この夏から一年、早苗さんの家にお世話になる。 作:ももいっぷ
旅立ち
蜩が鳴く――。
今年も七月三十一日が終わりを迎え、本格的な夏が始まろうとしていた。
リビングから見上げた壁掛け時計の秒針は、もう間もなく一周する。
ジジジジ、と静けさの漂うリビングに時を進める音が木霊して、俺はゆっくりと目を閉じた。
――この瞬間だけは、何度経験しても……慣れない。
たった数秒のはずなのに、それは何時間にも感じられる程の静寂。
しかし確実に秒針が回った時、俺は静かに目を開ける。そして。
「……!? あ、あんた誰よ!!」
さっきまでの静寂を割くように、耳をつんざく音が左耳を刺激する。
声の主を振り返れば、そこには信じられないものを見るような目で俺を睨みつける、白髪交じりの老婆の姿があった。
何度も聞き慣れた言葉。
何度もそうしてきたように、優しく老婆に語り掛ける。
「おばさん、俺ですよ。呪い子です」
それは努めて優しく、そして自然になるよう振り絞った言葉。
老婆はやはり俺を睨みつけながら、しかし自身の足元に転がったメモ帳の存在には気付いたようだった。
それをゆっくり拾って、パラパラと適当に読み漁り、約数分の時を経てそのメモ帳を閉じる。
「あんたが……。ここに書いてある通り、本当に不気味な奴だねぇ」
「……どうも」
「全部読んだが、まあ、酷いものじゃないか」
さっきまで俺に驚いていたのが嘘かのように、メモ帳を読んだ後の老婆の態度は変化していた。
だがしかし、それもいつも通り。
毎年の事だ。
「お世話になった恩人に、よくもこんな仕打ちが出来たもんだ」
「そうですね」
「……まあいい。あんたを見るのも、これで最後なんだろう」
信じられないことに、目の前のこの老婆は俺の親の様なものだ。
勿論、本物ではないのだが……しかし、どちらもろくでもない人間であることは変わりない。
俺の父親の保険金を吸わせただけで出来た、借り物の親に興味は無いのだ。
「さっさと出ていきな」
それが、俺の親だったものの最後の言葉。
後はこちらに興味がないかのように一瞥もくれないまま、荷物を持って玄関の戸を閉めるまでずっと存在を無視していた。
老婆とは、もうこれきり会うこともないのだろう。
しかし俺は、礼儀を忘れない男だ。
最後にきちんと礼をして、数年の時を過ごした敷地から外へと飛び出す。
「……お世話になりました」
『8月を迎えると、全ての人の記憶から存在が消える』。
そんな馬鹿げた呪いの事を知ったのは、三歳の頃だったと記憶している。
腕につけた時計は既に8月1日に日付を切り替えていて、それは俺の存在がまた人々の記憶から孤立したことを意味するのだった。
俺の存在を記憶しているのは今この世界で、ただのメモ帳だけだ。
メモ帳にはこれまでの事と、呪い子のこと。
そして、この年を期に老婆の元を離れる旨が書かれていた。
今となっては、もうどうでもいいことだ。
……しかしこんな世界を除けば、俺の事を覚えてくれている人もいるものだ。
何をどうして呪いの影響を受けずにいるのかは知らないが、その人は巫女をやっているのだから神聖な力が云々で跳ね除けているのだろう。
何でもいい。俺にはもう、その人しかいないのだから。
東風谷早苗。
今年十八を迎えた俺より、二つだけ年上のお姉さん。
ただの幼馴染であった俺をずっと気にかけ、幻想郷という遠い場所で存在を記憶し続けている唯一の人間。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」なんて甘えていたのがつい最近の事のように感じられた。
彼女から送られてきた手紙が、真夏の寒空の中で小さく揺れる。
そこに書かれているのは、俺に残された時間がもう少ないこと。
この一年で呪いを解決させるべく、彼女と同じ幻想郷へしばらく住まわせること。
そして、その幻想郷とやらへの片道切符であった。
手紙に書かれている通り、地元の廃路となった駅で二時二十二分を待つ。
夏だというのに吐息が白く流れる。やがて時間になってから、俺は目を見開いた。
「マジかよ……」
まるでそこにきちんと線路が存在しているかのように、ごく自然に電車が目の前で停車する。
状況の割りに落ち着き払っているのは……まあ、この世界に呪いというものが存在していることで、俺の感覚も麻痺しているのだろう。
キャリーケースの車輪を挟まないよう注意を払いながら、俺は電車へと乗り込む。
……やがて誰もいない、車掌すら存在しない電車は静かに走り出す。
ごく自然に、何も感じないようにこの世界を離れることになる。
それは初めての経験のはずなのに、俺には不思議と未練が無かった。
ただこれから会う……ずっと久しぶりに会う、早苗さんのことだけを考えていた。
俺を……坂柳有羽という少年を唯一忘れず、ずっと、ずっと手紙を送り続けてくれた存在。
……静かに揺れる電車の中で、俺は微睡みに身を任せるのだった。
……そして、どれくらいそうしていたのだろう。
ふと目を開けると、そこは太陽の光が優しく差し込む草原の上だった。
錆び付いたキャリーケースが横に伸びていた俺の隣に置かれている。
勘弁してくれよ、と心の中で呟くがどうしようもない。
キャリーケースの取っ手を掴み半ば無理矢理引きずりながら、早苗さんの手紙にある通りのルートを進む。
一面草原の世界はいつしか、白い光に包まれる。
それはやがて俺の身体も呑み込んで、在るべき場所へと導いてくれる……と、手紙には記されていた。
……やがて草原は全て、光に埋め尽くされて――。
後には、不自然に広がる廃路だけが残される。
夏は、始まったばかりだ。