それはスローモーションだった。
空から白い結晶が落ちてくる。夕方、雪が降り始めた。空は鉛色。降り出した雪が勢いこそないものの、止む気配はない。地面に落ちた雪はすぐさま透明になって目立たなくなる。
そんな光景を俺は歩きながら見ていた。当たり前だが寒い。コンビニに行く途中だった。家を出る時はまさか雪が降るとは思わなかったので傘は持っていない。あまり強くないから必要ないか。うっとおしいだけだ。
ふと思う。今隣に恋人でもいたら、また違う感想を抱いたのだろうか。はしゃぐとまでは言わないが喜んだのだろうか。
そんなことを考えていると、無性に彼女の顔が見たくなった。
「あっ」
だから、彼女とばったり逢ったのはちょっと運命みたいなものを一瞬感じた。ただの偶然だろうけど。
美竹蘭。大切な少女。
「よう」
俺は蘭に向けて軽く手を挙げる。
「ん」
彼女も軽く手を挙げて応える。
「……偶然だな、こんな所で」
「だね。あたしは気分転換に散歩中。あんたは?」
「コンビニに行く途中」
「コンビニ? 何の用?」
「朝飯買いに」
「朝飯って……もっとちゃんとした物食べなよ」
呆れ気味の蘭。ごもっともな発言だが、男の一人暮らしだとついついそこら辺が疎かになってしまう。
「つい面倒くさくてな」
「不健康」
「仰る通りで」
ぐうの音も出ないほどの正論。
「ちゃんとした食事してるの?」
「…………」
「はぁ……だいたいわかった」
問いかけに答えないということはつまりそういうことだ。
「いや、自分のために料理するってすげぇ面倒くさい」
「はぁー……」
呆れたため息が返ってきた。
「じゃあ外食」
「お金がかかるからNG」
「もう一人暮らし止めてうちに住めば?」
「…………遠慮しておく」
有りだなと思ったが、その場合蘭の親父さんとも一緒に住むことになる。俺の命が危ない。
「その間はなんなの……」
「気にするな」
ただ蘭と一つ屋根の下で暮らすのが魅力的過ぎて遠慮したくなかっただけだ。苦渋の決断だったんだ。
「まぁともかく、コンビニ行ってくるわ。んじゃ――」
話を打ち切り、蘭と別れてコンビニへ行こうとする。
蘭と話すのは幸せなんだが、こんな雪空の下じゃなくてもいい。それにこんな寒さの中にずっといたら風邪を引いてしまうかもしれない。本当はもうちょっと一緒に居たかったが。
「ちょっと待った」
蘭に服の裾を掴まれ、それ以上進めなかった。
「あたしも一緒に行く」
「コンビニに何か用事か?」
「鈍感」
罵倒を頂いた。なんで……いや、なんとなくわかった気がした。
「………………もうちょっと一緒にいたいから」
蘭は鈍い俺のために小さな声でそう言ってくれた。顔が少し赤いのは恥ずかしいからだろうか。
はぁ、可愛い。言ったら怒られるから言わないけど。
「なんで笑ってるの?」
普段より少し低いトーンでそう言った蘭は顔が赤いまま、むすっとしていた。
「なんでもない。気にするな」
「嘘」
「いや、本当になんでもないから」
早く行こうぜ、と蘭の手を握って歩き出す。
「ちょっ」
蘭は驚きはするが、手を振り解こうとはしなかった。それどころか、指を絡めてきた。
「お前、なんで手袋してないの?」
「家を出た時は大丈夫だと思ったの」
蘭も手袋はしていなかった。だから蘭の手も冷たい。
「というか、あんたも手袋してないじゃん。冷たいんだけど」
「お互い様だ」
お互い素手の状態。手を繋いでもこの寒さだと温かくならない。
「どうにかしてよ」
蘭から無茶振りを頂いた。俺はない知恵を絞って、あることを思いついた。
「こういうのはどうだ」
握り締めた手を俺の上着の大きめのポケットに入れた。冬が寒くて良かった。
「これでちょっとは温かくなるだろ」
「まぁ……うん」
何かを言いよどむ蘭。またも顔が赤くなっている。
「これ温かいんだけどさ……」
「うん」
「…………なんかエッチじゃない?」
「何言ってるんだ……」
いやほんと何言ってるの蘭ちゃん。顔真っ赤にして何言ってるの。
「どこにエロ要素があるの」
「いやだってさぁ、ポケット狭くてさ、いつもより密着してる気がするんだけど」
「いつもこれぐらい密着してない?」
「いつもよりあんたとの距離近い気がするし」
「いつもこれぐらいだと思うが」
「……やっぱなんかエロい気がする」
蘭の中でこれはエロい行為に認定されたっぽい。エロくないと思うんだけどなぁ。まあ、ドキドキはするんだけど。
「そうかなぁ……」
「む……じゃあ、こういうのはどう?」
ポケットの中で蘭の手が強く握られる。と思ったらすぐに弱くなる。ニギニギと、それが繰り返される。ポケットの中という限られた空間が触覚を敏感にさせ、彼女の動作がより感じられる。
蘭の挑戦的な視線が向けられる。赤い顔に上目遣い。
「……確かにエロいな」
蘭の視線含めて、確かに卑猥な感じがする。認めざるを得ない。
「嫌か」
「……………………嫌じゃない、よ」
俺の問いかけに凄い間があって小さな声で蘭は素直に答えてくれた。今日は珍しいことに素直だ。
俺はニヤつきが抑えられなかった。
「蘭は変態だな」
俺の言葉に蘭は嫌そうな顔をする。
「変態じゃない」
握る手の力を痛いくらい強くして、蘭は俺の言葉に抗議する。
「痛い痛い」
「撤回して」
「わかったっ、撤回するから」
その言葉で蘭は力を弱めた。
「早く行こう」
口を尖らせた蘭が俺を引っ張る。俺の上着のポケットで手を繋いだままだったから、第三者から見たらきっと間抜けな絵面をしているだろう。なんか笑えた。
「なに笑ってんの」
不思議そうに聞いてくる彼女になんて答えるか少しだけ迷った。
「なんでもない」
「変なの」
俺の回答がおかしかったのか、蘭も笑った。無邪気な微笑み。その光景を見て心臓を鷲掴みにされた気分になる。ああ、俺は彼女にまた恋をしたんだ。今また恋に落ちたんだ。
雪が視界にちらつく。こんな気分になったのはこの雪のおかげかな、とか柄にもないことを思い始めている。重症だ。
「このまま青葉さんがバイトしてるコンビニに行くか」
「ちょっと待って。モカのバイト先はやめて」
「なんで?」
「この状態を見られるのは恥ずかしいんだけど」
「じゃあ、これやめるか」
「やめない」
即答だった。ポケットの中で手を繋ぐのはやめたくないと。どうすればいいんだ。
「そもそも青葉さん今日いるのか」
「うん。いる」
これ見られたら絶対からかわれる、と確信を持って言う。さすが幼馴染。相手のことをよくわかってるもんだ。少し羨ましい。
「そもそも、なんでモカのいるコンビニに行こうとしてるの?」
他のコンビ二でもいいでしょ、とさらに付け足される。その通りだ。
本音を言うと照れる蘭が見たいから行こうとしてる。これ言うと怒られるだろう。なので
「顔見知りがいるお店とそうじゃないお店なら顔見知りがいる方に行くだろ、普通」
と、誤魔化しておく。
「わからなくはないけど、この状態で行こうとする? ……怪しい……」
蘭の様子を見るに、誤魔化しきれていないみたいだ。
「まさか……」
俺はその言葉にバレたかと、肝が冷える。
「……浮気?」
「えっ」
「モカのこと好きになったとか?」
まさかの見当違いだった。俺は蘭一筋なのに。
というか思いっきり握られた手が痛い。今日最大の痛さ。明らかに俺の手を握りつぶそうとしてる。
「違うっ」
即座に否定する。しないと手が壊れちゃう。
「じゃあ、なんで」
蘭の低めのトーンの声が恐ろしい。
「幼馴染に見られて恥らう蘭が見たかったからです」
俺は耐え切れずに正直にゲロってしまう。怒られるだろうなぁ、と思って彼女の反応を待った。
「………………そ」
思っていたのとは違う反応。長い沈黙があって、そしてそっけない一言。
握る力が弱まる。それでも手は繋いだまま。
蘭はそっぽ向いてどんな顔をしているかわからない。でもその耳は赤いような気がする。
ああ、本当に可愛いな。
「なにニヤついてるの」
俺を見た蘭は真っ赤な呆れ顔。俺はだらしない顔をしていたんだろう。棘のある言葉がその証拠。
「生理現象だ」
「うわぁ」
冷たい視線を頂いた。ご褒美です。ありがとうございます。
「さ、『モカのバイト先じゃない』コンビニに行こ」
「えー」
「えー、じゃない」
「わかったわかった」
俺が諦めてそう言うと蘭はふっと笑った。
他愛のない話をしながら歩く。蘭の手をポケットにお招きしているせいか、速度はスローだ。だけどそれがよかった。
「――――」
彼女がぽつりと零す。微かに聞き取れたその言葉は俺が今思っていたことと同じだった。
珍しく素直なその言葉に俺は手の握る力を強くした。蘭は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
雪はまだ降っていた。それはスローモーションだった。