理系が恋に落ちたけど証明のための時間がありません。 作:ヒラメもち
柔道や剣道、そういった武道を体育の授業で経験したことがある人は多いのではないか。しかし、履修すれば、常日頃から技を使えるわけではない。警察学校においても、卒業までに初段を取得するかどうからしい。
扉を開けた瞬間だった。
目に入ったのは、プロの女性柔道家が高身長の男を、あざやかに投げ飛ばしていた光景である。頭をぶつけないように受け身を取れたのは、先輩の火事場力と体育の賜物だろう。
技をかけてしまった彼女は、とても慌てた様子である。
「雪村先輩、ごめんなさい~」
大の字で研究室の床に寝転んでいるのは、運動音痴の雪村先輩である。
「つ、捕まえてくれて、ありがとう……?」
氷室先輩は口元をヒクヒクさせている。雪村先輩が、心拍数測定から逃げようとしたというところか。
「あー、そのー」
この状況をどう収束すべきか、そう思っている俺を、涙目の奏さんは見つめてくる。
「いやあああ、またやっちゃったぁ!?」
俺はまだ、池田研メンバーについて知らないことが多いということだ。奏さんの怯えた表情からは、嫌われることを恐怖していることが読み取れる。
「高校のとき、柔道部?」
「……うん、そんなところ」
落ち込んだ様子で、ちょっとだけうなずく。
「とりあえず、先輩が起きたら謝ろうか」
たぶん、俺たちは過去を引きずっているままなのだろう。棘田先輩もトラスケも何かを隠している。雪村先輩や氷室先輩が、本当につよくてまぶしい。
****
まず雪村先輩は、冷静さを欠いていたことを反省した。氷室先輩関係になると感情的になるからな。恥ずかしいからって、思春期男子みたいに逃げ出したようだ。
奏さんが誠心誠意の謝罪もきちんと受け取った。ちゃんと謝ることのできる人には、先輩は寛容だからな。
ともかく。朝からトラブルが生じたが、先輩たちはいつも通り恋の研究を始めた。奏さんもお詫びにと、今日一日は先輩たちの恋愛成就のために一肌脱ぐつもりだ。
「男性をドキドキさせる方法ですか?」
「こういうとき、トラスケのやつがいればいいんですけどね」
今回は雪村先輩の心拍数の時間変化を見る。俺もそれなりにサブカルに詳しいとはいえ、彼ほどではない。あいつは毎日パソコンの画面を見ながら、様々なドキドキを味わっている。
「とりあえず、スキンシップからやってみましょうよ。氷室先輩なら、どんな堅物であろうとイチコロです」
「ありがとう、と言うべきなのかしら。」
「誰が堅物だ。理系なら柔軟な思考を持ってこそだ」
そんなことを言う先輩も、すぐ陥落すると思う。
2つの椅子を並べて、恋人繋ぎを始めたがすぐに雪村先輩の頬に汗が流れ始める。頬を赤らめている氷室先輩的には、あまり動揺しない彼がおもしろくないらしい。
「もっと近づいた方がいいのかしら」
黒タイツの足を絡め、体を寄せる。前回とは真逆で、研究者思考になっている氷室先輩は意気揚々と実験を続けている。
「なんか面白いことやってるね」
ソファで寝ていた棘田先輩がのそのそと動き始める。
「あっ、起きたんですね」
「なんか目が覚めた。地震でも起きたの?」
奏さんが目を逸らした。
さっきのトラブルのせいか。
「まっ、いいか。で、どんな感じ?」
「まだ、データを取り始めた段階ですが」
プロジェクターの電源を入れれば、グラフが表示される。氷室先輩の時と同等か、それ以上の数値であることは一目瞭然だ。氷室先輩は勝ち誇った笑みを浮かべる。
これにて両想いが証明され、今日はパーティーだな。
「ふーん、これさ。対照実験した?」
棘田先輩が呟くように告げる。
椅子に座った俺の頭で両腕を支えながらだ。あまいかおりが、嗅覚を刺激する。なるほど、女性とのスキンシップならば、男子はすぐに心拍数が上がるな。
「あのー、今回の場合はどのように? てか、月村君が重そうですよ?」
「ん、ごめん」
食事量が足りてるのかと思うくらい軽かった。てか、男子にとってはご褒美です。
「要はね。第三者Cに対して、Aはドキドキするのかを調べなきゃってわけ」
『AはBに対して、ドキドキしている』という命題の真か偽かを、今回は心拍数を根拠に調べている。平常時の心拍数については、B及びCがいない状態だ。
「これがネガティブ・コントロールって言われてる」
ホワイトボードに書き込みながら、冷静に説明してくれる。棘田先輩の説明は、簡潔でわかりやすい。トラスケのやつは、よく彼女にお世話していただいたのだろう。
「で、誰がCになるかなんだけど……」
こういうとき、譲り合いもとい押し付け合いが起きる場合は多い。そして、言い出しっぺの法則というものもある。
「つまりね。この男が氷室にドキドキしているのか」
棘田先輩は妖艶な笑みを浮かべながら、手袋を身につけた手で、雪村先輩の頬に触れた。
「それとも女なら見境なく興奮してしまう、思春期男子なのか」
か細い腕で、華奢な身体、そしてあとげなさの残る美女である。思春期をこじらせた男の1人として、先輩もこの女性を突き飛ばすことなどできない。
「さあ、私たちの実験を始めましょう?」
「き、きさまァ!」
スキンシップが、開始された。
棘田先輩は、どこのゲームでそんなテクニックを学んだのだ。彼女は、男の弱みなんていつでも握ることができるのだ。先輩の目が泳ぐことは、心拍数の増加を明示している。
これ以上続けると、雪村先輩の尊厳に関わってしまう。協力者の身であるが、実験を中止するべきだと提言するかどうか。
「ん、これ以上やると、氷室に嫌われそう」
冷静な顔のまま、棘田先輩が雪村先輩から離れる。荒い呼吸で、彼女を弱々しく睨んでいる先輩は拷問された後のようだ。
「じゃ。次は月村、行ってみようか」
((なんでそうなるのぉ!?))
「月村君って、男子ですよ!?」
「データは多い方がいいんだよ、奏」
まあ、一理ある。
「もし雪村が月村にドキドキしたら、まあ、そういうことだよね」
それだとボーイズラブのタグをつけないと、まずいですよ。俺個人としてはそういう話題については、否定も肯定もしないけれど。
「月村君、お願いできる?」
心配事を解消すべく、氷室先輩に懇願される。
「……わかりました」
俺は、ごくりと息を飲んだ。
(月村君、ホントにやるんだ!?)
てか、対照実験って、さっきのを再現した方がいいのか?
****
まあ、結果的に先輩は、一般的な思春期男子の傾向があった。『対月村』のデータは、心拍数が伸び悩んでいる。てか、序盤で突き飛ばされた。
問題なのは、ちょっとだけ頭をナデナデした『対奏』の場合ですら、心拍数が高い。対照実験として正しくはないのだが、これは氷室先輩を大いに動揺させるデータである。
「まっ、心拍数も恋のせいとは限らないってこと。じゃあどうやって両想いを実証するのか。」
大きくあくびをしながら、棘田先輩はソファに横になった。彼女の身長ならば、十分に収まる。枕と毛布が用意されていて、彼女の寝床だ。
「頑張んなさい」
それだけ告げて、すやすやと寝息をたて始める。また自由きままに起きて、気分次第で研究かゲームをするのだろう。まるで猫である。
「女なら、誰でもいいのね」
「くっ、待ってろ。この前作ったリストがある!」
先日のベン図のために作ったものだ。徹夜をしてまで作っていたし、氷室先輩と共同で行う恋の研究に、雪村先輩は本気で挑んでいるのだろう。
今日も先輩たちのイチャイチャをBGMに、俺たちは論文読解をすることになる。まあ、懐いている先輩たちだから、悪い気分ではない。
「ねぇ」
白衣の裾をちょこんと掴んで、引き留められた。少しでも傷つけないように、少しでも力を入れないように、そんな優しさが感じ取れる。
「武道が得意な女の子って、きらい?」
ずるい聞き方だが、真意はわかる。武道が得意な女の子全員を、俺は好きになるわけじゃない。たとえ一般的な思春期男子が、不特定多数の女の子とのスキンシップにドキドキしてしまうとしても。
たぶん、それは本物じゃない。
今この瞬間は、はぐらかしたくない。
「どう?」
「好きか嫌いかなんて、その点については根拠にならない。だが。」
雪村先輩を真似て、白衣のポケットに手をそれぞれ入れる。そうすれば、勇気が出る気がする。揺らぐことはない、持論を提示するべきタイミングだ。
「俺の知っている該当者は、たぶん。自分の身を守るだけじゃなくて。何かあれば誰かを助けるんだと思う」
がんばりやで、やさしいこの女性だからこそ。
「だから、俺的にはきらいじゃない。その該当者を心配するくらいだろう」
白衣を翻して、その女性は振り向いた。
「そっか」
背中を見せながら研究室から出ていった彼女の表情については、シュレディンガーの猫である。