を出迎えたのです。そしてだからこそわたしは、姉の言葉によって顔を赤らめたり、そわそわと落ち着かない態度をとる先輩の態度に、これまでにないくらいの嫌な予感を覚えたのです。
「私、こいつと結婚するから」
「え……、は?」
次の瞬間、わたしの予感と悪寒は、間違っていなかった事を知りました。姉さんのよく通る声が屋敷の中に響き渡ります。凛として涼やかな声の残響が頭の中で何度もこだましていました。
――結婚する? 誰と? 誰が? 姉さんと、先輩が?
「だから、こいつは私の彼氏で、私は将来、こいつと結婚するつもりなの。だから、それをお世話になってる親代わりの浅見さんに報告するため、こいつを連れてきたの」
姉は珍しく耳まで真っ赤にしてそんな宣言をしました。姉が嘘や騙りを嫌う人物であることは、妹のわたしが誰より知っています。何より、姉の言葉を聞いて先輩がそれを拒絶や否定することなく照れた顔をしてみせたのが決定打でした。わたしの家に訪ねてきた先輩は、わたしの姉との結婚の許しを姉の保護者である浅見さんから得るために、わたしの家に訪ねてきたのです。その日、わたしは秘していた願いがかなうと同時に、秘していた思いが破れ去るという体験をしたのです。わたしは姉の言っていることを理解できず、瞬間的に呆けてしましました。いえ、わたしは姉の理解できなかったのではありません。わたしは姉の言葉を理解したくなかったのです。現実が逃避を試みる私の魂の首根っこを捕まえて意識が体へと戻ってきた瞬間、わたしは目の前が暗くなったかのような気分になりました。
わたしは自分の恋が敗れ去ったことを知りました。それを先輩の嬉しそうな表情から悟ってしまいました。強く、悔しい、と思うと同時に、しかしわたしは同時に、心のどこかで、先輩がそんな嬉しそうな笑顔を浮かべるなら、わたしの勝負の相手が姉という存在であるならしょうがないか、と、心のどこか納得してしまっていて。
「――おめでとうございます。姉さん、先輩」
気付けばそんな祝福の言葉が口から出ていました。
「ん、どーも」
「えっと……、ありがとう」
なぜならわたしと一つしか違わないわたしの姉は、しかしわたしと違って、とても立派で、自分を律して、自分の意見をきちんと表にして、困難に真正面からぶつかっていくことのできる、とても強い人だからです。姉は、嫌な奴ばかりいる親族の会合でひるんで内心の言葉を出せなくなるわたしと違って、思ったことを思ったように言って反論し、嫌な相手の敵意を真正面からたたきつぶすような人でした。わたしは先輩に好意を抱いていたのと同じくらいに姉のことを尊敬していました。わたしは先輩を愛しているのと同じくらいには、姉を愛していました。
「式は何時頃の予定ですか?」
「卒業したらすぐによ」
「誰を呼ぶおつもりで?」
「浅見さんと、親しい友達と――親族。嫌だけどお義理でも呼ばなきゃならないからね。っと、その前に婚約の報告の顔合わせもしなくちゃいけないから、そっちの方が面倒ね……」
だから、わたしはそんな姉に先輩が惹かれたのも無理ないことだと思っていました。また、そしてそんな先輩と姉がくっつくことで同時に幸せになれるというのであれば、そんな未来も悪くないなと思っていました。
「あんたも覚悟しておいてちょうだいよ。私の親戚は、親戚の私がいうのもなんだけど、だいぶ癖が強いのが揃ってるから」
「はは、そうだね。覚悟しておこう」
無論それは、ともすれば恋に破れ愛の願いが通じなかった絶望に浸ってしまいそうになるわたし自身を慰めるための思いでした。わたしは出来ることなら今すぐ二人の仲を引き裂き、先輩をわたしのものにしたかった。でもわたしは、幼い頃からわたしのことを守り続けてくれた姉のことを、あの日あの時、誰も助けてくれなかったはずの場面でそれでもやってきてくれた先輩のことを、そんな二人のことを心底愛していました。
「とにかく、おめでとうございます。姉さん。――先輩」
わたしの祝福の言葉を、姉と先輩は視線を交わし合って喜び、二人は正面から抱き合いました。交際をわたしというこれから家族になる存在に認められたことが嬉しかったのでしょう。二人はまさに幸せの絶頂にいるようでした。わたしは、わたしに助けの手を差し伸べてくれた二人が、わたしの言葉でそんな表情を浮かべたという事実に、これまでにないくらいの幸福感を覚えました。わたしは、心底、心の底から二人のことを愛していたのです。だからわたしは、二人が結婚するということを、わずかならない心の痛みと悔しさを抱きながらも、それでも本心からその二人の未来を祝福しようと決心したのです。わたしはそして、恋した人を失う代わりに、愛していた人を義兄として得るという選択を選んだのです。
*
陽がとっぷりと沈み、月が空の半分ほども歩を進めた頃、背広を汗でぐしょぐしょに湿らせながら、浅見さんは帰ってきました。その日、夜空では煌々と月が輝いていました。玄関の窓から飛び込んでくるほのかな明かりにドレスアップさせられた浅見さんは、しかし相変わらず変質者以外の何者にも見えませんでした。わたしは瞬間的に、この人ならば姉と先輩の結婚に反対してくれるのではないかと考え――
「そうかそうか、それはおめでとう!」
しかし、そんな浅はかな浅ましい想いは棘の一切ない浅見さんの言葉によって千切れて消えてゆきました。世間には、『高校生の分際で婚約など!』、なんていう人が多いかもしれません。ですが浅見さんは、青空に浮かぶ太陽のように直視に耐えない笑顔を浮かべると、先輩をあっさりと受け入れました。一瞬、裏があるのでは、というわたしの邪推とは裏腹に、浅見さんは必要とあらば自分はこの家から出て行くからいつでも言ってくれなどとまで宣言し、姉と先輩を困らせるくらいには婚約のことを歓迎していました。姉と先輩は苦笑いをしながら浅見さんにどうかこれからも末永くこの家の主人であってくれと告げ、その上で先輩たちは、先輩がこの屋敷に住処を移すことを許容してほしいと浅見さんに頭を下げました。浅見さんは二つ返事でそれを承知し、晴れて先輩はその日から我が家にやがて終の住処となる自室を持つようになったのです。幸いにして空き部屋数が軽く二十はあるような広い家において、義兄となった先輩の暮らす部屋に困ることはありませんでした。
「すみません……、何から何までお世話になってしまって……」
「気にすることはない。君はもう楓くんの夫であり、私たちの家族なんだ。家族が家族を助けるのは当然のこと。君は何も気にすることなく、堂々としていればよろしい」
「……ありがとうございます、浅見さん」
そして先輩は浅見さんに対して、経緯の態度で接する様になりました。そして二人は高校を卒業するとすぐに婚姻届を役所に提出し、浅見さんの家で暮らすようになったのです。二人は大学に行かない代わり、私たちの父母がかつてやっていた、今は浅見さんがそのあとを継いでいたという事業を引き継ぐことになりました。夫婦となった二人は力を合わせて夜遅くまで働いて、くたくたになって家に帰ってくるようになりました。当時まだ学校に通っていた私が部活を終えて帰ってくると、たいてい二人はリビングでぐったりしていました。しかしそうして疲労をため込んでいる二人は、私が帰宅したことに気が付くと、疲れた顔に花を咲かせて、私に話しかけてきてくれるのです。
学校という不毛さと無意味さばかりが蔓延している場所にくらべて、そこは天国の様なところでした。帰ってくれば、日が終わる前まであの二人と話に興じることが出来る。そしてわたしは、使用人の人たちが入れてくれた紅茶に舌鼓を打ちながら、好きな人たちとの会話を楽しむことが出来たのです。それは私の一日の疲労を即座にふっとばしてくれる活力剤でした。それは時たま早く帰ってくる醜い浅見さんが会話に混ざってくる苦痛も気にならないくらいの、幸せな時間だったのです。
幸せな時間の共有はわたしが高校を卒業してからも続き、やがてわたしが二人の手伝いをするようになってからも続きました。わたしの両親の事業を完全に引き継いだ二人は、文句の出ないくらいの立派な結果を出していました。親族たちははじめ、素人二人が歴史ある事業にうんたらかんたらと文句たらたらでありましたが、二人は必死に働き、そして出した成果で親族たちの文句を完全に封殺してしまいました。わたしは二人の事務手伝いをするので精一杯だったので、当時はまだ素人に過ぎなかった彼らがどの様な手段を用いてそんな結果を出したのかは知りませんでした。たとえ知ったとしても、その時のわたしにはわからなかったことでしょう。ですがどうやら二人のそんな活躍は、浅見さんが二人を強力にサポートした結果であるようでした。
浅見さんはほんとうにわからない人でした。後からやってきた自分よりも優れた人に、なんの悪意も怨念の感情もなく、自分がこれまでに築き上げてきた成果を渡してしまうのです。醜い浅見さんが見せるそんな献身は、わたしにとって信じられないものでした。わたしにとって容姿が醜いということは、すなわち心が醜いということと同義です。献身や勇気といった美しい精神は、美しい肉体を持つ人間からしか生まれない。だって、実際、わたしを助けてくれた先輩や姉は美しく、学生時代にわたしを傷つけようとした女たちや、会合の際、わたしたちに酷い言葉を投げかける親族たちはわたしよりも劣った醜い容姿をしていたのですから、この考えは間違っていないはずなのです。
ですがだとしたら、わたしが見た中でも最も醜い容姿をした浅見さんは、何故こうも、何も求めることなく、わたしや姉たちに献身的な態度を取れるのでしょう。わたしにはそれがどうしても理解できませんでした。浅見さんは、わたしの常識からどこまでも外れた人です。わたしは浅見さんを理解できませんでした。そしてわたしは浅見さんが理解できないままに時は流れてゆき――
*
やがてわたしが学校を卒業してから一年ほどが過ぎました。その日、冬には地上を銀か水色にばかり染め上げる雲が漂ってばかりいるこの地方にしては珍しく空は晴れ渡っていました。しかしながら、同時に山の稜線の向こう側からは鉛色の雲霞が徐々にその姿を見せ始めていて、遠くないうちに気を重くする材料が押し寄せてくるだろう空気もまた、かつていつかわたしが両親を失ったあの日のように、空を漂いはじめていました。そんな薄暗い予感を現実とするかのように――――――、家で二人を待っていた私のもと、やがて病院から一報が届きました。それは姉が事故にあったという報告でした。その日は大雨の日でした。太く長い縄のような雨が、空から地に向けて幾万条も垂らされていました。それはまるで滂沱の涙のようでもありました。
滝のような雨の中をタクシーに無理を言って突っ切ってもらい、そしてわたしが慌てて病院に駆けつけると、白い布を被った姉の体に義兄が抱き着いて泣きじゃくっていました。姉は衝突事故に巻き込まれ、運悪くこの世から去ってしまいました。義兄は世界に絶望したことを隠そうともせずの、ただひたすら声を上げて泣いていました。義兄が抱きつく姉の遺骸は事故で体の一部が吹き飛んだという報告が嘘であると思えるくらい整っていました。だからでしょう、わたしは、これはドッキリで、どこからかプラカードを持った浅見さんが飛び出してくるんじゃないかとすら考えてしまいました。ですが、わたしのそんな思いとは裏腹に、浅見さんは一向に飛び出てきてくれません。離れの霊安室には兄の鳴き声だけが虚しく残響していました。義兄の目から落ちる涙は、とめどなく姉の遺骸を覆う布を濡らしてゆきます。義兄はまるで、布を涙で濡らしきれば死んだ姉が蘇ると信じているかのように、絶えることなく涙を流し続けていました。外からは義兄に負けないくらいの雨音が部屋の中に飛び込んできています。二つの音はまるで楽器のように共鳴しあい、世界を悲しみの音で見たし続けていました。夜が近いこともあってか世界はさらに薄暗い状態へと変貌してゆきます。わたしは混乱していました。わたしには信じられませんでした。ですが、目の前の姉の遺骸が、今のこの出来事がどうしようもなく現実であることを、わたしに突きつけてきます。そしてわたしの世界は、その日から確実に壊れていったのです。
姉の遺骸はやがて数日もしないうちに荼毘へ付されました。天は憎らしいくらいの青空を用意して、空に浮かんでいった姉の残骸を迎え入れました。姉を天に奪われた義兄は、その日から壊れたようになりました。仕事に打ち込んだかと思えば、帰ってきては姉の部屋のベッドで疲れて眠ってしまうまで泣きわめきを繰り返し、それでも朝になると、幽鬼のような顔を浮かべたまま、出勤します。かとおもえば完全に無言となっては数日もの間、姉の部屋に入り浸るのです。
義兄はわたし以上に崩壊していました。見ていられない、と思いました。それがあまりに辛くて、いやいやもう一人の住人である浅見さんにそのことを相談したこともあります。ですが浅見さんは、姉が死んでからその分の仕事が忙しいから相手をしていられない、とそっけなく言って、兄のことを気にかけようとはしませんでした。わたしはこの醜い容貌をした浅見さんのことを、その外面どおり醜い心の持ち主だ、ようやく尻尾を現したな、と思って、更に嫌いになっていっていました。
わたしはそして決心しました。わたししかいない。わたしがなんとかするしかない。義兄を元気にできるのは、わたし以外にいないと思うようになりました。わたしは手を尽くしてなんとか義兄を立ち直ってもらおうと、おいしいものを食べにいこうと誘い、連れ出して、気晴らしにとあちらこちらに連れ出します。しかし義兄は全く反応してくれません。優しい義兄はその時付き合ってくれるし、そうしたときには無理矢理作り出したはかない笑みを浮かべて見せてくれるのですが、その時だけなのです。そして帰ってきた後、義兄はやはりいつものように姉の部屋にこもっては、さめざめと泣くのです。
義兄はまるで嵐のようでした。もはや義兄は誰かの手に負えるような存在ではなくなっていたのです。義兄は胸のうちから溢れ出てくるエネルギーを悲鳴と涙に変換し、そのまま世界に撒き散らすだけの存在になっていました。わたしは困っていました。わたしは焦っていました。その年は秋雨が長く続き、空は鬱陶しいくらいに雨雲が浮かび続けていました。あれほど美しかったはずの世界がこうも醜く見える事に、わたしはたいそう驚きました。雨は義兄が流した涙かと思うくらい降り注ぎ、大地は姉の死を悼むかのように清廉な大地でそれを受け止め続けていました。
晴れ空が見えない憂鬱を反映したかのように、義兄は落ち込み続けていました。何をしても義兄がよくならないという状態に、不安がわき出てくるのをおさえられませんでした。焦ったわたしの足は答えを求めて、自然と義兄が最も入り浸っている部屋へと向かっていました。そしてわたしは義兄が姉の部屋から抜け出してふらふらと会社に向かっている間、何を思ったのか、亡くなった姉の服を着てしまったのです。それは本当に何の意識もない行動でした。わたしはいつも義兄が入り浸るこの部屋を、義兄がいない間に掃除しています。だからこそその時、部屋に散らかっていた、ふと義兄が箪笥から取り出したのだろう姉が生前よくこのんでいた服が目に入り――
「あ、着られるな」
と、そうおもって、姉の服を着てみただけなのです。そして服は、思った通りにわたしの体を着飾りました。それは本当に、なんの思惑もない、わたしにとって何の気ない行動でした。しかし――
「――楓」
わたしが意識もせずにした行動の結果は、直後に帰ってきた義兄にとってはあまりに鮮烈なものとして映ったようでした。
「え?」
戸惑う間も無く、わたしはベッドへと押し倒されていました。
「楓!」
背中に感じる羽毛布団の柔らかな感触。何処から発せられているのかと思うほどの力で、握りしめられた両手の痛みと、身を焦がすほどに火照った胴体から伝わってくる体温。顔を撫でてゆく手のひらから伝わってくる微熱。そして。
「楓」
耳元から聞こえてくる荒々しい呼吸の音が、姉の名を呼ぶその声が、自分の身に何が起こったのかを理解させました。わたしは、義兄に、押し倒された。それを理解した瞬間、恐ろしいほどの快楽が脳裏に走りました。腹の下がこれ以上にないくらい熱を帯びていました。馬鹿な女、浅ましい女、と蔑んでください。その時わたしの心に押し寄せてきたのは、恐怖や戸惑いなどの負の感情ではなく、これ以上にないくらいの喜びでした。
「あ……」
義兄がわたしのことをこうしてベッドに抑え付けているのは、間違いなくわたしが纏っているこの服のせいだろうことを、わたしの理性は理解していました。わたしは姉の代理品として、義兄に求められたに過ぎないのです。しかし、あの兄が。つい昨日まで幽鬼のようになってしまったあの兄が、どこに秘めていたのかと思うほど力強く、わたしのことを求めてきてくれる。あの、かつて恋していた、今も愛している兄が、わたしのことをこんなにも必死に求めてきてくれている。それがうれしくて、わたしは、あらゆる事情を彼方へと押しやり、現実目の前にいる義兄から伝わってくる体温と荒々しい感情の発露を喜んだのです。
「義兄、さん……」
そしてわたしは体から力を抜きました。いえそれどころか、その重みを受け入れようと体を動かしたのです。そうです。わたしはその時、姉の事も義兄の苦しみも端へと追いやり、自分のことを最優先にしたのです。義兄の行動が一体いかなる感情と思惑によって引き起こされたのかを知りながら、わたしはそれを受け入れようとしたのです。いえ、それどころか、あまつさえは、そんな過ちを進んで行わせようとしたのです。これを浅ましいといわずしてなんと呼べばよいのでしょうか。まさに愚行です。しかしわたしはそんな愚かで浅ましい行為を、しかし喜んでやろうとするようなそういう女でした。胸はこれ以上ないほどに高鳴っています。そこはまるで天国のようでした。月明かりがわたしたちに降り注いでいました。世界がこうも美しく見えたのは、先輩に助けられたあの時以来のことでした。わたしは綺麗な外見とは裏腹に、醜い内面の女であることを、その時初めて自覚したのです。
*
窓から飛び込んでくる月の光が相変わらず二人を照らしあげていました。月の光は人を狂わせる魔性を秘めているとよく言われます。ですが同時に、月の光は狂気に陥った人を正気に戻す特効薬でもあるのです。
「あ、わ、悪い……」
煌々と輝く月の光を浴び続けていた義兄はその後すぐに元の聡明さと正気を取り戻したため、わたしの望んだ過ちが起こることはありませんでした。窓から飛び込んでゆく月明かりが失せてゆきます。見れば暗雲が空を覆い始めていました。
「いえ……」
闇と冷静さの静寂を取り戻した部屋の中、わたしはどこかほっとする反面、心底残念に思っていました。なんなら、引き返しのつかないところまで突き進んでから正気を取り戻して欲しかったとすら思っていました。しかし、すぐにそんな浅ましい考えを抱いたことを後悔しました。そんなわたしが考えなしにしてしまった行いが、そんなわたしが進んで行わせようとした過ちが、いまだに姉を愛している義兄のことをひどく傷つけてしまったことを、わたしはわたしの上からどいた義兄が浮かべる顔によって悟ったからです。
「本当に、ごめん……、――――――椿ちゃん」
「いえ――――――、気にしないでください、正義さん」
闇のしじまの中で、義兄は間違いなく心底絶望していました。おそらくは、わたしに姉の面影を見て襲いかけてしまったという事実に、自分がそんな過ちを犯しそうになったという事実以上にやはりこの世に姉はもういないのだという事実を再確認してしまった事に、あの優しい義兄はひどく傷ついていました。義兄は「すまない」と一言告げると、真っ青な顔をしたまま、わたしをその場へと置いて、ふらふらと姉の部屋から去っていきました。義兄はそしてその日、姉が死んで以降初めて自分の足で自分の部屋へと戻り、自らのベッドの上でその身を休めたのです。わたしはそれを見て、多くの罪悪感を抱きながら、しかし、安堵の気持ちも同時に抱いていました。これが義兄が姉のことを吹っ切る切っ掛けになったかもしれないと思ったのです。
「正義さん……」
今考えればそんなとてもわたしにとって都合のいい考えは、心の奥底で、義兄が姉の代わりにわたしを求めてくれるようになるかもしれないという浅ましい期待が生み出したものだったのであよう。かつて焦がれるほどに欲していた、しかし手に入らなかったものがすぐそこにある。今、義兄は揺れている。罪悪感につけこめば、すぐさま義兄は、義兄ではなくわたしの夫となりえるだろう。そんな言葉が頭の中で繰り返されます。わたしたっぷり数日もの間、そんな悪魔の誘惑と戦い続けました。それからずっと、空は暗雲で覆われていました。やがて三日三晩が二度も続いたある日、空を覆い尽くしていた雲は急遽いずこかへと消え去り、そして。
わたしのそんな期待とは裏腹、義兄は追うようにして姉の元へと旅立ちました。
*
義兄が死んでからというもの、わたしはしばらくの間、何をして過ごしていたのかわかりませんでした。たぶん、ほとんどの間をだれもいない家で過ごしては、生き延びるために食料を買い込んで、そしてまた、引きこもっていたのでしょう。薄情な浅見さんは姉が死んだ日からほとんど帰らず会社にこもりきりで、顔を合わせることなんてありません。私の世界はそして、完全に外界と隔離されてしまいました。
わたしはそして初めて義兄の抱いていた絶望を知ることができてしまいました。胸にぽっかりと空いてしまった空白。今まで当然あったものが急に抜け落ちてしまったという虚無感。抜け落ちてしまったものを埋める手段がもはやないのだという絶望。日に日に大きくなってゆく心の穴。何かをしようとは思う事があっても、そうして代償行動としてやった何かでは出来た穴が埋まることなんてなく、徒労感が穴の大きさをさらに大きなものとしてしまうのです。まるで虚無の檻に閉じ込められたようでした。味なんてものはわかりません。臭いももう気にならなくなっていました。目を覚ませば浮かぶのは幸せだったころの記憶ばかりで、目をつぶればそんな幸せだったころの記憶が目に浮かんでくるのに、しかし、目を開けた時、もはやそんな記憶は二度と更新できないのだという絶望ばかりが浮かんでくるのです。世界にもはや色なんて存在していませんでした。記憶に残る彼らを感じさせる色と接触するたび、かつての義兄と姉の残滓が思い起こされて、現実が辛くなる。だからわたしはきっと色を感じる機能を捨ててしまったのでしょう。色褪せた世界はこんなにも醜く、無気力さで満ちている。灰色の世界にはわたしの絶望だけが広がっていました。とてもではありませんが、積極的に何かをするなんてことは不可能でした。愚かなわたしは、想像力のなかったわたしは、そうして義兄と同じ立場になって初めてやっと、義兄が味わった苦しさを想像することが出来るようになったのです。
わたしは、あの日どれだけわたしの軽率が義兄を傷つけたのかを知りました。屋敷にあるすべてのものに義兄との思い出が詰まっています。一つ一つをとってみれば鮮やかに蘇ってくるその思い出が、しかし再現されるその日は二度とやってこないのです。そんなもの。出来ることならすべて消し去ってしまいたい。けれどそれをやってしまうと、義兄の生きた証がこの世から消え失せていってしまう。結局できるのは、失われた未来を思い、泣くことだけ。だからこそあの日、義兄はそうして失せたはずの未来が目の前に現れた奇跡を目撃して、二度と離すまいと強く抱きしめた。今度こそ二度と離すものかと、自分のすべてを使って世界に引き止めようとした。
しかしそれは違うものだった。腕の中に収まったものは求めていたものではなく、求めていたものとよく似ているだけの別の存在だった。兄はそして、天国から地獄へと叩き落とされた。落差があるほどに、傷はより深くなる。身を投げ出してでも手に入れたいと願い、そしてその手の中に収まったものはしかし、よく似ただけの偽物だった。義兄の世界はそこで再び色を失った。失った時と命は決してこの世界に戻らないのだという現実を、そして義兄はまじまじと見せつけられたのでしょう。
永遠の欠落。戻らぬ幸福の時。愛した人がいない世界はこんなにも褪せている。世界にはもはやなんの価値も残っていない。自分にはもう、なんの価値も残されていない。世界にあるものすべてが自分を苛み、心を荒ませる。太陽と月はもう二度と自分の世界を祝福しないのだと、義兄は心底確信させられた。
目の前にある世界は地獄に他ならなかった。義兄をそんな世界へと突き落としたのは、わたしだった。わたしの醜さが、義兄というまだ天国と地獄の狭間で喘いでいた人にトドメを刺してしまったのだ。わたしは義兄の世界を打ち壊し、そしてわたしによって世界を壊された義兄は、意趣返しと言わんばかりに、わたしの世界から根こそぎ全てを奪い去っていった。
無論、あの義兄にそんな醜い意図があったわけではない事を、わたしは重々承知しています。ですが、心の奥深くにまで根付いていた義兄という存在を無理やり奪われたわたしは、当然のように心に深い傷を負うこととなりました。そしてわたしは家に引きこもるようになりったのです。嫌っていた家はわたしの棺桶となりました。窓の外、わたしが生きる意味を見失った世界はそれでも平然と時計の針が進み続けていて、わたしが呆然と時の流れの中に身を任せている間も黒白の入れ替わりが幾度も繰り返されていました。
昼間、いつもなら鬱陶しいくらいに空を覆う鉛色の雲はすっかり消え失せ、蒼穹の中で輝く太陽は己の眼下に広がる全てのものを光で照らしています。白い陽光の祝福を受けたものは、無機有機に関係なく光を辺りへと反射し、屈折率の異なる光源が幾重にも折り重なって生まれた光の層によって、世界はまるで万華鏡の結界に閉じ込められたかのようでした。
かと思えば夜、昼間街を支配していた結界から解放された世界を、今度は雲霞の失せた薄紫色の空に浮かぶ月より落ちてくる柔らかな白の帳が慈しむかのように覆いかぶってゆき、しかしそんな世界に存在する全てのものを眠りに導く月光の帳を拒むかのように、今度は地上に広がった人の住む街より天に向かって色とりどりの光が放たれ、世界は昼間とは異なった光の世界に導かれていくのです。窓の外に覗ける世界は、わたしや義兄がどんな失望を抱えていようと、わたしの世界がどんなに色褪せようと、美しく輝いていました。
世界はその圧倒的なスケールでわたしの悩みの矮小さを証明してゆくのです。それがお前や義兄の世界にある希望や絶望など所詮はその程度だと言われているようで、ひどく悔しく感じました。世界に虚無などなく、空虚などお前の錯覚にすぎない。そんな正論を突きつけてくる世界が憎らしくて、憎らしくて、憎らしくて。憎らしくて、憎らしいからなんとか一矢報いてやりたいと思うけれど、結局世界に傷跡を残すための力なんてものは一切湧いてこなくって。わたしは結局、ただ、誰も心を許せるもののいなくなった屋敷の自室、部屋の中で某前と窓の外を眺めている事を繰り返すことしかできませんでした。
世界は美しいと多くの人は言います。かつてのわたしなら間違いなくそれを肯定していたでしょう。世界は素晴らしいものだと人は言う。確かに先輩と出会ってからの日々は確かに素晴らしいものでした。世界はかけがえのないもので、美しいものは素晴らしいと人は言います。そうです。かけがえのないものは美しい。美しいものは素晴らしい。それは間違いありません。だからこそ、かけがえのないものが失せてしまった世界は、こんなにも酷く醜く見えてしまうものなのです。
外から聞こえてくる小鳥に囀りは姉の説教の声にも似ていて、わたしを嫌な気持ちにさせました。外から飛び込んでくる強い日差しは先輩と初めて出会った時の事を思い出させて、わたしを嫌な気持ちにさせました。雨雲失せた晴れ空はかつて姉と先輩が婚約した事を知った時の事を思い出させて、わたしを嫌な気持ちにさせました。山の稜線の向こう側にわずかばかり見える雲が姉の死んだ時の事を思い出させて、わたしを嫌な気持ちにさせました。やがて日の沈んだ空、月明かりが世界を祝福するかのようにドレスアップするさまが義兄の死んだと知ったあの日の事を思い出させて、わたしを酷く嫌な気持ちにさせました。
世界のあらゆる光景はわたしを不快にさせるものへと変貌していました。過去が幸福であればあるほど、義兄との思い出が尊いものであればあるほどに、それを失った今の世界はこんなにも辛く苦しいものへと変貌している。義兄はこんな苦しさに耐えていた。義兄はそれでもこんな辛さを必死に耐えながらなんとか日常生活まで送っていた。わたしはやっぱり凄い人だったな、となんだかよくわからない感心を覚えました。だってわたしにはそんな事、とてもできそうにありません。だってわたしはもうこの場から一歩たりとも動く気力が残されていないのです。そうです。わたしにはもう何もない。もうわたしは疲れきってしまっていました。もう何日こうやっていたのかも定かではありません。腹の虫はとうの昔に空腹を訴える事をやめていて、水分をほとんど失った体はもはや乾きを訴えることすらも諦めていました。
昏睡と混濁から僅かに目覚めたのは、終焉を嫌うわたしの体が後ろ髪を無理やり引っ張った結果なのでしょう。ですが、ほとんど全ての感覚を失ってしまったわたしに残されていたのは、ひどい眠気ばかりでした。目を閉じれば全てが終わる。そんな確信があるからこそでしょう、それを望む心とは裏腹に、体と本能がわたしの意識が暗闇の中に吸い込まれる事をなかなか許容してくれません。でも、そんな彼らの足掻きももう少しで終わると直感しました。わたしの体の中に残されている命の蝋燭はもはや燃え尽きかけているのがわかったからです。意識は朦朧としていて、もう世界の醜さは見えません。体や本能は心が必要としなくなったエネルギーを必死に生存のために振り分けてわたしの命をこの世界につないでいました。ですがこの世界に永遠などと言うものがなく、わたしにエネルギーを補給する意思がない以上、わたしの命がこのまま尽きることはもはや確定しているのです。
そんなことを考えていると、徐々に瞼が落ちてゆきました。色失せた世界が暗闇の中埋もれてゆきます。瞬間、望んでいた終わりの時がきた事を直感しました。わたしをつらい記憶ばかりを思い出させるば光に比べて、わたしのあらゆる感覚を鈍麻にする闇はあまりに心地よく。だからわたしの意識は、完全に闇の中へと落ちてゆくことを選択させられたのです。
――ですが
*
「椿ちゃん、しっかり!」
意識が薄れてゆく最中に聞こえてきた本能を直撃する不快な声によって、わたしの意識は闇より引き上げられてしまいました。そして目を開けた時、起きたわたしは驚きました。わたしの目の前ではあの醜い浅見さんが、あの時よりもさらに肥えた体に服を汗で張り付かせながら、目の前で脂ぎった息を吐いていました。わたしに覆いかぶさるよう身を乗り出した体はまるで野生の獣の捕食か交尾の直前の体勢のように見えました。それを見た瞬間、わたしはこの浅見さんが私を手籠めにする気なのだと直感しました。わたしは抵抗することも考えましたが、やめました。わたしはもう完全に面倒になっていたのです。わたしはもう何かにあらがう気力が残されていませんでした。わたしはもう、この辛さにとどめを刺してくれる誰かを求めてるだけの存在だったのです。やがて醜く汚されたのならば死のうとぼんやり考えていたわたしを部屋の壁端まで抱きかかえた浅見さんは、わたしの背中を壁に預けさせたのち、いきなりわたしの唇にペットボトルの飲み口を突っ込んできました。口の中に味が広がります。肉体は必死に栄養を求めていました。そうしてドリンクを無理やり嚥下させてわたしをこの醜い世界に連れ戻した浅見さんは、わたしがそれを飲み干したのを見届けると、唐突に言いました。
「話があります」
返事をすることも億劫だったわたしは、無言を貫きました。窓から飛び込んでくる月明かりがわたしたちを照らしています。電灯のついていない部屋は、月光によって白色と群青に区切られていました。色褪せたあの世界は今や手を伸ばしても届かない位置にあります。皮肉な事に、わたしたちがいるのは美しい世界の中でした。この浅見さんという醜い人は、わたしのことを美しい世界へと連れ戻したのです。
「会社についての話です」
声は真剣で、しかしそうして切り出された話はわたしにとってまるで興味のない話でした。だからこそ、こうまで腹立たしい。まるでよく晴れた日、お気に入りの服を着て出かけた日に激しい通り雨に打たれたような気分でした。投げつけられる声に遊びがないほど、目の前の彼が真剣である事がわかるほどに、怒りばかりが心の奥底に澱として積もってゆくのがわかります。
「君のお母さんやお父さんがいなくなってからというもの、本家筋である君のお姉さんや君の義兄が後を継ぐことを条件に私が会社を切り盛りしていました。ですが、彼らがいなくなってからというもの、親族たちはことあるごとに会社の全権をよこせと言ってくる。田舎のご老体らしく彼らは血筋とや筋を通すことや世間体を大事にするから、僕が金を稼いでいる間は無茶をしてこなかったが、それももう限界だ。そろそろ彼らは――今、君にこんな願いをするのが酷だということはわかっているが、それでも言わせてくれ。どうか、義兄の後をついで、会社の代表となってほしい」
彼がわたしにこのような話をしたのは初めてのことでした。わたしはこんな時にまでそんな話を切り出してくるそんな浅見さんのことが心底憎く思いました。こんな時にまでそんなくだらないことを口にする醜い浅見さんを心底憎らしく思い、しかし同時に、ああ、自分もそんな醜い女だったかと自嘲し、ならばなんともお似合いじゃないかと投げやりに考えていました。
ここはもう終わってしまう世界。まともな人間などもはや一人として存在していない、伽藍堂の屋敷。かつては月光の祝福を受けて美しく輝いていた屋敷はしかし今、残骸だけを収容する牢獄と成り果てています。頽廃の匂いに支配された部屋に飛び込んできているこの月明かりが失せたその時、この世界は再び醜悪の中へと堕ちていってしまうのでしょう。
「好きにしてください。そうしたいならそうすればいいじゃないですか。お飾りの代表でよろしければ、勝手に登録でもなんでもなさってください」
奇妙な確信に突き動かされるよう投げやりに返した言葉に、浅見さんは首を振って嘆息しました。吐き出した息が月明かりの中に消えてゆきます。
「それじゃダメなんだ。彼らが求めているのは、本筋である君が立って会社を切り盛りする事なんだ。君が自ら動いてくれないと、彼らは納得してくれない――」
そして浅見さんはそこで言葉を切りました。歯の軋む音が静寂を打ち破ります。不規則に続くその耳障りな音は、浅見さんがさらに醜悪な存在へとなりつつ証左であるよう感じられました。多分浅見さんの顔は今、自らの意にそぐわない行動ばかりする親族やわたしに対する怒りに染まっているに違いありません。この冷たく醜い世界の中で唯一の命の熱を保っていた存在が醜悪とも呼べる色に染まってゆく。醜い顔が怒りによって、さらに醜悪なものへと変化する。そんな醜悪な想像は、だからこそ今の醜いものへと成り果てたわたしの関心を引いたのでしょう。あるいは、醜さに染まった自らより醜いモノと成り果てただろうそんな存在に興味を覚えたのかもしれません。ともあれ、わたしは陶酔と自己憐憫を発端として、この時初めて、浅見さんという人物に嫌悪感からではない関心を持ったのです。わたしはそして好奇心に突き動かされるがまま、視線を月明かり飛び込んでくる窓から浅見さんへと移動させました。ですがそうして月明かりの中に見つけた浅見さんの顔はわたしの想像とは裏腹に青褪めていて、自己嫌悪の色にばかり染まっていました。浅見さんは、わたしでなく、親族でもなく、他でもない自分を嫌って、彼は自己憐憫によってではなく、自己の無力を嘆いて、怒りに歯を軋ませていたのです。そんな浅見さんを慰めるかのように、月明かりが浅見さんを照らしています。不覚にもわたしは、その光景を美しいと、そう思ってしまいました。やがてわたしの視線に気付いた浅見さんは、おずおずと控え目がちに、再び言葉を紡ぎ始めました。
「だが、私は君が嫌がることを無理強いさせたいとは思わない。だからもし――、君が、そうして親族の望み通り会社を発展させるために働くことが苦痛だというのであれば――、一つ、方法がある」
発せられた言葉は淡々としていました。ですが浅見さんの体は、相反して小刻みに震えていました。色が変わるほどに握り締められた拳からは、自らの胸のうちから溢れ出て来ようとするものを抑えるのに必死であるという事情が伺えます。
「――へぇ、どのような?」
彼という人物がそこまで怒りを抑え込みながらする提案とは一体なんなのだろうか。好奇心に突き動かされるようにして、わたしはそれを尋ねました。
「君と私が籍を入れる事だ」
「――うふっ」
そうして返ってきた言葉のあまりにおかしくて、私は失笑を漏らしてしまっていました。
「君の義兄がそうだったように、私が本筋の人間と親族になれば、その血筋のものになれば、他人を決して信用しないあの老人たちも会社の経営を切り盛りすることを許してくれる。そうすれば君はなにもしなくていい。辛いなら、気が落ち着くまでの間そうしてーー」
「ふ、うふ、ふふ、うふふふふふふ」
続く言葉の言い訳がましさがあまりにもおかしくて、私はやはり失笑を漏らしてしまうことをやめられませんでした。
「――、貴方もけっきょく、それが、目的ですか」
迸る情念を必死で抑え込みながら呟くと、浅見さんは黙りこくります。その所作こそがわたしの問いに対する肯定に感じられ、わたしは腹が煮えくりけるような心持ちになりました。
「私のことがほしいと、そういうわけですね」
言葉は帰ってきませんでした。浅見さんは何も言いません。沈黙を貫くその態度が何よりも雄弁に答えである気がして、わたしは許せなかった。期待させた挙句、この人も結局同じだったという失望はわたしの体の中で暴れまわっています。失望は常識の堰を喰い千切り、気がつけば私は、思い切り浅見さんに向けて溜めこんでいたものをこみ上げてくる思いとともに吐き出してしまっていました。
「それが! それが目的だったわけですか! 初めから、それが目的で、私たちを引き取った、と! それが目的で、私たちを引き取って、それで、虎視眈々とその時を待っていた、と、そういうわけですか!」
私はそして叫びました。矜持も抑圧も打ち捨てて、思いの丈をぶつけ続けました。それを浅見さんは黙って聞いていました。空虚な部屋の中に響いた怒りの残響を、浅見さんはその醜悪な身一つの中に余さず収集してゆきます。一言をぶつけるたび、浅見さんの顔が痛苦の色に染まってゆきます。その姿はまるで、嵐に耐える旅人のようでした。いいえ、その姿はむしろ、高山に登った登山家のようにも見えました。この道を選んだのは他でもない自分だ。自分がこの山に登ると決めたからこそ、自分は今こうも苦しんでいる。だからこそ自分は、向かうその先で雪崩に襲われようが吹雪に遭遇しようが恨み言をいう気は無いし、言い訳をするつもりもない。浅見さんはそうしてまるで一個の山のように、打ち下ろされた言葉の暴力をただひたすらに受け止めて続けています。それこそが己の咎であると言わんばかりに痛みに耐えるそれはまた殉教者のようにも見えていて、わたしはそれがたいそう気に入りませんでした。
「何を考えているんですか!」
叫びに対して浅見さんは一瞬目を伏せました。が、しかし、浅見さんはそうして恐れた自分を戒めるかのように自らの下唇を強く噛み締めると、すぐに顔をひどく真剣なものにして、わたしの正面に向けて言いました。
「私は君を愛している」
「は?」
返ってきた言葉の意味不明さに、わたしは驚きました。
「だから君には生きていて欲しいし、君が望むのであればそのためになんだってしてやりたい」
正気を問うようにその瞳を覗き込むと、醜い顔の中にある二つの瞳は、しかしこれまで見たこともないくらいに爛々と美しく輝いていました。覚悟を決めた人間が強いというのは本当であるようで、胸のうちの秘していた思いを吐露してみせた浅見さんは、もはやこの世界に恐れるものなどありはしないと言わんばかりの迷いのない態度で、続く言葉を語り出します。
「昔の話だ。多くの人が美しく生まれる君の血筋において、私はこんな容貌で生まれてきた。私は彼らにとって失敗作だった。それでも医療や法律が整ってしまった今、周囲の目が厳しくなった昨今、彼らは私を処分することができない。だから彼らは、私をいないものとして扱った」
独白は無駄を感じられませんでした。おそらく彼は、今語っているその内容を、何度も何度も心の中で繰り返し反芻し、推敲を繰り返し、自分に言い聞かせてきたに違いありません。
「私はこの世にいない人間だった。学校では美しいなんていう意味の言葉が入った名前なのに醜いやつだといじめられ、義務教育を終えてからは家族の手によって家に閉じ込められ、簡単な家事をする以外に何も許されなかった。私はそして世界から隔離されていたんだ」
無駄というものが一切排除されたその独白は、内容の悲惨さと比べて美しいとすら思えるものでした。浅見さんの話はまるで他人事を語るかのようでした。彼の独白には余計な主観が一切入り込んでいませんでした。おそらく今の浅見さんにとって、過去のそんな出来事は、彼という人物から切り離されている出来事なのでしょう。それはとても既視感を覚える話でした。
「私は親族にとって、お荷物だった。親族の会合においても、彼らがくる前日に部屋の掃除をすることくらいは許されたけれど、それ以上のことは許されなかった。私の生涯は、私にとって、世界にとっても、誰にとってもなんの価値もないものだったんだ。世界はそれでも続いていて、私はそんな世界の中で、無価値を決定された男だった。私にとって世界は無価値で、世界にとっても私は無価値だったんだ。世界に私の居場所などどこにもありはしなかった。だから私は、自分が世界どころか、世界に住む誰とも繋がる事なく死んでいくのが当たり前だと思っていた」
浅見さんにとって過去のその時代は、地獄にほかならなかった。世界は醜く、色褪せていた。彼は自らという存在が世界にとって無価値であると悟った。何処にも自分の居場所などないのだと悟った。そして己が誰にも必要とされていない事を理解してしまった浅見さんは、当然のように世界を見放した。浅見さんはそして自分という存在を世界から切り離したのです。だからこそ浅見さんの言葉は、こうも客観性に溢れているのでしょう。だからこそ浅見さんの言葉には、一切の恨み節がないのでしょう。だからこそ浅見さんは、まるで興味のない本でも読むかのような、そんな口調なのでしょう。浅見さんにとってその過去は真実無価値であるのです。
「しかしそんな時、君がやってきてくれた」
しかし、浅見さんが次に述べたそんな言葉の中には、それまでの冷血がなんだったのかというくらいに熱を帯びていました。それはまるで、先輩に助け出された時のあの時のわたしのようでした。そしてわたしははじめて浅見さんに共感を覚えました。その刺激が鍵となったのか、私は過去において浅見さんと自分が出会った時のことを思い出しました。当時の私は、その当時から分別のついていた姉と違い、思ったことをそのまま言い、思ったことをそのままやる、そんな子供らしい子供でした。そんな当時姉よりもお転婆だった私にとって、大人の見栄と都合と嘘ばかりが飛び交う親族の会合は心底つまらないもので、私は度々、子供らしい無邪気さで相手の意見の嘘を見抜いては意味もなく指摘して、だからこそ多くの親族に疎まれていました。
「他の人よりも少しだけ早く親族の家にやってきた君は、その時、会合が行われている部屋と遠く離れた別の場所で掃除をさせられている私を見つけて、私に話しかけてきてくれた」
そんなある日のことです。その日はまだ寒い冬の昼時の出来事でした。冬の寒さに似合わないジメジメとした霧雨が世界を包み込んでいたことをよく覚えています。親族の会合の場に連れてこられた私は、しかし子供だからという理由で部屋から排除されていました。今にして思えばそれはいちいち忖度も建前をも指摘する鬱陶しい子供を遠ざける為の方便でしかなかったのでしょう。思い出してみれば、幾分か手心を加える両親や姉より、一切の遠慮なく思ったままの意見をぶつけるわたしの方が親族から嫌われていたという記憶もあります。しかしその時のまだ幼い私は――――――否、多分は心底、相手はわたしという生意気な分別のない子供を遠ざけたいのだ、と思っていたからなのでしょう、そんな大人の嘘に気づけず、そしてまた、子供らしい反抗心から、『なら、自分に同意してくれる大人を連れて行けば、自分も大人の一員になれるのだ』、などと思い込んで、家の中で誰かわたしの味方になってくれるものはいないものかと探していたのです。そうして味方を求めて広い屋敷の中を彷徨うも、親族の会合に合わせて使用人達には暇が与えられており、屋敷の中は静寂ばかりに満ちていました。ゆけどもゆけども、人などおらず、徒労が募ってゆくばかり。空は無様なわたしを嘲笑うかのように雨足を強めてゆき、わたしはますます意気地になって、屋敷の中をうろつきまわっていました。そしてそんな時に見つけたのが、会合の部屋と遠く離れた茶室で一人掃除をしている浅見さんでした。
「君はまだ幼く、私の事なんて、私の醜さなんて気にしていなかった様子で、私に話しかけてきてくれた」
浅見さんは当時から外見が醜い状態でした。わたしたちの親族は、醜い姿のものを一般以上に嫌う傾向にあります。だから浅見さんは、親族の誰からも疎まれ、隔離されていたのです。浅見さんは屋敷から少し離れた茶室を一人で黙々と掃除していました。間断なく空を覆っていた雲はしかし不思議とその一区画とだけ断絶しており、そこだけ雨模様は強い有様でした。それゆえでしょう、屋敷と少し離れた場所にある古ぼけた茶室は、まるで異世界のような趣きがありました。だからこそわたしは、この人ならばわたしの味方になってくれるに違いないと直感しました。浅見さんはわたしと同じく、世界からつまみ出されたそんな存在でした。あの時の私にとって、わたしと同じく子供の姉ですら参加できる場所から排除された浅見さんは、わたしにとって世界で唯一の仲間だったのです。
「そして事情を聞いた君は部屋に隔離されていた私の手を引いて、私を親族の会合の場に連れ出した」
わたしはそして浅見さんに近づくと、彼にお願いをしました。どうか自分と一緒に来て欲しいと、黙々と茶室周りを掃いていた彼に頭を下げたのです。浅見さんはひどく困惑していました。自分の身に起きた出来事が信じられないと言わんばかりでした。今にして思えば、戸惑うそれは、無価値であると定められた自分がしかし求められているという奇跡が信じられなかったからなのでしょう。しかしその時の子供らしい怒りに燃えていたわたしはそんな彼の逡巡の正体に気づくこともなく、子供らしい打算じみた思考で行くか引くか迷っているなら無理やりその場へと連れ出してしまえばいいと考え、わたしは彼の手を握りしめると全霊の力を込めてその場から連れ出したのです。
「無論、私の家族はそれをよく思わなかった。親族たちも、醜いそんな存在が会合に参加することを良しと思っていない様子だった。しかしそんな中において、本筋の血を引く君は、私のこと紹介し、親族の集まりというのであれば、私のことも加えるべきだと主張した。そしてそれは承認され、そこから私の人生は始まったんだ」
何かしらにつけて逃げようとする彼を、わたしは全身を使って引きずってゆきました。屋敷をつつみ込んでいた雨は気づけば失せていっていました。黒雲は潔く晴れ空に居場所を明け渡し、屋敷を囲う木々の間を縫うようにしてやってくる風は温もりを帯びはじめていました。醜い顔をした男の人を受け入れた世界は、しかし美しさを取り戻していったのです。そして当時から大人だった浅見さんを連れて会合の場に戻ったわたしは、「仲間はずれは良くない!」と主張して、他の大人たちに自分の意見を叩きつけたのです。日頃から血筋や親族の絆を重んじろとの発言をしている彼らは、そんな自らの言動との矛盾に対する後ろめたさと建前を重んじるが故でしょう、わたしの意見に何も言うことはなく、そしてわたしは、浅見さんと共に、再び会合へと参加する事を許されたのでした。
「そうだ。私にとって、君がすべての始まりだ。君が私の世界に色をつけてくれたんだ」
その時わたしの隣に座っていた浅見さんは、静かに目を瞑って涙を流していました。虚言と嘘偽りに満ち溢れた会合の場所において、それだけが真実のものでした。浅見さんは震えていました。晴れ上がった空から窓を通じて飛び込んできた光が彼だけに注がれ、そこだけがまるで別境のように美しい場所でした。醜い言葉ばかりが飛び交うそんな場所で、そこだけが世界から祝福されていました。その光景は子供のわたしが思わず深い嫉妬を覚えてしまうくらい、尊いものでした。
「間違いなくあの時から私の人生は始まった。そして出た外の世界は家の中よりも多くの辛いことが待ち受けていたし、私の醜い顔と容姿を見て悲鳴をあげるような人と出会うような事もあったけれど、それでもそんな出来事以上に、世界は光に満ちていた」
会合の後、わたしは浅見さんに挨拶するまもなく、家へと連れ戻されました。わたしそして、次の会合から姉と共に、家に置いていかれるようになりました。多分それは、あの親族たちがわたしの事を嫌い、両親に何か言い含めた結果の出来事なのでしょう。
「外の世界は私の存在を無視しなかった。外の世界はわたしの醜さを嫌ったけど、わたしのそれ以外の能力を認めてくれたんだ。それだけで、あの家の中世界よりもずっとましだった。だから私は発奮し、やがて会社を切り盛りできるほどの経営手腕を手に入れ――、そしてそんな手腕を手に入れた私の事を軽く扱うことができなくなった彼らは、私が正式に親族の会議に加わり、意見を述べることすら認められるようになった」
そしてわたしの記憶には親族たちと彼らが開く会合が嫌な場所であるという記憶。そして、浅見さんが見せた美しさにひどく嫉妬したという記憶だけが残った。だからこそわたしは浅見さんと再開した時、浅見さんという人のことが分からなかったのだ。わたしにとってあの時の浅見さんは、わたしと同じ存在だったのだ。あの時のわたしは、浅見さんの事を嫌っていなかったのだ。あの時のわたしにとって、浅見さんは世界で唯一美しい人だった。だからこそわたしは、再会して生理的嫌悪感を覚えた浅見さんと、過去の浅見さんが結びつかなかったのだ。
「それらの全ては、君のあの時の行動を端に発しているんだ。私はあの時、君が手を引いてくれたことで救われたんだ」
そう述べる浅見さんにはもう醜さなんてものは欠片ほどもありませんでした。月光が彼の周りを取り巻いて踊っています。塵がまるで万華鏡のようでした。世界が彼を祝福している。それは浅見さんが世界を愛している証明であり、世界がそんな浅見さんの愛に応えている証拠に違いありませんでした。だからこそ世界は、浅見さんをこうも美しく着飾るのでしょう。愛するからこそ、愛される。愛するからこそ、世界は美しく応答する。今でこそそうして世界と相思相愛の彼だすが、しかし浅見さんはずっと昔、今のわたしが感じているような痛みを、わたしよりずっと長い期間味わっていのです。
「世界の中に自分の居場所がない。世界のどこにも自分の存在を認めてくれる人がいない。世界のどこにも愛した人がいない。すぐ側に自分の欲する、自分を愛してくれる人がいないというその痛みは、私にはよくわかる。それは私がかつて、君と言う存在に助けられるより以前、嫌という程に味わってきたものだからだ。だからわたしは、出来る事なら君をそんな地獄から連れ出してあげたいとおもっているんだ」
かつて彼は世界を呪っていた。自分を醜く産み落とした世界を、心の底から呪っていた。世界のどこにも自分の居場所がない。かつて浅見さんは、その辛さを自らのその身で味わっていた。彼は世界が色褪せて見える辛さを、この家に住んでいた誰よりも承知していた。だからこそ、両親を失って居場所を失いかけていたわたしたちに手を指し伸ばしてくれた。
「でも、君が醜い私の事を嫌っているのは承知しているし、美しい君と違って、私の外見はこの体たらくだ。手を差し伸べ得るどころか、それを担おうと考えることすら烏滸がましいのは承知している。死にたいと思う気持ちがわからないわけでもない。でも、わたしは君に生きていて欲しいんだ。君がいるからこそ、私の世界はかつての地獄に戻らないでいられるんだ。私の自分勝手な願いであるのは承知の上で――――――、私は君に、この世界からいなくなってほしくない」
だからこそこの人は、こんな状態になった私のことを見捨てようとしない。だからこそ浅見麗というこの人は、髪はボサボサで、頰はコケていて、肌は水気を失っていて、以前のように美しくもない私に手を差し伸べてくれるのだ。
「でも君の手によって救い出されただけのわたしは、どうすればかつての私がいたような地獄から他人を救い出せるかがわからない。情けないことに、君に救われてあの世界から抜け出せた私には、君をそんな地獄から救い出すための方法がわからない。だって君の世界にはもう、かつての私にとっての君が存在していない。かつて君がやったように無理やり連れ出したところで、君はただもっと傷つくだけだろう。だから――、せめてわたしは、君が過去を懐かしんで気の済むまで思う存分悲しみに浸れるよう、君の居場所を守りたいと、心の底からそう思っている」
わたしにとって先輩が世界の全てであったように、今の浅見さんにとってわたしがこの世界に生きているということが全てなのだ。
「でも、そのためには、金が必要だ。金を稼ぐためには、親族の力によって支えられている会社が必要で、会社の実権を握るためには本家の血筋に連なる人が必要だ。――だから僕は君の身柄を欲した。……信じて欲しい。私は君の事をどうこうする気なんて、決してない。醜い私に触れることで君までが汚れてしまうなんて、私は望んでいない。そうとも。君というわたしの恩人に自分から触れようなんてそんなおこがましい事、私は考えたこともなかったんだ」
今、浅見さんは、自分の世界が壊れないよう、必死に戦っている。いや、違う。浅見さんはずっと戦い続けていたのだ。それは誰にも知られることのない戦いだった。世界でそれを知っているのは、己一人だけ。誰にも褒められることのない終わりのない戦いを、しかし浅見さんはずっと続けていた。浅見さんはずっと、自分の世界が壊れてしまわないよう必死で抗い続けていた。
「愛しているんだ」
自分を拒絶しようとする世界のすべてを相手に戦い続け、自分を受け入れてくれる世界のすべてを愛し続けた言葉は真摯だった。
「馬鹿で醜い男の戯言だと笑ってくれて構わない。ひとまわり近くも離れた男が言うセリフじゃないのも承知の上だ。でも、どうしょうもなかったんだ。ただ君の側に入れるだけでよかった。それだけでわたしの世界は輝いていたんだ。手を触れようなんて思ったことなんてない。だってわたしはこの醜さで、君はそんなにも美しい。万が一にでも、君がいなくなってしまう事を考えると、それだけで気分が悪くなりそうだった。――戸籍が汚れることが心配だと言うのであれば、内縁と言う事で処理しても構わない。幸いにしてわたしは、それであの老人どもを納得させるだけの下卑た面と容姿をしているし、それで押し通せるだけの発言権もすでに得ている」
わたしは自分の世界が壊れてしまう辛さなんて知らなかった。だってわたしは、両親に守られていた。両親が死んだ後は、姉に守られていた。そしてわたしは、誰より、浅見さんに守られていた。
「君の両親が死んだその時から、僕はずっと会社の中で利益を上げ続けてきたからね」
わたしはそして、わたしがどれだけ幼いままだったのかを知った。だってわたしは、居場所を得るために戦った事など、幼い時のあの経験を除いて、唯の一度もありはしなかったのだから。浅見さんは、わたしがこうして泣いている間も、それ以前の義兄が涙にくれている間も、姉と義兄が忙しそうにしていた頃も、それ以前の、わたしがまだ学生だった頃の、そんな時からずっと、わたしのために尽くしていてくれたのだ。彼がいたからこそ、わたしはこうしてこの歳になるまで世界に居場所がないという事に心を悩ませずにすんできたのだ。
「それに今の僕なら、社会的な方で問題が出てくると言うのであれば、いつか君がいじめを受けた時のように、内々で処分してしまうことだって出来るんだ」
そうとも。よく考えれば、あの事件が起こった後、特別クラスなんてものがあっさりできたのが不自然だった。そんな普通じゃあり得ないことが起きたのが不自然なら、そんな不自然がマスコミにもれなかったのも、それ以上話題に俎上しなくなっていったことだって不自然だったんだ。先ほどの発言から察するに、それもまた、多分、この人が裏で手を回した結果なのだろう。
「だから――、だから、どうか、お願いだ。不愉快なのはわかるけれど、どうか私と、嘘偽りの夫婦の誓いをたてて欲しい。君は何もする必要はない。どうか私に君を守らせて欲しい」
わたしがこの人と再開したその日から、いえ、きっとそれ以前よりもずっと前から、この浅見麗というひとは、わたしの事をずっと守ってくれていた。わたしがどんな感情を向けようと、ずっと、ただひたすらに、わたしのために動き続けてきてくれていた。
「――どうして?」
そして私は、答えのわかっている問いを、浅見さんに投げかけた。
「どうして、そこまで私のために?」
すると、浅見さんは酷く困った顔を浮かべていった。
「初めにいった通りだ。――私は、君を愛している」
恥ずかしいセリフを平然という浅見さんはどこまでも真剣だった。わたしにとって浅見さんは、もう決して醜い人なんかではなかった。
「君が手を差し伸べてくれたその時から、私の世界は始まったんだ。君がいなかったら、私の世界は閉じられたままだった。君がいてくれたから、私はこんな地獄のような世界で生きていくそんな気分になれたんだ」
浅見さんは、どこまでも真剣で、嘘偽りのない真摯さを持っていた。多分この人は、わたしが邪魔だといえば二度と顔を見せようとしないだろうし、行けといえば地獄にだって迷わず突き進むだろうし、死ねといえば笑ってわたしのために死ぬ、そんな人だったのだ。わたしはようやくこの人のことを理解する。世界でこの人だけは、わたしが何をしようと見捨てない。だってかつて先輩がわたしの世界のすべてであったように。
「君は私にとって、世界そのものなんだ」
――この人にとって、わたしの存在が世界のすべてなのだ
「君がいない世界に価値はない。君がいるからこそ、私の世界は色付いているんだ」
ただ愚直に自身の思いを述べるこの人は、かつていつか義兄に助けられたわたしだった。浅見さんはわたしだった。あの義兄という人に助けられれた時からわたしの世界が色付いたように、わたしにとっての義兄がこの人にとってのわたしだったのだ。
「だから恥を承知で、何遍だって言う。どうかこの醜い私と結婚して欲しい。醜悪な私の世界には、君という光が必要なんだ」
浅見さんはどこまでも真っ直ぐな瞳で真摯にわたしを見つめてくる。不思議ともうそれ以外なんて目に入ってなどいなかった。今のわたしは、この人にとっての過去の自分であるのだ。この人にとって、わたしこそ世界の全てなのだ。だからこそこの人は、私の痛みをよく理解していて、だからこそこの人は、こんな私を守ろうとしてくれている。
「頼む」
わたしが浅見さんの申し出を受けたところで、彼がやがて得るのは苦労と悪名だけだ。彼は自分の世間からの評価を知っていて、彼は自分がわたしからいかなる評価を受けていたのかを知っていて、今の提案が成就してしまった際、世間一般からいかなる評価を下されるかを承知の上で、しかしそれでもなお、わたしのためにそうして泥に汚れる事を躊躇わず、真っ直ぐな瞳で、殉教者のように、死地に向かうを命じろと訴えてくる。両親が死んでからというもの、姉が死してからというもの、義兄が死してからというもの、その間、この浅見さんという人は、世間とわたしの評価を一切気にすることなく、わたしを守るというその為だけに、日々を費やしていた。ただ自らの信じるもののために信じる道を行こうとする人の醜い、醜いと自嘲を繰り返す彼の顔の中で輝くその瞳は、なんと美しい煌めきを放つものなのだろう。そしてそんな瞳に比べて、美しい、美しいと自認して好き勝手やってきた挙句、そのような生き方をしてきた人に対して薄汚れた疑念を投げかけてしまった私のなんと醜悪なことか。世界が醜くなったのではない。浅見さんが醜かったのではない。
本当に醜かったのは、わたしだった。醜かったわたしが、近くにいるだけで醜いわたしを綺麗にしてくれる美しい姉と義兄を失ってしまったからこそ、わたしの世界は当たり前のように醜くなっていったのだ。そしてそんなわたしに、己の醜さを自覚する浅見さんは近寄って来ようとしなかった。浅見さんは、世界の美しさを知っている。浅見さんは自分の醜さを受け入れた。だからこそ――、浅見さんの周りの世界は、こうも美しく見えるのだ。
「だから――、だから――」
己の醜さを自覚して羞恥に身を焼き尽くされるようなそんな想いに身動きすら封じられていたところ、その自戒による呆然を前にしてついに語る言葉も耐えたかのように、浅見さんは同じ言葉を繰り返しては、その先の言葉を語ろうとしない。多分その先の言葉が、再びわたしを傷つける事を恐れて、彼はそれを言わないでいてくれているのだろう。そんなことがわかるくらいには、わたしはついにこの人の事を理解できるようになっていた。
そうとも。この人はわたしなのだ。この人はわたしで、わたしはこの人なのだ。わたしたちは同じ痛みを知る人間で、わたしたちは同じ痛みを知る男と女だった。同じ体に異なる翼。どちらも世界に絶望した経験を持つ、男と女。羽根一つでは空を飛ぶことなど出来やしない。世界という残酷な空を渡りきるには、両翼がまともに動かなければ叶わないのだ。なら――
「浅見さん」
声に浅見さんはその顔を上げた。天空の枢軸、雲の隙間から窓へと投げ込まれた月光が、彼の顔を強く照らし出していた。そうして月明かりに切り取られた彼の顔は、まるで一枚の芸術であるかのようだった。
「――」
世界が一瞬時を止めた。絵画は瞬時に別のものへと切り替わっていた。その醜いはずの顔が、今は不思議なくらいに愛おしい。不安げに瞳が動いている。枯れた荒野のような顔の上で、瞳だけは唯一、宝石のように輝いていた。
「貴方のその想いはとても嬉しい。でも私はその提案を受けるわけにはいきません」
わたしの言葉に浅見さんの顔が絶望に染まってゆく。顔にはべったりと絶望の荊が巻き付きつつあった。その様を見ているのが辛くて、私は慌ててそのあとの言葉を紡ぐ。
「だって、それじゃあ、貴方が傷つくばかりじゃないですか。貴方はわたしで、わたしは貴方なのです。わたしは、わたしを愛してくれている貴方が、ただ一方的に傷つく姿を見ているそんな状況に耐えられそうにありません。――だから」
前へと一歩を踏み出すと、そのゴツゴツとした手をとって、言う。
「どうか、その痛みをわたしにも分かち合わせてください。偽りの結婚だなんて寂しい事を言わないでください。――浅見さん。どうか、わたしを貴方の横を一緒に歩く、生涯の伴侶としてください」
わたしが行った一世一代の告白を浅見さんは理解できなかったらしく、曇らせていた顔七変化させて、困惑の瞳をわたしへと向けてくる。かつては醜いと思っていた、彼自身は今もそう思っているだろうその顔に様々な感情が浮かび上がってくるその様はなんともおかしく、そして美しい。不意に、なるほど、これがあばたもえくぼというやつかと、心の底から感心した。
「――はぁ……?」
やがて七色に顔を変幻させていた浅見さんは呆然と呟いた。困惑の色が浮かんでいた瞳は、こちらの正気を問うものとなっている。覚悟を決めての告白にケチをつけられたような気分となったわたしは、そんな彼の態度にムッとした。と、同時に悪戯心がムクムクと湧き上がってくる。なに、どうせ、これから先飽きるくらいに交わすものなのだ。ならば、手付金として奪っておいても悪くはないだろう。姉さんが示すように、覚悟を決めた我が家の女はかくも強いものなのだ。
「――ん」
「――!?」
戸惑う浅見さんの首に両手を巻きつけて頭を引き寄せると、目を瞑ってゆっくりと唇を重ね合わせる。初めての口付けは思いの外に容易く、唇を舌で割って相手の口腔内に進入させると、愛おしさだけが胸に溢れてきた。捧げたものと引き換えに得られたものは、あまりに甘美なものだった。
「――! ――、――!? ――! ――!?」
わたしの行為が信じられなかったのだろう、浅見さんは必死にわたしを引き剥がそうとする。そんな必死さすらも、わたしの為に行われているものなのだと理解できるが故に、わたしはそんな浅見さん愛おしい。だからこそわたしは、舌を蛇のように絡め取ったまま、絡めた腕に力を込めて、浅見さんの厚い胸板から離れない。逃げようとする彼の体を、わたしはかつてのよう、全身で引き止めた。いまやこの人は、わたしのすべてなのだ。この人がいるからこそ、世界はこんなにも美しい。もうこの人のいない世界のことなんて考えられなかった。それくらいに、わたしはこの浅見麗という人に夢中になっていた。水音がなんとも隠微で心地よい。しばらくそうしていると、ようやく浅見さんも諦めたようで、大人しく為すがままにわたしの行為を受け入れた。ようやく提案を受け入れられたそんな気になったわたしは、その時点をもってしてようやく絡めた舌と腕を外し、彼の体から身を離す。
「――どうして」
すると呆然とした表情を浮かべながら浅見さんはそんな事を聞いてきた。彼はかつてわたしと初めて出会った時のようだった。そんな純真さがまた、とても可愛かった。わたしは彼で、彼はわたしなのだ。ならば、わたしの行為の意味を理解したからこそ、彼はそれを問うたのだろう。わたしはそして、意趣返しの意味も込めて、全身へと湧き上がってくる歓喜の言葉と供にそれの言葉を紡ぐ。
「決まっています。わたしのことをずっと愛し続けてきてくれた貴方のことを、わたしが愛おしいと思ったからですよ」
とはいえ、わたしのこの愛は、浅見さんがずっと向け続けていてくれた愛に比べれしまえば、ひと時の情に絆されてのものかもしれない。わたしの愛は、彼のそれに比べれば、まだ幼稚もいいところで、初心者のそれに過ぎないものなのだろう。それでも――
「貴方はわたしのことを愛し続けてくれていた。わたしはそれに応えたいとそう思った。だからきっと、いつか必ず、わたしは貴方が向け続けてきてくれたそれに相応しい、そんな伴侶になってみせます。――だから」
わたしはこの世界で、まだ生きてみたいと思います。かつてのわたしが醜いと思ったこの世界で、かつてのわたしが醜いと思っていたこの人と一緒に。だって、あんな醜い色ばかりが広がる世界に一人でいるのは、もう耐えられないから。そんな世界にこの綺麗な人を再び突き落としてしまう事と思うと、それだけでこんなにも辛いから。己の醜さを知る貴方の側にいると、世界がこんなにも美しく見えるから。だから。
「浅見さん。わたしも貴方のことを、愛しています。だからどうか、これからもわたしと一緒にいてください」
――醜いアナタにさよならを
そうして唇にもう一度思いを乗せて落としてゆく。予想よりも早くに来た接触は、これまでないくらいの幸福感をわたしにもたらした。月明かりが空気を読んだかのように部屋の中から退場してゆく。出歯亀がいなくなるのと思いの丈の爆発は同時だった。余計を剥ぎ捨てようとすると抵抗があった。それを唇と全身で無理やり封殺すると、彼はついに抵抗を諦めた。衣擦れの後に続いた音は春風が窓を強く叩いて朝を告げるその時まで続き、二人はそして誰に見られることもなくしめやかに結ばれた。
曙の光が空を覆ってゆく。世界には醜いものなんて、もう塵一つほどすらも残ってなどいなかった。
*
とある町に不思議な夫妻が住むという。夫妻はまさに美女と野獣と例えるに相応しい、醜悪な外見の夫と、月のように見目麗しい妻のそんな組み合わせだった。聞けばそれは、とある会社を拡大させるために行われた政略結婚の果てのものであるという。男は優れた手腕を持っており、女は会社を設立した存在の本家の血筋を引く家系のものだった。
「なるほど、納得だ」、と、それを聞いた人々は口々に言う。だがしかし、人々はまた、必ずこうも言う。「ならばなぜ、あの夫妻は、ああも仲睦まじいのだろうか」、と。互いに美醜の反対の属性を持つ夫妻はしかし、驚くほどに仲が良かった。彼らはどこへ行くにも常に一緒で、片時たりとも離れようとしなかった。というよりも、美しい女が醜い男の側を決して離れようとしなかったのだ。謀略によって組み合わせられたはずの彼らは、しかし驚くほどに比翼連理を保っていた。ほとんど全ての人は彼らの仲の良さを見て首を傾げる。その答えは、この醜い世界において、醜いアナタとさよならをしたものにしかわからないことだろう。