そこはどこなのか。
そこは現実ではないどこか。
現実ではないどこか?
そう、現実ではない。
じゃあ、そこは夢?
夢じゃない、ここは夢のはずがない。
だからここは、現実ではない現実。
現実ではない現実に、僕は居る。存在する。
そこから見て、遠くか近くか、白い何かが居た。
白い何かは、大きく深い湖の上を立っていた。
白い何かは、少女だった。
十歳くらいの、白い白い少女。
少女は何も見ていなかった。
確かにどこかに視線を向けているけれど、それを見ようとしない。
ぼんやりと、力のない瞳で何かに視線を向ける。向け続ける。
時々まぶたを瞑るだけで、何もしなかった。
足は真っ直ぐに立っており、手は垂れ下がっている。
その姿からは、ちょっとでも体に当たればぐにゃりと潰れてしまうのではないかと思うくらい、気力を感じない。
いくら時という概念が経っても、少女は動かなかった。
なぜそうしているのか、僕には分かる気がする。
それでも僕は聞いた。本当を聞きたかったから。
「理由なんてない。これが限界だから」
少女の口は動いていなかったけれど、僕にはそう聞こえた。
僕はその答えを聞いて思ったんだ。
やっぱりって。
それから、僕は少女を眺めていた。
ずっとずっと、眺めていた。
変化が起きた。
どこからかともなく現れた雨に、少女が打たれたのだ。
冷たく鋭い雨に、打たれている。
少女は濡れた。びしょ濡れに。
髪が、服が、肌が。
何もかもが濡れて、重さに耐えられなくなったかのように沈んでしまった。
固かった湖の水が、砕けたからだ。
少女の足は唐突に不安定になったけれど、少女はたいして驚くわけでも慌てるわけでもなく、そのままの流れに委ねている。
少女は深く深く、沈んでいく。
僕も追って、湖の中に入った。
少女の長い黒髪は縦になびかせていた。
それ以外は先ほどとほとんど変わらず、手足は無気力にだらんとしていて、水に押されていた。
閉じた口からは泡を吐き出す。
目が俯いているように見えるのは、悲しそうにしているのに気付けるのは、きっと僕だけだろう。
表情が時々一瞬、泣きじゃくるように見えたり睨みつけるように見えるのも、きっと僕だけだ。
水は深くなるごとに、闇の色は暗くなる一方で、どす黒く、グロくなる。
青く透明に澄んでいた色は今では赤黒くなり、何も透かすことのできないほど濁りきっている。
さらに進むと、削れた白い石のような物と肉の塊のような物がふわりと雪のように降ってきた。
下には暗闇しか続いていないから、永遠にずっとこのままなんじゃないかと思いそうになる。
けれど僕は知っている。ここに終わりはあることを。
またさっきの場所に戻れることを。
僕は沈んでいる間、少女に話をした。
一つだけ。偽りなく思ったことを。
真っ白なワンピースを着ている少女に対して。
――君は、ここが一番似合うね。
すると少女は、無表情の顔が崩れた。
「やっぱり、そう思う?」
いつの間にか、元の場所に落ちた。全く同じ立ち位置の所に向かって。
かなりの高さだったけれど、衝撃はなく痛みは無かった。
赤黒い水は上から降ってこない。
少女も僕も、濡れていない。
何事もなかったかのように、また。
また少女が何かに力なく視線を向けて、僕がそれを眺める時間が始まった。
そして、もう一度変化が訪れる。
僕と少女が湖の中に入って、深く沈む時間が始まる。
そして、もう一度元の場所に落ちる。
それが何度も何度も続いた。何度も何度も繰り返された。
もしも数えていたら、途中で数が分からなくなっていただろう。
僕は、最後まで数えることをしなかった。
最も、この時がいつなのかを知っていたら、数えていたと思うけれど。
少女が僕に問いかけてきた。
僕に体ごと向けて、目を見て問いかけてきた。
「ねぇ、目を欲しくないと思う?」
僕は頷いた。だって色々なものを見なくて済むから。
「耳を欲しくないと思う?」
僕は頷いた。だって色々なことを聞かなくて済むから。
「口を欲しくないと思う?」
僕は頷いた。だって何も言わずに済むから。
「足を欲しくないと思う?」
僕は頷いた。だって動かなくて済むから。
「じゃあ、×××を欲しくないと思う?」
僕は頷いた。だって欲しい理由が無かったから。
一拍おいて、何かが起きた。
いや、もはや起きた始めたのか起こっている最中なのか起こり終えたのか、区別がつかない。
僕に理解できたのは、水が自由自在に変化したというだけ。
水でできた、青い小魚の群れや見たことのない魚が、淡い夕焼け色の光に照らされながら泳いでいる。
地面には足首辺りまで透き通った水が微弱に波打っている。
揺れている濃い緑色をしたワカメは、水の色とよく絡み合い、綺麗な色に仕上がっている。
少女の方を見てみると、少女の周りを太く伸びた水の塊が、螺旋状に緩やかに纏っていた。浮いていた。
少し高い位置に水面から少女に覆い被さるように一枚、左右に若干覆うように二枚、大きな花びらのようなものを形作った紫色をした水が置いてある。
この水でできた花の中から少女が生まれてきた、と演出しているようだった。
そしてどういうわけか、水を波打っていた波紋は少女を中心に浮かび上がっていたらしい。
最後に分かった現象は、この場所全体に水飛沫が散らばっていること。
僕にはそれらの光景が奇跡に思えた。
幻想的で、ただひたすら美しい、奇跡。
あぁ! なんて素晴らしく、素敵な場所なのだろう。
いつまでもずっと、永遠にここに居たい。
暗転。現実に戻される。
無慈悲で残酷で、醜悪な現実に戻される。
ここはあそことは違い、理論に満ち満ちている。
ここではもう、あそこで見たような光景を見ることはできないだろう。
それは嫌だった、またあそこに行きたい。
だから僕は、キッチンに向かう。
縄だとこの前みたいに切れてしまうかもしれないから、今度は確実にしよう。
今ならあれを見たおかげ決心することができた。
現実ではない現実に行きたいがためだけに、こんなに勇気が湧いてくる。
僕は、キッチンの収納場所から包丁を取り出した。
……この期に及んで、緊張と恐怖を感じ始めた。
あそこに行ける、あれを見れると強く自分に言い聞かせる。
そうして僕は、包丁を胸に刺し込んだ。
一応念のため、脱力感のある手で包丁を掴み、かき混ぜる。
死後、あそこに行けたのかは分からない。
けど、僕にはそんなこと、どうでもよかった。