楓が星条附属の図書館で出会った少女、大井奈波。
ロービジョンのハンデを持ちながら明るい彼女と、そのペットのアマンダさん。
楓はシャードで起こった事件で傷つきながら、隊長と奈波たちに励まされ、正義は何か、自分の進む道とは何かを考えるきっかけを得ていく。


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白い杖、神の手

 

§1 白い杖

 

 

楓はその日、星条附属の図書館にいた。

課題のための本を探しに。午後からは成子坂の待機なので、その間に課題を済ませておこうと思ったのだ。

新聞の載った書見台の傍で他の学生と話している文嘉を見つけ、探している本について文嘉に聞こうかと思った。

けれど、文嘉の横にいる少女は星条の制服を着て、そして、白い杖を持っていた。

 

(視覚障害の方に、案内をしているのでしょうか。)

 

なら手間をかけるのは申し訳ない。おとなしく開架書庫へ向かおうとした楓に文香が気が付き、小さく手招きをした。

文嘉と一緒に振り向いた少女は、最初は近寄ってくる楓を目を細めてにらむように見つめ、そして、手が届くほどの距離になってからぱっと微笑んだ。

「本物の吾妻さんです!」

喜色をあらわに声を上げた彼女に、文嘉がここは図書室ですから、と窘める。少女ははい、と済まなそうにしょげかえった。

 

 

1-1

 

「こちら、紹介するわね。大井奈波さん。わたしの同級生。こちら、ご存じトップアクトレスの吾妻さん。」

図書館横のテラスに場所を移し、ベンダーで購入したお茶のカップを手でもてあそびながらながら文嘉は苦笑いしながら紹介する。

「や、やめてください文嘉さん、同じ事務所の仲間にそんな紹介されると、わたしいたたまれません…」

「別に嫌味でいっているわけではないのよ。わたしが楓さんと人気や知名度で並ぶとは思えないし。だから無理に対等を装って肩を張るのは性に合わないの。」

「わかってます…」

楓は文嘉の割り切りと正論にはかなわない。実際には製作所内の権力はどうみても文嘉さんの方が上なんですよ、文嘉さんが事務所の椅子に座って楓さん出撃しなさいといったら反論できない雰囲気がありますし、本当はトップってそういう人のことじゃないんでしょうか、と心の中だけで反論し、実際には無言で肩をすくめる。

 

「わたし、大井です。はじめまして。ロービジョンなのでちょっと本は苦手なんですが、オーディオブック好きなので文嘉ちゃんにいろいろ勧めてもらってるんですよ」

「そうですか。そういえば図書館にはオーディオの資料もあるんですよね」

「あるわね。結構大量にあるわよ。もし興味があるなら推薦してもいいわ。で、さっきちょうど楓さんの話が出たときに来たものだから、呼んでしまったの。悪かったわ」

「いいえ、構いません。奈波さんは、その…」

奈波が椅子に立てかけた白い杖を見て遠慮がちに楓が切り出すと、奈波は明るく首を振る。

「白い杖を持っていますが、全盲じゃないんですよ。ただ、視野が狭くてよく見えないだけです」

「だけ…ですか」

「はい。授業は一番前の席で、それでもよく見えないとか。場所的に居眠りはもー無理とかいろいろありますが」

ふふふ、と屈託なく笑う。

 

深刻な雰囲気を予想していた楓は奈波の明るさに安心してお茶のカップを取り上げた。

この人懐こい、明るい雰囲気はよく慣れ親しんだ誰かに何となく似ている。

 

「それで、吾妻さん、サインもらっていいですか」

突然切り出してくる奈波。

「わたしの…ですか?それはちょっと…困ります」

 

「オークションに出したりはしないので。

弟がちょっとですね…。吾妻さんテレビで見たらしくて拗らせてしまいまして…。

吾妻さんの出撃ビデオ繰り返し視聴しながらSNSで楓ー楓ーとかゾンビのように毎日つぶやいているのを見てしまいまして…」

はははははは、と乾いた笑い声をあげる奈波。

 

「で、人としてこれはいかんのではないか、と。

今日ついに、同窓なんだろ!サイン貰ったら更生するから!お願い!と土下座されまして」

 

うわぁ…と文嘉が何とも言えない嫌な顔をする。

「それはむしろ逆効果では?申し訳ないんですが弟さんがそのサインを何に使うか想像したくないんですが」

楓も冷や汗を流しながら控えめに拒否する。

「わたしも…ちょっと…へんな用途に使われるのは困りますね…」

「ですよね。だめですよね。弟に言っておきます。

吾妻さんドン引きしてた。気持ち悪い、って言ってたと」

「そこまで言ってません!歓迎はしませんが…」

「じゃあ何か弟にお言葉をいただけると…伝えますので」

「あなたはもう人生を踏み外しています。早く更生して人間に戻ってください、と」

 

あなたが一番きついじゃない、と文嘉が首を振る。

 

その後、彼女たちは少し歓談して奈波は自宅に、楓は製作所の待機に向かった。

楓はもちろん奈波の弟のためにサインをしてあげたりはしなかった。

 

 

 

1-2

 

吾妻楓、待機入ります。

そういって楓が事務室に顔を出すと、紙に向かって嫌そうにボールペンをぐりぐり回すシタラがぱっと立ち上がった。

今日は怜とリンに外せない家庭の用事があり、変則的なチームシフトになっている。このあとシタラがいったん帰宅、バージニアが待機に入り、楓と小結とバージニアが待機。その後シタラが戻り、出社する舞とあわせて夜にトライステラの待機になる。

「楓ちゃんー交代待ってたよー」

「お疲れ様ですシタラさん、その書類だけちゃんと書いたら交代しましょう」

「ぐぬぬぬ…わたしは書類を書くために生まれたんじゃない…」

「わたしもそうですけれど…」

どうにもかみ合わない会話を小結が手をたたいて中断させる。

「はい、シタラちゃん、楓ちゃん、コーヒーでも入れますから、その間にシタラちゃんは書類を終わらせましょうね」

そういって小結が給湯室に向かおうとしたときに、警報音が鳴った。

 

小結がディスプレイにポップアップした警報要旨を読み始める。楓も近くのディスプレイを覗く。成子坂への出撃要請だ。

「いまのローテだと、中野が第一待機で、うちは第二以下の待機状態のはずですよね」

「そうねぇ。大型2、あと別経路で新種の中型が1または3、同時に侵入したみたい。

なんでしょうこの1または3って…。

中野だけじゃだめそうだからこちらにもという話ね。…あ、桃歌ちゃん、そっちはどうなの?」

ディスプレイに第一担当のエンパイア中野からの映像が入ってくる。目の大きな人懐こそうな笑顔の少女が映っている。

「いつもお世話になってます。えっとですね、こっちは大型のほういきます。

Aegisの判断だと中型のほうが遅れて到着する代わり脅威度が高いらしくて。お願いできますか?」

「いいわよ。がんばってね」

「ではまたのちほど」

じゃあ急いでいきますか。と呼びかける小結にやったーとペンを放り投げるシタラ。

 

「隊長さん、隊長さん、指揮所にいらっしゃいますか?」

小結が指揮所を呼び出すボタンを押して話しかけた。

 

 

1-3

 

 

「隊長さん、隊長さん、指揮所にいらっしゃいますか?」

「…ああ。小結さん、おはよう」

 

俺は指揮用の椅子に座ったままの浅い眠りから覚めた。昨日の晩の待機のまま、ここで眠ってしまったらしい。

毛布を掛けてもらっていた。昨晩最後の待機はゆみだったから、寝落ちした俺をゆみが見かねたのだろう。

 

「お休みのところすみません。警報要旨、お読みいただけますか」

小結さんの声にディスプレイの情報を斜め読みする。

「ああ、読んだ。Aegisの裁定の通りいこう。悪いけど今そこにいる三人でお願いする」

「了解です」「はいな」「わかりました」

 

答える三人の声を聴いて、俺はAegisから送られてきた追加情報を読み直す。

小型多数と中型3機。三機のうち一機はヴァイスワーカーの新型機と思われる。装備からみて高速機動可能な近接強化タイプ。

ただし新型機は他の機体と連携していない別グループらしい、とのこと。

 

「みんな、着替えながら聞いてくれ。

新型が一機混じっている。高速機動の近接強化ヴァイスワーカーらしい。

小型多数だがこれは通常タイプらしいから、シタラはカルバチョートで。高速型にあまり絡まれたくないだろう」

「そうだねーわかった」

 

彼女たちの装備着用の時間に、戦況を確認する。中野のほうはシャード外周エリアで戦闘が始まっていた。

レントラー二機。シャーリーが一体を引き離し、やよいと桃歌がもう一体を削りにかかっている。最近の専用装備への投資の効果あって、三人の装備レベルは数カ月前とは別物になっている。大きなミスがなければ大丈夫だろう。

 

三人がAegisの指示した経路で出撃したあと、戦況を確認すると、問題の中型は二手に分かれていた。

片方は外壁エリアを遊弋して大きくドッキングポートエリアに向かっている。これは予想通り。だが、新型は単独ですでにアンダーシャードエリアに侵入していた。

たまらず俺はAegisとの回線を開く。

「ちょっと、鳳さん。外壁破壊されてるんですか?侵入エリアの気密はどうなってます?」

「外壁は破壊されてない」

「じゃあどうして」

俺は鳳さんとの会話をそのままチェンジングルームに流しはじめた。三人にも聞こえるはずだ。

「あのオブジェクトはダストシュートを開放して侵入してきた。しかもご丁寧に侵入後にきちんと封鎖している」

「それは」

「分析を継続している。としか言えない。情報は流すわ。ただし、脅威度を危険、から極めて危険に変更した。

こちらの部隊もとっくに待機状態にいれた。注意、接触、逃亡させないように遅延戦闘を行ってほしい。」

「逃亡させないよう…」

「そう。逃亡させないよう遅延。いいわね」

対ヴァイスでは考えにくい異質な指示だ。

 

「どうもー。待機はいるよー」

事務所に次の待機メンバーが到着した。バージニアだ。

「ジニー。指揮所にきてバックアップオペレーション…いや、装備開始だ。スーツだけ装備で指揮所に上がってくれ」

「いいけど、出撃?」

「わからない。脅威度の高い新型がアンダーシャードに侵入している。磐田さん、ジニーの装備も準備始められますか」

「ああ。三人のあとでいいならな。ライフルは」

「417で。わけのわからない相手には近寄らせたくない」

 

三人がアンダーシャードに入った直後に、鳳さんからの連絡が入った。

 

「まずい。ロストした」

鳳さんの声が硬い。

「対象をこれよりボギーTと呼称。下層C201-2でボギーT反応ロスト。

隠蔽して内部侵入をもくろんでいる可能性が80%以上、成子坂のメンバーは現地待機、出動Aegis部隊と合流せよ」

「鳳さん、それはまずい。うちの三人がいる隣ブロックだ」

 

「隊長、聞こえますか」

楓が呼び掛けてくる。

「隊長、リンクからヴァイスの情報が消えました…故障ですか?きゃあ!」

楓の悲鳴が聞こえた。

 

 

1-4

 

 

アンノウンの反応が隣接ブロックで突然ロストした。

「止まってください。反応が消えました。警戒を」

 

楓の制止に、小結とシタラもホバリング状態のまま不安げにあたりを見回す。

アンダーシャードの未使用ブロックC201-1は真っ暗で、レーダーの反応によると鉄骨があたりに突き出ている。

シタラは、まるで骨のようにあたりから乱雑に突き出した鉄骨に、これはファンタジーの竜の墓場って奴だなぁ…と漠然とした感慨を持った。

「情報リンクの喪失かしら」

「違います。他の情報は正常のはずです…」

「ステルスするヴァイスワーカー?」

「そうかもしれません…お二人は周囲警戒を。隊長、聞こえますか。

隊長、リンクからヴァイスの情報が消えました…故障ですか?」

 

そのとき、小結がひ、と小さな悲鳴を上げた。小結の指さす先を見ると、レーダーに小さな熱反応があり、ゆっくりと鉄骨の下を進んでいた。三人に発見されたことに気が付いたらしい熱反応は急上昇し、直後に収束した粒子砲弾が飛び込んできた。

 

「大丈夫か?」

隊長の声が聞こえる。小結のマーカーがシステムダウンに変わっている。バイタルは問題ないようだ。

侵入者は発見されたお返しに高出力のバズーカを叩き込んでくれたらしい。

「シタラさん、回避!」

楓はフルブーストをかけて真っ暗な空間の中を鉄骨の間を縫うように回避飛行する。

シタラもギアを畳んでくるくるとロールしながら器用に鉄骨の間を飛んで反応を大きく回り込んでいる。

あれだけの熱を発生した以上、もう砲口輻射だけでセンサー欺瞞は通じないはずだ。

ほら、床の上で移動していない…そう思った楓は驚愕した。あんな攻撃をした敵が床の上に寝そべっているはずがない!

「シタラさん、敵はバズーカ捨ててます!あの熱反応はダミー!」

「うそん?」

戸惑ったシタラの声と、打撃音の直後にシタラのマーカーがシステムダウンに切り替わる。

「やられた…!」

 

 

「隊長。鳳さん。聞こえますか」

楓の呼びかけにまず鳳が応じた。

「こちら鳳。ボギーTはヴァイスではなくテロリストと断定。

成子坂のメンバーはAegis部隊と合流し、その保護下に入れ。到着まで180秒」

「了解しました」

「鳳さん、逃亡を抑止する遅延戦闘の意向は取り下げてほしい」

「もちろん。安全を優先してちょうだい」

隊長の要請で行動優先度が変わる。これで戦闘の義務は消えたことになる。

「楓、聞こえたな」

「はい」

対テロリストもう治安活動だ。民間業者の出番ではない。しかし相手が逃げないならシステムダウンした二人を保護するために、この場を持たせる必要がある。

 

楓の周囲に反応はない。かなり高度な欺瞞を施した、対人専用のギアらしい。

「逃げないようですね…」

逃げてくれれば、追わなくて済む。シタラと小結さえ安全に確保できればそれでいい。しかし、楓の思いとは裏腹に突然左横で熱反応が増大して、プラズマ化したブレードが斜めから振り下ろされる。

 

見えていない。しかし、即座に殺気に反応した楓は真横に薄緑を振った。

パリン、と軽い音がして、熱反応が拡散する。薄緑が相手のブレード発生部を砕いたらしい。薄緑は正確に刃にヒットした場合は強烈な切断性がある。真横からの打撃に弱いが、その分、正確に振るったとき剣呑な破壊をもたらす。

 

「大丈夫か、楓!?」

 

隊長の声が聞こえる。声を出すことこそできないが、楓は隊長に脳裏で応える。

 

”隊長、大丈夫ですよ。わたしは大丈夫ですよ。”

 

今度は真後ろからの殺気。

楓は意識下のラインに正確に刃をあてて弾く。機器からいったん消えるアクトレスの反応。しかし消えないままの猛烈な殺気。

こんどは左からの銃撃、弾く。真上からのマイクロミサイル、切断。右下からの斬撃、弾く。

 

”だって…”

 

斬撃の交換に楓の胸が高鳴る。高揚する。

右からの斬撃が来る。弾く。

 

”だって…今のわたしは正義を行っているのですから…”

 

真下からの斬撃、弾く。左からの三連射、弾く、弾く、弾く。

相手の攻撃がエスカレートするほど楓の斬撃が素早く、正確になっていく。

 

楓は自分の口角があがり、頬が緩むのを感じた。

右からのマイクロミサイル2つと左からの銃撃三つを踊るように体を回転させて斬る!斬る!弾く!弾く!弾く!

 

”ほら、こんなに嬉しい!”

 

ついにしびれを切らし、真後ろの近くに殺気が現れる。楓は振り返らず後ろ手で薄緑を突き刺す。

薄緑のブレードが確実に相手の高次元バリアに深く浸食した手ごたえがあった。

 

”悪には…負けません”

 

数秒後に後方で重たい落下音が響き、楓はようやく大きな息を吐いた。

ライトを向ける。落下したテロリストのギアはブースターが破損しているだけで、本体に大きな破損は見られない。落下ダメージはあるだろうが、あれなら死んでいないだろう。

 

「隊長、鳳さん、こちら吾妻です。なんとかテロリストを無力化しました」

「こちら鳳。あと80秒で合流。テロリストの後始末はこちらに任せ、僚機回収を優先せよ。

…あなたが無事でなにより」

「お疲れ。大丈夫か、楓」

「大丈夫です」

ほっとした隊長の声に楓の緊張がゆるむ。

 

隊長の声に楓の精神が平常に戻ってくる。

そして、楓は気が付いた。

人間に対して剣を振るったこと。

それを正義と名付けて自分が高揚していたこと。

 

 

1-5

 

 

「楓ちゃん、今日は助かったわー」

システムダウンから回復したシタラも、小結も問題なく飛行可能で、自力帰投できる状態だった。

小結はほっとした表情だ。だが、シタラは無言のまま硬い表情で飛んでいる。

「いきなりシステムダウンして焦っていたら、レーダー反応がないのに恐ろしい勢いでガンガン斬り合ってるでしょう。

ホント怖かったわ。やっぱり武道の心得があるって違うのね。ね、シタラちゃん」

 

シタラは、ん…と小さく呻くと首を振った。

「楓ちゃん…あれ人間だったよね…」

「そうですね。ヴァイスではなくテロリストでした」

「それを言ってるんじゃなくて。ギアを人間に向けるなんてさ…無理…正直無理」

楓はシタラの不安げな声から、無理、と言われているのがテロリストではなく、おそらく自分であることをくみ取った。

「…ギアを悪事につかうなんて非道な相手でしたね」

だから話をそらす。

「じゃなくて!そうじゃなくて!そうじゃなくてさ!」

 

シタラが両手を顔で覆う。何か決定的なことを口にしようとしたことに気が付いた小結が強い声で制止する。

「シタラちゃん、そこまでよ。楓ちゃんがシステムダウンしたわたしたちを必死に守ってくれたのは分かったでしょう?」

「わかってる…でもさ…」

戸惑うシタラに小結は今度は優しい声をかける。

「そうね。分かっているなら最初に言うのは違う言葉だと思いませんか。

一番嫌なことをしたのは楓ちゃんでしょう」

「うん…。うん…。楓ちゃんありがとうね…」

シタラの声は涙交じりだった。

「怖かったよ…わたし怖かったよ…」

シタラが手のひらで懸命に顔を拭っている。

 

楓はゆっくり軌道を変えて背面飛行でシタラの下に着く。シタラは自分を見上げて飛んでいる楓に気が付いた。情けない表情で楓に向けて降下し、ギアに覆われた手を恐る恐る伸ばす。楓は右手でしっかりとその手を握り、左手でシタラの頭を抱きしめる。

「今日は怖かったですね。でももう大丈夫ですよ…」

「うん…こういうの、ほんとに、やだ…」

泣いているシタラとそれを抱いた楓の二機のギアはひとつになって、小結のギアと並んでアンダーシャードの闇を抜けて行く。

楓の表情は優しい声と裏腹に硬いままだった。

 

 

 

1-6

 

 

成子坂に戻ってギアを外し、シャワーを浴びた楓が隊長への報告のために指揮室に向かう。狭い廊下でバージニアが腕を組み、壁に背中を預けて立っていた。

「楓。初撃墜おめでとう!…これであなたも立派なCATアクトレスってわけだ」

ニコニコと微笑んで、どこか軽薄な声でバージニアが祝福の台詞を口にする。言葉とは裏腹にバージニアからは不機嫌のオーラが漂っているので、楓は硬い口調で返す。

「なんのことでしょう。テロリストを撃墜したことは祝福してもらうことではないと思いますが?」

「そうかな…」

バージニアは小さく笑う。

「でもさ。結構楽しかったんじゃない?楓ってそういうタイプに見えるよ」

言葉に乗っている黒い感情に楓は首を振る。そして両手を胸の前で広げて、そういえば、と続ける。

「ああ、シタラさんを慰めるのはバージニアさんのお仕事でした。申し訳ありません」

そういって馬鹿正直に頭を下げる楓に向けて、一瞬だけバージニアが殺意に近い猛烈な悪意を放射する。

それから、ふふ、ふふ、と声を出して笑った。

「いいよ。別に。わたしは構わないよ。わたしがこの後しっかり慰めてあげるからさ」

「同居なさってるんですよね。それがいいと思います。

でもわたしが選んだ状況ではないことはご理解いただけますよね」

バージニアは踵を返し、分かってるよ、そんなこと、と吐き捨てて待機室に戻っていく。その待機室からは舞のポニーテールの頭が覗く。廊下の会話に気づいたのか、不安そうな顔を見せる。

「…ねえジニー、どうしたの?」

「何でもないよ、舞。楓が戻ってきてたからさ。シタラをカバーしてくれたお礼を言ってたんだ」

「あ…はい…楓さん、シタラちゃん…ありがとう…ござ…います」

人見知りのまま口ごもる舞に楓は笑う。

「一緒に出撃したのですし、当然です。それより、シタラさんが落ち込んでいたので慰めてあげてくださいね」

「あ、はい…」

そういってジニーを迎えた舞は休憩室に引っ込んでしまう。

 

「わたしは隊長の…隊長のところにいきましょう…。

わたしも、疲れました…」

本当に疲れた。楓はそう思った。隊長の顔が見たかった。指揮室のドアをあけて、ため息をついた。

 

「隊長。戻りました…」

 

 

1-7

 

 

 

「隊長。戻りました…」

口頭報告のために戻ってきた楓に俺は声をかける。

「お帰り。楓。今日は本当にご苦労様。休憩室でお茶でも飲もうか。報告はそこで聞いてもいい」

楓は薄く笑った。頬がこわばっている。顔色もやや青ざめているようだった。

 

「いえここで結構です。報告しますね。

テロリストの無力化には成功、身柄はAegisに引き渡しました。以上です」

「うん。テロリストそのものについては緘口令がでているので、外では口にしないようにね」

「はい」

「Aegisからも報告が入っている。犯人は命に別状はないそうだ。今日は本当に済まなかった」

 

そこで、俺は椅子から降りて、楓に頭を下げた。

テロリストと戦うのは全く民間業者の仕事ではない。現行犯逮捕はできるとしても、それは義務ではない。

民間アクトレスは大きな武装を抱えていても法的には民間人だ。害虫駆除業者が劇薬の瓶をトラックに積んで駆け回っているのと本質的な違いはない…少なくとも建前としてはそうなっている。武装はヴァイスに対して使うものだ。そう規定されている。今回はテロリストが初手を打ってきたので正当防衛扱いになったが、正当であっても楓に人殺しをさせる可能性があったことは動かしようもない。重傷でAegisに捕まったテロリストはいまごろ死んでおいた方が良いと思うような目にあっているだろうが、それとアクトレスに殺人をさせるのは別の問題だ。

 

頭を下げた俺に楓の柔らかい声が返ってくる。

「いえ…隊長。そんな。大丈夫です」

「全然大丈夫な顔をしていないじゃないか。怖かっただろう」

 

「怖かった…?」

俺の指摘に楓は顎に手を当ててしばらく考え込む。そして、頷いた。

「怖かったですね」

 

「そうだろうな」

俺が相槌を打つと、楓は、ああ、それは多分ちがいます、と小さくつぶやく。

「いえ、そうではなく…怖かったのはテロリストではなく…」

楓はゆっくりと自分の考えをまとめるように視線をさまよわせる。

「わたしは少し楽しかったんです。それが…怖かったんだと思います」

訥々と口にする楓には表情がない。

 

「父さんは言いました。剣を人に向ければゆがむ、と…。それを感じたのだと思います。

わたしは自分を正義だと確信し、そして剣を振るいました。そしてそれが楽しかった…」

楓は俯き、下に伸ばした拳を握り閉めていた。

「さっきそこでバージニアさんに言われました。楽しかったでしょうと。そうです。楽しかったんです」

 

「隊長…隊長…わたしは…」

楓は顔を上げた。大きく見開いた瞳は潤んでいる。

「少なくともこれは正義ではありません…こんなものはわたしの信じる正義ではありません…」

 

「どうしたら…いえ…」

何かをいいかけて口をつぐみ、そして無言で震えている。きっと楓は俺に「どうしたらいいのか」と聞こうとして、それが甘えだと思い、口をつぐんだのだろう。高潔で自罰的なのは楓の良さだが、行き過ぎればただの毒にしかならない。

俺は楓に近寄ると、震えている両手を取った。そして楓の瞳を覗き込むように話しかける。

「刀は、剣士に握られた時に善悪を考えるかな?」

「…いいえ」

「俺の指示に従っているとき、楓は俺に握られた一振りの剣だ。剣は善悪を気にしない。それでいいんだ。

今日は楓は俺の指示に従っていた。だからその善悪は俺が考え、引き受けるものだ。

楓が一人で決断するときのために、いまはまだ剣と、心の両方に栄養を与える時期なんじゃないかな」

「剣と、心に…。

では、今のわたしは隊長には甘えていいんでしょうか…。隊長に決めていただいていいのでしょうか」

「もちろんだ。それに、それは甘えじゃない」

そういって俺は頭をなぜようと楓の右手を握った拳を解いた。楓はあ、と小さい声を上げて逃げる指を捕まえ、そのあと自分のあげた子供のような声と仕草に頬を染めた。

「剣が善悪を考えるなんて、僭越だろ」

俺の台詞に、楓はくすりと笑った。

 

そうですね。楓は泣きそうな顔で笑った。甘えますね。隊長に甘えますね。今は甘えさせてくださいね。

楓はそういって俺の手をぎゅっと握り返し、涙をこぼした。

おそらく家庭にも、職場にも、学校にも甘えてよいと思う相手がいないこの子にとっては、相手の手を握って弱音を吐き、涙をこぼすだけで、それは自分が壊れるほどの甘えなのだ。

 

すこしだけ涙をこぼした後、楓は晴れ晴れとした微笑みを浮かべた。

 

もう大丈夫です。悲しい気持ちは流してしまいました。明日からまた元気になれます。

それはいつものように強い笑顔だった。

 

 

1-8

 

 

 

楓が事務所を出たときには、すでに日は沈みかけていた。

夕空にさっきまで隊長と握り合っていた右手を掲げて、少し笑う。そんな自分が可笑しくてまた笑う。

 

なんとなく寄り道して母校の傍を通りまもなくの公園近くで、見知った顔を見つけて楓は手を振った。

奈波は白い杖を片手にレトリバー犬を連れて歩いていた。

楓に気づいた様子がない。楓は、奈波がロービジョンだった、と思いだし、ほんの近くの横に近づいた。

それでも気づく様子がない。先にレトリバーが楓に気が付き、視線を向けた。

「えっと、大井さん?」

「…ああ、吾妻さんですか!お仕事帰りですか?」

楓に気が付いた奈波は人懐こい微笑みで楓に向き直ると笑った。

「そうですね。今日はこれであがりです」

 

楓はアクトレス業とは関係のない知人の笑顔に明るい気持ちになり、彼女が連れている犬を見て話しかける。

これはよく盲人が連れている犬種だったような気がする。

 

「大井さん、この子は盲導犬なのですか?」

「いえ、普通のペットです。ね、アマンダ」

アマンダとよばれた犬は嬉しそうにわふ、と答えた。

「すみません、つい近くに吾妻さんがいるのに気が付かず」

「いえ。えっと、奈波さんは視野も狭いのでしたっけ」

「そうなんですよ。30度くらいしか見えないんですよねー。困っちゃいますね」

何とも相槌の打ちようもなく楓が困っていると、奈波はあはは、と笑い飛ばして犬の話をする。

「そうだ。ゴールデンレトリバーは頭が良くてとても人懐こいんですよ。

吾妻さんもアマンダと遊んでみる?おとなしい犬だから怖くないですよ?」

「いいんですか」

「いいよー。よし、そこの公園にいって好きなだけもふるがいいです!」

 

奈波が笑うと、楓も楽しくなった。二人は並んで歩き、公園に入ってアマンダをもみくちゃにした。

 

アマンダにじゃれつかれて笑いながら、楓は今日、図書館でされた彼女のの弟の話を思い出した。今日は嫌なことがあったけれど、隊長と大井さんのおかげで吹き飛んだ。だから少し特別な気持ちになってもいいかもしれない。

 

「大井さん、あの…弟さんのためにサイン差し上げてもいいですよ」

楓は自分のハンカチをポケットから取り出すと、大井さんに、と書いて奈波に渡した。

「いいの?っていうかこのハンカチまでもらっていいの?」

「はい。アマンダさんに遊んでいただきましたし。なんとなく今はそんな気持ちなんです」

 

「そっかー!ありがたくいただくよ!」

奈波は楓に大きくお辞儀をしてから、アマンダとともに夜の街に消えていった。

楓は、奈波が誰かににている、と最初に思ったのが誰か、わかったような気がした。あの人見知りのない奈波の明るさはリンの明るさとどこか似ているのだ。表面への出方はかなり違うけれど、周囲の人を照らす独特の明るさが。

 

「わたしがどうりで彼女を警戒しないはずですよね…」

 

 

 

§2 神の手

 

 

「えー…。弟やっぱりだめでした。人として」

あれから数日後の昼休みに食堂でご飯を食べていた文嘉と奈波を見つけ、隣の席で食べ始めた楓に、神妙な声で奈波が謝罪してきた。

「吾妻さんからいただいたハンカチを渡したら滂沱して、部屋に閉じこもってしまいました」

文嘉がげほっ、とむせこんでナプキンで口を拭う。

「あのっ、楓さん!あんなこといってたのに、ハンカチまであげたの?」

「あ、はい…その、大井さんの犬のモフり代といいますか」

楓も微妙な顔つきだ。望んでいないとはいえ、かえって病状を悪化させてしまったわけだから。

「それは…いいえ、いいわ。楓さんが納得しているならいいの」

なにか言いたそうな文嘉は指で眉間を抑えると、食事に戻った。三人に苦しい沈黙が訪れる。三人とも楓のハンカチの運命について思いをいたして、そして口にするのが憚られたのだろう。

 

「…で、そのですね」

奈波が恐る恐る楓に声をかける。

「吾妻さんに多分お会いしたがってい」

「丁重にお断りします」

楓は死んだ魚の目で台詞に割り込んだ。変態に会う気はない。

 

「いやその、会いたがっているのは弟ではなく。弟は吾妻さんの本物みたら心臓止まって死ぬと思いますので。アマンダのほうがですね。吾妻さんを気に入ったらしくてですね、散歩のときに目が語っているんですよ。あのお姉ちゃんまだかと」

「ああ、ええ、それならまた機会がある時に一緒に遊ばせてください。アマンダさんなら大歓迎です」

楓は気を取り直した。あの犬なら構わない。

 

「そういえばアマンダさんは元気なの?もういい年だとおもったけれど」

文嘉もあの犬を知っているようだ。

「もう来年で10歳ですからねぇ。いい年齢ではありますねぇ」

「わたしも今度一緒に遊ばせてほしいわ。なんというか、犬はいいわよね」

「そうですよね」

「あの礼儀正しいところがとても…人間と違って素晴らしいわ…」

はぁ、と文嘉が深いため息をつく。

 

「人間とちがって、というと?」

「人間はね…奈波さん。思いついたとおりに生きることができる。そうね」

「そうですね。でもそれだけじゃだめですよね?」

「そうね。思い付きだけじゃだめね」

奈波と話す文嘉のオーラが黒くなっていく。楓はトレーを少し離して、無言のまま食事を続ける。

「Life is what happens to you while you're busy making other plans...」

「ジョン・レノンですか!」

「そうよ、他人の思い付きのせいで忙しいだけ。そしてわたしの人生は終わるの」

「意味がちょっと違うような…。文嘉ちゃん成子坂でそんなに忙しいんですか?」

「ええ。事務所でいきなりゲーム大会したり、いきなり焼肉大会開いたり」

「素敵ですねぇ。わたしも素質あったら文嘉ちゃんと一緒に働きたかったですよ」

「素敵?素敵じゃないわっ」

ついに闇落ちしてしまった。楓は食事をとめて文嘉に謝った。

「あの、焼肉については本当にリンがご迷惑をおかけしました…」

「楓さんのせいじゃないわ!あれはリンさんとなにより考えなしの隊長がっ!」

あれは酷かった。出撃でリンのファインプレイにいたく感動した隊長が「今日は俺からリンにご褒美を上げよう!」「肉がいい!」「よし、買ってこい!財布渡すぞ!」「わーいわーい」で始まった地獄。リンがやりきった感で担ぎ込んだ30キロの肉。事務所の中は焼肉の匂いにあふれ、磐田が怒鳴り込み文嘉が涙目で片付け、隊長は廊下に正座させられた。

「楽しそうですね!」

「楽しくないわッ!」

目を輝かせる奈波とハイライトの消えた瞳で返す文嘉。

「仏陀は語ったわ!心が全てだ、君は君が思った通りの人間になる!と。ゲームのことばかり考えるシタラは頭部がゲーム機になるに違いないっ!そしてリンさんの将来は焼肉よッ!」

「焼肉屋!?」

「ちがう!当人が焼肉になるのよ!」

「シュールで素敵!」

無駄にポジティブな奈波が胸の前で手を合わせて感動しているが、いまのどこに感動する要素があったのか。楓は首をひねらざるを得ない。でも。

 

”人は人が考えた通りの人になる…”

 

それなら、わたしはどんなわたしになるのだろうか。

正しい道を歩きたいと思えば、それだけで歩けるのだろうか。自らを律すれば、踏み外さずに進めるのだろうか。

わたしはそう信じていた。信じてきた。でも、それは本当だろうか。

 

「事務所の文嘉ちゃんはこんなに面白い人なんですか!?さすがアクトレス会社!」「うちの会社が変なだけよッ!」

きゃいきゃいと笑う奈波と、どす黒い炎を巻き上げ続ける文嘉を見ながら、楓はぼんやりと考えた。

 

 

2-1

 

シャード外壁領域。楓、怜、リンのアクトレス小隊が飛行している。

 

「そんなわけで、文嘉さんはまだお怒りのようでしたよ。リン、きちんと謝ったのですか」

「謝ったよー。あんまり食べさせないでごめーんって」

「だから怒っていたのですか…」

「そうだね。食べ物の恨みは怖いから気を付けないと」

「次回はもっと肉を買わないと!」

「多分それは違うね」

 

戦闘領域への飛行中に楓から隊長正座事件について文嘉のお怒りを伝えると、リンと怜がすこしずれたやり取りを始めた。

楓は右手を開いたり、握ったりしながら二人の話を聞いている。

 

「野菜も食べろって話だったらなしで」

「野菜は大事だとおもうんだけれど、それも違うような気がする」

 

あれから数日たっても、楓は手のひらに残った隊長の指の感触を反芻する。それだけで落ち着くような気がする。

-わたしは隊長に握られた一振りの剣

-剣は善悪を気にしない

 

無心でいい。剣を振るうだけでいい。

言葉を思い出すだけで、胸の奥がゆっくり開いていくような気持ちになる。

 

「はいはい。そろそろ作戦エリアよ。お仕事に気持ちを切り替えて」

バックアップサポートのゆみの声が聞こえる。

「隊長はまだ寝てるの?」

「昨日も徹夜したらしくて雑巾のように寝てるわよ。何かあったら起こすからとりあえずわたしの指示でやって頂戴」

「ゆみさん、上りになったらアクトレス指揮に転向することにでもしたの?」

怜の質問に、ゆみが答える。

「それもいいけどね。隊長を馘にしておりゃーお前らアクトレスはわたしの言うとおりに飛べばいいんじゃーって」

「それじゃ誰も付いていかないよ」

怜が大して面白くもなさそうに答える。

「ま、そうよね。隊長を馘にしたら怜は怒るわよね。無職になった隊長について行きそう」

「どうかな。関係ないし」

そうね。怜には関係ないわねー。といって笑うゆみの声に楓が横を見ると、怜は不愉快そうに口をすぼめている。

「さて、今日は後輩の渚ちゃんも見てるからしっかりね。

大型1、小型82。各自火器使用自由。大型到着まで20秒間、展開して小型を減らして。コンバットオープン」

「了解」

三機のギアが銀杏の葉のように軌跡を広げ、弾をばらまき始める。あちこちで火箭の花が咲く。

「セルケト接近、楓とリンで足止め、怜はそのラインで援護」

「了解」

 

問題なく展開される迎撃。セルケトの尾部破壊から一時停止、そこにリンのクローが叩き込まれて完全破壊。セルケトはシャードの重力を受けてゆっくり外壁に落下していく。

「お疲れ様。戦闘時間100秒。撤収許可。帰投ルートは転送済。あとは適当に帰ってきなさいな」

「了解」

ゆみのあーあ、というあくびの声で指揮室からの通信が切れる。

 

「ねえねえ楓。さっきの話に出てきた大井さんってどんな人なのー」

状況終了でリンがまた世間話に戻ってくる。楓は少し悩んでから、答えを返す。

「えっとですね…あまり食べない、博識なリン、みたいな」

「なにそれ。博識なリンとか全然似てないじゃない」

「酷いことを言うなーぶーぶー」

怜の突っ込みに頬を膨らませるリン。

「いえそういう意味ではなくて、リンのように明るい雰囲気の方なんですよ。

ロービジョンのハンデをお持ちですが、それを感じさせないというか…」

「それはいいね」

「うん」

 

「そういえばさ」

怜がふと気が付いたように言う。

「今日は楓さんの動き良かったと思うよ。何かあったの?」

「そうでしたか?」

「そういえば、普段よりずばばーんって感じだったね」

「ずばばーん?」

リンの表現はオノマトペすぎてよくわからない。

「なんていうかなー。楓は正統派直球投手でしょ。普段がずばーんなら、今日は”ば”がいっこ多い感じ」

「ああ、なんとなくわかる」

怜が引き継ぐ。

「後ろから見てると踏み込みが自然なのにわずかにテンポ早かったように見えた。だから好調なんだろうなって」

「そうですか」

 

楓は薄く微笑む。

理由は、隊長の言葉でしょうか。それともこの掌の感触でしょうか。

 

 

2-2

 

 

素志谷公園に星条の制服の文嘉、楓、奈波の姿があった。

放課後に奈波の家から連れてきたアマンダが文嘉に連れられて嬉しそうに階段を下りていく。奈波の手を楓が取っている。

アマンダは奈波の様子から、この二人に警戒する必要はないと理解したのか、文嘉や楓の言うことを素直に聞いてくれる。

 

「楓さんにもこういう面があったのね」

「どういう意味でしょう?」

文嘉の言葉に笑いながら問いかえす。

「失礼だけれど、笑いながら犬と遊ぶような、無邪気な面、といえばいいの?

付き合いは短くないはずなのに、あなたはもっと超然とした、厳しい人だと思っていたわ」

 

「厳しい、ですか…」

楓は思う。お父さんの言った「剣と心のゆがむ先」には大きな深淵が待っているような気がする。

武道を極め、剣を極め、正義を極め、最後の一歩で違うドアを開けたら、すべてが崩れてしまうのではないかと。

 

「ここのドッグランがある間に、なるべく連れてきてあげたいんだけれど、なかなか難しくて…

今日は本当にありがとうね」

奈波が二人に礼を言う。文嘉が、いいのよ、わたしも気晴らしになるわ、と答える。

 

「さあ、遊びましょうか」

リードを離して走り始めるアマンダにボールを投げる楓。アマンダがボールを拾って戻ってくる。

フェンスの傍に奈波が嬉しそうにその光景を見つめている。

「賢いですねアマンダさん。

さあ、もう一回いきましょう!」

 

 

文嘉がフェンスの傍で奈波と何かの本の感想を語り、自分は笑顔で犬と遊んでいる。

…ほんの三十分ほどのドッグランだったけれど、楓はこの時間を忘れないだろう、と思った。

 

その日が、楓がアマンダと遊んだ最後の日になった。

 

 

2-3

 

 

「状況終了。お疲れ様。シャード内での戦闘だったけれど、被害はなかったようだ」

俺の宣言に、指揮室と出撃していた三人に安堵のため息が落ちる。

「帰投ルートは設定済。戻ってきてくれ」

「了解」

 

テロリストの一件以来、楓は絶好調を維持したまま、何回ものヴァイスの襲撃をさばいていた。

今日もリン、怜と一緒の出撃で、シャード内に侵入した複数のヴァイスワーカーをきれいに一刀で仕留めていた。

あのテロリストとの一件で、近接戦闘になにかの開眼があったのかもしれない。メンタルも安定しているようで、エミッションも高レベルでずっと安定している。言うべきことの一つもない。

「まあ、好調なときってのはこんなものかもしれないが…」

 

その時、ヘッドセットに楓の切羽詰まった声と、リンと怜の動揺した声が聞こえた。

「大井さん!?」

「楓!?」「楓さん!」

情報リンクのディスプレイを見上げると、楓のギアが地上に落下していた。

 

「楓!何があった」

 

 

2-4

 

 

それは帰投中の一瞬の出来事だった。

 

帰投ルートの下方に見えたのだ。

横断歩道を犬と一緒に渡ろうとしている少女と、何も確認せずに右折したトラック。

そのトラックが少女を巻き込もうとしていること。その少女と犬がおそらくは大井さんであること。

大井さんが気が付いていないこと。

 

「大井さん!?」

わたしは何も考えずにブースターを最大出力に叩き込む。

 

瞬時に200mを降下

地上近くでターン

掴んだ相手を弾かないよう高次元圧力バリアを最低出力に落とし

 

大井さんとリードを掴んで上昇

でも

予想しない荷重で一瞬だけギアの制御を失った

近くの民家の壁に突っ込みそうになり

高次元圧力バリアを再展開

 

その瞬間、リードが切れたのが見えた

 

 

2-5

 

 

楓は奈波を抱きしめたまま、呆然として自分が急降下した交差点を見つめていた。

 

楓が落下した民家そのものは運よく破壊されていなかった。

しかし周囲は展開した高次元圧力バリアで吹き飛ばしたブロックや物置の残骸と、剥き出しになった鉄骨で凄惨な状態になっていた。高次元圧力バリアはヴァイスの攻撃に耐える。粒子砲にも耐える。もちろんAFVの装甲貫通弾も爆撃機からの爆弾といった通常攻撃も跳ね返すことができる。

そんなものを地上で展開したら小規模な爆発が起きたような状態になるのは当然だった。

割れたガラス窓から住人が楓に何か怒鳴っている。

トラックは道路の隅で壁にめり込んで止まっており、運転手が下りてこちらに向かってきている。

 

「あ…吾妻さん?」

「大井さん…」

奈波は大きな怪我をしていないようだ。楓が抱えて壁にぶつかったのだから、衝撃はあったかもしれないが…。

 

だが、交差点から少し離れた電柱の根元にべっとりと血がついていた。

その下に原型をとどめていない動物の死体が転がっている。

 

「ごめんなさい、大井さん…」

「どうしたの、吾妻さん。そういえば、アマンダは?」

「ごめんなさい…」

 

 

遠くからパトカーと救急車のサイレンが聞こえてくる。

アクトレスの戦場にはパトカーも救急車もないはずなのに。

 

なんだろう。この非現実的な光景は。

楓はあたりを見回し、そして血だらけの電柱に声もなく、いや、いや、と首を振り、膝から崩れ落ちた。

 

 

2-6

 

 

楓が事務所に戻ってきたのはその晩遅くだった。リンや怜はそれまで不安そうに待機していた。

民間アクトレスが帰投中に地上に落下し建造物を破壊。これはかなりの不祥事ではあったけれど、幸いなことに負傷者は大井奈波のみ、しかもかすり傷程度の軽傷だった。そもそも事故の原因が当人を交通事故から救うためだったのだ。

緊急避難だからといっても、落下して壊した民家の人間も最初は怒っていたが、状況を知るとむしろ仕方ない、人を救ったのだから、と言って呆然としたままの楓に声をかけたほどだった。

製作所としても万全のフォローを引いたし、今回はAegisの籠目さんから必要があれば弁護士の紹介もできますから、頼っていただいていいのですよ、という連絡があった。

大井奈波のペットはトラックに跳ねられて死亡。これはやむをえないことだった。

陰ではともかく、表面上は楓を責めるものはなかった。Aegisが手を回したのか、まもなくSNSには「アイドルアクトレス、人命救助で墜落」というようなメッセージが流れ始め、楓に賞賛と同情的な声が溢れ始めた。

 

警察に呼ばれたことで疲れ切ったのか、事務所に戻ってきた楓は焦点の合わない瞳で、すみません、隊長、すみません、と小さい声で俺に何度も繰り返した。

「まあ、お茶でも飲もう…」

「はい…」

 

楓はスツールに腰を下ろし、うつむいたままテーブルを見つめている。出したお茶にも手を付ける様子がない。

「今日の楓の行動は、法的に罪を得ることはなかった。これはいいかな?」

楓は無言のまま頷く。

「道義にもとる行動でもなかった。これもいいかな?」

やはり頷いてくれる。

「確かに地上に落下したことや、周囲を破壊したことはショックだったと思うけれど…」

…ちがいます。そんなことじゃありません、楓はつぶやきながら首を小さく振る。

「助けた人命に比べれば些細なことだったと思ってほしい」

 

その瞬間、楓がゆっくりと顔を上げた。俺の目をとらえた楓の目には一度も見たことのない暗い絶望と、後悔が浮かんでいた。

「違います…。隊長…わたしは…」

 

「わたしは…助けられたはずなんです…アマンダさんも…」

「アマンダさん…?」

「大井さんの飼い犬です…」

「楓は精一杯やっただろ?」

「いいえ、二人を掴んだときに、一瞬だけギアの制御を失い…リードを切ってしまいました…そのせいで…」

 

「楓。人命救助のために訓練しているわけじゃない。それはいくら何でも無理だろう」

「いいえ、いいえ!救えたはずなんです!大丈夫だと思ったんです。未熟なわたしがギアの制御を失わなければ…」

 

激したせいか、楓の頬に赤味が戻ってくる。

ようやく、俺の顔が視界に入ってきたらしい。

 

「すみません…隊長に八つ当たりすることではありませんでした…。

わたしはもっともっと、修練しなければいけません」

楓は握った拳を持ち上げる。小さく震えている。

 

「修練はいいよ。でも、誰を救うために楓は修練するの」

「救いを求める人を、救うだけの力を」

「今日の子と、犬を救えるだけの力を?」

「もちろんです」

「100人が楓に救いを求めたら?」

「きっと救います…今、誓います、きっと救います」

 

俺が手のひらを差し出すと、楓は俺と掌をなんども見比べて、控えめに指と指を絡めてきた。

「隊長の指に、誓います。わたしはもっと強くなります…目の前で見殺しにする人を出さずに済むように…」

 

楓の指がしっかりと握られる。楓の頬が紅潮する。

「楓の手はこんなに小さいのに?」

「修練して、もっと手を伸ばします」

「人の手はそんなに大きくないよ。きっと誰か零れてしまう。そのときにも楓は嘆き続けるのかい?」

 

楓が沈黙する。俺を見つめたままの楓の瞳に涙が浮かび、頬に涙がつたって落ちていく。

「隊長…。いじわる…しないでください…心が痛いです…わたしは壊れそうなんです…」

「楓は優秀なアクトレスだけれど、神様じゃないんだ。できることをやればいい」

 

じゃあ!そういって楓は叫ぶ。

「わたしは神様になればいいんですか!そうすればこんなに苦しくないんですか!」

 

「そうだね」

俺は静かに言った。

「…それがSINだ」

 

楓の顔からさっと激情が去っていく。

「人類をすべて救えるなら、人はヴァイスになればいい。

他の人を救えるなら、ヴァイスになっていい、そう思えるかい?」

楓はしばらく考えて、ゆっくりと首を振った。

「それは…違います。それは何かが違う…と思います」

 

「ゆっくり考えよう。楓。重頼先生がおっしゃったように、何か正しいか、いろいろな体験をしながら心を磨いてほしい。

今日のように、俺が楓に指示が出せないときに、楓が迷わずに進めるように。

楓が正しい答えを選べるように」

 

楓は目を閉じ、何度も頷いた。

 

「はい…。はい…。

隊長がいないときにも、わたしはきっと…正しい答えを選びます…」

 

 

 

 

エピローグ

 

 

次にみたアマンダさんは火葬され、花に囲まれて小さな容器に入ってしまっていた。

あんなに大きかったのに。

 

奈波さん、奈波さんのお父様、お母さま、弟さん、そして文嘉さん、わたし。

縁のあった6人でペット霊園に一緒に向かった。

 

奈波さんはわたしに、ありがとう、助けてくれて、といって笑った。

わたしは、もしかしたらアマンダさんを助けられたことは口にしない。

ただ、アマンダさんも助けたかったです、と言ったら、奈波さんは嬉しそうな、悲しそうな顔で笑った。

実際に会った弟さんは、ごく普通の中学生だった。お姉ちゃんを助けてくれてありがとう、とだけ言って、あとは黙っていた。

 

「吾妻さん、百科さん、ありがとうございます。こちらがご迷惑をおかけしたにも関わらず…」

「いいえ、わたしたちもアマンダさんに遊んでいただきましたし。ね、楓さん」

「はい。落ち込んでいた時にアマンダさんに慰めていただきましたし。ご無理をいってご一緒させていただき、すみません…」

 

アマンダさんの合同供養簿は、大きな木の根元に何枚かの大理石がはめ込まれた、自然葬に近い場所だった。

良く晴れた空に、さわやかな葉擦れの音。ここならきっと穏やかに眠れると思う。

 

アマンダさん。あなたも見守っていてください。

わたしが本当に大事な時に、決して曲がり角を間違えないように。

 

そして、あなたを救えなかったわたしを、許してください。

 

 



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