愛良ルートでエンディングを迎えたのち、世界の秘密の一端を知ってしまった不安と、お互いへの変わらぬ愛情……その2つを軸とした、連理視点によるお話となります。
なお、世界の仕組みに対する知識はあくまで「愛良シナリオを経て知り得た情報」として設定し、あいまいなままとなっている部分があります。
初出:2014年8月開催のコミケ86にて頒布、完売。
一部において加筆・修正を行った箇所があります。
不安が、ぐるぐると渦を巻いていた。
ときには、まるで締めつけられるように。振りほどこうにも
言うまでもなく、好ましい精神状態ではない。とりわけ俺自身がこんな気持ちでいることは、決してよくないとはわかっている。
わかっていたとしても――けれど、どうしようもなかった。
天球儀。
まるで導かれるように、暗闇に沈んだゲートの先でその物体を目にしたことが、すべてのきっかけだった。
いや、エルデシュの屋根裏部屋の近くで見知らぬ鍵を拾ったことが、そもそもの始まりだったかもしれない。
打ち消せない不安は、簡単に周囲に
だからなおさら、俺はつとめて日常を平穏な気持ちで過ごすことを心がけ、内心を悟られることがないように注意していた。
それから、まもなく――俺は白取愛良という名の、ひとりの少女と結ばれて。
みんなからの祝福を受けながら、いっそう深くこの世界のことを、そして愛良がもともと存在していた世界のことを知るようになった。
大切な存在が、そばにいる。
愛良という、かけがえのない相手がいつもいてくれる。
――けれど、同時に。
「何も知らない、無邪気な存在」としての自分自身を。俺たちは、そろって手放すことになってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇
今日も俺たちは、遥さんのいる屋根裏部屋へと足を運んでいる。
俺と遥さん、そして愛良。3人も屋根裏部屋に集まれば、さすがにスペースに余裕がなくなってしまう。
「でも……狭くなる分だけ、連理のそばにいられるから……」
と、いくらか気恥ずかしそうに、しかし一方ではどこか甘えるような口調とともに。窮屈さをも、愛良はむしろ歓迎しているみたいだった。
俺と愛良のやりとりに、いつも優しげな微笑みを向けてくれる遥さん。2人で彼女の秘密の空間に押しかけるようになっても、一度として嫌な顔をされたことがない。
「いらっしゃい、2人とも。冷えるかもしれないから、肩に羽織ったりするもの、ちゃんと持ってきましたか?」
何かあったのかとか、遥さんから訊ねてくることはない。いつも自然に胸のうちが明かされるのを、じっと辛抱強く待ってくれている。その気遣いが、とても嬉しかった。
こうして、俺たちは少しずつ。みずからが抱える不安を、優しさに包んで分かち合っていく。
――いったい、なんなのだろう。
この世界は、どういう世界なのだろう。
天球儀によって、作り出された世界。そんな世界でも、日々の生活はちゃんと存在している。そして人々は、この世界の中で明日を考え、未来を待ちわび、将来に思いを馳せている。
なのに。それは
本当に幻でしかないのだろうか。それならば、「この世界で生きる」ということに、意味はあるのだろうか。
「連理……」
自分のてのひらに、他の人間のものが重なる。俺が迷うときは、愛良はいつもあたたかな手を差し伸べてくれた。
「連理くんは、どちらがいいと思いますか?」
その日は、まだ屋根裏部屋に3人で集まっていなかったころ。
いつものように俺がこの世界の疑問を口にすると、逆に遥さんからそんな問いが投じられてきた。
「……そりゃあ、本物である方がいいに決まってるじゃないですか。幻なんかよりも、よっぽど」
「そうですよね。だったら、この世界もひとつの実体だと思いますよ」
「でも……知っちゃいましたから。ここが、天球儀の作り出した世界だってことに……」
「うーん。それなら、この世界は一場の夢で。単なる幻でしかないんじゃないかな~」
「……つまるところ、どっちなんです?」
俺たちが気づくよりもずっと以前から、この世界の秘密に触れていた遥さん。
要領を得ない問答ではあるけれど、彼女にしたって明確な結論など持ってはいないのだ。そうと分かっているつもりなのに、つい不満を覚えてしまう。
幻視の世界の住人たちはみな、何かしらの想いを抱えて集まってきた来訪者だという。
だとするならば……それぞれの想いを解決する以外のところで繰りかえされる日々については、どんな意義があるのだろう。
今、この瞬間にも。どこかで人々は笑い、そして怒り、あるいは涙を流している。
そればかりではない。通学路の途中に通りがかる、ショッピングストリート。そこの一角で愛良を和ませてくれた、あの帽子も。天儀町の隠れた名物といわれるアイスや乳製品を販売しているあの小さな店も。
そして。みんなが集い、何気ない日常を過ごす、この『エルデシュ』という建物も。
別の世界――たとえば愛良が本来存在していた世界でも、広がっている光景は同じかもしれない。しかしそれは、あくまで別世界のものだ。
この世界におけるひとつひとつの存在が、いずれも単なる幻視の産物にしかすぎないのだとしたら……あまりにも物悲しく、あまりにも寂しすぎる。
「きっとね……そうしたことは全部、連理くん次第なんだと思いますよ」
「俺次第……?」
「うん……。きっと、そう」
言いながら、望遠鏡を覗きこむ遥さん。
このときの俺には彼女の言葉の意味がわからなかったが、ひょっとすると遥さんなりに答えを導き出しながら、俺を励ましてくれたのかもしれない。なんとなく、そんな感じがした。
一度だけ軽く息をつき、小さく首を振る。
「……なかなかシンプルにはいかないもんですね」
「……知らないままなら算数でしかなかったのに、複雑な公式や理論を知ってしまうと数学になる――どこか、それと似ているかもしれませんね。でも、その問題を突きつけられたとき、わたしたちは同時に解法もまた手に入れているはずだと思うのです」
自分なりの解法が、つまり「俺次第」ということなのだろうか。
曖昧な表現の数々に考えこむ俺に、遥さんは「もうひとつだけ、付け加えるとすれば」と言葉をつづける。
「人と人のつながりって、いったい何なのでしょうね」
「……はい?」
「あるいは途方もなくおおきな、その一方でほんとうにちいさな。『繋がる』という言葉には、とても幅広い意味がこめられていると……そんなふうに、最近、ちょっとだけ思うようになってきたんですよ」
ばっさりと絶ってくれたわけじゃない。けれど、大きな示唆に富んでいるように思えた遥さんのアドバイスは、俺の背中を充分に力強く押してくれるような気がした。
◇ ◇ ◇ ◇
それから、しばらくして。俺は愛良とともに、2人きりで屋根裏部屋に上がった。
本来の部屋の主というべき遥さんは、今日は学院に泊まるという理由で不在だ。とはいえその隙を狙ったわけではなく、学院からの帰宅前に研究室へ寄って本人の承諾をちゃんと得ている。
ここ最近、この部屋では俺と遥さん、それに愛良の3人で過ごすことが多かったから、愛良と2人のみというのは少し目新しいような気分がする。
「2人だけだと……いつもより、ちょっとだけ広く感じるね」
当たり前のことを言っているにすぎないけれど、俺と同じような新鮮味を愛良も抱いたようだった。
思いを共有する。ささやかな幸せに、お互いに顔を見合わせて微笑む。
長方形に切り取られた天窓から、夜のひんやりとした空気が流れこんでくる。ここしばらくは天候に恵まれ、穏やかな気候がつづいているせいもあって、それほど寒さを感じることもない。
2人そろって天窓の外がよく見える位置を探し、腰を下ろして身を寄せ合う。
愛良と一緒に、夜空を見上げる。言葉はなくとも、しばらくはそれで充分だった。
波打つ気持ちが、溶けていく。肩越しに感じるぬくもりが、どうしようもなく心地いい。
「……じゃ、ないさ……」
「……連理?」
「幻なんかじゃ、決してないさ……」
このあたたかさは、決して不確かなものではない。そしてきっと、今この瞬間。俺と愛良以外にも、同じ温度を感じている人たちがいると信じたい。
この世界で。この世界だからこそ。心の奥から湧いてくるこの感情が、幻想であるなんてはずがない。
「……元気かな。そして、幸せでいてくれてるかな……」
天窓の外へ視線を向けながら、愛良が小さな声でつぶやく。
「大丈夫だよ、きっと……」
「……うん」
こちらへ振り向いた愛良が、わずかにうなずく。その彼女の一方の手の中に、見慣れた小箱が収められているのに気がついた。
「聴かせてくれるか、愛良の歌……」
「うん……聴いて。連理には、いっぱい聴いてほしい……」
「……とはいっても、小声でな。他の連中を起こさないように」
「……もう。それくらい、わかってるから」
ひとつ苦笑しながら。手にしたオルゴールの蓋を開けると、流れ出したメロディにあわせて愛良は歌いだす。
部屋の外に漏れぬよう、小さな声で歌う。それでいながら、俺の心を満たすには充分すぎるほどだった。
もう、途中で止まることはない。終わりまでちゃんと刻まれるオルゴールの旋律と、優しいゆりかごの中に魂を預けるような心地にさせる愛良の歌声。
みるみるうちに、目の前が鮮やかに色づいていく。
――かつて彼女の歌に心から共感し、笑顔を向けてくれた親友。
そんな彼女を裏切ってしまったと自責し、絶望という名の
湖底に沈みながら生まれた強い感情は、天球儀によって導かれ。やがてこの世界の愛良となった。
そして、同じく導かれてやってきた親友と再会して。彼女は本当の愛良の歌に触れて、新たな世界へと旅立っていった。
いや、そんな彼女ばかりではない。今の愛良の歌は……2人がかつてともに暮らした、元々の世界にさえ届いているはずだ。そう願わずにはいられない。
やがて……。
ゆっくりと終盤に近づき、最後の音列を歌い終える。愛良の歌声がやむのと同時に、オルゴールの動きがぴたりと止まった。
「ありがとう。いい歌だった」
ふう、と小さく息をつく彼女に、俺は満足の笑顔を向ける。何度聴いても変わらずに心に響く歌があるなんて、愛良の歌声に出会うまで知らなかった。
だから俺は、太鼓判を押す。
「……届いたと思う、みんなに」
「……うん」
それぞれが、違う世界で。それぞれが遠く離れ、別個の存在となった。けれども目の前の天窓から飛び出して、きっと愛良の歌声はその誰もの心に届いたはずだ。
愛良の親友の少女は、この世界から次の新たなる世界へと旅立っていった。それなら、歌だって別の世界へ旅立てるはずだから。
「……連理」
「ん?」
いつまでそうしていただろう。肩を寄せ合って星空を見上げていた愛良が、少しためらうようにしてから口を開いた。
「……星」
「……うん」
「……すごい数だよね、本当に。こうしてここから見上げていると、怖くなってしまうくらいに……」
「ああ。とても宝石箱をひっくり返した程度じゃ足りないよな……」
開け放たれた天窓の外に広がる、圧倒されるくらいの星々の競演。あまりにも巨大なスケールに愛良と同じような恐怖心を覚えもするが、それと同時に吸いこまれるような魅力もたまらなく感じてしまう。
届くことなんて決して起こり得ないのに、気がつけば掌中に収めようと腕を伸ばしてしまうのはどうしてなのだろう。
「このたくさんの星々の、どこか。そこに、きっといるに違いないと思うの……」
星々の彼方に視線を向けたままの愛良の顔。横からうかがう彼女の表情は、真剣そのものだった。
「分かるよ。愛良の言いたいこと」
心の底から、彼女に同意する。俺の考えも、まったくの同じだから。
「……私ね、考えてしまったの……」
――それは、望みなどしない結末。
それでいながら、訪れるようにと乞い願う未来。
天球儀の存在によって、明かされてしまった秘密。
それぞれの想いが結晶して導かれてきたのがこの世界だというのなら。その本願が満たされれば、この世界にとどまる理由は存在しなくなる。
そうして人々は、旅立っていく。遠く離れた、世界の先にある、はるかかなたへ。
すべての人が同じだというのなら、『エルデシュ』の住人もまた同様だろう。やがていつか心の空洞をあたたかなもので満たし、『エルデシュ』の外へ一歩を踏み出す日がやってくるに違いない。
きっとその瞬間は、あまりにも突然で。ひとたび流れが傾いてしまえば、誰にも止めることはできない。
仲間として。大切な友人、そして家族として。彼らの本願が叶うのを望まないわけはない。みんな幸せになってほしい――まさに、今の俺と愛良のように。
幸福の道の果てにあるのは、すなわち別離。
やるせない。想いを遂げた彼らを祝福すると同時に、言葉にならないほどの喪失感もまた待ち受けているのだ。
「みんな、行ってしまうのかな。あんなに広くて深い、星の海のむこうに……」
ふと気がつくと、窓外の世界に想いを馳せているとばかり思っていた愛良が、こちらの顔をじっと見つめていた。
あまり感情を表に出さないと思われていた少女の瞳が、不安に揺れていた。痛いくらいに、彼女の気持ちが俺にはわかる。
だから――だからこそ。心に決めていた言葉を、愛良に伝えようと思う。
「……それで、いいと思う。そうなっても、俺は構わないと思っている」
「連理……」
「出会って数時間の関係も、数日をともに過ごしても。まして何年もの付き合いのあとでさえも――そのときが来たら、俺たちは別れを覚悟しなくちゃいけない」
「……」
「たぶん、もう再会できない。隣の街に引っ越す、というのとはぜんぜん違うもんな」
ほんの一端であるかもしれないけど、世界と世界の仕組みを知ったいま。
満たされることと、欠けてしまうこと。それが表裏一体の関係にあることを、知ってしまった俺たち。
「……私は嫌。連理と離れるなんて……」
「……ああ。それは俺だって同じだ」
向かい合う。そのまま愛良の身体を抱きしめ、彼女の背に回した腕に軽く力をこめる。
不安から、逃れることはできない。けれど少しでもいい、愛良の不安を軽くしてやりたい。そのときを迎えても、笑顔を見せられるように。
――しばらくそのままで、俺と愛良はお互いのぬくもりを感じていた。長くつややかな、彼女の流れるような黒髪を優しくなでてやりながら。
徐々に、ゆっくりと、彼女が落ち着いていくのが肌越しに感じ取れた。少し甘えるように、愛良がこちらに体重をもたれかけてくる。
心地の良い重みを支えながら、俺は視線を天窓の外へと向けた。
「……たとえここからいなくなったとしても、消えてしまうわけじゃない。二度とその声が聞けなくなるわけじゃない」
別離。もちろん、こみあげてくる寂しさはあるだろう。
……けれど、それでも。俺はその時が来たら、喜んで送り出してやろうと思う、きっと。
それは本来、喜ばしい出来事であるはずなのだから。晴れがましき門出に違いないのだろうから。
こみあげる寂しさも、友の幸せな旅路を願う心も。どちらも、幻なんかじゃない。その気持ちこそが、この天球儀によって作り出された世界のなかで、打ち消すことのできない真実のひとつになる。
「聞いてくれ、愛良」
彼女のまなじりに指先で触れ、一筋の滴をそっと拭い取ってやる。
「生きているよ。誰だって……みんな、胸の中でちゃんと生きている」
声を。姿を。そして、ともに過ごした時間を。これからもっと、しっかりと心に刻みつけていこう。
忘れさえしなければ、それでいい。どんなに離れていても、心の中に静かに問いかけてみれば、ちゃんと言葉を返してくれる。
「……たしかに、存在しているよ。覚えてさえいれば、誰も消えることなんてないんだと思う」
それが――生きる、ということなのかもしれない。
「それでも、忘れそうになってしまったら……ここからまた、2人で見上げよう。ここから見えるどこかの世界に、きっといるはずだから」
「連理……約束だよ」
「ああ。その時は、一緒に見上げよう。俺と愛良、2人で一緒に」
こちらに向けられた少女の頭が、かすかにうなずく。そのまま、目が合った。
まっすぐに、俺のことを信頼してくれている目。
何があっても、誰よりも近くにいてくれることを疑わせない、ただ一直線なまなざし。
その瞳に向かって、俺は投げかけてみる。
「だから、俺からもひとつ。提案……いいかな?」
星も、大地も、ずっと俺は見守っていこう。ひとりきりじゃなく、大切な人とともに。
愛良が微笑んだ。きっと俺も、彼女につられて同じ表情を相手に向けていることだろう。
それ以上の言葉はいらなかった。もう一度、今度ははっきりと愛良はうなずくと、そっと瞳を閉じる。
両腕を広げて、あるがままの俺を迎え入れてくれる。そんなイメージと今の愛良の姿が、自然と脳裏で重なりながら。ゆっくりと、俺は彼女と口づけを交わした。
――いつまでも。お互いがお互いを忘れることのないよう。
その日がやってくる前に、愛良は歌ってくれる。自らの歌声を、大切な仲間たちのために。
そうして歌は、世界をつなげてくれるはずだ。その人間が望めば、いつだって――
どうか、少しだけ耳を傾けてね。
どうしても伝えたい、この胸の想いを。