優しいだけの日々だった。
振り返って、そう思う。
ヒトモシの頃からともにいたそのポケモンは、最初は、わたしの病弱さに惹かれて、この人間ならすぐ死ぬかもしれないと思ってやってきたのかもしれなかった。きっと、もしかしてと言うまでもなく、それが事実なのだろうことは、間違いないと思った。
ゴーストタイプには、生き物の魂を食らう、というような逸話が多い。ヒトモシもその例に漏れず、ポケモンの生命力を吸って燃えている、だとか、そういう説明が、ヒトモシに関する論文などを調べれば載っていることがわかるだろう。だからこそ、ゴーストタイプたちは、死の気配のある人間に寄ってくる。格好の餌だと思っていたのかもしれない。あるいは、一種の仲間意識でもあったのかもしれない。
すぐに風邪を引き、それを拗らせるような脆弱な人間であったわたしは、ゴーストタイプに好かれやすかった。時折、まだ死なないのか、とばかりに病室に入り込んでくるそれらは、わたしにとって日常だった。
人々は顔を顰めるかもしれないけれど。
いつしか、それらを追い払ってくれるヒトモシが現れたのをわたしは知った。ヒトモシはなるべくわたしから距離をとっているようであった。バトルをしたような痕跡をいつでも残していた。それは、わたしに寄ってくるゴーストタイプたちとやり合った結果であることを、いつの日かに、わたしは知った。
それでもヒトモシはわたしのそばにいた。
やがてそれは、いつの日のことだったのだろう、ずいぶん昔であったのは確かだ。
それはランプラーへと進化した。
――不吉なポケモンと怖がられる。死者の魂を求めて、街中をフラフラとさまよう。
――臨終の際に現れて、魂が肉体を離れると、すかさず吸い取ってしまう。
――魂を吸いとり、火を灯す。人が死ぬのを待つため、病院をうろつくようになった。
そんな論文を読んだ。無機質な文章はただただ、そのポケモンの危険性を示すものばかりであった。
ランプラーとなったそれに視線をうつせば、ふわふわと浮かんでいるそれは、首を傾げるようにランプを傾けた。
「ねえ」
ランプラーと呼ぶのも違うと思って、とはいえヒトモシではないことは確かで、わたしはただそのとき初めてそのポケモンのことを呼んだと、あとになって理解した。
ランプラーは少し迷ったようだったけれど、わたしのところに少しだけ寄ってきたのを見た。やじろべえのように左に傾いて、そして右に傾いてとしているそれを、少しばかりの時間、眺めていたことを覚えている。
「きみ」
わたしは言った。
「わたしと一緒に、生きてくれないかな」
ランプラーは一鳴きした。それをわたしは答えだと認識した。モンスターボールを転がせば、ランプラーは自らそのボールの中に入っていった。
それが、わたしの唯一の
ヒトモシ系統の寿命について、どの論文も扱っていなかった。不吉なポケモンとおそれられるそれの寿命を観測するまで、ずっとずっと一緒にいるような研究者は、あるいは研究材料としてのケースは、まだ存在していない。
もしかしたら未来にはあるのかもしれないけれど、それでも、今わたしが生きている時代にその情報は存在しなかった。
愛していたのだと思う。そこに、甘やかなものはないけれど。滅多に会わない家族よりも、それよりもっと会わない知り合いよりも。
友人というものはいなかった。そもそも、友人をつくるだけの外出をすることすらできなかったのがわたしだ。
――たぶん、愛していた、というよりは、愛している、という方が、正しい。
「ランプラーは闇の石でシャンデラに進化するんだよ」
わたしがランプラーというポケモンと共にいることは、病院では周知のことだった。どうしてわざわざ不吉なポケモンを自ら手にしたのか、と眉をひそめる人もいた。わたしの病室には前以上に人が寄り付かなくなった。
そんな噂を聞きつけたらしい。不意に訪れた奇特な人は、わたしにゴーストタイプに関するプレゼンをして、それでもわたしがランプラー以外を手にする気がないと理解したようで、それならと。
ひとつの暗いいろをした石を、わたしの手の内に落とした。
「シャンデラのすがたも美しい」
きっとその人は、ゴーストタイプというものに魅入られているのだと思った。
きらきらと輝く目は、それでも深い、沼よりも深いいろをしているように思えた。
「それに、ランプラーも、君と共にいたいのだろう? きっと、君を愛しているから」
ランプラーが、わたしに近づくゴーストタイプのポケモンたちを相変わらず追い払っているのを知っていた。そのためにバトルをして、怪我をして、それでも立ち向かっているのを知っていた。
進化をすれば、傷つく機会は減るだろう。そういう思いで、わたしは闇の石を受け取った。そして、ランプラーにそれを与えた。大きな身体になったシャンデラを見て、くるくると回るそれを見て、不意にわたしは。
――この子と一緒だったら、どこへでもいけるのかもしれない。
そんな根拠のない自信を心のうちに抱いた。
根拠のない自信は、所詮根拠もないものだったのに。
希望を抱いた途端、体調は悪化した。シャンデラはくるくるとわたしの周りを回った。
顔を覗き込んでくるそれが、わたしを餌と思っているわけでも、仲間だと思っているわけでもなく、ただわたしを心配していることはよくわかっていた。
シャンデラの顔に手を伸ばすと、炎を避けるようにして擦り寄ってくる。
その気遣いに、そのすがたに、不意に笑みがこぼれた。
かわいくて、うつくしくて、いとおしい。
きっと、希薄なわたしの一生の愛は、この子に捧げるものとして定められていたのだと思う。愛してくれるこの子に、同じだけの愛を、それ以上の愛を、渡すためだけに、わたしは生まれてきたのだと思う。
恋など知らず、家族愛や友愛を上手く抱けなかったわたしの、最初で最後の愛なのだ。
「ありがとう」
愛しているよと伝えたって、いつか別のトレーナーを手に入れるだろうこの子にとっては、きっと重荷になるだろうと思った。時折わたしを思い出してくれるだけで、それで充分だと思った。
ほんとうは、寂しかったけれど、それはきっとわがままだから。
「ありがとう……」
シャンデラの頬に当たるだろう部分をそっと包んで、わたしはこつりと額を合わせる。シャンデラは静かに炎を燃やしていた。わたしをじっと見つめていた。
きいろい瞳が美しかった。
暗転。
ありがとうと笑って、そして目を閉じたトレーナーの命は、まさに今尽きようとしていた。このまま放置していれば、いずれその灯火は消えてしまう。それに手を加える必要はない。
シャンデラはしばらくその顔を見下ろしていた。血の気の失せた顔を見下ろしていた。こんなときでもトレーナーのそばに来ない人間たちを思った。死期を悟ったトレーナーは、きっと生きていきたかったのだと思う。
けれど笑って運命を受け入れた。そんな人だった。そんな人間だった。
シャンデラは炎を煌々と燃やす。そうして、無言でその身体を焼いた。シャンデラの炎はつめたい炎、その本質は焼くことではなく魂を燃すこと。
きっと熱くはないだろう。トレーナーの記憶に苦痛を残すことは、シャンデラにとっても避けたいことであった。
――のち、ポケモン図鑑の説明には、シャンデラについてこう記される。
――怪しげな炎で燃やされた魂は、行き場をなくし、この世を永遠にさまよう。
愛したかったのはシャンデラも同じだった。愛しているのはシャンデラも同じだった。トレーナーと一緒ならどこへでもいけるのかもしれないと思った。
だってトレーナーは言ったのだ。
わたしと一緒に、生きてくれないかな。
そう言ったのだ。柔らかな顔に寂しさを交えて言ったのだ。
ランプラーだったその頃の記憶を忘れているわけもない。シャンデラは確かに、トレーナーを愛している。
愛しているのだ。
いつまでも。
それを過去形にするつもりは、シャンデラにはなかった。それだけの話である。
身体のうちで揺蕩う魂をそっと体内に押し隠して、シャンデラはボールから外に出た。人間はモンスターボールに入れることはできない。人間の魂を身体のうちに含んだシャンデラもそれは同様に。
シャンデラは、離れたところで、トレーナーの身体が人間の手で運ばれて、葬儀という手順を踏んでいくのをただ見ていた。ほんとうは身体もシャンデラがその炎で燃やしたかったけれど、トレーナーとのさいごの時に部外者が割って入ってくるのは避けたかった。火災の匂いはすぐわかる。
ありがとうと自分を呼んだ声を反芻しながら、シャンデラは人間が土の中にトレーナーの身体を埋めるのもただ見ていた。その上に目印のように石を建てるのも見ていた。
そこにトレーナーはいないのに。シャンデラはただそう思った。トレーナーは、シャンデラの身体のうちにある。
シャンデラは、その石のところに鎮座することに決めた。
シャンデラを捕まえようとする人間たちがよくやってきた。シャンデラはシャドーボールでそういう人間たちを追い払って、人間が繰り出すポケモンたちを追い払った。
シャンデラはトレーナーに寄ってくるゴーストタイプのポケモンたちとよく戦っていたから、そのぶん場数は踏んでいて、ずいぶんと強かったように思う。複数体を相手にするのも当然のことで、追っ払わなければトレーナーに寄っていって、もしかしたら連れ去ってしまうことも知っていたから、そのぶん強くなることを覚えたのがシャンデラであった。
「ねえ、あれ――」
人間のうち一人が、シャンデラに対して指をさした。
「シャンデラの中にいるの、人間じゃ、」
――煉獄。
眼前にいた人間たちは、残らず消えていった。
ぱらぱらと灰が、土の上に積もる。トレーナーの身体を埋めた、その上に積もる。
残された火がちりちりと枯れた葉っぱの先を焼いていた。
それから、シャンデラは、ここに来た人々を一人残らず帰さないようになった。
大量の人間が来て、それから誰も来なくなって、シャンデラはそれでもそこにいた。
石は風雨で削れて、苔に覆われて、自然と同化していった。
「ポケモンだ」
声を上げたのは、まだ顔に幼さを残した人間だった。トレーナーにもこんな時期があって、それから幾許も経たずに亡くなったことを不意にシャンデラは思い出した。
どちらにせよ、誰が来ても、燃やすだけである。
シャンデラは炎を灯した。煌々と燃える焔。紫の炎がより青に近いものに染まる。人間はきょとんと目を瞬かせた。
シャンデラ、と。
声が聞こえた気がした。
それが気のせいでないとわかったのは、シャンデラにとって腕に当たる箇所に、暖かくもなく、冷たくもない感触が乗ったからだった。
「今度は――今度こそ、一緒に旅をしたいよ」
シャンデラ。
柔らかなだけの声だった。ささやかな笑いを含んだものだった。
ふいにシャンデラの灯していた炎は勢いをなくした。ちいさな紫の炎が、シャンデラの腕に寄りかかるその顔を撫でて、くすぐったいよと笑う声が響く。
シャンデラが愛する人間だった。幻影などではなく、紛れもなく、年月を経て魂としての格を得たトレーナーであった。
シャンデラとそのトレーナーだった人間がすがたを消すのを、偶然にそこへ顔を出した人間だけが見ていた。小首を傾げた彼は、ぽつりこぼした。
「いいなあ」
きらきらと瞳が輝いていた。
昔、墓地とされたそこに鎮座していたシャンデラが、いなくなったらしい。
そこへ来た人間を、ポケモンを、強大な威力の煉獄で残らず焼き尽くすシャンデラ。討伐隊なども何度か組まれたが、やはりシャンデラは焼き尽くした。
かろうじて生き残った人々やポケモンにも、重い後遺症を与え、そこは禁足地として知られていた。
その噂を知らなかった少年が、普通に帰ってきて、シャンデラと幽霊を見た、という話を親にしたのが始まりである。旅行客であった彼らは何気なくフキヨセタウンの人々にその話をして、たちまち噂は広まった。
それは本当かと詰め寄る人々、怯える人々を見て、初めてそこが危険な場所だったと知ったのである。
捜索隊が組まれて、くまなく調べられたそこにシャンデラが棲息していないのを確認し、その捜索隊のメンバーのうち、サイキッカーの老人がつぶやいた。
「ここにトレーナーの魂も、誰かの怨嗟の声もない。あるのはポケモンの忠義と、トレーナーの愛と――そして、彼らの絆の残り香だ」
共にいたがっているという、どちらもお互いを愛しているという僕の見立ては、間違いなかったようだね。
そう言って微笑んだ彼の真意を、理解する人間はいなかったけれど。
やがてそこには、タワーオブヘブンという、あまりにも有名な墓地が建った。
フキヨセタウンがフキヨセシティになってからも、ずっとずっとそこにある。
タワーオブヘブンには、どこからきたのだろうか、いつの間にか、ヒトモシがたくさん棲息するようになった。
シャンデラの炎に指突っ込んでみたいけど図鑑の説明をみるにそれをした瞬間確実に死ぬ。