めぐり番外編2話目です。
前回の番外編のように前・中・後編としなかったあたり,何話で完結するか自信のなさが表れてますね……。
前回同様3話で終わらせられれば良いのですが……。
今回からお読みいただいた方につきましては、ぜひ本シリーズの1話、2話(大宰府編、岩屋城編)だけでも流し読みいただけると背景がお判りいただけるかなーと思います。
前回出てきた「前校長の所業」と、なぜ正史からズレてしまったのかをご確認いただければ幸いです。
その後,教室に戻った私たち。最後のHRで担任の先生から貰ったはなむけの言葉にみんなで泣いた。
全てが終わった後も私たちは名残を惜しむかのようにその場に残り,この3年間を,あるいは笑いながら,あるいは泣きながら語り合った。
本当はすぐに下校するようにという指示だったれど,先生は見て見ぬふりをしてくれた。
それでもお世話になった先生にこれ以上ご迷惑をおかけするわけにもいかないから,また近いうちに集まろうねと固い約束を交わし,高校生活の最後の一年を過ごした教室に別れを告げた。
みんなはそのまま家に帰るって言ってたけど,私は一人生徒会室に足を向ける。
会長になる前の役員時代から数えて2年以上を過ごしたあの部屋。
私の後任の生徒会長がなかなか決まらなかったから,他の人よりもほんの少し長くいたんだったなー。
一色さんの持ち込んだ私物で,私の時とは部屋の様子もずいぶん変わったみたいだけど。
生徒会室の前まで来ると,一色さんが部屋の鍵を閉めていた。
「あ,城廻先輩,改めてご卒業おめでとうございます」
「ありがとう一色さん。今日はもう終わりなの?」
「はい。本当なら卒業式の後片付けとかあるんでしょうけど,在校生わたし一人しかいませんし,早く帰れと指示が出てますから」
そっか,そうだよね……去年は役員の人たちと体育館の片付けしたんだけどなー。
「先輩,中に入りますか?」
「ううん,迷惑になるからまた今度。一色さんが生徒会長のうちにまた遊びに来るよー。あ,でも一色さんはまだ1年生だし,しばらくは大丈夫だね♪」
「ははは……でもせんぱ……比企谷先輩がいなくなった後も生徒会長の任期が残ってると思うと,ちょっと憂鬱ですよねー。いったい誰に仕事を押し付け……手伝ってもらったらいいかって」
「こらっ,比企谷くんはもう受験なんだから,卒業と言わずあんまり面倒かけちゃだめだぞ?」
それ以前に仕事を押し付けるって言ってた気がするけど。
「ま,まあ,そうですよね……でもせんぱいには責任がありますから。わたしを唆して生徒会長にしたこととか,全部見ちゃったこととか……」
「えっ!?」
「いっ,いえ,なんでもないです! 次の選挙の時には,かっぽれ副会長……じゃなかった本牧先輩とか新3年生に代わって新しい役員になるでしょうから,これまでの経験を生かしてこき使……手を携えて頑張っていきます!」
今、こき使うとか言ってたよね!?
その前に、全部見ちゃった責任って何のこと?
比企谷くんに何見せちゃったの!?
「じゃあ、職員室に鍵を返しに行きますんで、またいつでも遊びに来てくださいね。城廻先輩ならいつでも美味しいお茶を入れて大歓迎します。書紀ちゃんが」
「一色さん……」
「じょ、冗談ですよお。城廻先輩には,ほんっとに感謝してますから。いやがらせで生徒会長に立候補させられた時,先輩に相談してなかったら今のわたしはありませんでした。わたし,生徒会長になって本当に良かったと思ってるんです。だから,ありがとうございました!」
そして彼女は深々とお辞儀をした。
ずるいなあ、最後に真面目な顔でそんなこと言うんだもの。
「一色さんも,がんばって……ね」
そう言って、彼女を正面から抱きしめた。
あの時、彼女は自分から生徒会長をやると言ってくれたけど、それでも,私の力が足りないせいで彼女を本当ならなりたくなかった生徒会長にしてしまったという思いが,ずっと心の奥で小さな棘のように刺さったままだった。
けれど、今の彼女の一言が私をその思いから解放してくれた。
ありがとう,一色さん。感謝しなければならないのは私だよ。
その後,一色さんと一緒に職員室に鍵を返し行ったら,いろんな先生から声をかけられたけど,最後にお礼を言いたかった平塚先生は席にいらっしゃらなかった。まだ体育館で片付けをされているのかな? いつものように,若手は辛いなーとか言いながら。
職員室を出て一色さんと別れ,特別棟のあの場所へ足を向けた。
奉仕部 ―― 入口のプレートはたくさんのシールで彩られていた。最初に平塚先生に連れられて訪れた時よりもずいぶん増えたような気がする。
けれど,その部屋の電気は消えていた。
扉には鍵がかかっていた。
そうだよね……今は部活も禁止だもんね……。
今日が最後なのにまた彼に言ってしまった。
最低で不真面目だって。
本当は全然そんなことないのに。
すごく真面目なので,みんなのことを思って行動してくれていたのに。
自惚れかも,勘違いかもしれないけれど,今日も私のためにあんなことをしてくれたんだよね?
だから最後に一言いいたかった。
ありがとう,そしてごめんなさい。
私の心に残ったもう一つの棘。
ダメだ,ここで泣いちゃ。せっかく彼が笑顔をくれたのに。
ぐしぐしと目をこすっていると,廊下の端に何かがいるのが見えた。
うさぎ?
うさ耳が付いた,まるでバニーと呼ばれる亜人族のような姿をしたチョッキ姿の女の子が懐中時計を見ながらせかせかとどこかへ向かっていくのが見えた。
まるで,不思議の国のアリスの世界に迷い込んだような気がした私は,とにかくそのうさぎさんの後を追うことにしたの。
「待って! うさぎさん!!」
私がそう言っても,ちっとも待ってくれないうさぎさんは校舎の中をあっちへこっちへ走り廻り,私は必死でそれを追いかけた。
そろそろ,息が切れてこれ以上は……と思ったところで,うさぎさんは一つの部屋へ飛び込んだ。
ここって……会議室?
扉のガラスの部分に目張りがしてあるのか中の様子を覗うことはできない。
ちょっと怖いけれど,ゆっくりと扉を開けて足を踏み入れた。
その瞬間,突然ドアが閉められ,視界が闇で閉ざされた。
左右から複数の手が伸びて身体を押さえられて,制服を剥ぎ取らようとしている。
いっ,いやあ!
だけど,声を上げようとしても後ろから口元を押さえられて声が出せない。
一生に一度の,高校の卒業式なのに,どうして……。
安易に部屋に入ってしまった自分の迂闊さを呪ってみても今さらどうすることもできない。
いやだ,助けて……助けて……。
「比企谷くん!」
抵抗しながら必死に出した叫びは,やはりあの後輩の名前だった。
「はい」
え? 今の気だるげな声……。
そして突然射した光に目が眩む。
手で光を遮りながら、ようやく明るさに慣れた瞳に映ったのは,カクテルライトに照らされてキラキラ光る天井のミラーボール,LEDサインで彩られた部屋,そしてタキシード姿の比企谷くん。
さっき,女性下着にガーターベルト,さらに顔にパンツを被っていた人とは思えないくらい素敵だなあ。
そうだ! 私,さっき服をはぎ取られて……。
あれ?
改めて自分の姿を見るとワインカラーでAラインスカートのビスチェドレスを着ている……いつの間に?
デコルテが全部出ていてちょっと恥ずかしい……。
あれれ? 私,今日,普通のブラ着けてきたのに,なんで肩紐がないの!?
「どうぞこの靴にお履き替えください」
そう言って,少しヒールのある靴を私の前に差し出したのは,さっきのうさぎさん。
ええと,この子はたしか……?
「戸塚,悪かったな」
「ううん,僕は八幡が頼ってくれたから嬉しいよ」
そうそう,戸塚くん! たしかテニス部の部長さんだったよね?去年の体育祭の棒倒しで紅組の大将だった子だ。
彼女……じゃなかった,彼から少しヒールの高い靴を受け取った。
たしかに学校の上履きでこのドレスはちょっとミスマッチだよね。
ちょうど靴を履き終えた時,唐突にアップテンポな曲が始まった。
振り向くと,雪ノ下さんがギターを,平塚先生がベースを弾き,はるさんがドラムを叩いている。
ああ,文化祭のエンディングセレモニーの前のライブを思い出すなー。
今日はみんなドレス姿だけど,平塚先生だけいつものパンツスタイルに白衣というスタイル。平塚先生って国語の先生なのになんで白衣なんだろう?
あの時は,エンディングセレモニーを前にして実行委員長の相模さんがいなくなり,探す時間を稼ぐために急きょ決まった演奏だったけど,はるさんに言われてキーボードを弾いたんだったよねー。
今,私の代わりにキーボードを弾いているのは赤髪の知らない女の子だ。
「めぐり先輩,踊りましょう」
周りを見ると,一色さんや,由比ヶ浜さん,体育祭を手伝ってくれた,たしか海老名さん,そして三浦さんに相模さんも綺麗なドレスを着て踊っている。
比企谷くんに促され,私も踊り始めた。
クラブとか行ったことないし,こういう激しいダンスは得意じゃないかもだけど,千葉の名物踊りと祭り! 同じ阿呆なら踊らにゃsing a song!!
比企谷くんも慣れてないんだね。ちょっとぎこちない動きだったよ。
「お前,キーボードとか弾けたんだな」
演奏の合間,明かりが点いて,壁際のテーブルに用意された食べ物や飲み物をいただきながらの休憩タイム、比企谷くんはドリンクを手にキーボードの女の子に声をかけていた。
比企谷くん、またあの甘いコーヒー飲んでる……。
「まあな。昔,別府のキャバレーで,モグモグ,歳をごまかして,クチャクチャ,バンドの生演奏のバイトやってたんだ。ふんがふっふ」
女の子は,お皿にローストビーフとかサーモンのマリネ,から揚げ,ポテト,エビフライ,ピザなんかを山盛りにして,モリモリ食べながら比企谷くんの問いに答えていた。
「おい、食うか喋るかどっちかにしろよ」
ずいぶん気安く声をかけてるみたいだし彼女の方も親しげな感じ。二人はどういう関係なんだろう? 私,気になります!
「比企谷くんの知り合い?」
私もお皿にオードブルやサンドイッチを載せて二人の会話に加わる。
「こいつ,12月の終業式直前に編入してきましたから,年明けて自由登校のめぐり先輩はご存じないですよね。同じ学年の原滝です」
「原滝龍子です。大分から八幡を追いかけて東京に出てきて,今は陽乃大元帥の元でお世話になってます」
「おい,待て原滝,ここは千葉だ。東京じゃない」
「またまた,そんなこと言って。東京ディズニーランドにららぽーと東京ベイ,東京ドイツ村もあるんだから,これはもう東京だろ?」
「くっ……」
「だいたい田舎の方で会った千葉県とか埼玉県,あまつさえ群馬県や茨城県の人も大抵『東京の方から来ました』って言うぞ?」
「ぐぬぬ……」
「神奈川の人間だけは,『横浜から来た』って言うけどな」
なんだか仲いいなー,この二人。
「原滝さんね。去年まで生徒会長をやってた城廻です。私は卒業してこの学校からいなくなっちゃうけど,はるさんのお知り合いならまたお会いすることもあるかもだから,これからもよろしくね」
「あ……はい,よろしくお願いします」
それにしてもこの子も比企谷くんのこと……。八幡を追っかけて,とか言ってたもんね。わざわざ九州から千葉まで追っかけてくるなんてすごいよ。それに名前呼び。私にはできないよ。
私も,
「八幡」
って言えたらな……。
「め,めぐり先輩?」
んん? 比企谷くんが何か焦った顔してる?
「比企谷くん,どうしたの?」
「その……名前……いや,何でもないです……」
何だろう? おかしな比企谷くん。
「ちっ,このねーちゃんもかー」
えっ? 私,何か悪いこと言ったかな?
「で,比企谷くん。そろそろ説明してもらっていいかな?」
「それは私から説明しまーす!」
ちょっと丈の短いピンク色のドレスを着た一色さんが,きゃぴるんと私の前に来た。
「実はですねー,元は3年生の皆さんのために,謝恩会として大々的なプロムを企画してたんですけど,学校も休校だしそれどころじゃなくなっちゃって,でも,城廻先輩だけはみんなで盛大に送り出したいなーって」
「一色さん……」
「本当はこれもだめなんでしょうけど,そこは平塚先生がなんとか」
「平塚先生……体育館のアレも先生がいろいろと気を配ってくれたんですよね?はるさんのアレにはちょっとびっくりしましたけど,あんなくす玉、学校関係者に黙って用意なんかできないですから」
「ははは,たしかに陽乃のアレには私もビックリした。まあ,君たちにしてやれることもこれが最後だからな」
照れくさそうに頭を掻く平塚先生。
「ありがとうございます」
私は先生に向かって深々と頭を下げた。
「はるさん,雪ノ下さん,そしてみんな,ありがとう」
会場にいるみんなにもお礼を告げる。
「いえいえ,まさかねえさんがあんな暴挙にでるとは思いませんでしたけど,無事に終わって何よりでした。それにしても,ねえさんの隣にいたあの変態は誰だったのでしょう?」
「あはははー,誰だったのかなー」
比企谷くんの方を見ると何だかきまりの悪い顔してる。
まあ,ここは黙っといてあげようね。
「思い出した! 比企谷くん,私のパンツ返して!!」
「め,めぐり先輩!?」
「あっ」
これ……たぶんだけど,今言っちゃいけなかったやつだよね?
「城廻先輩,その……パンツとはどういう意味でしょうか?」
「雪ノ下さん,それは,その……」
「ヒッキー! なんでヒッキーがめぐり先輩のパンツを持ってるの!?」
「お,落ち着け。それは,アレがアレでアレだから……」
「はいはい,雪乃ちゃんもガハマちゃんも落ち着いてー。そろそろ再開するよー。ほら雪乃ちゃんは持ち場について」
パンパンと手を叩きながら,はるさんがダンスと演奏の再開を宣言する。
後で追及されるのは間違いないけど,それまでに言い訳を考えとけってことだよね?
はるさんグッジョブ! と思ったけど,どう考えてもはるさんが主犯だよー。
「ちょ,ちょっと待って!」
ああ……赤髪の子が残った食べ物を全部口の中に押し込んでるよ。普段,ご飯食べてないのかな?
再び明かりが落とされ,今度はムーディーな音楽がゆっくりと流れる。
いつの間にかチークタイムに移行したらしい。
比企谷くんは,由比ヶ浜さん,そして三浦さんから請われるまま,身体を寄せて踊っている。
海老名さんは少し離れたところからその様子を覗っている。
相模さんもやはり距離を置いてその様子を見ている。比企谷くんと相模さん,まだ仲が悪いのかな?
でも,相模さんが比企谷くんを見る目が,決して憎んでいる目じゃないような気もするんだけどなー。
今度は,戸塚くんだ。
なんかお似合いのカップルだなー。
って,よく見たら戸塚くん、いつの間にか綺麗なドレス着てる!?
戸塚くん、ちょっと膨れた顔をしてるけど,比企谷くんと踊ること自体はまんざらでもないみたい。比企谷くんの顔もいつになく緩んでるし。
ちょっと悔しいな。私と踊るときもああいう顔してくれるかな?
あ,海老名さんが鼻血を噴き上げて三浦さんに介抱されてる。
今度は,平塚先生のところへ行った。
平塚先生が,えっ,私?って感じでドギマギしてる。
恥じらいつつ踊る平塚先生,なんか乙女っぽくて可愛い♡
いよいよ次は私の番かなーなんて,ちょっと期待してたんだけど,曲がそこで終わってしまう。
次の曲もこんなスローな曲でだったらいいな……。
だけど、平塚先生から告げられた言葉は非情なものだった。
「すまない。完全下校時間をかなり過ぎてしまっている。この場は私が後で片付けるから君たちはすぐに帰りたまえ」
え?
「ごめんねー、時間を忘れてたよ。着替えの時間無いみたいだからドレスはそのままでいいよ。気に入ったならそのままあげる。今日は都築にリムジンで来るように言ったからみんな送っていくよ。荷物だけまとめて玄関の車寄せに集合ね」
はるさん、私、まだ比企谷くんと踊ってません……。
私、まだ比企谷くんに謝っていません……。
「みんな……今日は、私のためにありがとうね。最後に、いい思い出になったよ」
無理やり作った笑顔で最後にもう一度お礼を言った。
「城廻先輩、また奉仕部の部室に遊びに来てくださいね」
「千葉県横断お悩みメール、いつでも送ってください。待ってます!」
「雪ノ下さん、由比ヶ浜さん、ありがとう」
「城廻先輩、真っ先に生徒会室に来てくださいね。先輩のホームは生徒会室なんですから」
「うん、絶対に顔出すから。一色さんも頑張ってね」
「一色さん。あなたいつも奉仕部の部室にいるような気がするのだけど」
「やだなー,雪乃先輩。ちゃんと生徒会の仕事もしてますよー,ははは」
それからみんな口々にお別れの言葉を告げてくれて、私も一人一人にそれを返した。
でも比企谷くんだけは、少し離れたところに立ってこちらの様子を伺っているだけだった。
比企谷くん、私、今日で最後なんだよ? もう東京へ行っちゃうんだよ?
「陽乃さん、俺,自転車ですから車は大丈夫です。まだ休校続くみたいなんで自転車持って帰りたいですし」
「分かった。気を付けてね」
「じゃあ戸塚は私が送って行こう。女子ばかりの車じゃ居づらいだろうからな」
見た目は女子の中に混ざっても全く違和感ないと思うけど。まだドレス姿のままだし。
「それなら戸塚君は静ちゃんにお願いするね」
そして再び比企谷くんの方に目をやったけれど、彼はもうそこに居なかった……。
「じゃあ、みんな乗って。めぐりは一番最初に送って行くからすぐ降りられるよう乗る順番は最後ね」
みんなが車に乗り込む間、私は暗くなった玄関を見つめていた。
相模さんが乗って、いよいよ次は私の番……。
白髪の運転手さんがじっとドアの側に立ち,私が乗るのを待っている。
最後にもう一度振り向いて玄関を見たけれど、やはりそこに彼の姿はなかった。
悲しい顔を悟られないように少し俯き加減のままドレスの裾を持ち上げ、車に乗る。
私の気持ちをよそに運転手さんがドアを閉めた。
「都築、出して」
はるさんの指示の下,ヘッドライトを点灯させたリムジンが何の音もなく滑らかに車寄せを離れようとした刹那、キッ!っという急ブレーキの音とともに体が前のめりになっだ。
「比企谷くん!?」
そう叫ぶはるさんの声に前を見ると,まさに車の真ん前,それこそ一瞬でもブレーキが遅れていたら跳ね飛ばされていたであろう場所に自転車に跨る比企谷くんがいた。
「めぐりせんぱーい!」
ピッタリと窓の閉まった車の中、彼の声は聞こえない。それでも私の名前を叫んでいるのが分かる。
「比企谷くん!」
車のドアをバァンと開け放ち、比企谷くんのいる車の前へ飛び出す。
「めぐり先輩、乗ってください!」
比企谷くんの差し出した手を取って、彼の自転車の荷台に横座りした
。
「落ちないようにしっかり掴まって!」
彼の背中に頬をくっつけ、腰に手を回す。
それを確かめるや否や,比企谷くんの両手は自転車のハンドルをグッと引き付け,その足はペダルを力強く踏み出した。
そうして私を後ろに乗せた自転車はもの凄い勢いで門を飛び出していった。
「つ、都築さん、あの自転車を追って!」
「雪乃お嬢様、小回りの利かないこのリムジンの車長では、自転車を相手に追いかけることは難しいと思います。残念ですが……」
「そんな……城廻先輩の安全が……てっ、貞操が……」
「大丈夫です。八幡くんはそんなことをする人じゃありません」
「だな、八幡だし」
「海老名さん……原滝さん……二人とも彼を凄く信頼してるのね」
「信頼っていうか、な?」
「ヒキオにそんな度胸があったら,あーしらとっくに……」
「ねっ、ふふふ」
「な、その笑いはどういう意味かしら? とっくにって何なの? どうして三浦さんは顔を赤らめているのーーー?」
「比企谷くん、どこへ向かってるの?」
「さあ、何も考えてません。とにかく今はあそこから離れないと」
比企谷くんはそうして一生懸命、全速力で自転車をこぎ続ける。
私は、風を切って進む自転車の揺れに堪えられるよう腰に回した腕の力をさらにギュッと強くして、彼の背中に身体を預けた。