この身はただ一人の穢れた血の為に   作:大きな庭

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本日更新の二話目。
……ギリギリ過ぎる上に荒いですが。


偽典の伝道師

 二月の初め、ハーマイオニー・グレンジャーは退院した。

 

 未だに襲撃は、ジャスティン・フィンチ-フレッチリーとニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿以外、つまり十二月の中頃以降起こっていない。未だ気を抜いていない教授陣は兎も角、監督生達の監視は明らかにやる気を喪い始めており、周りのスリザリンも襲撃が続かない原因について喧々諤々の議論を交わしていた。

 

 もっとも僕にとって、それは総決算前の一時的な平穏以外の何物でも無かった。

 入院理由が何であろうが医務室は安全圏であった筈であり、しかし彼女はそこから出てしまった。一人になる機会が有れば――そしてハリー・ポッターの秘密の部屋の謎への進捗次第では、彼女は襲われる。それは間違いないだろう。

 

 ただ、闇の帝王が彼の動向を正確に把握しているのかは多少問題でもある。

 一番良いのは、グリフィンドールの内側で観察する事だろうが、そのような手段など闇の魔術でも早々無い。ましてホグワーツは単なる古い城では無く、様々な魔法的護りによって生徒を肉体的・精神的に保護しているのだから猶更だ。

 それが万能でない事は一連の秘密の部屋の被害を見れば明らかでは有るが、それは創始者の遺産であるからに過ぎない。闇の帝王の場合は別だろう。ただ監視をするに留まったとしても、決して容易では無い筈だ。

 

 見切り発車的に事を起こすのか、或いは本当に状況を正確に把握する手段が存在するのか。僕の都合としては出来れば後者で在って欲しいのだが――僕にとって、ハーマイオニー・グレンジャーが早く気付き過ぎるのも困るが、全く気付かないままに事が起こるのもまた困るからだ――いずれにせよ、今回の事件の終結が近いのだろうという事は予感していた。

 

 僕が三人組の動向を知った手段は、言わずもがなハーマイオニー・グレンジャーからのふくろう便である。

 内容が内容である以上、詳細な内容は記載されていない。けれども、五十年前に秘密の部屋が開かれた事について何か新事実を掴んだような内容を記していた。

 であれば、彼等はいずれマートル・エリザベス・ワレンに辿り着くだろう。そこまで行けば、秘密の部屋の扉はもう目前の筈だ。彼女の生前の行動を考えれば、あのトイレに入口があるかは別として、部屋に直接繋がるパイプが存在するに違いないのだから。

 

 そして、そのふくろう便には、部屋について会って話したいという旨も添えられていた。

 クリスマス休暇中にハリー・ポッターに渡していた紙片の事も有って、僕が何かを掴んでいるのでは無いかと気になっているのだろう。

 ただ、その求めに対しては、今は接触するには時期が悪いとして断った。闇の帝王が何らかの手段を用いてハリー・ポッターの周辺を見張っている可能性が排斥出来ない以上、一時的な接触は兎も角、余り長々と会話を交わすような真似はしたくなかった。

 しかし絶対に接触する気が無い訳では無く、それは単に全く別のアプローチを目論んでいるからに過ぎない。

 

 ギルデロイ・ロックハートに近付くのは簡単だった。

 彼が教科書として扱う小説さえ熟読すれば良いのだから、これ程楽なものは無い。その内容について多少踏み込んだ内容を話してやれば、嬉々として彼は乗ってきた。学期当初であれば女生徒でない僕へ真摯に対応する事は無かっただろうが、支持者の多くを喪った今であれば別だった。望みはしなくとも、彼は長々と彼の物語について〝教授〟してくれた。

 

 無論、近付く手段が容易であるからと言って、それを選択した結果が精神的にどうであるかはまた別の話だ。他のスリザリンは明らかに自分の正気を疑っていたし、監督生が酷く親身な様子で医務室に行くよう勧めて来た事には流石に閉口した。一度誤魔化せば終わると思ったが、その後も何度も言われたので、余程正気を逸しているように思われたらしい。

 

 もっとも、彼女と自然に――つまり闇の帝王の無駄な関心を惹かない形で接触する手段としては、僕にはこれ以上の物は考え付かなかったのだ。

 

 ただ、その手段(ギルデロイ・ロックハート)を選択した事について、僕の意地の悪さや、彼に対する関心の強さが多分に含まれていた事も否定しない。寮監は僕にレイブンクローへ執心しているのだと指摘したが、成程、それは間違っていないのかもしれない。地を這う蛇よりも、空を舞う鷹に憧れる。その趣味嗜好の自覚は確かに有ったのだから。

 

 男と幾度か会話して見た結果、彼がスリザリン的では無いというのは明確に解った。

 寮監の眼は的確だった。彼の著作からも明らかだったが、彼は善の側に――悪を打倒する側に強く惹かれている。生粋のスリザリンであれば、やはりそんな事は有り得ないだろう。

 

 寮監も言及した通り、やはり闇は悪では無いのだ。

 けれども、他の三寮はそれを理解しようとしない。ギルデロイ・ロックハートもその例外では無かった。著作からは()()()()()()()()()()()()()()()()にも関わらず、彼の言葉からは、闇と悪を一緒くたにし、それらは遍く打ち倒されるべきという理念だと考えている事が単純に伝わって来た。

 

 正直言って、ギルデロイ・ロックハートとの会話は苦痛を通り越して拷問だった。

 授業では解っていたが、それでも僕は彼の著作を読み込んだのだ。故に、僅かな期待を持っていたのだが、やはり男は授業で露呈し続けてきた通りの、憐れで無能な道化であった。そして、それを幾度と無く実感し、待ち望んでいたその機会が漸く訪れた。

 

「――おや、スティーブン君。また、僕に質問に来たのかい? 熱心な事だね」

 

 許可を得て中に入れば、何時も通り、気色の悪い部屋の中で、ギルデロイ・ロックハートは得意げに笑っていた。

 闇の魔術に対する防衛術教授に割り当てられた、三階の個人研究室。その部屋は、無数の自分の写真によって誇らし気に飾り立てられている。

 良くもまあここまで自分に酔える物だと思う。本人に対して殆ど敬意を抱く事は出来ないが、その中でも数少ない敬意を抱ける点はこれだった。

 

「全くもって、人気教授というのは辛いものだ。少しばかり軽い気持ちでホグワーツに来た事を多少後悔する位にね。『週刊魔女』の取材から逃げ回る方がどんなに楽か。嗚呼、心配御無用。君達に対して真摯に向き合わない事は有り得ない」

 

 君達。

 その言葉通り、彼の部屋には先客が居た。

 

 それは言うまでも無く、ハーマイオニー・グレンジャーだった。

 彼女は教授の前に置かれた椅子に、ちょこんと腰かけていた。彼女は一瞬僕に対して笑い掛けようとしたが、しかし取り繕うようにつんと視線を逸らした。

 

 それは、彼女が今回の機会を単なる偶然だと主張したいが為の行動なのかもしれない。

 ただ、どう考えても偶然で無い事は言うまでも無かった。僕の最近の動向を知れば、その小さな身体から零れ落ちんばかりに膨大な知的好奇心を持つ彼女が取るであろう行動など当然に予想出来る。誤算と言えば、グリフィンドールに噂が届くまで時間が掛かり、その分ロックハートによる拷問の回数が予想以上に嵩んだ点くらいだった。

 

 勿論、彼女のそのような細かい仕草にギルデロイ・ロックハートが気付く筈も無い。椅子の上で気取った風に足を組みなおした後、己に酔いしれた甘ったるい声で僕に語り掛けてくる。

 

「しかし、残念なお知らせだスティーブン君。私は今、ミス・ハーマイオニーからの質問を受けていてね。私の著作を読み込んでくれているファンに順位を付けるというのは申し訳ない事だが、彼女が先着である以上仕方ない事だが――」

「――いえ、先生! 私は構いません」

 

 椅子の上で気取った姿で肩を竦めるギルデロイ・ロックハートに、彼女は割り込む。

 

 ただ、その顔は紅潮し、声もまた上ずっていた。

 

 ……男に対する彼女の想いが愛情と言った物に基づく物では無いのは傍から見ても明らかなのだから、取り立てて嫉妬する事は無い。けれども、話で聞いているのと実際に見るのでは、苛立ち具合が段違いだった。成程、スネイプ寮監を見て解っているつもりだったが、ギルデロイ・ロックハートは人を煽るという点においても天才だった。

 

 そのような僕の内心を他所に、二人の世界に入っている者達は話を進める。

 

「おや。良いのかい、ミス・ハーマイオニー。他者に譲るのは美徳だが、しかし時として自らの力で勝ち取りに行かねばならない時が有るのだよ。待っているだけでは何も手に入らない。私はホグワーツ時代にそれを十分学んだものだ」

「い、いえ。ロックハート教授が生徒を蔑ろにしない方だと私は解っていますから。それに、ステファ……ミスター・レッドフィールドの質問に対して、教授がどのような解答をされるかについても、私には関心が有ります。その、こう言った機会は中々無いですから」

「確かにその通りだ。他者の言動からも学ぶ事は大いに有る。勿論、私を観察する事以上の学びというのは世界に存在しないがね。――さて、スティーブン」

 

 怒涛のような会話を終えた後、酷く自然体にギルデロイ・ロックハートは僕に向き直る。

 

「ミス・ハーマイオニーは、私と君との歓談に同席する事をお望みらしい。勿論、君は気にしないだろうね?」

「……ええ。構いません」

「宜しい。ただ、この部屋には君の分の椅子が無い。君は立っていてくれたまえ」

 

 魔法使いに有るまじき事を平然と宣う男に対して、最早何も思いはしない。

 

 一々感情を動かしても仕方がないと、僕はとっくに悟っていた。

 セブルス・スネイプ寮監は何だかんだ言って付き合いが良過ぎるのだ。物事を真正面から受け止めすぎるというか。寮監は僕をレイブンクローに肩入れしていると嘲笑していたが、それを言えば寮監はグリフィンドール精神に惹かれ過ぎている。自らの手で叩き潰さないと気が済まない辺りは、まさしく彼等のそれである。

 

 ともあれ、この状況が酷く都合が良い事に変わりは無い。もっとも、ここまで上手く行くとも思っていなかったが。

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは彼の熱心な信徒の一人であるが、唯一では無い。あのバレンタイン後ですら、そこそこの数の女生徒が未だ彼に思いを寄せていた。ただ、それでもスリザリンの男子生徒と居合わせたい者は――たとえ憧れのギルデロイ・ロックハートが一緒でも――たった一人しか居ないだろうと確信していたし、彼女は間違いなく理由を付けて残りたがるだろうという事もまた予測が付いていた。

 

 しかし、今は他の人間は居らず、ハーマイオニー・グレンジャーだけが居る。

 どういう理由でこの状況が作られたのか知らないが、彼女と共にこの男と対峙する事は、保険の意味でも、個人的な感情の意味でも、注文通りの状況であるのは間違いなかった。

 

「さて、今回は何の質問かな? 『グールお化けとのクールな散策』について? それとも『雪男とゆっくり一年』? ……嗚呼、そう言えば確か、前回君は『狼男との大いなる山歩き』の、私が電話ボックスに逃げ込んだ際の事に酷く関心を示していたね。そうだね、私と君の間柄だし、今日は観客も居る。良いだろう。その事についてより詳しく――」

「――本日、聞きたいのは、それについてでは有りません」

 

 自惚れた男の妄言を、強制的に止める。

 目的を殆ど達成した以上、著作以上の事を語らない壊れた蓄音機に付き合うつもりが無かった。

 

 そして、成程寮監の言う事も一理有るのかもしれないと感じて居た。己がレイブンクローに肩入れして居なければ、このような事を聞く筈は無いだろうからだ。

 目的を完遂するのであれば、ここから直ぐに立ち去り、ハーマイオニー・グレンジャーに対して見せるべき物を見せるだけで済む。そうしないのは個人的な執着に他ならない。

 

 僕は、ギルデロイ・ロックハートに対して問うた。

 

「アルバス・ダンブルドアについて、貴方はどう思います?」

 

 男は、明らかな困惑を露わにした。

 部屋中の写真は、薄笑いであったり、肩を竦めて首を振ったり、顎に手を当てて考えたり、呆れて宙を仰いだり、思い思いの行動を取っていた。しかし、そのいずれも、僕の質問の意図を図りかねているのは確かなようだった。

 

「……言っている意味が解らないね、スティーブン」

「真っ当な質問だと思いますが、ロックハート……教授」

 

 教授という言葉を発するのに未だに強い意思を必要とするのは困り物だった。

 

「貴方は輝かしい功績を有している。闇の力に対する防衛術連盟の名誉会員、週刊魔女のチャーミングスマイル賞五回連続受賞、そしてマーリン勲章勲三等」

「あ、ああ……! そうだとも。君がそれを忘れていないでくれて嬉しいよ。いや、私にとっては多少のスパイス的な、些細な物に過ぎないがね。私はその程度で収まるような器ではないと自負しているし、もっと凄い事をやってのけるつもりだから」

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは困惑したままに、その視線を行ったり来たりしている。

 彼女は聡明な魔女であるが、必ずしも賢明で無い場合が有り得る。この会話がどういう方向に向かっているのか、僕が何を真に問いたいのかが全く読めないのであろう。そして、読めないからこそ、彼女は尊敬する〝教授〟の前での失敗を恐れて動けない。

 

 ただ彼女は、分岐路の前で選択を迫られたからと言って、常に片方が正しい経路に繋がっている訳では無い事を知るべきであった。いずれの道も断崖に繋がっている事は得てして存在する。

 

「しかし、対してアルバス・ダンブルドア。あの老人の称号もまた素晴らしいものだ。大魔法使い、魔法戦士隊長、最上級独立魔法使い、国際魔法使い連盟会員。そして――マーリン勲章勲()()

「……そ、それがどうしたかね? 校長の業績など誰もが良く知っている筈だが」

「ええ。知らない人はいない筈です。そして何の意図も有りませんよ。ただ、ロックハート教授のこれからの、凄い抱負とやらについて聞きたいだけです」

 

 視線を微妙に逸らした男に対し、僕は努めて冷静に語り掛け続ける。

 

「マーリン勲章の基準はある程度公にされています。勲三等は、魔法界の知識や娯楽への貢献。勲二等は、並外れた業績や尽力。そして勲一等は、魔法界における傑出した、勇敢さを示す行為ないし他とは一線を画する行為に対する表彰」

 

 勿論、基準は基準に過ぎない。

 それを満たしていない、政治的理由で受賞した魔法使いも当然存在する。

 けれども、大衆がその基準を満たしたと感じれば受賞出来る可能性が高いというのもまた事実なのだ。政治的とは、大多数に迎合的でもある事も意味するのだから。まして、魔法大臣が民主的な選挙によって選出されるともなれば余計にだ。

 

「ロックハート教授。魔法生物に関する研究では、我が校に先達が居ます。ニュート・スキャマンダー氏という偉大な先達が。勿論、闇を打ち払う事こそを大望とする教授とはベクトルが違いますが……しかし、彼は勲二等止まりでした。だからこそ、貴方に聞きたいんです」

 

 言うまでも無く、勲等の大小が人の価値を決める訳でも無い。

 だが、この男が人からの価値を重視しているのは明らかだった。そしてそれ故に、僕は彼に対して質問を、挑発を投げ掛けざるを得なかったのだ。

 

 どんなに言い繕おうとも、この男がホグワーツ内の殆どの人間から軽蔑され、馬鹿にされ、嘲笑され、それでも尚自らを喪わないで居られている事に疑いはない。それは一応の敬意に値する。だからこそ、それが断固とした信念と確信に由来する物なのか、それともあやふやで容易に崩れるような現実逃避に由来する物なのかには関心が有った。

 

 そして、どちらで在って欲しいと思っているかは――先のスネイプ寮監の言葉を聞いた後でも、依然として何ら変化していなかった。

 

「貴方は、ホグワーツ教授のキャリアを終えた後。魔法界全体の為に、あの老人よりも更に偉大で特別な存在になる為に、一体何をするつもりなのか。僕はそれを質問したいのです」

 

 アルバス・ダンブルドアを踏み越えて行くだけの覚悟が有るのか、僕は聞きたかった。

 関心と興味を抱き、聞きたいという強い欲望に駆られ、今まさに少なくない期待と共に答えを求め、そして――返って来た物はやはり期待外れなものだった。

 

 彼の眼はしきりに泳ぎ、定まっていなかった。

 部屋中のどの写真を見ても同じ。僕を真っ直ぐ見つめてくる物は一つとして無い。

 

 彼は何も考えて居なかった。詳細で、具体的で、現実性のある指針(ビジョン)を全く有していなかった。これまで通りを続けていれば全てが良い方向に向かっていくのだと、根拠の無い自信を持ち続けていた。当然の事ながらそれは、猜疑と疑念、そして野心に満ちたスリザリンに相応しい物でも無い。

 

 ……嗚呼、解りきっていた。

 

 この男が他の同輩を――敬意を抱くべき教授達を軽んじる台詞は幾らでも聞いた。

 ポモーナ・スプラウト教授の薬草学の知識を平気で貶め、セブルス・スネイプ()()よりも調薬や決闘が優れている事を誇りすらした。僕の知らない所で更にミネルバ・マクゴナガル教授やフィリウス・フリットウィック教授に対して軽率な発言をしていたとしても、何ら驚くにも値しない。

 けれども、ギルデロイ・ロックハートがアルバス・ダンブルドアを軽んじるような発言は、ホグワーツにおいてただの一度も聞いた覚えが無かった。それは単純に敬意の顕れとも取れるし、普通ならばそう取るべきなのだろうが、この男は普通では無かった。

 

 つまり、結論としては至極単純だ。

 

 ギルデロイ・ロックハートは、心の何処かでアルバス・ダンブルドアに敵わない事を認めてしまっている。

 

「……話を変えましょう。ハリー・ポッターについて、どう思います」

 

 僕の言葉に、男は救いの糸が目の前に差し出されたかのように輝いた笑顔を見せた。

 その顔に滝のような汗が流れていなければ、教科書に載せたい位に完璧な笑顔だった。いや、まあ、既に今年度の指定教科書には一応載っているが、それは良い。

 

「あ、ああ。ハリーの事ですか。全く困った生徒ですよ。私にも経験が有りますが、彼は少しばかり目立ちたがり屋だ。『名前を呼んではいけないあの人』を倒したか何とかで多少有名だが、私に比べれば大した事は――」

「――しかし、先の基準に照らせば、彼はマーリン勲章一等に値すると思いませんか? 彼は幼かったから受け取れなかった。けれども、〝マグル〟を大量に拷問し、殺戮をした悪の魔法使いを滅ぼしたのはそれに値する。さながらゲラート・グリンデルバルドに勝利し、勲一等を貰った校長閣下のように。そうは思いませんか」

 

 ギルデロイ・ロックハートは、萎れるように口を閉ざした。

 そして、ハーマイオニー・グレンジャーは僕の足をローブ越しに踏んだ。

 その顔が微妙に男の視線を避けるような角度で、しかし確かな怒りに彩られている所を見ると、どうやら漸く、これまで僕が言わんとしていた真意に気付いたらしい。

 

 もっとも、彼女の制止が無くとも続ける気は無かった。僕が闇の帝王の輝かしい業績について語った瞬間、男の瞳には確かな恐怖が横切った。去年の教授と異なり、この男が闇の帝王を滅ぼしに行くという事は、天地がひっくり返っても有り得ないだろう。

 この世界から悪を追い払う事を大望として掲げて居ながら――けれども、彼はその為に何ら行動を起こす気は無い。ただ恰好が良いから、そう豪語しているに過ぎない。

 

「……すみません、教授。不躾な事を言ってしまったようです」

 

 僕は全くの本心から頭を下げる。

 嗚呼、本心だった。聞くべきでない事を聞いた。ただその一点において。

 

 そして、やはりギルデロイ・ロックハートはその機微について何ら理解を示そうとしない。彼の瞳には、自分の姿しか映っていない。

 

「い、いや構わないとも。君は確かに、前回までは私を酷く理解した質問をしてきてくれたのだ。今日は調子が悪いのかな? 少しばかり馬鹿げた質問をした所で怒りを抱きはしな――」

「――最後に一つだけ。『狼男との大いなる山歩き』の記載について、僕は切実な疑問が有るのです。それを聞かせて頂いても宜しいでしょうか?」

「な、何だろう? 私の作品に関わる事ならば()()()()()答えよう。しかし良いかね、最後だ。もうそれ以上に質問は受け付けない」

 

 慌てたように付け加えるが、彼は僕の質問自体を止めようとしなかった。

 それは初めから解りきっていた事だった。彼は自身の著作を何よりも誇るからこそ、それに関わる問いから逃れられない。彼にとって、その著作は絶対の自信の拠り所であり、正しく聖典だった。だからこそ、僕の問いを許してしまう。

 

 そして、それは僕にとって酷く有り難い事でもあった。

 如何にハーマイオニー・グレンジャーへ自然に近付く手段で有ったとは言え、彼の著作を読み込んだのは事実だった。何度も、幾度も、読み返したのだ。ギルデロイ・ロックハートが僕を自身の理解者と誤信し、好感と寛容を示すのも当然の話だった。僕は何の苦痛も無く、それらを行い、殆ど記憶するまでに至ったのだから。

 

 はっきり言おう。僕は彼が紡ぐ物語に魅入られたのだ。

 たとえ、本人がどうしようも無く見下げ果てた無能で有ったとしても、彼の作品が単なる虚構的創作に過ぎないとしても、書籍が語る英雄達の姿は生き生きとしていて、印象的で、精緻で、鮮烈だった。

 

 彼が自身の名前を売る手段として写真集では無く小説という手段を用いたのは、そしてそれが曲がりなりにも成功を収めたのは、本自体の出来の良さと無関係である筈も無かった。そうでなければ、彼へ失望を示す者は最初から居なかったのだ。そもそも期待していなけれは、当然に失望する事も無いのだから。

 

 加えて、僕を最も強く惹き付けたのは、その著作に記されていた単語だった。

 究極的に言えば、それさえなければ、この男とここまで辛抱強く会話しようとせず、またその考えを読み取ろうともしなかったかもしれない。殆ど期待外れに終わったと言っても、その事だけは偽りでは無かった。

 

「貴方は非魔法族に対して、珍しく〝マグル生まれ〟に対して偏見を持っていない。ハーマイオニー・グレンジャーを、貴方は手放しで称賛してみせる」

「? ……それが、どうかしたかね? 私は別に当然の事をしているまでだが。ミス・ハーマイオニーが学年一の優秀な魔女であるという事は、厳然たる事実だろう?」

 

 男は心底不可解だというように、素直な感情を漏らした。

 そしてハーマイオニー・グレンジャーは僕の足を強く踏んでいた事も忘れて頬を赤く染めたが、それは余談に過ぎない。

 

 そう。彼について敬意を抱ける数少ない点が極まった自己陶酔以外に在るとすれば、それは彼が一切の差別的思想を有さないという点であった。

 

 彼の半純血という生まれがそうさせているとは思わない。

 半純血であろうと、魔法族の血を尊ぶが余り、〝マグル〟を見下す者は大勢居る。寧ろ、スリザリンを見るに、半純血である者こそ自分がスリザリン的であろうと――純血主義に対する忠実な信奉者であろうとする傾向が強かった。

 

 逆に、聖二十八族の方が僕に対する風当たりが弱いと感じる時は決して少なくなかった。例外的なドラコ・マルフォイを除いても尚、純血である彼等には余裕が有り、自然体のままに嘲笑や軽蔑を示しはすれど、加害や排斥を目論むような事は無かった。

 それらを為そうとし、僕の半純血にしては恵まれた立ち位置を奪い取ろうと企んでいたのは、大抵の場合同じ半純血だった。

 

 そして僕自身、客観的であろうと努めては居るが、やはり非魔法界の事よりも魔法界の事がまず先に脳裏に浮かぶのは否定しがたかった。それは、生まれて以降身に着けた価値観に基づく偏見であり、半ば本能であった。

 

 けれども、ギルデロイ・ロックハートはそれから完全に脱却している。

 それ故に、僕は祈りを――ギルデロイ・ロックハートという存在が、僕が入学前に思い描いていたようなレイブンクローであるという最後の一縷の望みと共に、言葉を紡いだ。

 

「貴方は『狼男との大いなる山歩き』の中において、こう記した。自身が最も望む誕生日の理想的な贈り物は、魔法界と非魔法界のハーモニーであると。間違いないですか?」

「まあ、確かに私はそう書いたが。……君、それがそこまで重要な事かね?」

「ええ。僕にとってその言葉は酷く重い物に感じました」

 

 僕は息を吸った後、言い切った。

 

「つまり、貴方は1692年の国際機密保持法の破壊を目論んでいる。そういう事ですか?」

 

 ギルデロイ・ロックハートは凍った。

 ハーマイオニー・グレンジャーも凍った。

 部屋中の写真も、一つの例外無く唖然とした表情のまま凍っていた。

 

「嗚呼、僕は何ら非難する気は有りません。寧ろ、僕は、()()がそれを真にする気が有るというのであれば賛同すら出来ます。両世界の壁をまるでベルリンのように破壊出来れば、それは正しく素晴らしいハーモニーが生まれる事でしょう」

 

 それは、偽り無き本心だった。

 母によって魔法的知識の習得を強制され、しかし僕の愚行によって母が死に、マグル生まれの聡明なる魔女と出会い、秘された魔法魔術学校に通い、その最も純血思想の濃い場所から魔法界の縮図を見、特別になれないまま無様に死んだ教授と出会い、誰よりも強く魔法界で君臨する事を望んだ闇の帝王に直面し、また善なる大魔法使いの告解を聞いた。

 

 だからこそ、思う。果たして、それは堅持すべき価値が有るのかと。

 魔法という物は、それ程特別視されなければならない物なのだろうかと。

 

「今は時流も味方しています。世界は変わっている。貴方達が言う〝マグル〟の技術は発達している。既に彼等は星を宇宙に打ち上げ、それを用いて一瞬で、広範囲に、全く同一の映像を伝えられるようになった。貴方がグレートブリテンに居ながらにして、海を越えた大陸や、新大陸にすらも姿を見せる事が出来るような時代は、もう既に来てしまっている」

 

 闇の帝王はいずれ復活する。魔法界に君臨しようと欲している。

 それを阻む一つの手段。それは、玉座自体を破壊してしまう事だった。

 

 勿論、国際機密保持法を破壊した際には、グレートブリテン及びアイルランドという狭い世界に限られず、全世界規模で多大な混沌が訪れ、無数の犠牲が生ずる事だろう。しかし、その審判の時においては、闇の帝王への対処という事象を下らない些事へと貶め――そして、恐らく闇の帝王はそれを我慢出来ない。

 彼は〝マグル〟にも〝魔法族〟にも等しく宣戦布告し、両者はその強大な敵に対して已むを得ず手を組む事になるだろう。

 

 それによって三百年近く続いた断絶が埋まるとは思っても居ないが、一つの契機を作る事は出来る。薄っぺらくとも一度は為せたのだから、今度もそれが出来る筈という幻想を抱ける筈なのだ。

 

 そして当然の事ながら、僕は〝マグル〟と〝魔法族〟の両方に喧嘩を売った場合、闇の帝王が勝利するなど思っていない。闇の帝王がどんなに強大な悪の魔法使いであろうとも、その手はやはり二本しかないのだから。分割統治が出来なければ、単純に数の論理が勝敗を決するのは解りきった事だ。

 

 多少の問題は有れど、国際機密保持法の破壊は間違いなく僕好みで、最終的に目指すべき脚本(シナリオ)としては悪くない。

 

「貴方には才能が有る。その顔も、声も、文筆の才能さえも。望みさえすれば、貴方は〝マグル〟界においても特別になれる筈だ。別に最初から魔法の存在を露わにする必要などない。ひっそりと〝マグル〟界の片隅で、地道に創作活動を続ければ良い。別にその事自体は、何ら国際機密保持法に反しない。文句は言われども、貴方を公的に止められはしない」

 

 言ってみれば、彼の人気は〝著作〟によるものでしかなかった。

 彼が教授として無能である事が露呈しても、彼の人気が完全に喪われなかったのはその点にこそ有った。彼の冒険が真に疑わしくとも、彼の作品の価値は何ら損なわれるものでは無い。魔法界生まれは当然の事ながら、ハーマイオニー・グレンジャーを初めとする〝マグル〟生まれにすら、ギルデロイ・ロックハートの著作は通用している。

 

 たとえそれらを手に取る発端が、彼の顔が良いというただ一点に有ったとしても、彼が世に公表した結晶は結果として、非魔法界と魔法界の壁を確かに越えてみせている。

 

「最初は嘲笑される事は間違いないでしょう。そもそも〝マグル〟におもねるような行為に、魔法族は興味を示しすらしないかもしれない。けれども、貴方は今までと同じ事を〝マグル〟の世界で続ければ良い。貴方の顔とその作品でもって名前を売り、地道に支持者を獲得し、貴方の名声と作品の価値を誰も否定出来なくなった最後の最後に、事を起こせば良い。

 ――全英が見守るその中で、貴方は誰の目にも明らかな形で魔法を使えば良い」

 

 電波が一期一会だった時代は既に過去の物である。

 その瞬間に立ち会えなくても、数百万、数千万の人間がそれを家庭において記録出来る。

 回数を重ねる必要は無い。膨大な下準備を掛けた上での、ただの一度、ほんの数秒さえ確保出来れば良い。ただそれだけで、ギルデロイ・ロックハートは、事実上不朽不滅の存在として記録されうる。

 

「ゲラート・グリンデルバルド。アルバス・ダンブルドア。そして、『名前を言ってはならないあの人』。彼等の名前など〝マグル〟は全く知らない。彼等は何ら特別ではない。けれどもその瞬間、大作家ギルデロイ・ロックハートが魔法使いである事を暴露した時、貴方の名前は両界において誰よりも偉大で、唯一無二の魔法使いとして讃えられる」

 

 当然ながら、疑う者も出る筈だろう。

 都合の良い事に手品(マジック)は普遍的な存在だ。彼等は彼等なりの常識でもって、それを理屈付けようとするだろう。

 けれども、エネルギー保存則の常識を粉々にする現象に対して、彼等が屁理屈を付けるのにも限度がある。

 

 そもそも、真偽の大論争を引き起こす時点で十分なのだ。ギルデロイ・ロックハートの衝撃を狼煙として、次に続かんとする魔法使いが出て来る事は容易に想像出来る。国際機密保持法自体に疑問を抱いている者は言わずもがな。そして確たる信条を持たない〝マグル生まれ〟の親達が、或いは〝スクイブ〟達が、魔法界について口を開き始めるに違いない。

 

 そうして、国際機密保持法は済し崩し的に破壊され、時代遅れの遺物は正しく過去の物となる。

 

「――〝私はマジックだ(『Magical Me』)〟。貴方はその言葉通り、魔法の象徴となれる」

 

 彼がレイブンクローであるのは皮肉が効いていた。

 鷲。それは古代ギリシャないしは古代ローマより伝わる由緒正しい権力と神聖の象徴であり、神の使者の証でも有る。その象徴は、数々の国、或いは王家に継承され続けて来た。そして他ならぬ国教会においても、鷲は世界に福音の光を広める象徴的存在であると言われている。

 

 そしてこの場合、ギルデロイ・ロックハートが造り上げた偽典(Bible)を元に、彼は今まで秘されていた魔法の光を世界に広めるのだ。

 

 僕は待った。永遠にも思える数秒を待って、しかし外からの介入が有る方が早かった。

 

「ロックハート教授、失礼しました……! 私達、これで帰ります!」

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは急いで頭を下げた後、僕の手をしっかりと握ったまま、ギルデロイ・ロックハートの部屋から強制的に退出させた。それについて僕は何も抵抗しなかったし、男の部屋に言葉を何も残しはしなかった。

 

 残念ながら、彼は何も決断的な答えを返す事が出来なかった。

 それが答えであり、それだけで十分だった。

 

 ――彼は〝教授〟に徹する気も〝道化〟に徹する気も無い。

 

 

 

 

 

 僕はハーマイオニー・グレンジャーの手に引っ張られたままに、廊下を突き進む。

 彼女が激怒している訳では無いのは見て分かった。彼女は、ギルデロイ・ロックハートに対する僕の発言を完全に受けとめ切れていない。彼女は聡明であるが故に、その是非、影響、問題、そして賛意を初め、非魔法界や魔法界全体の在り方、自分の立ち位置など様々な事に頭を巡らせており、恐らくは思考がパンクする寸前な筈だった。

 

「何……! 貴方のさっきの言葉は、何の意図が有って……! そもそも、どうしてあんな……! いえ、本当に正気で……!」

 

 ぐいぐいと僕を引っ張りながら紡がれるそれは、言葉になっていない。

 その事は手を繋いだ箇所から伝わってくる熱と同様に、彼女の内心の大嵐っぷりを酷く示していたが、僕にとっては既に彼女が気にすべきでは無い事象へと成り下がっていた。

 

 期待したのは事実だ。彼が啓蒙の鷲足り得るのではないかと、そういう幻想を抱いたのは真実だ。しかし期待外れに終わった夢は、やはりさっさと捨てるべきなのだ。どう足掻いても実現しそうにない物に固執していても、それは何らの生産性を齎さないのだから。

 

「ハーマイオニー。先程の僕の冗談をまさか本気にしたのか?」

 

 僕の言葉に、彼女はピタリと止まる。

 それと同時に、握っていた手が離れた。その熱が僕から遠ざかった。

 

「冗談?」

「ああ、冗談だ」

 

 そう言ってみせた僕に対する彼女の表情は、何とも形容しがたい物だった。

 激怒すべきなのか、軽蔑すべきなのか、落胆すべきなのか。己がどうするのか正解であるか判断がついておらず、一つだけ確かなのは、彼女は自身が酷く疲れ果ている事に気付いているという事だった。

 その隙を逃さず、僕は彼女に対して畳み掛ける。

 

「先の言葉は、誇大妄想の気が大き過ぎる。曲がりなりにも、今まで国際機密保持法は堅持されて来た。それを破壊しようとする御調子者や愚か者は居ただろうに、魔法は秘密のままだった。それを簡単に破れる物だと思うか?」

「……まあ、それは確かに。そんなに簡単に破れるなら、こんな状況に無いものね」

「思考実験の類だよ。実際、ロックハート……教授は、僕に何も答えなかっただろう? 彼はその愚かさを理解している。彼は何ら本気にしていなかった」

 

 未だあの男に対する信仰心を喪って居ないハーマイオニー・グレンジャーは、彼を持ち上げる言葉に対して、複雑な表情のまま不承不承頷いた。

 

 もっとも、相応の勝算は有る事までは告げなかった。

 先の言葉の肝は、ギルデロイ・ロックハートが魔法とは全く関係無い技能を用いて〝マグル〟に浸透しようとする点にこそある。

 カルロッタ・ピンクストーンを筆頭に今まで魔法能力をもって〝マグル〟界に殴り込みを掛けようとした魔法族は数多く居ただろうが、それとは全く関係無い点において知名度と信仰を獲得しようとした魔法族は殆ど居なかっただろうと考えているからだ。

 

 そして、テレビジョンを中心とする娯楽主義(時代の潮流)が味方している今において、それを行おうとする魔法使いが皆無で有る事は絶対的に確信している。

 

「でも、やっぱりさっきの発言は悪趣味過ぎるわ。あんな突拍子も無い、飛んでもない事を言い出すなんて。ロックハート教授の言葉を曲解し過ぎよ。彼が言う魔法界と非魔法界のハーモニーは、そんな過激で破滅的な手段で齎させるべきものでは無い筈だわ」

 

 憤懣やるかたない様子で彼女はぼやく。

 相変わらず彼女は正しい対処を図りかねているようだが、自分は先の僕の言葉に対して酷く不満であるという結論だけは出たらしかった。そして、僕は何らも否定しない。

 

 過激である事も、破滅的である事も厳然たる事実だ。しかし、硬直化した魔法界は、その位しないと変わらないという確信が有ったから、僕はあんな事を述べたに過ぎない。

 第一、彼女の理解や共感を求めようとした訳でも無い。僕は彼女に惹かれているが、全てを支配したいとも思わなかった。彼女は独立した個であり、違う考えを持つ人間だった。その事を、価値を否定するつもりは何らない。

 

 けれども、それでも彼女の考えを理解したいと思う点は有った。

 

 自分の激情を発散させるかのように再度歩き出した彼女を追い掛け、隣に並んだ後、僕は彼女に問い掛けた。

 

「なあ、ハーマイオニー」

「……何。陰険で性格が悪い魔法使いさん」

「君は何故、今になってもギルデロイ・ロックハートを信じ続けられる?」

 

 不満と不機嫌さを露わにし始めてきた彼女に対して、僕は問い掛ける。

 聡明なる魔女が、常に賢明で無い事は重々承知している。けれども、これはそのような簡単な論理で片付けられるような物では無い気がしたのだ。

 つまり、ギルデロイ・ロックハートは無能を露呈しながら、彼女は憧れを殆ど捨てていない事については確かな理由が有るのでは無いかと。

 

「問いが広過ぎて答えかねるわ。質問の意図をもっと明確にしてくれると助かるのだけど」

「例えば、生徒の間に馬鹿げた噂が有るだろう。ギルデロイ・ロックハート本人は何ら冒険を行っておらず、忘却術を用いて他人の功績を盗み取ったのだという噂だ」

「……嗚呼、あの信じるにも値しない最高の馬鹿話ね」

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは、余計に顔を顰めてみせる。

 どうやら、それは僕に対する怒りの矛先を逸らす程度には、彼女にとっても不愉快で荒唐無稽な物だったらしい。

 無論、僕と彼女では理由が違う。僕がそれを馬鹿々々しいと思うのは、単純にギルデロイ・ロックハートがそんな器用な真似が出来そうに無い程、圧倒的に無能だからだ。忘却術というのは相応に高度な呪文の筈であり、容易に扱える物でも無い。であればそんな事は有り得ない。僕は当然そう考え、それが大勢の意見であった。

 

 今では生徒の間でも、その珍説を大真面目に唱える者は居ない。ギルデロイ・ロックハートの真実と題する賭けの中では、大穴狙いの極少数のみである。

 

 ただ、この様子では、ハーマイオニー・グレンジャーは違う見解を持つようだった。

 

「全く、皆は忘却呪文が単に万能な呪文だと考え過ぎなのよ。この魔法界を維持している根幹ともいうべきものにも関わらず、余りにも興味が無さ過ぎるわ」

「君は、非魔法族生まれの人間として——いや、知識の探究者として、当然ながら調べた訳だ。忘却術(オブリビエイト)について」

「正確に言えば、忘却呪文と記憶修正呪文の二種だけれど。両者は全く別の呪文なんだし――って、大変だわ! 忘却術(オブリビエイト)は覚えているけど、そっちの呪文は忘れちゃったわ!」

「……それは、君が後から図書室へ行って存分に調べると良い」

 

 忘却呪文も記憶修正呪文術も二学年で出て来ないのは明らかだったが、この教科書の信奉者にはお構い無しらしい。彼女は知らない事を知らないままに出来ない人間だった。

 それでも彼女は何とか思い出そうとするように腕組みして、むずむずと落ち着かない素振りを続けていたが、諦めが付いたらしい。短く嘆息した後、僕への説明を続けた。

 

「まあ、二つが別種の呪文と言ったけれども、混同するのは理解が出来るわ。忘却呪文もやっぱり呪文(Memory Charm)なのよ」

「……というと?」

呪文(Charm)――つまり、ある特性・属性を特定の対象に追加する(adds certain properties to an object or creature)魔法なの。決して変身・変容(Transfiguration)では無いのよ」

「しかし、呪文(Charm)に分類されようが、その分類が正しいとは限らないだろう」

「ええ、そうね。分類は一定でも絶対でも無い。リンネが分類学の父になる前も、なって以降も、生物の枠組はあっちこっち変わってきた訳だし。でも、私には納得行くわ。人間の記憶の仕組みからすれば――要するに、マグル的な知識からすればそれは自然とも言えるもの」

 

 僕は沈黙を守り、先を促す。

 己が半純血にしては多くの非魔法族的の知識を有しているとは言っても、全体の知識量を比較すれば、ハーマイオニー・グレンジャーの方に軍配が上がる事は解っていたからだ。

 

「要するに、忘却にも種別が有るという話よ。幼少期の記憶が良い例だわ。それらは忘却しているけども、消滅している訳では無い。何らかの刺激で蘇る事がある。つまり、初めから記憶の中に存在しないのではなく、ただ単純に思い出せない(dis-remembering)だけ」

「成程、忘却術もその類だと?」

「確信が無いけど、多分ね。()()別の物に性質を変化させてるという訳じゃない。そうでなければ、忘却術を破るなんて事出来ないでしょう? 既に存在しない――或いは外に摘出された――物は蘇らせられないし、作れないわ」

「反対の、物を消失させる(Vanishment)事は出来るようだがな。もっとも、そちらは変身術(Transfiguration)の授業範囲だが。しかし、不合理であるのには変わりない」

「……まあ、液体の蒸発がそのまま液体が消滅するのを意味はしないって事でしょ。そもそも魔法について物理法則を直接適用する事が無茶だわ」

 

 既に幾度となくその難題にぶち当たって来たらしい知識の象徴は、肩を竦める。

 

「それで、それが何故ギルデロイ・ロックハート……教授に関係する?」

 

 敬称を付け加えたのは、勿論誰かの眼が猫のように鋭かったからだった。

 そしてそれに一応の満足を覚えた彼女は、軽く鼻を鳴らして説明を続けた。

 

「つまり、彼の著作を良く読み込んでいる人であれば、彼の冒険が酷く長期間に及んでいる事が解る筈なの。つまりマグルが魔法界的に不適切な物を目撃した際にそれを消去するのと違う。連続の、継続的で、物語性のある、血肉に刻まれた記憶なのよ」

「……仮に忘却呪文を用いるとして、それらを全て消す事は?」

「不可能では無いんでしょう。でも、絶対に隠したい事を強く忘れさせようとしたり、或いは長期間にわたっての記憶を忘れさせたりするならば、そこには後遺症が残る筈。まあ一時的にその場凌ぎで誤魔化すだけなら別だけど。ただ、多少なりとも話せばボロが出るわよ。本人も、違和感を抱いていずれ思い出すと思う」

「どの程度の確信を持ってそれは言える?」

「やはり絶対までは言わないけど、高い確度で。それは呪文(Charm)で、許されざる呪文(Curse)ではないもの。要するに忘却呪文は本質的に精神にも肉体にも害ではなくて、けれどもそれを無理矢理害に変質させてしまえば、そこには歪みが出て然るべき」

 

 ……成程、だからこそ、ギルデロイ・ロックハートの所業について、それを忘却術によるものだと考える人間は知識人に居ないのだろう。

 専門的な忘却呪文がどういうものかに熟知している専門家は、彼の功績が盗み取られた物だと考えもしない。彼の功績は確かな知見を有する者達によって間違いなく検証され、そしてその結果は白だった。彼が詐欺的な行いをしたのでは無いと、実証されたと結論付けた。

 

 ただ、彼女の説明を聞いて、僕は何となくそちらの方が――忘却術説の方が有り得るような気がしてきたのも事実だった。正直今まで歯牙にもかけていなかったのだが、有り得ないと聞く程に信じられるような気がしてくるのは不思議である。

 それは偏に僕がマグル社会での事例(The Case of the Cottingley Fairies)を知っているからだろう。

 アレの顛末に忘却呪文が実際に用いられたかどうかはさておき、多くの知識を有する事が常に真実を手に入れる鍵となるとは限らない。

 そして、単にミーハーなだけかと思っていたが、彼女には彼女なりの理由が有ったのだ。

 

「……成程、君が彼を疑わない理由は確かな物だ」

「解ってくれたかしら!」

「ああ、十分に理解したよ。合理的に考えれば、彼の精緻な描写に基づく冒険が、忘却呪文によるものである可能性は絶対的に低いのだと」

 

 死の呪文を受けた赤子が生き残るような可能性と同等くらいには理解した。

 

「しかし、ハーマイオニー」

「? 何かしら?」

「先の論理は否定しない。ただ、こういう見方もすべきでは無いのか。

 ――要するに、鉛を黄金に変えるのに、魔法は必要としないのだと」

 

 僕の言葉に、ハーマイオニー・グレンジャーは至極当然のように反論する。

 

「黄金は魔法で作れないわ。別にレプラコーンの事を言っている訳では無く、魔法界における貧富の差やグリンゴッツのシステムを見ればそれは自明でしょう?」

 

 それは正しく、けれども僕が言っているのはそのような表面上の事では無かった。

 

「君は魔法の世界を知ったが故に、多くの不思議には魔法という理屈が有ると思っている。しかし、現実にはそうでは無い筈だ。例えば、古代社会において、科学知識の下に鍍金を造り上げた者は? 或いは近世社会において、中に人が入ったチェス指し人形(The Turk)を見た者は? 人を騙すのに魔法は必要無い。機巧には種が有るという事もまた有り得る」

 

 僕の指摘に彼女は黙り込む。

 勿論、彼女自身が痛い所を突かれたと感じたからだとは更々思っていない。

 

 彼女は心の奥底で何処かその可能性を疑っており、単に見ようとしなかったに過ぎない。ただそれでも、こうして言葉にされれば、やはり直視せざるを得ないに違いなかった。やはり彼女は、同学年で最も聡明なる魔法使いなのだから。

 

 ギルデロイ・ロックハートの著作は、全て架空の創作物である。

 それが賭けにおいて最も大本命であり、僕とて先程までそれに賭けていたと言って良い。彼のホグワーツにおけるその無能さは、それ以外の結論を導かせない程に酷い物だった。

 

 そして、彼を今も尚想う女生徒の中にも、そう思っている人間は少なからず居るだろう。それでも黄色い声を止めないのは、彼の能力や著作と無関係に、単純に彼の顔が良く、ミーハーなアイドル的崇拝を抱いているからに過ぎない筈だった。

 

 ただ、結局の所、既に僕にとってギルデロイ・ロックハートの詐術の種が何だろうと構わないのだ。彼から期待した結果が得られなかった以上、やはり関心を抱けはしない。

 

 だから後は最後の仕上げを――本題の行為に取り掛かるだけだった。

 

 僕は通路の曲がり角に差し掛かる瞬間、鏡を取り出し、それを覗き込んだ。

 通路の先に居る存在と鉢合わせを避けるように、直視してしまうのを避けるように。

 

 そして、当然ながら、その行いは彼女――僕の言葉について考え込んでいる分、怪しい足取りのまま歩いていたハーマイオニー・グレンジャーを現実に引き戻す程度には、十分な奇行であるように映ったようだった。

 

「? 一体どうしたの?」

 

 訳が解らないと説明を求める上目遣いに、僕は肩を竦める。

 

「僕達が一緒に居るのは見られない方が良いだろう? だから、その確認をしている」

 

 無論、それは建前の理由付けに過ぎなかった。

 

「後は曲がり角でスリザリンの怪物と出会ったらどうしようも無いという理由もある。周りに人間が居る時までの必要性は感じないが、一人で出歩く時は何時もこうしている」

「それは、まあ、生徒にしろ怪物にしろ、鉢合わせたらどうしようも無いのは確か……ではあるけれど? でも、少なくとも後者はもう二か月も誰も襲われていない訳だし、そこまでするのは流石に用心が過ぎないかしら?」

「自分で可能な事はしておかないと気が済まない性分なんだ。君もどうだ?」

「……そんな怪しい真似を何時もする気にはなれないけど。貴方が……わざわざくれると言うなら……まあ一応貰っておくわ」

 

 彼女は何か質問をしようとして、しかし口籠って素直に僕が差し出す鏡に手を伸ばした。

 

 強引なのも不自然なのも無理があるのも承知の上だった。

 

 けれども、怪物は絶対に直視してはならないのだと言葉にしてしまえば、彼女はその裏を読もうとし、必然的に正体に思い当たるだろうと言う確信が有った。そして、彼女は当然二人の友人に伝え、秘密の部屋を執念で探し当て、やはり当然のようにその部屋の中に共に突っ込むだろうというのもまた、去年の事を思えば確信に等しい物だった。

 

 しかし、在るべき行為の模範を示すだけで有れば、彼女は僕を被害妄想に取り憑かれた臆病者だと失望するだけで、そのような個人的事情を他に漏らす事も無いだろう。その分だけ彼等は真相に気付くのが遅れる――彼女がまさしく襲われ、石化する時まで――事だろう。というか、そうであって欲しいと信じたいのだ。

 

 解っている。このような行いに殆ど意味は無いのだと。

 〝英雄〟ハリー・ポッターは、気付くべき時に気付くだろう。闇の帝王はそれを欲し、アルバス・ダンブルドアも理由は違えどその時を待っている。必然、真相に辿り着く時は訪れる。

 

 ハーマイオニー・グレンジャーが〝英雄〟に連れられて秘密の部屋の中へと同行するかというのは、僕がそれを――彼女が死ぬ危険を跳ね上げるのを極端に恐れているだけで有って、その事は闇の帝王にとっても、アルバス・ダンブルドアにとってさえ、究極的にはどうでも良いのだ。

 彼女を部屋の外で襲おうが中で襲おうが、彼女が石化しようが死のうが、何だって。

 

 僕が行っているのは非常に些細な干渉であり、彼女の生存可能性を少しばかり変動させるに過ぎない。そして、それが状況を悪化させる物で無いとも限らない。

 けれども、僕は何もやらないままでは居られなかった。己の無力さを、誤魔化し、慰める為だけに。

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは僕から受け取った鏡をじっと見つめ、そしてやはり何かを言おうと口を開いた。

 けれども、彼女はまたもやそれを言葉にしなかった。

 

 その代わりだというように、彼女は別れの言葉を紡いだ。

 

「……じゃあ、ステファン。また今度ね」

「……ああ」

 

 正直言って、もう少し何か言われるのかと思った。

 けれども、彼女は何も言おうとしなかった。今回において色々と考える事が沢山有り過ぎたのかも知れないし、何かを感じたのかも知れない。

 しかし確かであるのは、彼女は彼女にしては珍しく、解らない事を解らないままにしたという事だった。

 

 そして彼女に何も言い訳せずに立ち去れた事について、僕は間違いなく安堵していた。

 彼女が石化してしまえば危険は無くなる。今までの犠牲者と同じ目で済むならば、彼女は間違いなく安全になる。

 無論、後遺症という可能性は排除しきれない。けれども、彼女が命を喪うという最悪の結果を考えれば、それは僕にとって許容出来る犠牲であると言えた。

 

 ……彼女が気付いた時、全てを知りながら尚放置した僕を、彼女は責めるのでは無いか。

 

 それは、敢えて見ない事にした。

 彼女から嫌われる事を考えるだけで、心が軋むのは事実だった。

 彼女と過ごす時間は間違いなく僕にとってささやかな、しかし確かな幸せを感じさせる物であり、僕が今でもホグワーツに留まり続ける最も大きな理由だった。

 

 けれども、僕はやはり心の奥深くで、けれども至極理性的に判断していたのだ。

 

 彼女が死ぬ事に比べれば、それもまた許容出来る犠牲であるのだと。

 より大いなる善を考えれば、それが最適解であるのだと。

 

 

 

 

 

 そうして、また一年が終わり行く。

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは期待通り石化し、アルバス・ダンブルドアは予想通り追放され、けれどもハリー・ポッターは秘密の部屋を暴くばかりか、その剣でもってバジリスクを打倒せしめた。

 

 またもや〝生き残った男の子〟は〝英雄〟となった。

 

 一方僕は、単に女の子に鏡を渡すという、何ら大勢に影響のないちっぽけな行いをしたに過ぎなかった。

 

 別にその事について落胆の気持ちは無い。

 それが普通なのだ。直接的な干渉どころか間接的な干渉すら出来ず、ただの傍観者に甘んじる。それが〝英雄〟でも無く、彼等の駒として盤面に上がる資格も無い存在としては、当然の帰結の筈である。

 

 そうである筈だというのに――複雑な気持ちを抱く事は避けられなかった。

 その感情を何と名付けるべきか。僕は学年が終わって尚、その答えを出す事が出来ないままだった。




・英国におけるビデオカセットレコーダー(VCR)の普及
 1981年には殆どゼロに近かった家庭での所有率は、1990年には約60%に達していたとの統計が存在する(参照:BBC NEWSのThatcher years in graphics)。

・国際機密保持法
 この法律及び1707年の魔法省設立に際しては詳細な公式設定が存在する。マルフォイ家の動向、当時のポッターの行動、マグルとの緊張など、興味深い内容も多い。現在展開中の映画の核心部の一つとも言いうるので,今後も公式設定を期待出来るかもしれない。

・記憶修正術
 ハーマイオニーは、両親の記憶を修正したと述べる一方(第七巻・六章)、ドロホフらを前にして、ロンと共に忘却呪文は使った事が無いと述べている(同・九章)。
 これらについて、両者は全く別の呪文であるとJ・K・ローリング氏は述べている(但し映画においては,解りやすさの問題か用いられるのはオブリビエイト)。

・ギルデロイ・ロックハート
 全作品を総覧した時,彼の存在は異質である。
 すなわち、ハリーが在学中の闇の魔術に対する防衛術教授は、二年を除き、多かれ少なかれ、対ヴォルデモートの戦争の中で欠く事の出来ない役割を担っている(五年も当然ながら、魔法省との対立、そして七巻まで後を引くハリーの省への不信という文脈で意味が有る)。
 しかし、彼は完全に欠いても問題無いとまでは言い過ぎであるものの、スリザリンの継承者についてのミスディレクション以上の役割を物語内で有していない。五巻においてすら、ハリーはロンと違って「それ程同情していな」い(五巻・第二十三章)し、その後のネビルの両親の状態を知るイベントの前振りに過ぎない。
 そして、J・K・ローリング氏は、彼が記憶を喪った事によって以前より幸せになったと述べると共に、記憶の回復する事は無いであろうという示唆も行っている。

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