風に吹かれて、木々がざわめいた。普段ならおどろおどろしいはずの、夜の寺院のその光景は、ひしめく人と煌々と照る明かりのせいで、その印象を全く変えてしまっていた。熱くなった身体に夜風が心地いい。
暗闇を照らす明かりの中で人の波を眺めていると、どこか白昼夢のような不思議な感覚に襲われた。いつもなら普通にベッドに夢を見ている時間に白昼夢なんて、おかしな話だ。
「そろそろ、帰るか?」
俺が問う。領家は答えなかった。まだ、彼女の顔はまともに見られない。
屋台の軒先から漏れてくる、電球のオレンジ色の光が、玉砂利の地面に投げかけられ、飛沫のように散乱していた。綺麗だった。
「もう少し……なにか、見ていこう」
領家は言った。その手は俺のコートの背中を、まだしっかりと掴んでいた。
家に戻って自室に入ると、女児がベッドに寝転がりながらテレビを見ていた。寛ぎすぎだろ。
「おう、お帰り。どうだった?」「『陰から見守っている』とか言ってましたよね? 見てなかったんですか?」「ちょっと人が多すぎてね。私、人混みきらい」
適当すぎる。本当にこの人が人類を作ったのか? いや、むしろこういう人が作ったからこそ、色々変なバグが生じてしまうのかもしれな。そう考えるといろいろなことが納得できそうな気がした。
「なるほど、そんなことがあったか」
俺が今日あった出来事を、寝そべったままの女児に報告すると、彼女は感心したように頷いた。
「なかなかやるじゃないか、見なおしたぞ」
そう言って、俺の頭を撫でた。こちらが格下なのは理性でわかっているのだが、なんだかその仕草は背伸びをして大人の真似をする少女のようで微笑ましい。
「ふむ、何はともあれ初デートはこうして成功におわることができた。次は学校でのアプローチだな。君らにとっての日常生活の舞台である学校においても、彼女にとって『特別』になることができれば、親密度はぐっと向上するはずだ」
「はあ、具体的には、どんな感じで……」
「それくらい自分で考えたまえ! 全く、人間というのはちょっとほめるとすぐそうだからな……誰に似たんだか」
女児以外に居るわけがない。
「まあ、恋愛初心者の君に対して突き放してしまうのも少々酷な気もするもするな。アドバイスをやろう。簡単なことだ。彼女の活動を熱心に手助けしてやれば良いのだ」
女児はそういうと、俺が淹れてきたお茶をふーふーしてから飲んだ。
俺は、そのアドバイスに少し考え込んでしまう。なにしろ、領家の活動とは、女児の目的達成を阻害すること、いま彼女が俺を介して行っている工作は、領家のその活動を封殺するためのものだ。
それなのに、領家の活動を手伝え、とは。
「なに、そんな堅苦しく考える必要はない。ただ彼女との連帯行動を通じて親密になればいいのだ。どれだけ活動が活発になろうとも、頭の彼女が恋愛にメロメロになってしまえば、組織は一瞬で瓦解するからな」
肉を切らせて骨を断つ、というやつだ。俺はその方針に納得する。領家との親密度をあげるのに、活動の手助けをすること以上に有効な策というものはありそうにもない。
冬休み明け、昼休み。普段ならベストプレイスで、菓子パンをむしゃむしゃしているところだが、俺は人目を忍び、地下のアジトへと向かう。
「来たか」
やはり、領家はそこにいた。というか、チャイムが鳴って速攻で席を立っていたから嫌でも目についた。ここで一緒に行こうなんて言えるはずもなく、結果ストーカのような形で実際彼女が入ったのを確認して5分ほど待って入るという謎の時間を過ごすこととなった。
「はやいな」「身体がここへの道を覚えてしまっているからな」
謎の言い訳をいいながら、領家の手元に目をやる。領家は弁当を開いていた。領家の弁当の彩りをみて、腹が鳴った。彼女はぷっ、と噴きだした。
「比企谷は飯、食わないのか?」「いや食うけど」「そんな量じゃ腹が減るだろう」「満腹になれば眠くなるしこれぐらいでいい」「いつも寝てるじゃないか……少しいるか?」「いる」
そういって、差し出された卵焼きを、ぱくり、と頬張った。
「うまいな、母親が作っているのか?」
問うと、領家はちょっと困ったように眉根を寄せながら、笑った。
「……自分で作っている」「すごいな」
素直に感心してしまった。その弁当は、ちょっと高校生が作ったとは考え難いほどに完成度が高かった。冷凍食品が詰め込まれているようなものではない。栄養的に考えられているばかりでなく、彩りもよく、なにより、美味い。
領家は照れを隠すように頬をかいてから、また弁当に取り掛かった。
口にほうれん草のおひたしを放り込んだあと、ふと箸を見た。
「……」
彼女はしばらく無言のあとで、俺の方へと目線をスライドさせた。それから顔を下に向けると、尋常じゃない速度で残りをかきこむように片付けてしまった。
なんだ……? と考え、すぐに思い当たる。俺が彼女の箸から直接食ってしまったのだ。いわゆる「あーん」して食べさせてもらう状態である。領家も気付かなかったのだ。気づいたのは自分もその箸で食べた後、間接キスが成立した直後だった。
身体が熱くなる。なんだか悪いことをした。
しかし謝るとまた余計に意識されてしまいそうだったから、俺は黙って、棚の資料に目を通し始めた。