ゴオオオオ、と凄まじい轟音が頭上を駆けていく。身を伏せていた子供は咄嗟に耳を塞いだ。それは単に身を守るための行動というよりむしろ、心を守るための無意識であり、彼は一日に数度訪れるこの数十秒を、濡れた動物が毛皮の水を払う時みたいに、大きくブルブルと震えてやり過ごしていた。
「………………」
音が遠のいていっても、彼はしばらく
「………………」
「…………あ」
脇の部分が吹き飛んでしまったせいで形だけになってしまった扉を開け、表に出ると、隣の家からガサゴソと何かを探すような音が聞こえた。子供の瞳に一瞬、光が戻る。
「たっくん……!」
隣に住んでいた友達のことを思い出して、一目散に駆け出す。確かたっくんの家も、
「たっくんー!」
しばらく声を出していなかったからか、それとも涙のせいか。震えた声が静かな町内に響くと、音は止まった。息を枯らしてようやく家だったものの前に着くと、中からゆっくりと人が出てきた。
「ん、もしかして生存者の声……?」
「…………………………?」
その人物を見て、子供は首を傾げる。耳に心地よく響くハイトーンボイス。黒いライダースジャケットを羽織り、薄汚れた赤いハンチング帽を被り、手入れのなされていない灰色の長髪を無造作に靡かせている。無論、たっくんではない。たっくんのお母さんでもない。お姉さんなら有り得るだろうが、彼にそのような存在がいると聞いた覚えはない。ということは、このお姉さんは…………
「ど……ドロボウ…………!」
「あ、ちょっとキミ!」
たっくんの家で何かを探していたということは、それ以外に考えられまい。聞き及んではいたが、彼が実際に泥棒に遭遇するのは生まれて初めての経験だった。だが聞いた限り、泥棒は危険な存在に違いあるまい。捕らえられた試しには何をされるかわかった物ではない。
「う……うわぁあああぁあん!!」
堰を切ったように溢れ出した震えは、悲鳴は、涙は。痛みでも恐怖からでもあったが、両親がいなくなった時からずっと溜め込んでいた慟哭だった。それを見た女性は、「ええ、どうしよう……!」と少年の前で右往左往して、二人揃って泣き出しそうになったところで唐突に、きゅるると小さな音が響く。それが少年のお腹から響いたと察した女は、ぽんと手を叩いた。
「ああ、なるほど。お腹空いてたなら言ってくれればいいのに。はい、これ」
手渡されたのは乾パンだった。少年はそれを受け取らず、かぶりを振って弱々しく突き返す。女はその様子を勘違いしたようで「別に遠慮しなくていいんだよ? そりゃまあ、貴重な食糧ではあるけど。小さな子がお腹空かせてるのをほっとくのは、なんとも忍びないからね」と少年の手に優しく握らせた。彼は目を逸らし、「ドロボウさんからは、もらいません」と呟いた。それを聞いた女は目を丸くして、それからクスクスと静かに笑った。
「あー、そういうことね。まあ、確かに人の家から勝手に物資を拝借してるけど」
そういうと封を破り、もそもそと乾パンを食べ始めた。
「……たっくんちのごはん……」
「たっくんってもしかして、そこの家の子?」
女が背後の廃屋を指さしたのを見て、少年は小さく頷く。
「それなら多分死んでたけど、見る?」
「……えっ…………!」
目を丸くして驚く少年に、女は首を傾げて続ける。
「あのねえ、そんなに驚くことでもないでしょ。九部の人間は、みーんな死に絶えてるんだから。一部を除いて」
「………………!?」
「ごめん。これ、この状況でそんなに驚くこと?」
口をあんぐりと開き、これでもかというほど目を見開いて驚きを表す少年に、女の方も驚かされた。しかしすぐに「そっか、キミのご両親も……多分もういないもんね」と納得したように言った。すぐさま少年は「ちがうよ……もうすぐかえってくるよ」と、かぶりを振って答える。
「言ってたもん……ここにいればだいじょーぶ、って。ママとパパがいいって言うまで出ちゃダメだよ、って。だからボク、ひみつきちの中にずっとかくれてたんだ。……ときどきおなかがすいて、かってに出ちゃったけど」
「……なるほどね」
その時だった。身を震わすような重低音が微かに聞こえた。遠くから近づいてくるそれは段々大きくなり、ぶおおおと嘶きのような羽音を鳴らす。女は焦った様子で、「キミのその
「ちょっと、ドロボウだとかそんなこと気にしてる場合!? このままだと二人とも死ぬよ!?」
「しぬ……?」
少年は考える。死ぬってことは、間違いなく痛くて苦しい。味わったことがないからよくわからないけど、この数週間よりも恐らくずっと苦しい。目の前のお姉さんを見捨てるのも心苦しいし、何より両親に会うことも叶わなくなってしまう。それはとても嫌だ、だから小さく頷き「こっち」と女の手を引いて走り出した。
「こ、ここ……?」
少年は頷いた。女の目には直径50センチほどの、ぽっかりと空いた穴しか見えない。覗くとどうやら通路になっており、奥へと続いているようだった。梯子に足をかけて降りていく少年を見て腹を括り、彼の後に続く。
通路を見遣ると数メートル先に、白い扉が開け放たれていた。中に、所狭しと詰まったガラクタの山が見える。倉庫として使われていたのだろう。
「……シェルターじゃない!?」
「?」
「あー、でももう引き返す時間もないか……! よし、キミがいつもどの辺にいたのか教えて!」
「おくのほうだよ!」
少年の先導に続き、ガラクタの山を潜り抜けていくと、その先に大きなカプセルが三つあった。手前の開いた物を一瞥して、奥の閉じられた二つを見る。
「なるほど、カプセル型シェルターね。短期的な避難を見越すならこれで十分だもんな……ってうわ、灰がやばい。少年、キミが使ってたのこれでしょ?」
「うん」
「ごめん、一緒に入らせて!」
「!?」
カプセルの中に押し入り、ボタンを押す。稼働音とともに開いていた扉が閉まり、内部に除染された空気が入り込む。大人一人でもゆとりがあるように作られた空間だが、いくら小さな子供とはいえ二人で入るように設計された物ではない。少しでも楽で快適な姿勢をとるために、女は少年をぎゅっと抱きしめた。
「!?!?」
「ごめんね、ちょっと我慢しててね」
少年の顔を圧迫し始めたのが女性の胸だと気づくのに、数秒の時間を要した。その膨らみに埋もれてしまったせいで、呼吸が覚束なくなり息が荒くなる。汗と、微かに甘い香りがした。抗議しようともがき始めた時、丁度ゴオオオオと聞き覚えのある、もう二度と耳にしたくない音が響いてきた。
途端、少年の体は震えを抑えられなくなる。脳裏に過ぎるのはあの日、街が燃えた日の光景。車で出かけた帰りの話。大きな飛行機から降り注ぐ爆弾の嵐、悲鳴を上げ我先にと逃げる民衆、怪我人の慟哭、車を乗り捨てて走り出した時の、父と母の温かい手。狂気と混乱が渦巻きだし、それすらも吹き飛んでいく街を抜け、ようやく辿り着いた我が家。物置部屋だった地下室に、何か起きた時のために設置してあったカプセル。その中に入れられ、「絶対に大丈夫。だから、パパたちがいいっていうまでそこから出ちゃダメだぞ」と優しく言った父。何も言わずに抱きしめ、そっと額に口付けてくれた母。
ゴオオオオ、という音が怖くて震えて、震え続けて、それでも両親の言いつけを守ってじっと待っているうちにいつの間にか寝てしまって、目覚めてもいつまで経っても両親の声は聞こえてこなくて、そのうちお腹も空いてきて、それでも音は消えなくて、震えながらも言いつけを破ってカプセルを出てしまって、気づけば世界は灰色だった。
「……大丈夫だよ」
先程までよりも優しく抱きしめられる。ぽん、ぽん、と、不器用なリズムで頭を撫でられる感触。先程の走馬灯のような何かのせいで震えきっていた体は、それで落ち着いた。音も、いつの間にか過ぎ去っていた。
「……よし」
開閉ボタンを押して、カプセルの外に出る。涼しさと開放感と、それから少しの名残惜しさがあった。
「な、なにやってるの……?」
「んー? ちょっと構造を確認してる」
ポケットからドライバーを取り出し、何やらカプセルを調べ始める女。やめてよ、と少年が絞り出したように呟いたが、「これは君のためなんだよー?」と諭すように言われる。少年は、訝しげに女を見た。
「本当に……?」
「ほんとほんと。んーっとね、カプセルタイプのシェルターって装甲の分厚さが製造年代で異なるんだけど、軽くて分厚い最近の型だったら多分、食糧スペースとか有毒ガス対策の除染フィルター層とかを全部
「……?」
「そもそもあの戦闘機って私やキミみたいな灰爆弾の殺し損ねを始末するためのドローンなんだけど、そういう無人機なんかから簡単に身を守るために作られたのがカプセルシェルターなわけだから、中に入ってさえいれば捕捉されないのね。ああ、そもそも灰爆弾っていうのは有機物を灰に帰す粒子をばら撒く兵器で──」
「???」
「ああごめん、よくわからないよね」
目をぐるぐると回し始めた少年に苦笑して、ぽんと頭を撫でる。それだけで、彼は平静を取り戻したように見えた。この状況で生きていたのも、親の言いつけをある程度守ったからこそだ。利口な子なのだろう、と女は予想を立てる。
「まあ一つ言えるのは、私や君みたいな死に損ないは、そのせいで体の一部が灰色になっちゃったってこと」
灰色の髪を撫でながら、少年の灰色の瞳を見つめる。今更ながら、きれいなおねえさん、という感想を抱いて、少年は頬をほんのりと赤くした。
「よし、改造も終わったし行こっか」
「いくって……どこに……?」
「さあ?」
よいしょ、と女は軽々とカプセルを背負いあげる。そのジャケットの裾をくいっと引っ張った少年は「ぼくは……ここにいる」と呟く。
「ここで、パパとママをまつ」
「んー……まあそうしたいならそれでもいいけどさ。パパとママ、もう二週間くらい帰ってきてないでしょ? キミのことを忘れちゃった訳じゃないだろうけど、帰れない状況にあるのかもしれない」
だからさ、と続ける。「私と一緒に探しに行かない?」
「おねえさん、と……?」
「うん。どうしてもここにいたいっていうならそれでも構わないけどさ、私とはサヨナラだね」
「……………………」
帰らぬ両親と目の前のお姉さんを天秤にかける。約束は破りたくない。でも、もう一人にもなりたくない。迷った末、彼はもう一度裾を引っ張った。
「いっしょにいっても、いいですか」
「勿論ウェルカムだよ」
女は優しく微笑み、梯子を登る。外の世界は相変わらず灰色で、空も曇りきっている。それでも風だけは頬を優しく撫でていって、彼女の髪を靡かせた。乗り捨てておいたスクーターからヘルメットを取り出し、少年の頭に被せる。鼻先まで深々と埋まってしまい、「わ、わ」と動揺する彼を見て笑って、サイズを合わせてやる。ようやくいい具合に落ち着いたところで、ヘルメットの上にぽんと手を置いた。
「少年、名前は?」
「……かいと」
「かいと、ね」
エンジンをかけ、後部にかいとを乗せる。「振り落とされないようにしっかり掴まっててよ?」と、腰に手を回させて。その背には、身の丈よりも大きなカプセルが結ばれていた。女はあっけらかんと言う。
「よし、じゃあ楽しい二人旅の始まりだー!」
「あ、あの……おねえさんのなまえは……?」
「んー? 私はねー…………」
最早道とは呼べないボロボロのコンクリートの上を突き進む。当然宛などない。だがそれでよかった。エンジン音が遠くなっていく。一陣の灰が、舞い上がって風に溶けた。