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凍り付く風がビルの隙間を駆け抜けて、都心に寒さを運んできた。信号が変わると同時に人のさざ波が立ってはどこかへと流れていく。
忙しそうに流れていく蛍光盤には今年初の雪予報が示されていて、灰色の掛かった雲がのっぺりとしたビルを塞ぐように空に鎮座していた。
ヒートテックに感謝しながら、僕は流行りの曲を耳栓にして大学行きの電車を待っていた。
吐き出される白い息にもうんざりして、スマホを取り出す。しかし、気もそぞろですぐにしまいこんではため息をつく。
ふと、就活サイトの広告が飛び込んで来る。見たくも無いのに捉えてしまったそれから逃げるように、ぱっと目を逸らした。もうそんな時期だと分かっているのに、親から一度帰ってこいと言われているのに、僕はこのままだ。ずんずんと迫りくる時間から目を逸らすように、視界をさ迷わせた。
スーツ姿、制服姿。色んな人がひしめき合って僕の視界を塞いで息が出来ない。洗濯が、食費が、バイトが、掃除が。色んな思惑が混ざり合ってぐちゃぐちゃになる。
自然界の色を全て混ぜ込むと灰色になる、とどこかで聞いたことがあったけど、これはそんな灰色だ。重くて息苦しいアスファルトの色だ。
人混みに喘ぎながらもひたすらに電車を待つ。これでいいのか、なんて疑問は毎日僕の中で燻っていて、それでも毎回電車にのって決まっている講義を受けて、安い居酒屋で知り合いと夜を明かす毎日。
そんな毎日が永遠に続く訳じゃないのは分かっている。薄ら寒くなるような現実感がじわじわと背筋を凍らせていく。もう危機感の原因も足元まで来ているのに、それを必死に誤魔化しているだけだ。
「あ、雪だ」
そんな声が聞こえたのは、曲の切り替わりだったからだろうか。つられるように灰色の天蓋を見上げると、確かにぽつり、ぽつりと白い欠片が宙を舞っていた。
掴むように手をかざしてみるも、風で飛ばされてすり抜けていく。ふらふらと舞うそれに何故かシンパシーを感じてしまって、じっくりと見たいと思ってしまった。少し立ち止まってみたいと思ってしまった。
だから、まるで誘われるかのように、するり、と人のサウナから抜け出した。
「なんだかんだ、サボるの久々だな」
これからどうするかなんてノープランだ。きっと後悔する。今からでも講義を受けた方がマシなはずだ。けど、何となく息苦しい時間から前進した気がして、楽しかった。雪がちらつく中、僕は確かに自由だった。
けれど、目的もないままに歩くのはやっぱり難しい。真っ白な息を吐き出しながらベンチに腰掛ける。手が痛い位に冷たい。肺がちくちくとする。寒くて、痛い。けれど、ここ最近で一番生きている。そう感じてわくわくを噛み締める。
「こんな寒い日に、こんなところで座ってるなんて変わってますね? ひょっとして雪男ですか?」
人の流れをぼーっと眺めていて、そろそろコーヒーでも買いにいこうかな。なんて思っていた頃。彼女はやってきた。
「おーい、聞いてますか? あなたですよ? ベンチに座ってるあなた」
歳は同じ位だろうか、女の子が声を掛けて来る。初めは彼女が自分に声が掛けていたなんて気づかなかった。だって、彼女は、恐ろしいくらいの美貌だったから。自分とは住む世界が違う。そう感じてしまえる程に。
そんな彼女は何故か僕に歩みよってくる。
は? と思う暇も無く、彼女は僕の頬に顔を近づけてくる。彼女の一挙一動に釘付けになり、長い黒髪が耳に掛かるのをただ地蔵のように眺めるばかり。
心臓がドクドクと脈打つ。このまま何をされるのかと、困惑と期待で凍りづけにされたかのように、次の瞬間を待つ。
すると、ドライアイスに思わず触れてしまった時のような、酷く冷たい息がいきなり耳に掛かる。たまらず僕は情けない叫び声を上げてしまった。
「あ、反応した。そうそう、あなたですよー。初雪のこんな時間にぼーっとしてるなんて、どうかしましたか?」
絶世の美女がいきなり近づいてきて耳に息を吹きかけるなんて、寝耳に水。いやさ、寝耳に吹雪。七転八倒しながらもなんとかして、君は誰かという言葉を絞り出す。
「私? 私ですか? 雪女ですよ。そちらはどんな妖怪ですか?」
妖怪、という言葉を理解出来ずに、更に固まる。普通は人に対して妖怪だなんて聞かない。ひょっとして、とても残念な子なのだろうか。そんな視線を向けると、今度は彼女が慌てだした。
「あれ、あれ、あれれ。もしかして、あなた人間ですか? なんでこんな寒い所で何もせずにぼーっとしてるんです?」
今度はこちらが言葉に詰まる。サボってます。なんて言おうにも、こんなに雪塗れでサボる馬鹿は普通居ない。
何を言おうか。そもそも向こうもサボりなのだろうか。そうするならばきっと色々なところで仲間なのだろうか。
慌てる彼女と、言葉に詰まる僕。僕たちの間に雪が落ちて、コンクリートに新しい染みをつくる。
「雪を……雪を見てました」
サボっていたとも、逃げていたとも違う、溢した言葉。それが彼女に届いて、彼女は目を丸くして、その後、微笑んだ。
「そうですか、私も好きですよ。雪、眺めるの。だって、私の名前ですから」
初雪というんです。私。読みかたは『はつせ』なんですけどね。なんて彼女はにこやかに言う。
その笑顔に僕ははっとしてしまう。目を奪われる、とはこの事を言うのだろうか。彼女の微笑みはいつか見た画面越しのアイドルとか女優よりもずっと綺麗で、触れたら溶けてしまう儚さを伴なっていた。
艶めかしくも、健康的でもある彼女は僕の心を奪っていく。ふっとしたシャンプーのような香りが、鼻をくすぐり思わず息を呑みこんだ。
「さて、妖怪君。あ、そうです。君の呼び名です。せっかくの縁です。どこか遊びにいきませんか?」
絶世な彼女は残念な設定を持っていて、きっと同じサボり仲間だ。そんな子と遊んだら楽しいのだろうし何よりも可愛い。一緒に居られたらいい事があるかもだ。
そう思いながら随分と冷えてしまった身体を動かす。ふと気が付けば座っていた所に雪が積もっていた。
まずはコンビニでコーヒーを飲みたいと言いながらも買い物を済ませる、雪が降る程に寒いのに、猫舌なんですと、アイスコーヒーを買っていた。
いくら何でも設定に忠実過ぎる。なんて言うと彼女は、私が妖怪なの信じてませんね? なんてむくれていて、その顔もまた僕を惹きつけて自然に笑みが零れる。
カラオケもした。ゲーセンも、スタバも行った。自分が思いつく楽しい事を全てやった。楽しそうに笑う彼女を見て、コーヒーの味に悩む顔を見て、僕は更に彼女の事を知りたくなる。
だから、一歩踏み出してみることにした。昨日までの動けなかった自分を置いていくように。
拒否されるかも、とか内心ドキドキしながらも、なけなしの勇気を振り絞って、ラインを交換しよう。なんて彼女に持ち掛けた。すると彼女は困った顔で、スマホ、持ってないんですよ。と苦笑い。
「だから、妖怪君。明日もあのベンチに来てください。必ず来ますから」
彼女は、笑ってそう言った。その約束はどちらかが破れば消えてしまう儚いもので、だからこそ僕は必ず行くと強く頷いた。
次の日も満員電車から逃げ込む様に、あのベンチに辿り着く。雪が氷になっているベンチには彼女が座っていて、こちらを見るなり手を小さく振っている。。
「あ、来ましたね、妖怪君。待ってましたよ。さて、どこに連れて行ってくれるんですか?」
楽しそうにする彼女を見て、何となくこれから彼女とここで出会うのだろう。そんな予感が頭に浮かんだ。
それから決まってベンチに集合し、灰色が掛かった寒空の下で逢瀬を重ねた。面白いと評判の映画に誘ったり、マクドナルドで時間を潰したり。時にはラーメンをすすり、熱いのは本当に駄目なんです。と、笑う彼女を見た。
これは、確かに僕のモラトリアムだった。大人でも子供でもいられない時間を、ただひたすらに彼女と笑いながら消費していった。彼女が本当は何者かさえ知らない。そんな事からも目を背けながら。
出会いを重ね、約束を重ねて。いつからか彼女に恥ずかしくないようにと、時間を見つけては就活フォーラムへの参加をし努力を重ねていた。気が付けば満員電車も、就活の広告も息苦しく無くなっていて、自身が変化していた事にふと気づく。
彼女は笑っていた。彼女が笑って、僕も笑った。この気持ちに名前を付けるとするのならば、間違いなくそれは「恋」だったのだと思う。だから、その関係を深めたくてもう一歩だけ踏み出すことに決めた。
世間はクリスマス一色となる頃。雪予報を見て。気持ちを彼女にぶつけることに決めた。
またベンチにて彼女を待つ。少し遅れてきた彼女を連れて、イルミネーションで輝く通りを眺める。すれ違うのはカップルだらけで、僕たちもそうなるかもしれないと思うと、胸が高鳴った。
真白い息を吐き出して、随分と距離の短くなった彼女の傍らを歩く。人混みが増えてクレープやタピオカを持つ人が歩く中をクリスマスソングがを彩っていた。
ふと、彼女が立ち止まる。ぽっかりと黒く抜かれた空を眺めて、こちらを見る。僕もと、見つめ返すと何故か感じる温度差に心が怯む。けれど、それでもと、僕はしっかりと彼女の瞳を捉え続けた。
人の流れから外れた僕たち。周りから音は消え、思いを告げるには絶好のタイミングであった。
「雪、好きなんですよね? 妖怪君」
口を開けようとすると、塞ぐように声を被せてくる。そして笑って、彼女はぽっかり空いた夜空に向かって手を広げた。
それに天が応えるかの様に、ちらりちらりと白い結晶が舞い降りて来て、カップル達が、街行く人が色めきたつ。
再びこちらを見て微笑む彼女に、僕の口は勝手に動き出していた。
「好きです。初雪さん。僕と付き合って下さい」
このタイミングを逃す訳にはいかないと、脳内で考えていたよりも何倍もかっこ悪い台詞を彼女にぶつける。でもそれは紛れもない本心で、本当はそう伝えたかったのかもしれない。
「……そう言われるのは、うすうす感じていました」
けれど、目に飛び込んできたのは彼女の悲しそうな表情。ごめんさない、と、彼女は告げる。
ぴたりと、彼女は僕の頬に手を当てる。その手は、息は暖かった。
「もう、あのベンチには行けません。妖怪君。私の心はあなたに近づき過ぎました」
どうしても、あなたに焦がれてしまう。と彼女は続ける。
うすうす気づいていたんだ。分かってたはずだ。彼女への違和感を。彼女が常世のものではないことを。
「私は雪女。恋をすれば身体が溶けてしまう。いつも笑ってくれていたあなたはとても素敵で、これからも一緒にいたかった。けれど、それは無理なんです」
異様に冷たい息、冷たい手。。雪を降らせたこと。これらの事実が冷たい刃を僕に突き付ける。
そして、その彼女の手が暖かい。まるで氷が溶けてしまうかのように、彼女が変わっていく。
「私、実は雪って嫌いなんです。すぐに溶けてしまって、どこにも行けない。まるで私のよう」
それでも、あなたが好きだと言ってくれて、嬉しかった。私は雪でよかった。そう思えたんです。彼女は微笑む。
「僕はこの雪で変われた。踏み出せたんだ。……だから、僕は」
「知ってますよ。あなたが努力してくれたこと。成長していくこと。私のためだと知って嬉しかった。愛おしかった。……けど、駄目なんです」
雪女は成長することはありません。だから、あなたが羨ましく、眩しかった。その輝きをもったままに進んでください。
「いつか……雪の頃に、また会いましょう」
そう言って彼女はまるで溶けていくかのように、手を振りほどいて雑踏へと消えようとする。
──確かに僕は成長した。高校を卒業し、今の大学に入って、そしてもうすぐ就職だ。だからこそこの時間はモラトリアムと思っていたし、子供から大人になろうと思っていた。
だから、彼女の都合を考えるのが一番で、こんなのはエゴでしかない。それでも、自分の心の声からすらも逃げてしまっては、彼女にもう会えなくなる。それだけは間違いないようで。
だから、僕は子供のように彼女の手をしっかりと握り、そして抱きしめた。
「嫌だ! いつだって会いたい。いつだって側に居たい。それが駄目なら雪の頃だけでもずっといたいんだ!! 変えてくれえたのは初瀬さんだ。真っ暗な灰色の中で出逢ったのは君なんだ!」
「それでも私はっ……!」
「いい、構わない! それでも僕は君が好きだ!!」
もし、あの時追いかけられなかった僕がまだここにいたとして、どうなっていたのだろうか。
スーツを着て、満員電車を構成する一人となって、揺られていく。車窓から灰色の街を眺めて、寒さと寂しさに身を潜める。もうそろそろ雪が降る季節だ。きっと、そんなことすらも忘れていたと思う。
ピロンピロンと気の抜けた電子音と共に、満員電車から外に吐き出された僕。至ってしんどいし、嫌になる。けれどそんな息苦しさにも今なら耐えられる。
あの日、確かに僕たちは約束した。お互いに変わっていくことと、クールダウン時期を設けること。そうすることで彼女に冬の間だけでもずっと、会っていられるから。
まるでスキップでもしかねない位の早足で人混みを抜けてあの場所に向かう。そうすれば彼女に会えるのだから。
「あ、来ましたね。妖怪君。次はどこに連れて行ってくれるんですか?」
──知ってますか。妖怪君。
雪女には冬しかないんです。だから、君はいつだって会いたい、なんていってくれたあれ。本当は叶っていたんですよ?
どんどんと変わっていく君と、変わらない私。しわくちゃになってだんだんと年老いていく君は、それでも私を愛してくれた。
「ありがとう」
ぽつり、と呟いて、もう誰も来なくなったベンチをさする。
あの時と比べてとてもボロボロになってしまった。来年には取り壊す話も出ているらしい。
そんな大切な場所を見て、重ねた逢瀬を思い返す。暖かい手と優しい笑顔。それは昨日の様に思い出せて、この胸を文字通り焦がしていく。
「あぁ……」
この痛みを、熱さを、春も夏も秋すらも、彼はずっと持っていたのだろうか。だとするならば、やっぱり彼は凄い。本当に凄くて……愛おしい。
それは私という存在に決定的な火をつけていた。大きな感情のうねりが私燃やしては、溶かしていく。
向こうにいけば会えるだろうか。また微笑んでくれるだろうか。それだけを考える。
雪女は恋は出来ない。恋をしてしまえば最期。感情が己が身を焦がし、水滴に変えてしまう。
それでも私は後悔はしていない。だって、彼と一緒に変わっていく事が出来たのだから。
「今、行くね。妖怪君。……少しだけ遅刻しちゃうけど、必ず行って見せるから」
もう一度、あの場所に行ってみよう。きっと優しい彼は待っていてくれるはずだ。
何度だってデートがしたい。今度は、お花見も海も紅葉も見れるはずだから。
夢を見るようにまどろんでいく。意識が混濁して溶けていく。
それでももう怖くはない。だって、きっと。
「いつか、雪の頃に、また……会えると、いいな」
その日、雪が降った。その雪はすぐに止んでしまって積もる程では無い。けれど、確かに灰色のアスファルトには雪が溶けては色を変えた。
その点々と残った染みは、まるで足跡のように何処かへと向かっているように見えたのだった。
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