032.心のざわめき
鈴那の一件から数日。イギリス行きの日取りも迫っている中ではあったが、特段変わった事があるわけでもなく時間は過ぎていく。
エレノアも漸くヘリコプターの操縦に慣れてきた頃だ。シミュレーションでも墜落することはなくなった。そろそろ実機での訓練も始まるだろう。
そうして過ごしていた中で、エレノアはまたある日の昼にインターンの少女に屋上へ呼び出されていた。
「こうして話すのは流石に初めてかな、ボンド先輩?」
目の前にいるショートボブの髪型の少女はそう問いかけて意味ありげに微笑む。彼女の名は遠山かなめといい、エレノアの先輩である遠山キンジの妹であるらしい。少なくともエレノアはそう聞いていた。
果たして何の用か。かなめは過去に一度、エレノアの友人であるあかりたちを巻き込んで大立ち回りをした人物でもある。その事件に関わってこそいないが、あかりから周囲の人間関係の相談くらいはエレノアも受けた。最大限に警戒はしているが、既にかなめもあかりの友人だ。露骨に態度には出せない。
「何か用かしら? わざわざインターンが屋上に呼び出しなんて」
時間は放課後。夕陽が二人に差して、橙の色を混ぜる。ホルスターには手が届くようにリラックスさせながら、エレノアは目の前の少女を見つめる。
「そんなに警戒しないでよ。あかりちゃんにやっちゃったあの事件から絡み無くなってたし、確かに警戒するのは分かるけど。あたしが訊きたいのは、そっちの人間関係についてだけ」
「……どういうこと?」
「エレノア先輩、あのジェームズ・ボンドの娘なんだよね? 何か気付かない?」
何を言っている? エレノアはかなめの言っている事が理解出来ずに首を傾げる。最早自身がジェームズの実子である事を隠す気もないが、同時にそれに関連した人間関係の異変など分かるはずもなかった。
「何が言いたいのかハッキリして。私は謎解きとか駆け引きって好きじゃないから。父と違って」
「ふぅん……力ずくってワケね。まあ悪くないか。でも、あたしはそんなことしたくない。それはそっちも同じでしょ?」
「……だったら私から何を聞きたいのかハッキリして」
毅然とエレノアが返すと、かなめはやや残念そうにかぶりを振る。
ある程度謎掛けはしたかったのだろう。『まぁ、非合理的とまではいかないか』──彼女は夕焼け色の空へ視線を走らせて呟いた。
「先輩の周りは随分と女子が多いよね。特に仲がいいメンバーは皆そう」
「……そう? あんまり気にしてなかったけど……美夜に鈴那、詩乃と南野先輩──それにQと……後はあかりたちか。言われてみたらそうかもしれないけど。それが?」
「ボンド家は自然と異性を引き付けるの。ただ、先輩の父親は叩き込まれた仕草と作法、魅力で女を引き付ける。先輩を暫く観察してきたけど、天然物の『
「アイドル……?」
いきなりそんな事を言われても尚更意味が分からない。エレノアの頭は疑問で霞がかるようだった。ただ、目の前のかなめも冗談を言っている雰囲気ではない。視線は真っ直ぐにエレノアへ向けられ、一分、二分と時間が経っても口角は上がらない。からかっている訳では無いらしい。
「まぁ、ちょっとした特殊体質だと思えばいいよ。ただあたしが不思議なのは、女人望持ちが二人居ると派閥争いになる筈って事なの」
「アイドルが何かは分からないけど、その口振りだと……もう一人いるってことかしら?」
エレノアが訊ねると、かなめは特に間も置かずに頷いて肯定した。
「この派閥は放っておくと殺し合いになるまでいく……その筈なんだけど、先輩ともう一人の間は全くそんな気配が無いんだよね。むしろ仲良くやってるくらい」
「……それは警告?」
「それもあるよ。ただ、体質は知っておくに限るでしょ」
体質。まさか。たまたまそれでエレノアの人間関係が構築されていたとでも言うのか。かなめの言葉を聞いて、微かに眉根を寄せる。それが体質だというのなら、そこに信頼はあったのか。
もし、その体質ではなくなったら友人達は離れゆくのか。エレノアの心に霧がかかるようだった。今までの関係が一種にして脆いガラスのように変わっていく感覚。
「かなめ様。一先ずそこまででお願い致します。エレノア様が混乱していらっしゃいますので」
かなめは屋上の端──フェンスを背に立っていた。不意に響いた鈴を転がすような声は、その背にしたフェンスの上からだった。エレノアの友人、櫻羽詩乃はいつの間にかバランスの悪いフェンスの上にもかかわらず羽根のように柔らかに佇んでいる。しかし、その目は明らかにかなめをけん制するように鋭く向けられていた。
「本当に敵意は無いんだけど、まぁエレノア・ボンドのお付きが言うなら止めておくよ。櫻羽先輩も詳しそうだし、後は彼女に聞いて」
肩をすくめたかなめは、観念したようにエレノアの横を通り過ぎて屋上を後にする。
ドアが閉まるのを確認してか、詩乃はふわりと軽い足取りでエレノアの正面へ着地した。跳躍に使ったフェンスはきしりとも音を立てない。
「君は分かるの? アイドルとやらについて」
エレノアが問う。詩乃は『えぇ』と相槌を打つと、さらに話を続ける。
「日本では『女』の『人』に『望』むと書いて、『ニョニンボウ』と呼ばれています。海外では先ほどのように『アイドル』と呼称されているようですね」
「……要するに、女性を引き付けやすい体質?」
「難しいです。フェロモンとも違いますが、似てはいます。古来日本から伝わる体質のようですが、流石に私もそこまでは……。かなめ様が以前使ったとされる『人工女人望』──『アイドルフェイク』とは異なり、催眠誘導ではありません。むしろ対象を観察するに、無自覚なことが多いでしょう」
女人望の持ち主は無自覚。エレノアは尚更頭を捻る事になった。無自覚であればそれで良かったのだが、かなめは何故今更になって女人望の話をしたのか。
「なんで彼女は私にそんな話を?」
詩乃に問うと、彼女は少々迷うように視線を泳がせてから答える。
「思うに、意味など無いのでしょう。ただかなめ様の仰った通り、女人望は同じ体質が二人いれば派閥争いになります。エレノア様のそれが少々違う事は分かりましたが、彼女なりの忠告だったのかもしれません」
かなめも言っていた『放っておくと殺し合いまでいく』──詩乃の語った派閥争いとは、そういうことなのか。
エレノアはただただ頭を抱えることしか出来ない。そう言われたとして、どうすれば良いのか。
「動揺されていますね。無理もありません……今までの交友関係にも、揺らぎが出るとお思いなのでしょう?」
「君はお見通しってワケね」
エレノアは皮肉のつもりだった。しかし詩乃は純粋な 笑みと共に肯定を返した。
思わず右手で目を覆う。そもそも半分人間ではない詩乃はそのような体質由来のものに引っ掛かるのだろうか。最初はそれこそジェームズへの恩返しが目的だった彼女だ。エレノアを信頼こそしても、彼女自身を信奉しているわけではないようにも見えた。今では立派に信奉しているようにも見えてしまうが……。
しかし、事情が分かる彼女に頼るしかない。
「私はどうしたらいい?」
「……私を頼ってくださるのですか!?」
「茶化さないで答えて。そんなのに付き合う余裕無いわ……」
両手を合わせて歓喜に声を上ずらせた詩乃へ、エレノアは鋭く切り返す。実際メンタルに余裕はない。下手をすれば友人を失いかねないのだ、孤高でいられるほど彼女のメンタルは強靭でもない。だから友人の事件や仕事には全力を尽くしてきているし、彼女はこれからもそうするだろう。
「茶化してなどおりません。エレノア・ボンド様のお付きとして、真面目にお答えしますと──『いつも通りでいるべき』でしょうか」
「いつから君は私の従者になったの? そんなものを雇った覚えはないわ。で、今まで通りでいいって? なんで?」
訊ねてみたが、良く考えれば──否、良く考えなくても分かることだった。今まで通りの付き合いがしたいなら、波風は立てないに越したことはない。単にそれだけの話じゃないか。思考が回っていない事を自覚して、エレノアは自身の動揺をより強く実感する。
「女人望で得た信頼か否かにかかわらず、周囲の本人たちに自覚はありません。純粋にエレノア・ボンドという一人の人間についてきているのですから、荒立てることも不安に思う必要もないのです」
「仮にこの体質が消えたら? 私には誰が残るの」
「心配はありませんよ。皆様はちゃんとエレノア様を見ています。貴方の別な『何か』に惹きつけられているだけではありません」
──ですから、仮に女人望が無くなっても変わりません。
詩乃はエレノアへはっきりとそう告げる。信じて良いのか──暫し葛藤して、エレノアは漸く決めた。
「分かった。ただ、もし何かあればその時は対処法を教えて」
「分かりました……とお答えしたいのですが、お時間を頂きます。何しろ、いわゆる日本の秘伝のようなものでして、そもそも何か起きてから対処が出来るのかどうか」
詩乃にとっても望んだ返しではないのだろう。彼女の表情は平静を装いながら、どこか沈んでいた。
とにかく悩んでいても仕方ないことは、エレノアもいい加減理解できた。一旦は持ち帰るしかないだろう。詩乃には引き続きの調査を依頼し、エレノアは一旦寮へと帰ることに決めた。
寮に帰れば、当然ルームメイトの美夜がいる。今のエレノアからすると、少々ぎこちなく接してしまいそうだった。思わず玄関の前で立ち止まり、悩む。
詩乃には『いつも通り過ごせ』と言われこそしたが、やはりなかなか割り切るのは難しい。ここは一度自身の気持ちを整理する為にも、どこか一人で泊まりに行こうか。
「何してんの、エリー」
きびすを返そうとしたその瞬間、玄関のドアが開けられた。美夜がドアの隙間から、エレノアへ怪訝な目を向ける。
これでは言い訳は出来そうにない。今から『泊まりに行くから帰らない』というにはあまりにも遅すぎた。美夜のことだ。理由を聞き出すまでは、絶対にエレノアの外泊は認めないだろう。
仕方なく『なんでもない』と告げて、寮へと踏み入れるエレノア。夕飯の支度が進んでいるのか、食欲をそそる匂いがリビングに広がっている。
「メシならもうすぐ出来るから、ちょっと座っといて」
美夜はエレノアにそう告げると、ぱたぱたとキッチンへと向かった。エレノアもリビングのソファに腰掛けて、美夜の用意を待つ。だがどうしても落ち着かない。
食器は既に準備されていた。ミトンを着けた手で鍋を運んできた美夜へ、エレノアは思わず尋ねてしまった。
「美夜。君は、なんで私と一緒にいるの?」
エレノアの問いに、鍋を置いた美夜の空気が明らかに凍った。
「お前、今更そんなこと訊くのか」
「……ごめん。でも気になったんだ」
リビングの空気に重圧が掛かる。美夜はエレノアへ視線を向けもしなかった。
「入学式で結構話したやろ。それで『コイツなら一緒にやってけるな』って、最初はそうやった。ただ一緒に遊んだり、依頼こなしたり──そうするうちに、居ないといけない存在になった」
「君は交友関係も狭くはないでしょ。見てくれる先輩もいる」
「忘れてへんやろな、ウチに撃ち込んだ銃弾一発。ウチは忘れてへんぞ。あの銃弾が無かったら、どっちも死んでた。その借りを返す為にもエリーにはずっと付いていく」
くだらないことを訊くな。美夜はそう言って、身に付けていたミトンとエプロンをエレノアへ放り投げた。少なからず、怒りを買ってしまったようだ。
「先輩だとか、ほかのダチとか。比べる次元が違う。ほら、メシにすんぞ! 冷めちまうよ」
美夜の真意はやはり測りかねる。しかし、そうして向けた静かな抵抗は本心から来るものだからだろう。誰しも、自分の信頼を疑われれば頭にくることもある。
女人望──この謎の体質がエレノアの脳裏をちらつく限り、恐らく彼女は美夜へ向けた疑いをほかの友人にまで向けてしまうのだろう。気を付けようと思っても、やはり気になってしまう。自分の柄ではないと思っても、エレノアもやはり年頃の少女なのだ。
ふと考えているうちに、一人の顔がよぎった。
(そうだ、南野先輩。CVRならこういうことも分かるかしら)
美夜の態度を見て、これ以上同じ事を繰り返してはいけない事も分かった。ならば尚更自分で調査を進めなければならない。
エレノアはスマートフォンで六花に連絡を取り、明日の放課後に約束を取り付けた。少しでも何か分かればいいが。
「美夜、ごめん。疑うつもりじゃなかったの」
「分かってるよ。何かあんだろ? 分かったらちゃんと全部話せよ。それでチャラにしてやる」
美夜からの重圧は気付けば既に無かった。
明日、改めて六花に相談しよう。夕飯を口にしながら、エレノアは明日の予定を組み立てていた。
かなめの登場。そして女人望。
いや、ボンド家ならこれくらいあるよねっていうお話が今回の章です。