Venerdi Santo   作:まみゅう

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20.金曜日の受難は乗り越える④

 夜逃げ、と聞いて、普通真っ先に思い浮かべるのは、借金や倒産などの金銭トラブルだろう。お金が払えないというのはその額の多寡に関わらず、当人にとってはどん詰まり。初めから踏み倒すつもりで借りる人間もいないわけではないが、結果的に逃げ出すほかどうしようもなくなった場合が大半だろう。だからこそ、追いかけられて捕まったとしても、無い袖は振れない。怖いところから借りてしまった場合は、死をもって――ただの死には意味がないので臓器などでもって――借りを返すことになる。

 

 ペッシの家は、その“怖いところ”側だった。家業に関わってこなかったため詳しくは知らないし、幹部だったらしい父が取り立てなんて下っ端の仕事はしていなかったに違いないが、追う側として恐れられていたことに変わりはない。けれども、それが今ではこうして夜逃げをする立場になってしまった。しかも万が一追っ手に見つかった場合、ペッシ達は金を払っても見逃してはもらえないだろう。

 

(それなのに……俺、なにやってるんだろ)

 

 海岸の岩場に腰を下ろして、釣竿を握りしめて、ペッシはぼうっと日が昇りゆくのを眺めていた。深夜の移動を終えて、そのままベッドに入ったまでは良かったが、どうしても眠れずこっそり別荘を抜け出して現在に至る。早朝のアドリア海はため息が出るほど美しかった。けれどもペッシのため息は、景色に対して向けられたものではなかった。

 

(危機感がないって、自分でも思う……)

 

 観光に来たのではないことくらいわかっている。ペッシだって本気で釣りがしたくて、ずうっと座っているわけでもない。その証拠に糸は垂らしていても、餌のひとつもつけていなかったし、バケツも何も用意していなかった。ただ、一人になって落ち着く時間がほしかった。命を狙われている状況だと考えると、ずいぶん悠長で甘ったれた考えだとは思う。ほとんど現実逃避と言ってもいい。

 ごつごつとした岩から受ける尻の痛みを誤魔化すように、ペッシはもぞもぞと座りなおした。夜が明けたのだ。そのうち、家族の誰かがペッシがいないことに気が付くだろう。わかっていても、なかなか立ち上がる気になれなかった。帰っても、ペッシの役割がないということもある。邪魔になるからいないほうがいいと思われるかもしれない。もっと悪ければ皆のほうに余裕がなくて、いないことにも気づかれないかもしれない。

 そんなとりとめのないことを考えながら、波間を見つめていたとき、不意にざりり、と岩と砂利の擦れる音が鳴った。

 

「何をしてる」

 

 驚いて振りかえれば、そこにはスーツ姿の男が立っていた。さっきの音は、艶々と磨き上げられた革靴が立てたものらしい。どう考えても岩場に来るには危なっかしい恰好に、ペッシはぽかんと口を開けて男を見つめた。

 

「おいガキ、聞いてんのか?」

 

 答えられずにいると、男がややイラついた口調で言う。その凄み方がえらく堂に入っていて、堅気でないのは明らかだった。咄嗟に、追っ手かもしれない、と思ったが今更だ。立ち上がることすらできずに、とにかく頷く。相手が欲しいのは聞いているかどうかの答えではなく、何をしているかの答えだろうに。

 

「えっと、あの……その、つ、釣りを……」

「ンなもん見りゃわかる。状況わかってんのかって意味で聞いてんだよ」

 

 確かにそれもそうだ。また間違った。こういう抜けた返しをするとエドモンドはいつも腹を立てる。こちらにそんな意図はないのだが、舐めてるのか? と火に油を注ぐ結果になるのだ。ペッシはいつもの癖で、反射的にごめんなさい、と謝った。男は怒りはしなかったが、呆れたような表情になる。そうやって剣呑な雰囲気が消えると、男の整った顔立ちも相まって普通に洒落者の男性に見えた。とはいえ、相手の口ぶりからしてペッシの状況を知る者なのだから、この危機はまだ終わっていない。

 ペッシはぎゅっと釣り竿を抱きしめるようにして、恐る恐る口を開いた。

 

「お、俺たちを追ってきたんですか」

「用があるのはてめーの親父だけだがな」

 

 ペッシを見つけたということは、別荘の方もとうにバレているのだろう。夜逃げの終わりはなんとまぁ、ひどく呆気ない。思わず黙り込むペッシに、男はまた少しイラついたような表情に戻る。「諦めるのか?」何を言われているのか全くわからなかった。自分が鈍いことを差し引いても、敵――と思われる相手――から発破をかけられるのは流石におかしいだろう。

 

「お前が釣竿持って家を抜け出すところを見てたんだよ。肝の据わったガキなのか、単に楽観的な馬鹿なのか確かめてやろうと思ったが……まさか既に()()()()奴だったとはな」

 

 馬鹿にされ慣れているペッシにしてみれば、男の表現はまだ優しい部類だった。

 死んでいる、か。わりと当たっていると思う。少なくともペッシが今こうして呑気に釣り糸を垂らしているのは、危機的状況への覚悟というよりは諦めに近い。言い返す言葉もなくて、いつものように項垂れた。その瞬間、下げた頭をかすめるようにして小石が海へぽちゃりと落ちる。驚いて顔を上げれば、男はこちらを見ていなかった。彼が投げたのではないのだ。戸惑いながらも男の視線を追って、ペッシは少し離れた堤防の上に見知った顔を見つける。完全に目が合ってなお、そこにいたエドモンドはもう一度腕を振りかぶった。

 

「う、うわっ!」

 

 投げられた石はきれいな放物線を描いて、今度はペッシの肩に当たった。痛い。痛いが、悶絶するほどではない。ただ、ペッシは急にどうしようもなく恥ずかしくなった。非常事態に釣りをしている自分も自分なら、こんなときにまでいつもの嫌がらせをする兄も兄だ。他人の、それも自分たちを殺しに来た相手の前で虐められるなんて情けなすぎた。もう一度飛んできた石は、今度こそ立ち上がって避ける。遠くてはっきりとは見えないが、兄の苛立たしそうな表情は簡単に思い浮かべることができた。

 

「戻れ。親父が呼んでる」

 

 ペッシは咄嗟に男のほうを見た。戻っていいのだろうか。というか、戻れるのだろうか。一連の流れを見守っていた男は何も言わない。ただペッシがどうするのかを試すような目でじっと見ている。何も知らないエドモンドは伝言を伝えると、ペッシなんかに構うのは時間の無駄だと言わんばかりに早々に踵を返した。

 後にはまた、二人だけが取り残された。

 

「なんでやり返さなかった?」

「それは、その……勝手に抜け出した俺が悪いし……」

 

 だから、これは虐めではないのだ。

 ペッシは咄嗟にそんな正当化をした。被害者のくせに、失くしたとばかり思っていたプライドが急に蘇ってきて、そんな苦しい言い訳をした。男の瞳が美しい青をしているせいで、大好きな海に責められているような錯覚に陥る。

 

「今回はそうかもな。だが、あの感じじゃいつもの事なんだろ。違うか?」

「……」

「ハン、くだらねぇ、そっちも諦めてんのかよ。ちっとは変わりたいって思わねーのか?」

「か、()()()()()から、このままでいいんだ」

 

 夜逃げから現実逃避をしているのは確かに諦めだ。兄に勝てるはずがないと思うのも、もしかしたらただの諦めなのかもしれない。だが、少なくとも、ペッシのこの状況の始まりである“つらい立場の人と代わりたい”という気持ちは、諦めと一緒にしてほしくなかった。それは兄たちと同じになんかならないという決意でもあったからだ。

 

「はぁ? 何言ってやがる?」

 

 ただし、そんな抗弁は目の前の男に伝わるはずもない。けれども、初めてペッシが言い返したことで、男はちょっと満足したように見えた。聞き返しておきながらペッシの答えも待たずに、にやりと笑った。

 

「よし、じゃあてめーに時間をやる。今から帰って、あいつぶっ飛ばしてボコボコにしてこい。どうせ後で皆仲良くおっ()ぬんだ。そう考えりゃ怖くねぇだろ、ええ?」

「え……」

「オラ、早くしろ!」

「ええっ?」

 

 訳の分からないまま、一方的にそう急き立てられて、ペッシはとにかく動き出した。本当にこのままここを去っていいんだろうか。男は本当に後でペッシ達を殺しにくるのだろうか。あまりの混乱に走りながら振り返ると、また早くしろと言わんばかりに顎をしゃくる男の姿が目に飛び込んでくる。

 結局、ほうほうのていで、ペッシは別荘に逃げ帰った。

 

 

 それから10分もしないうちだった。

 

「こちらが妻と息子たちだ。どうぞ、よろしく頼む」

 

 逃げ帰ったペッシは当然、エドモンドをボコボコにすることなどできなかった。それ以前に、父親が呼んでいるのだ。来客があるから全員集まるようにとお達しがあって、服を着替えてくるようにとも言われた。そして流されるままに客間に向かえば、まさにさっきペッシを脅した男が座っている。男はプロシュートと名乗って、話を聞くに父とは異なる組織のギャングらしかった。一緒に来たギアッチョという青年ともども、うちに差し向けられた追っ手を始末するのが今回の仕事だそうだ。

 

「しばらくは彼らにもここに一緒に住んでもらう。みな、失礼のないようにな」

 

 父がなぜ他の組織のギャングと組むことになったのか、内情を知らないペッシにはわからない。ただ、ここにきてやっと、男がペッシ達を殺す側ではなく、守る側だったのだとわかって内心ほっと胸を撫でおろした。であれば、先ほどの磯でのやり取りは悪い冗談だったのだろうか。ばちりと合ったプロシュートの目が「なんでやってねぇんだ」とでも言うように、無傷のエドモンドを見、ペッシを睨みつけた。ひぃぃ、と思わず、身をすくませる。

 

「つまり、護衛ってわけですか」

 

 そんな蛇に睨まれた蛙状態のペッシを救ったのは、意外なことに次兄のガヴィーノだった。もっとも、兄にペッシを助けようという意図なんてなかっただろうが、結果的に彼の発言でプロシュートの視線は移った。

 

「……基本的にあんたらはふつーに暮らしてくれりゃあいいが、ガキのお守りまでする気はねぇ。ウロチョロして誘拐されねーように言いつけんのは親の仕事だ」

「ガキって、俺とそこのお兄さんとじゃあ、そう変わらないように思うけどね」

「あぁ?」

 

 エドモンドが挑発的に突っかかったのは、プロシュートに対してではない。その視線はプロシュートの隣のギアッチョという眼鏡をかけた青年に注がれていて、ギアッチョのほうもすぐさま不快さを一切隠さない声をあげた。確かにエドモンドの言う通り、見た目だけでいうと彼は兄と一つ二つほどしか離れていないだろう。けれども彼がすごむとなんだか部屋の空気がぐっと冷えたような気がして、ペッシは一人でハラハラした。結局、年齢なんてただの年の積み重ねでしかないのだ。たった一言発しただけで、彼がペッシのようにぬるま湯で育った一般人ではないのがわかる。ただ、ギアッチョが言い返すよりも先に、プロシュートが話の続きを引き取った。

 先ほどペッシに向けられた視線は、ただの叱責でしかなかったんだなと思えるほどの苛烈な鋭さをもって。

 

「勘違いするなよ、ガキかどうかってのは年齢の話じゃあねぇ。歳をくうだけなら誰にだって出来んだよ」

 

 目だけで人を制するというのは、こういうことを言うのだろう。プロシュートの気迫に呑まれたように、すうっと軽薄な笑みを消し、唇を引き結ぶエドモンド。兄がこうして誰かに力負けするのは初めて見る光景だった。ペッシの小さな心臓はばくばくと音を立てて、自分でも気づかないうちにごくりと唾をのみこむ。

 

「……うちの息子が失礼した。その辺にしてやってくれないだろうか」

 

 場をとりなしたのは、当然ながら父だった。エドモンドを直接咎めるようなことこそなかったものの、それでも幹部である父が下手に出たのだ。それだけこの男たちの実力を認めているということだろう。夜逃げするほどの刺客が向けられるのに護衛がたった二人という時点で、兄は察するべきだった。

 

「ま、血気盛んなこと自体は悪いことじゃあねぇ。大事なのは噛みつく相手を間違わないこったな」

 

 プロシュートはそう言って、鼻を鳴らした。言葉の上では矛を収めていたが、口調は刺すようなものだった。ペッシはこっそりと兄の横顔を伺う。兄を心配したわけでも、ざまあみろと思ったわけでもなかった。ただあのエドモンドがやりこめられてそのままにするわけがないだろう、と思ったのだ。

 

 実際ペッシの予想通り、兄の瞳はむき出しの怒りを浮かべていた。けれどもそれはプロシュートのような強烈な光というよりは、どこか意地の悪い仄暗さを帯びていた。あれは人を甚振り陥れるときの目だ。正攻法ではプロシュートは確かに強い人間なのかもしれない。だが、エドモンドの怖さを一番よく知るペッシとしては、嫌な予感を振り払えなかった。兄はきっと、大人しくはしていないだろう。

 こうして、命以外の不安も残るなか、ペッシの逃亡生活は幕を開けた。


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