その、薄い本なるものを、初めて万智姉様から見せてもらった時。
まず思ったのは、世の中は広いんだなぁということでした。
「綾乃にはまだ早いかもしれないどすが、興味があったらお声をかけておくんなまし」
そういう万智姉様の表情は、どこか煌めいていて、その瞳は誰かを沼に沈めようとする獣のそれでした。
最初、私はそれに気付かないふりをしました。だけど、年頃の知的好奇心には中々抗えません。知らない世界があるのなら、触れてみたいと考えてしまうお年頃なのです。なので、返却がてら、ついつい他の本はないのか尋ねてしまいました。
「綾乃も、中々見どころがありますよのぉ。好きなだけ持って行っておくんなまし♪」
好きなだけ、と言いながら、どうして万智姉様は何十冊もいっぺんに渡してこられたのでしょうか。ただ、そのどれもがとても薄かったので、幸いにもそこまで重くはありませんでした。
そして、帰宅してから、自室でペラペラと順番にめくってみます。興味のあるものだけでいいとは万智姉様は仰ってくださいましたが、大量に貸してくださった手前、目を通さないものがあってはいけません。夏休みです、勉強と将棋以外の少し時間が空くことは幾らでもあります。そのタイミング一回に付き一冊、というペースで、私は読み進めました。
「――うわぁ。……うわぁ……」
私も、少女漫画にあるような恋愛には憧れます。いつかは誰かと恋をして、結婚して、子供を産むかもわかりません。だけど、どこかで私もそうであったらいいと思います。
そしてこれらの内の一部は、そんな少女漫画で描いたような恋愛の物語そのままに、メインの登場人物が皆さん男性となっているのでした。
皆さん男性ですから、勿論子供はいません。ですけど、メインの二人が出会って、ライバルも現れて、深い過去が発覚して、そんな中距離を縮めて恋人関係になる、という流れは殆ど同じです。現実にもそういう嗜好の男性はいる、と知識では知ってはいましたが、それをお話としてまとめられるのは、中々にショッキングです。
これまで見つけたショッキングなことと言えば、二年前の夏休み、みんなで琵琶湖自転車一周をしていた時、余呉の辺りで、森の中に潜んで事を致しているカップルを視界の端に捉えてしまったことでした。その時気付いたのは私だけで、だけど言う事も出来ず、悶々としている内に体調にも異変をきたしてしまって、長浜でリタイアしてしまいました。
あれから二年。私も、少しは『そういうこと』に対する耐性が付いたとは思います。ですが、これはその時のものとはまた別物で、やはり慣れない世界に刺激が強い、というのはあります。これらの本にあることの内容自体は現実ではない。そんなことはわかっているのですけど、だからこそこれらを描いた人の想像力は豊かなんだなぁと思わずにはいられません。
そんな中、一冊、明らかに表紙の時点で毛色が違う本が出てきました。
「あれ、これって……」
そこに混じっていたのは、少しだけ他より露出が多い絵を表紙にした本。左下にはR18なる記号が付いています。
瞬時に、きっと本来は私が読んではいけないものであると察した私でしたが、ならどう違うのだろうという思考に至ってしまったのが失敗でした。
他の本より肌色が多い。つまりそれは裸っぽくなるということも多いということ。子供ながらに、それくらいの知識は持ち合わせていたというのに。
――そして。
「え、えっ、え~~~~~~~~~~っ!?」
私は真の意味で世界の広さを思い知ることとなったのでした。
「はぁ……世界が違い過ぎるよ……」
翌日、関西将棋会館で、あいちゃんと盤面の研究をしていた私は、どうしてもその場面が頭から離れずに、ついそんな独り言を漏らしてしまいました。
「綾乃ちゃんどうしたの? 何か気に障るようなことでもあった?」
そしてそう尋ねるのは、盤の向かいに座るあいちゃんです。純粋無垢な目をした、汚れを知らないあいちゃんです。
きっと、あいちゃんはあの世界のことをまだ何も知りません。知ってしまった私には、それがとても羨ましく思えて、だけどどこかで優越感を覚えてしまっています。
神様、私はきっと穢れてしまいました。あいちゃんには、何も知らないままでいて欲しいです。純粋なままのあいちゃんでいて欲しいです。将棋で勝てなくても、私だけが知っている聖域を壊さないでください。
「綾乃ちゃん……もしかして今、師匠のことを考えていましたか……?」
「えっ、ち、違うよ? 特定の人物に関しては今何も考えていませんでしたよ?」
「ならいいんだけど」
そこに関してはやましいところはなかったので、目元が急に暗くなったあいちゃんにも、怯えず答えることが出来ました。
ところで、私が、男の人で今一番身近な人は、恐らく九頭竜先生だと思います。加悦奥門下の誰よりも今は接していると思いますし、そこはあいちゃんも否定しないと思います。
先生は、JS研で私たちを懇切丁寧に指導してくださいますし、ちゃんと私たちのことを考えた一人一人の指導で、棋力を格段に高めてくださいました。少なくとも、ちらっと耳に入ってくる、九頭竜先生とのふしだらな関係とやらは全くないですし、私とすれば、安心して頼れる男性だなと感じます。あいちゃんはもっと先に先にと一人でに思っていますが。シャルちゃんは言っていることをまだ自分自身で理解出来てないところはありますし。
そのような状況で、九頭竜先生は、恐らく本人としては図らずしも、女性に囲まれる機会が多いようです。ですが、九頭竜先生本人からは浮いた話一つも上がってきません。将棋関係者の中で、空先生との関係を、という話がよく上がりはしますが、お二人とも現状では明確に否定をしています。
その上で、九頭竜先生は、私たちに全く、不自然なまでに手を出さないのは、それはそれとしてどうしてだろうとも思ってしまうのです。大人の人に何かしらの情感を抱けないのであるならば、その対象は私たちみたいな子供なのではと。勿論、手は出されないに越したことはないですが、九頭竜先生のお話を聞いて、その手のことが一切ないと、他人事ながら却って不安にもなってきます。
――ごめんなさいあいちゃん、今九頭竜先生のことを考えています。
「ねぇあいちゃん、九頭竜先生って、女の人に興味ないのかなぁ?」
だから、私が思わずあいちゃんにポロっとそういう話を漏らしてしまうのも、仕方ないことだと思うのです。
そして、それを聞いたあいちゃんは、コテンと、首を右に傾け疑問の表情を示します。
「どうしてそんなこと思うの?」
「男の人って、多かれ少なかれ、女の人に興味を示すっていうのはよくあるじゃないですか。九頭竜先生って、私たちに興味を示すってことがないなって……」
「そうだよね! 綾乃ちゃんもそう思うよね! そもそも師匠はいっつも誰か傍に女性を侍らせて、それなのに大概内弟子に挨拶の一言もないんだよ!? 不埒以前に、人としてどうかと思うよね! 内弟子として師匠を支えているのは私なんだから、まずは私に紹介してくれないことには始まらないよね!」
「でも、誰とも付き合うとか、恋仲になったとかいう話は上がってないですよね?」
「だからこそだよ! 余計悪いよ! 誰か一人と親密にということならまだわかるけど、ただ色々な女の人の間をふらふらしているだけのすけこましだよ!? あいがその被害者だよ!」
すけこまし呼ばわりとは、あいちゃんも大きく出たものです。私には、普通に付き合いでお話ししているだけにしか見えません。万智姉様に関してはその限りではないとも思いますが。
だけど、あいちゃんは、私にとって、思いもかけないことを続けて口にしたのです。
「これはもう、本当は男の人が好きなんじゃないかとさえ思えるよね!」
「えっ!? お、男の人を……!?」
そのあいちゃんの言葉は、私に、稲妻のような衝撃をもって全身に広がりました。あくまで、薄い本のことは、物語であって、現実にはありえないことであるという思い込みがあったのです。
衝撃でした。確かに、状況や、一部物事は物語でしかありえないのでしょう。だけど、誰が誰を好きになるかということそのものは、確かに何があってもおかしくはありません。
そして、状況を突き詰めてみると、九頭竜先生が、本当は男の人の方が好きなのかもしれないという状況は、確かに成り立ってしまうのです。
「――ねぇ、あいちゃん」
それでしたら、一つ一つ物的証拠を確認した方が早いでしょう。
「九頭竜先生って、あの――俗に言うエロ本って何冊持っていらっしゃるんですか?」
「あ、綾乃ちゃん!? 突然どうしたの!?」
「いいから!」
気付けば、私の方が盤に対して前のめりになっていました。いつもはあいちゃんの気迫に負けてばかりですが、こればかりは負けるわけにはいきません。
「えっとね、それがね、ないの」
「ない、んですか……?」
「そう、ないの。私としては、ないんだよかった少なくとも帰宅している間はあいのことだけを見ていてくれてるあいしか視界に入らないっていうことはわかるんだけど」
さらっとあいちゃんがとんでもないことを口走っていますが、私は聞かなかったことにします。
「別に、私は師匠になら『そういうことに使って』くれても構わないのに……」
続けてあいちゃんが不穏なことを口にしていますが一旦置いておきます。
少し考えてみましょう。仮に九頭竜先生が男の人が好きなのだとするならば、可能性のある方はどなたなのでしょうか。全くここまで関係のない方、という線はないでしょう。
とはいえ、棋界は基本男社会、そうだったとして候補になり得る方はたくさんいらっしゃいます。ですが、余程の一目惚れでない限り、付き合いがこれまでなかった方とそういう関係になることはまずないでしょう。色々とお噂を耳にする山刀伐八段とも、そういう関係ではない御様子ですし。
そういえば、先日清滝先生の家で見せていただいたアルバムには、九頭竜先生と空先生の小さい頃の写真が載っていました。他に写っていた人は、万智姉様と、月夜見坂先生と――。
「――え?」
そう、神鍋先生。
小さい時からの友人関係。それを崩せない九頭竜先生。好きという事を今から伝えて壊れるかもしれない関係性。そういえば神鍋先生も浮いた話の一つ聞きません。
急に話が繋がってきました。古い繋がり。深い付き合い。定期的な交流。それは、見方によっては遠距離恋愛のそれのようにも見受けられます。
いや、そうではなくて。お二人の浮いた話がないのは。もしかしたら、現に今。
「まさか、九頭竜先生と神鍋先生のご関係って……!」
「なー歩夢。ふと思ったんだけど、お前の周りって結構女っ気あるよな」
「いやそれをドラゲキンに言われたくはないな……小学生の弟子から桂香さんまで選り取り見取りだろう」
「まぁそういう言われ方するとなんともだけど、まぁ否定は出来ないんだよなぁ……」
「けど、色々思うところがあって、どの相手にも中々靡かないと」
「いやいやそんな知ったような口利いたところで」
「そうだな、指し手はあれで、生活習慣としてはこれで、弟子にはあれをしてもらい――」
「いやなんでそういうことまで知ってるわけ!?」
「そうだ……ドラゲキン……お前は、我の全てを知っている……」
「そ、そんなことはねーだろ。お前にだって隠したいことはあるし、お前も俺に隠したいこともあるだろ?」
「そんなことはないのだ」
「えっ」
「我は、お前になら全てを捧げてもいいと思っている。
「え、でもお前、釈迦堂先生は」
「マスターはマスターだ! それは永遠に注がれるべき師弟愛ッ! しかし、しかしそれでも! お前に抱くこの感情はっ! これを他の者に代替することなど……ッ!」
「そうか……そうだったのか……じゃぁ俺も、隠さなくていいんだな……この感情を……」
「ドラゲキン……そうか……お前も……」
「好きだ、歩夢」
「おぉ……ドラゲキン、いや……八一」
「――そうやって呼ばれるのも、本当に久々だな」
「さぁドラゲキンよ! 我と共に高みを目指そうぞ!」
「ってすぐにそれに戻るのかよ!? まぁ、高みを目指すのは吝かじゃねぇぜ」
「お前は……どちらからがいいか? 先攻か? 後攻か?」
「なら……後攻にするよ。最初はお前に抱かれたいんだ」
「さぁ、お前に挿れるぞ……我がライトウィング・ホーリーを!」
「くっ、う、あああああああっ!」
「ふ、不潔だよっ!」
「わわっ! 綾乃ちゃんどうしたの!?」
息が荒いです。真理に辿り着いた興奮と、あってはならないという焦りが呼吸に現れています。
だけど、立ち上がると同時に、別にそうとは限らない、という純然たる可能性に思い当たりました。断定するには時期尚早。
「あ、いや……なんでもないのです……」
だから、私は、一旦落ち着くため、座って盤面に集中することにしました。
集中――そう盤面に、どうにか、して……。
「あ、綾乃ちゃん!? 汗がすごいよ!?」
「ごめんなさい……駄目なのです……」
――出来ませんでした。
もやもやが収まらないので、関西将棋会館の中を散歩することにします。練習将棋は、二日制という体にして、封じ手だけして存置してあります。封じ手をする機会が今後出るとは限りませんが、いい経験です。それが出来るぐらいまでに強くなれればいいですが、あいちゃんですら手が届くかわからないのに、ましてや私には無理でしょう。
歩いている内に段々と落ち着いてきました。それと同時に、先ほどの疑念が再びふつふつと湧き上がってきます。
神鍋先生相手以外の場合はどうなのでしょう。九頭竜先生のことです、恐らく私の知らないところでも広く交流があるのだと思います。そこまではわからないので、私が存じ上げている方で考えてみましょう。
神鍋先生以外に、九頭竜先生と付き合いが長い男性というと、誰がいらっしゃったでしょうか。空先生を筆頭に、案外女性の方が多くて、意外と頭を悩ませます。
そもそも、古い付き合いという点では、空先生と、桂香さんと、清滝先生と――。
「――はっ!」
そうです、九頭竜先生は正に内弟子として清滝先生のところにずっといらっしゃったではないですか。六歳の時からずっといらっしゃるというのは、ともすればそういう関係に発展してもおかしくありません。
盲点でした。親子みたいな関係だとしても、実際に親子のそれというわけではありません。実際に戸籍を移し替えて義理の親子となったわけでもないならば、結婚自体は可能です。男性同士で結婚出来るのはまだ先でしょうけど。
清滝先生も、常々九頭竜先生に師弟愛という言葉を多く使っています。その言葉はどうとでも受け取れるでしょう。でも、もしも、それがそっくりそのままの意味だとするならば。
「九頭竜先生と清滝先生、師弟愛ってそういうことだったんですか……!?」
「し、師匠……俺は……ずっと慕っていま……すが……っ」
「八一、お前、いつも言ってたよなぁ……いつかはわしに恩返しをするってな……」
「け、けど師匠、ここじゃ誰が来るか……人目はなくとも声が聞こえちゃ……」
「ここは関西将棋快感……将棋で快楽を得る者の聖地じゃぞぉ……」
「『かいかん』ってそっ、ちの漢、字じゃな、あっ、うっ……」
「よう大きなったなぁ……自慢の息子や……誰にも渡すわけがない……」
「はっ、はぁ……うっ……し、しょぉ……」
「何も気にせんでえぇ……まぁわしに恩返しをするにはまだ早いというのもあるがな……」
「ししょ、ぉ……やっぱり、俺……」
「ええんじゃ……将棋快感にいる内は、それでええんやで……」
「だから『かいかん』ってそっちの漢字じゃないと思います!」
静かな廊下に私の絶叫が響き渡ります。というよりこれは殆ど清滝先生による九頭竜先生へのレイプ紛いになっていました。清滝先生が妙に落ち着き払っているのもまたそれっぽくなってしまっています。
そして、これは誰かに怒られそうと気付いて、すぐに女子トイレに身を隠しました。遅れて、どなたかの、静粛にしろという怒号に近い声が響きます。本当にその通りですごめんなさい。
慌てて身を隠したお手洗いは、どなたもいらっしゃいませんでした。基より個室ばかりが並ぶ場所とはいえ、少しは落ち着くことが出来そうです。
少し、九頭竜先生のことを改めて考えてみます。と言うとあいちゃんには怒られそうですが、今だけは許してもらいましょう。
よくよく考えれば、ずっと長い間清滝先生の内弟子になっていたからということでは、空先生とだって同じような理由が適用されてしまいます。ないとはいいませんが、別のことを考えるべきでしょう。
逆に、九頭竜先生が保護者的な立場になるパターンでは何かないでしょうか。私たちもですけど、年下の方からは慕われる九頭竜先生です、その方が可能性が高いのではないでしょうか。
そういえば、ネットで、『小学生なら男子でも女子でも見境なしか』という文言を見たことがあります。それは、九頭竜先生と椚三段が研究会をしているということに対してのものでした。
「――えーっと」
そういえば、事ある毎に、椚三段は、『好きです、八一さんの将棋が』と、わざわざ毎回倒置法を使ってその旨を九頭竜先生に伝えています。
というより、椚三段は明確に九頭竜先生のことが好きなのでしょう。こればかりはそうとしか思えません。そして九頭竜先生が椚三段と研究会をしているというのならば。
「そ、それじゃぁ、椚三段が九頭竜先生と研究会をしているのって……!」
「八一さん……僕は、八一さんの全てが好きなんです……」
「そうだろうという気はしてたよ。けど、こうやって頼られるっていうのも、悪くねぇな」
「――それだけじゃないです」
「どうした、何が足りないって言うんだ?」
「僕は、強くなりたいんです。だけど、それと同じくらい、八一さんが持つ様々なものが僕には足りないって、実感することも多いんです。経験とか、人脈とか、とにかく僕が持ってない様々なものを」
「まぁ、その辺りは年相応にしかならないとこもあるからな。俺が渡せるものは、可能な限り渡してあげるさ」
「だけど、それだけじゃないんです。僕に一番足りないものは愛だって、気付いてしまったんです。そしてそれは、僕が一番好きな人から最上級のものを向けられるものであってほしい。いつからか、そう願うようになってしまいました」
「――そっか。俺でよければ、だけどな」
「結局、僕は、八一さんにいつか勝ちたくて、だけどとにかく八一さんの傍にまずはいたくて――」
「あぁ……」
「だから……八一さん、僕を、抱いてください!」
「――あぁ、わかった。だったら、どういったものがお好みかい?」
「その……折角ですから、終始八一さんにリードしてもらえるような……」
「よーし、そうだな、じゃぁ、まずはこういうのはどうだ?」
「あっ、いっ、いいですっ、うっ、あっ、ああああああんっ!」
「研究会って何の研究をしているんですか!?」
「綾乃ちゃん? ここにいるの?」
「あ、あいちゃん!?」
突然のあいちゃんの登場に思わず動揺してしまいます。
「それで、綾乃ちゃんは一体何を考えてそんな声を?」
「だからね、九頭竜先生が椚三段に手を出してるかもしれないって――」
あ、口を滑らしてしまいました。
そして、私が止めるまでもなく、あいちゃんがどんどん黒くなっていきます。
「ししょう……? つまりそういうことなんですか……? 小さいなら男の子でもいいんですか……? 寧ろ男の子だからいいんですか……?」
「わわっ、だからそうとは限らないってばー!」
未知のダークマターと化したあいちゃんを抑え込むのは大変です。というより今のあいちゃんをどなたか科学者にお渡ししたらすごい発見がありそうです。まず私がそれどころじゃないですが。
あいちゃんはハッスルし始めたのでとりあえず置いていくことにしました。私は九頭竜先生ではないので責任なんて取れません。
それにしても、実際問題、椚三段とはどのような研究会をしていらっしゃるのでしょうか。機会があれば私も混ぜて勉強させてもらいたいものです。将棋のことをちゃんとしているならば、ですが。将棋のことでなくともいえなんでもありません。
それにしても、やっぱり、九頭竜先生にとって付き合いの長い方の方が何かあるかもわかりません。とはいえ、どなたがいらっしゃったでしょうか。
付き合いが長いといえば神鍋先生。家族的な付き合いといえば清滝先生。ですが、この二人のパターンはもう考えてしまいました。他にもいらっしゃるはずなのですが、すぐには思い浮かびません。
空先生繋がりではどうでしょう。それなら九頭竜先生とも古くから繋がりがあるでしょう。
とはいえ、女性の繋がりは女性がやはり多いです。それ故に新たな発見がありません。
あぁ、そういえば、三段リーグで今戦っている鏡水先生は古くからの繋がり、で……。
「――そうです! 確かにそれなら……」
脳内で、散らばっていた点同士が急速に結ばれていく心地を覚えます。昔からの繋がり。今に至るまで続く関係。途切れることのない縁。それらから導かれる結論。
「九頭竜先生……! 幾ら鏡洲先生が頼れるお兄ちゃんだからといって……!」
「銀子ちゃんから見て、八一の手ってどれだけのもんだと感じてたんだろうな」
「いやぁ、昔は別にそんなにサイズも変わらないし、そもそも姉弟子は姉弟子で俺を姉として導こうとしてましたから、向こうは俺の手のことを小さいって思ってましたよ、きっと」
「でも八一は銀子ちゃんのことを引っ張ってるつもりだったんだろ?」
「まぁ、そうですね。年下の女の子として、俺が守らなきゃというのは、確かにありましたから」
「俺はそんなお前だから……守ってやりたいって思ったんだろうな」
「えっ……」
「お前が好きだと思ったのは、そう、八一が銀子ちゃんと口喧嘩してた特急から降りた時の、あの手つなぎを見てからだったよ」
「え、でも、あの時は、結婚しちゃえばって……」
「照れ隠しだよそんなの! ずっと俺も悩んでたんだ。ただ小さい八一がかわいいだけなのか、それだけなのかって。でも、成長しても、お前が好きという気持ちは変わらなかった。だから、まずは、今でもこうやって関係を築けていることが嬉しい。嬉しいけど、それだけじゃもう満足できなくなっちまった」
「――俺は……ずっと、誰かに守ってもらいたかったんだと思います。鏡洲さんは、ずっと俺のことを可愛がってくれて、そして、今もこうやってずっと可愛がってくれています。だから、俺は、鏡洲さんにずっと頼っていられるなら、それは本望です」
「――そっか、ありがとうな。やっと報われたよ。この気持ちが」
「いや、俺だって本当に嬉しいですよ。鏡洲さんなら、俺のすべてを預けられるって思っていましたから」
「続きは……あっちで、な?」
「はい、それじゃぁ、あっちでゆっくりしましょう」
「鏡洲先生の愛が重すぎますっ!」
「突然叫んでどうしたのよ?」
「はわわっ、天衣ちゃん!?」
腰を抜かすかと思いました。そんなことはないのですが、丸で思考を盗み見られたかのような心地を覚えます。
「えっと……あなた、大丈夫?」
大丈夫かと尋ねられたら。
「大丈夫だと思います……よ?」
「何そのよくわからない間は」
正直私でもわからないのでそうだと言うしかありません。つまり多分駄目です。
「で、将棋とは関係ない差し当たって変なことを考えてたんでしょうけど」
「そ、そんな変なことなんて。九頭竜先生が男の人と恋愛するなら誰が可能性高いのかなって――」
「――はい?」
あ、またやってしまいました。先程と同じ失敗を繰り返すなんて、私も動転しているようです。
だけど。それより、今のを聞いた天衣ちゃんは、何やら顎に手を付けて、暫く考えこんで。
そして。
「それは……少し見てみたい気もするわね……?」
あ、これはいけません。
「あ、ちょっと用事を思い出しました! 行くところがありますので、それではっ!」
そうやって私は、さっさと彼女の前から退散するしかありませんでした。こんなことを考えるのは私だけで十分です。
全く、油断も隙もあったものではありません。少しでもこの秘密を口にすれば、ある方は憤り、ある方は興奮し、ある方は音もなく崩れ落ちます。すなわちこの秘密は将棋界を時には滅ぼす禁断の物事と言ってもいいのでしょう。
そして私は、それをひたすらに隠し通すいたいけな少女なんでしょうか。いけません、これは万智姉様の薄い本の受け売りでした。
だけど、それを追うのも中々苦しくなってきたかのような心地がします。単純に情報が少なすぎるのです。その貴重な情報源は万智姉様の薄い本と私の脳内妄想だけ……あれ、もしかして私、かなり危ない人になっていますか?
ともあれ、九頭竜先生と旧知の方はまだいらっしゃるはずです。なのでまだ私はこの建物を離れるわけにはいかないのです。廊下の隅に埃まみれで転がっている、微かな情報を探して。
少しだけ戻って考えてみましょう。憧れという線なら、竜王として大成している今、同じ土俵に立っていてもおかしくありません。そして、その憧れられていた相手は、若い才能に嫉妬を覚え、そして羨望を覚えても不思議ではありません。
名人でしょうか。いえ、名人がああも台頭してきたのは案外最近のことで、九頭竜先生の幼少期には当てはまりません。
では、その頃からの憧れられうるだろう棋士の先生といえば。清滝先生は父親みたいな方かつ先程考えてみたので除外して、もう一人。月光会長。
「そういえばずっと憧れていたっていつか仰っていた……!」
片やずっと抱いていた憧れが高じて。片や先の竜王戦でも月光会長が嫉妬したと仰っていた通り若い才能への羨望が高じて。おかしくありません。寧ろ燃え上がるには十二分な要素でしょう。
「月光会長……! 男鹿さんといい加減くっつこうとしないのって、つまり、そういう……!」
「竜王。あなたはお好きな方はいらっしゃらないのですか?」
「月光会長……また単刀直入に尋ねますね。というより月光会長こそ、男鹿さんがいらっしゃるのでは?」
「男鹿は私のために大変よく働いてくださってます。しかし……父と娘のような年齢差、改めてそういう関係というのも、ちょっと」
「そうだったんですね……やはり何かもうちょっと近しいところがないと、と」
「私が真に好きなのは、父と息子というような年齢差での関係……」
「――あの、今この話題を持ち出してそれって、つまり俺のことですか……?」
「そうですよ。私からすれば、どれだけアピールさせて頂いたかというのに。VIP席も、本当は竜王にこそ喜んでもらいたかったものだったのですが」
「回りくどすぎますよ! いや、でも、俺も、会長に守って頂けるのでしたら――」
「違いますよ」
「え?」
「同じ目線ですよ。私は、竜王と同じ目線で様々なものを見たかったのです。竜王は、若くしてそれを出来る。そしていつしか、私はそれがある感情を越すものであると気付いてしまったのです。そして竜王なら、私の全てを委ねてもいいと思えましたから」
「そんな、買いかぶりすぎですよ。ですけど……嬉しいです、素直に」
「竜王。私の目に、なっていただけませんか?」
「はい、是非とも……。この目で全てを見ますよ、将棋界の将来も、俺と月光会長との未来も」
「はっはっは……実に頼もしいですね。やはり私が好きになった相手だけある」
「俺も、月光会長に選んでいただけて光栄です」
「ふふふ……人間、いくつになっても欲を出してみるものですね。さぁ、あちらに寝室がございます。ゆっくり、休憩いたしましょうか」
「ええ。しかし、休憩にはならないような気もしますが……」
「――期待してますよ、竜王」
「はい、喜んで」
「男鹿さんが不憫じゃないですかっ!」
「はい男鹿ですが」
「ひゃうわぁっ!?」
多分本当に瞬間的に心臓が止まりました。叫んだその人が期せずして後ろにいるというのは幾ら何でもビビります。多分寿命が一年ほど縮みました。
言えない……月光会長が、実質的に男鹿さんをキープしているかもしれない可能性なんて、言えるわけがないのです……っ!
「と、とにかくなんでもないのです! 男鹿さんが行き遅れるかもしれないってことをなんて考えてなんてぇーっ!」
もう、自分でも何を言っているのかわかりません。男鹿さんの反応を一切見ないでその場から逃走します。少しばかり空気が変わっていたような気がしますが、後は野となれ山となれです。
結局、何を考えても堂々巡りになってしまいます。こうなったら、もう本人を含め、様々な方も巻き込んで調査するしかありません。
先程はあいちゃんを置いてきてしまいましたが、こうなったらあいちゃんにこそ助力を求めるべきでしょう。
あいちゃんを探してみると、トゥエルブの一角で、優雅に何かを飲んでいました。ティーカップを持っていたので、コーヒーか紅茶でしょうか。
私が店内に入ると、あいちゃんはすぐに気づいたようでした。飲み物を飲み終えて、着座した私と向かい合います。
「それで、何かわかったの?」
「何もわからないのです……」
そう、だからこそ、今私はここに来たのです。
「だからこそ、あいちゃんの力を借りたいのです!」
私がそう口にすると、何やらあいちゃんははっとしたような表情を浮かべました。
「やっと……やっとわかってくれたんだね綾乃ちゃん!」
「うんっ! だからこの謎を一緒に解き明かすのです!」
美しい同盟が結成された瞬間でした。今二人を阻むものは何もありません。この固い同盟はきっとダイヤモンドよりも固いことでしょう。
今九頭竜先生はどこかのホテルに缶詰めになっている、と聞いています。それならば、その部屋を訪ねれば、九頭竜先生は逃げも隠れもせずに質問に答えてくれるでしょう。逃げることはしたくても出来ません。
「これは、もう九頭竜先生を徹底的に調べるしかないですね!」
「そうだよ! 師匠を元の正しい道に戻すために、私たちがなんとかしなくちゃ!」
あいちゃんが、ともすればあいちゃん以外には、ずれてるかもしれないことを口走っていますが、やっぱりここでも置いておきます。
「ならば、行くところは一つしかないですよね!?」
その謎を探るため。ともすれば九頭竜先生と向かい合うため。
「うん! さぁ行こう! 師匠を守るため! 師匠を正しい道に戻すため!」
私とあいちゃんは、関西将棋快感、じゃない会館の奥地へと足を踏み入れたのです――!
九頭竜先生が、空先生と落花流水であり、そしてお付き合いを始めたと耳にしたのは、それから少ししてからでした。
それを聞いたあいちゃんの反応は……また別の機会にしますです……。