「開門、開門!」
黄の国の城下街は東西を二本の大河に挟まれている。その東側にかかる大橋に設けられた大門が、重い音を立てて開かれた。
その門の外で待っていたのは、緑の国の旗を掲げ、大公家の紋章をあしらった胸当を身につけた騎馬衛兵たちと、その彼らに守られた何台もの豪奢な馬車の列。
門の内側、黄の国の側にも騎馬隊が整然と並んでいた。こちらは黄の国の旗を掲げ、胸当には王家の紋章があしらわれている。
緑の国と、黄の国、互いの騎馬隊からそれぞれの長が下馬し、門の下に進み出た。
「これなるは緑が国、第一公女ミク様のご行列である。黄国王からのお招きに応じ、まかりこした」
「遠路はるばるご足労頂き感謝いたす。我ら黄国王親衛隊、これよりご行列に同道し、陛下のもとへ案内いたす」
緑と黄の旗が並びたち、大公家と王家の紋章を煌めかせながら、華々しく豪奢な行列が橋を渡り、城下街へと入った。
黄の国の街並みは古い。
河川に挟まれた決して広くない土地に新旧の建物がひしめき合い、さながら迷路のような様相を呈している。
王宮は、東西の大河の上流側、二本の河川が最も狭まった間の丘陵の上にあり、街のどの場所からもその姿を望むことができた。
しかし街の最奥部に位置するだけに、そこへ至る道程は難解を極めた。
緑の国の行列に黄国王親衛隊が同道するのも、外国の一行に対する護衛や監視に加え、言葉通り“案内”しなければとても目的地にたどり着けないという事情があった。
黄国王親衛隊は、街の中でも比較的古い道を選んで先導した。
古い通りは、街が発展して混み合う前から存在しているだけに、騎兵と馬車が並んで通れる位に広く、また、王宮への道もさほど複雑ではない。
石畳の上を、いくつもの馬蹄と車輪が音を鳴らし、それが街中に谺する。
街には他に音もなく、折からの曇り空の下、城下は息苦しさを覚えるような重い沈黙に包まれていた。
通りを歩く人々には活気が感じられず、親衛隊と馬車の華美な行列が現れると、その輝きを恐れて嫌悪するかのように、通りから縦横無尽に伸びる狭い路地へと逃げるように姿を隠していった。
街の人々が消えていった路地というのは、それこそ城下街の隅々にまで血管のように張り巡らされた、まさに迷路だった。
そこは細く、曲がりくねり、そして人気のない広く古い通りとは比べ物にならないほどの、濃密な人の気配で溢れかえっていた。
活気とは違う、一種の諦めと倦怠、そこから発する負の感情が、華やかな行列が広い通りを走り抜けていくたびに路地から風となってどっと吹き出してくるようだった。
しかし行列はそんなものを気にも留めず、その輝ける威光をもって負の風を蹴散らしながら王宮へと向かっていく。
行き場をなくした風はまた細い路地へと吸い込まれ、血管のような迷路によって街のすみずみにまで行き渡っていった。
王宮、謁見の間。
その最奥部、高い天井に吊るされたシャンデリアまで届きそうな異様に背の高い背もたれと、宝石が星のように散りばめられた手すりをもった玉座がある。
レンはそこに腰掛けながら、凝り固まった手足を思いっきり伸ばしてほぐしたいという衝動を必死にこらえていた。
彼が身につけているのは、過剰なまでにレースのついたシャツと、複雑怪奇な金の刺繍が施された厚手の上着。
艶やかな黒生地の長ズボンを腹部を締め付ける拷問具としか思えない本革のベルトで留め、足元は宝石を重石がわりに使ったとしか考えられないほど重たいブーツを履いていた。
あの変態もっこりレオタードを履きたくないがために探し出した代わりの衣装だったが、代用として使用できる伝統衣装といえば、この儀礼式典用の重鎧もかくやというほど動きづらく、重苦しい衣装ぐらいしか選択枝がなかったのだ。
しかし、重たい。
特にブーツに押し込められた足元などは、鉄球付きの鎖で足を繋がれた囚人のようだ。
(まったく、これじゃ本当に囚人服と変わりゃしない)
レンは身体を動かすのも億劫な服の中、硬い玉座の上で、誰にも気づかれぬよう無表情でため息をついた。
いっそ、この服と、囚人服を交換してみたらどうだろうか、とレンは思った。
クローゼットにはまだ百着以上あったから、囚人分ぐらいは足りるだろう。
もし国中の囚人がこの服を着れば、薄暗い牢屋のイメージもさぞかし明るくなるに違いない。
そして王宮ではボロボロの囚人服を身にまとった国王が高笑いを上げながら「さぁ、跪け」と命令し、大臣たちはバカ面下げて跪く……
……そんな妄想をしていたとき、レンはハタとある疑問に思い至った。
(そういえば、囚人の正確な数は何人だろう?)
百人以上はいるだろう、という漠然とした予想は、冷静に考えれば少なすぎる。
国土は諸国と比べても広い方であったし、人口も多い。しかも近年は治安も悪化しているらしいし、数百人どころか数千人、いや当然万単位はいるはずだ。
もっとも、これとて想像上の予想であり、確たる根拠はない。調べればすぐ判るはずなのに、それを今までしてこなかった。気にも留めていなかった。
(こんなことも知らずに国王をやっていたなんてな……)
そう思うと、いてもたってもいられなくなり、今すぐにでも資料室へ駆け込みたい気分だった。
この思いは国王としての責任感というよりも、レンの生来の気質から出ていた。
ある事に対して、疑問や、興味を持つと、それをとことんまで突き詰めたくなる。
つまり、極度の凝り性であった。
ガクポから剣術を習っていたのもその一つであったし、他にも、政治・経済・軍事、色々と独学で学んできたものは多い。
ダンスに関しても、実は人知れず練習を重ねていたのである。ただし、これはあまり上手くなり過ぎないよう手を抜いていた。
もし上手くなってしまったら、リンと踊る口実が無くなってしまうからだ。
(リンと踊れるのなら、舞踏会も楽しめるだろうに)
資料室で囚人の数を調べたい衝動を抑えるために無理やり他のことを考えようとしたが、思い浮かんだのはそんなことだった。
一緒に居て、心から楽しいと思える相手はリンだけだった。
レンは直前までやっていたダンスの練習を思い出しながら、視線だけで双子の姉の姿を探した。
しかし謁見の間に、リンの姿はなかった。
当然だった。
今、彼女はメイド長として、大広間で舞踏会の最終確認に追われている真っ最中だろう。
臣籍降下したとは言え元王族、それも現国王の双子の姉であるだけに、メイド長などという役職も本来なら名誉職でしかない。
しかし、意外と言ったら失礼だが、リンは名実ともにメイド長として精力的に働いていた。
(リンも貴族だったとはいえ、貧乏貴族だったらしいからなぁ)
そのことを思うと今でも心苦しいが、本人はさほど気にもしていないようで、今のメイドとしての仕事もけっこう気に入っているようだった。
メイド長という立場でありながらも自らの手で仕事をすることも多い。
レンが今収まっているこの玉座も、リンが毎日綺麗に磨き上げているものだった。
姉のためにも窮屈な玉座に我慢して嵌まり続けていると、ようやく、待ちかねていた人がやってきた。
「緑が国第一公女・ミク様。ただいまご到着にございます」
従者の朗々とした宣言とともに、謁見の間に控えていた楽団が一斉にファンファーレを奏でた。
巨大な扉が音を立てて開かれ、年若い少女が、その姿を現した。
歳は十六、緑の国の民族の特徴でもある緑色の長い髪を左右に垂らし、エメラルドのような輝きを放つ大きな瞳が、正面奥に座るレンへと向けられた。
ミクは、レンに向かって穏やかにほほ笑みかけながら、ゆっくりと足を前に進めた。
レンもまた玉座から腰を上げ、ミクに向かって歩み寄った。
ちょうど謁見の間の中央あたりで、二人は向かい合う。
「ミク姫、よくぞ来て下さりました」
「この度はお招きくださり感謝しております、陛下」
ミクはそう言って、腰を落とし、深く頭を下げた。
レンは彼女に対し手を差し伸べる。
ミクはわずかに視線を上げると、その差し出された手を受け取り、傾けていた上体を起こした。
形の上では、ミクがレンに跪いた格好になるが、レンが玉座を離れ先に声をかけたことで、この二人の立場はほぼ対等――いや、対等というより、レンがミクに対しかなり気を遣っていることが示されていた。
それもそのはず、王家としての格式は黄の国が上であるものの、経済力、軍事力といった実質的な国力では、緑の国の方が上なのだ。
そんな両国の力関係が、この出迎えの儀式の短い遣り取りの中に、濃密に含まれていた。
「ミク姫、大公殿はお元気ですか?」
「お気遣い痛み入ります、陛下。父も最近は年のせいか、身体の節々が痛むとよく申しております。老い先短い身の上、きっともうじき天に召されるだろうというのが口癖で……」
「……本当に?」
「……って言え。と、父から申し付けられました」
「あっそ」
相変わらずだな、あの大公。と、レンは思う。
対外的には病気療養と称してかなり以前から公式の場から遠のき、長男でありミクの兄でもあるミクオが宰相として国の代表として政務を取り仕切っている。
ということになっているが、その実、仮病もいいところで、表舞台の煩わしさから解放された分、非公式にその政治的辣腕を存分に振るっていることは、レンも知っていた。
わざわざミクにこんなすっとぼけた返答をさせたのも、病気などという対外的な宣伝を額面通りに受け止めるなよ、という将来の娘婿に対しての牽制だ。
一見、ミクのおかげでユーモラスな遣り取りになっているが、あの大公と直に顔を合わせ、その人となりを肌で知っている身としては、笑うに笑えなかった。
ましてや舞踏会後の明日には、緑の国との通商交渉会議が待ち構えているのだ。些細なことだって深読みしたくなる。
それにしても。と、レンは思う。
(……この人は、自分の父親の意図を理解した上で、こんなふうに天真爛漫に振舞っているのだろうか?)
そうだとすれば、さすがは大公令嬢、といったところなのだが。
「どうかされましたか、陛下?」
レンの視線を受けて、不思議そうに首をかしげるミクの姿は、頭の上に?マークさえ浮いて見えそうだった。
(やっぱり、この人はこれが素なんだろうな)
レンは苦笑を漏らしつつ、ミクに答えた。
「久しぶりにお会いしたら、さらにお綺麗になられていましたので、しばし見とれてしまいました」
「――ぁえっ!?」
「さぁ、参りましょうか」
奇声をあげて固まったミクの手を引き、レンは謁見の間から、舞踏会の会場である大広間へと歩き出した。
王宮内の長い通路を、二人は手をつないで歩く。
後から付いてくる家臣一同に聞こえないように声を潜めながら、ミクがレンに話しかけてきた。
「もう、レン君ってば、急にあんなこと言うんだもん。びっくりしたよ」
その頬が、うっすらと朱に染まっている。
「社交辞令だよ、ミク姉」
あっさり言い放った言葉に、ミクがすっ転びそうになった。
レンが慣れた手つきで彼女を支える。あまりに手際が良すぎて、後ろから付いてくる家臣はミクが転びそうになったことすら気づいてない。
「あ、ありがとレン君。でも……う~、レン君、しばらく見ないうちになんだかイジワルになった? 前はもっと――」
「生意気なガキだった?」
「――そうそう、イタズラばっかりする悪ガキで……って、違うよ! もっと素直で可愛かったよ!」
「ミク姉、声が大きい」
「あ」
ミクは慌てて口元を手で押さえて、後ろを伺った。
流石に今度ばかりは後ろの家臣団も二人の遣り取りには気づいたらしく、何人かが明らかに笑いをこらえていた。
ミクは恥ずかしそうに、うつむき気味に前に向き直る。
「う~……やっぱりレン君、イジワルになった」
「大人になった、って言って欲しいね。これでも今じゃ国王なんだ」
「大人になんかならなくていいよ。レン君には可愛い王子様のままでいて欲しかったな」
冗談じゃない、とレンは心中で反発した。いつまでも子供ではいられない。
子供のままでは、大切な人を守れない。
二人は大広間の扉の前へと辿り着き、従者が朗々と周囲へ告げた。
「国王陛下、並びに緑国公女ミク様、御成りにございます」
扉が開かれる。
大広間に居並ぶのは、黄国の各大臣と有力貴族、その子弟たち。
そして緑国から派遣されてきた通商使節団も控えていた。
レンとミクは、一斉に頭を下げる彼らに会釈を返しながら、大広間の中央に進み出た。
片手を繋いだまま互いに向かい合い、もう片手は互いの腰と背中へ。
「レン君。背、伸びたね」
「来年にはミク姉より大きくなってるよ」
「う~ん、残念だなぁ」
文句でも言おうかと思ったが、隅に控える楽団がワルツを奏で始めたので、レンはステップを踏むことに集中した。
舞踏会のオープニングを飾る主賓のダンス。
レンはどうにかこうにか、ミクの足を踏むことなく踊り終えることができた。
万雷の拍手の中、レンとミクは貴賓席につき、めいめい踊り始めた大広間の様子を眺めた。
その二人のそばへ、
「お久しぶりです、ミク様」
「あ、リンちゃん」
リンがいつの間にか控えていた。
「リンちゃん久しぶり~。わぁ、なんだかリンちゃん、すごく大人っぽくなってない? 綺麗になってる~」
「恐縮です。ですがミク様こそ、ますますお美しくなられて」
「えへへ、ありがと。でもリンちゃん、ちょっと堅苦しいよ? もっとさ、普通にしてくれてもいいんだけど」
「ありがとうございます。私もそうしたいのですが、なにぶん今は公式の場ですので、遠慮させていただきます」
「流石だよねリンちゃん、しっかりしてる。それに比べてレン君はさぁ……」
「レンが?」
リンの細い眉がぴくりと跳ね上がり、その顔が引きつった。
「今度は何をやらかしました? まさか、また足を踏まれたとか?」
おいおい、とレンは内心で突っ込む。やらかすなんて酷い言い草だ。
そもそも公式の場であるはずなのに国王を呼び捨てにしている。
「面と向かって“今のは社交辞令だよ”って言われた」
「レン、あんたって子は!?」
「リン、声がでかい。周りに聞こえる」
「……あとで話があるからね」
「覚悟しとく」
「ミク様、不逞の弟が失礼をいたしました。あとでこってりと絞っておきますので、どうかお許しくださいませ」
「いいよ~、リンちゃんに免じて許してあげる」
これでも一応、国王なんだけどな~、とレンはぼやいてみるが、二人の少女はくすくすと楽しそうに忍び笑いを漏らすだけだった。
やれやれ、とレンは肩をすくめながら、それでもあまり悪い気はしなかった。
一つの曲が終わり、次の曲が始まるまでの間に、リンのそばに部下のメイドが近寄り、何事かを囁いた。
リンが頷き、そしてレンに向かって言った。
「陛下、緑公国通商交渉使節団代表・キヨテル卿がお目通りを願っております」
「通せ」
メイドの一人に先導され、貴賓席に一人の青年がやってきた。
歳は三十ほどか、細いフレームのメガネをかけた、背の高いさっぱりとした風貌の青年貴族だった。
一見、人の良さそうな笑みをその顔に浮かべているが、そのメガネの奥に潜む瞳には鋭い光が宿っている。
若年ながら、大公から通商交渉の全件を委任された特命全権大使。黄の国の城下街のすぐ外に館を構えての駐留を許されている、最重要人物だった。
「黄王国駐箚緑公国特命全権大使・キヨテルにございます。今夜はお招きいただき光栄にございます、陛下」
「キヨテル卿、明日は会議が控えているが、今夜ぐらいは仕事を忘れて楽しんで行ってもらいたい」
「そうさせていただきます」
「そういえば、明日からうちのガクポがそちらに世話になるんだったな。ミク姫もいることではあるし、今のうちに顔見世と行こうか」
「ほう、あの行事嫌いのガクポ殿が舞踏会に来ておられるのですか。珍しい」
キヨテルが笑みをこぼした。
ガクポはこの黄の国で剣術師範として雇われてからというもの、公式行事に滅多に顔を出さなくなった。
レン自身、高名な剣士を手元に置いていることを社交界で自慢する気もなかったこともあり、この二年でガクポはすっかり行事嫌いとの噂が社交界で定着してしまっている。
もっとも、嫌いとまではいかなくとも面倒だと思ってることは事実なので、噂はおおむね当たっていた。
「リン、ガクポを呼んで来てくれ」
リンに連れられ、すぐにガクポがやってきた。
「ガクポ、参上いたしました」
「久しぶりに正装姿を見たな。まるで貴族みたいだ」
「約二年ぶりでしょうか、恥ずかしながら着付けの仕方を忘れておりました」
「その割には様になってるな。さすが、ルカだ」
「ええ、彼女には世話になりっぱなしで…………あ」
「仲が良くてよろしい」
早いとこ嫁にもらってやれ、と言うと、ガクポは顔を真っ赤にして固まってしまった。
その様子に、レンをはじめとして、リンやミク、キヨテルまでが笑みを浮かべていた。
「ガクポ殿、しばらく見ないうちに随分と穏やかになられたようで。以前はもっと近寄りがたい雰囲気を出しておられたものですが」
キヨテルの言葉に、ガクポは苦笑を返した。
ガクポはミクに向き直り、頭を下げる。
「ミク様。明日より警護役として御側に仕えさせていただく、ガクポと申します」
「レン君から聞いてるよ。すごく強い剣士さんなんだってね。よろしくね、ガクポ」
「はっ」
「ガクポ」
レンが声をかけた。
「僕の大切な花嫁だ。僕の代わりにしっかりと守ってやってくれ」
「心得てございます。このガクポ、身命を賭してお守りいたします」
「頼むぞ。下がってよろしい。……ああ、そうだ。ガクポ」
呼び止められて、去ろうとしていたガクポが立ち止まった。
「なんでしょう、陛下」
「いや。お前に、最後に言い忘れたことがあってな。……次は、勝ってみせる」
剣術勝負のことだ。
ガクポはその意味をすぐに察し、笑みを浮かべた。
「楽しみに、お待ちしております」
ガクポが去るのを見届け、キヨテルも、
「では、私めもこれで」
そう言って、舞踏会の宴の中へと戻っていった。
「ねぇ、レン君。さっきガクポに言った言葉も、社交辞令?」
「社交辞令? まさか、本心からの望みだよ」
「……ほんと?」
「ああ、次は絶対にガクポに勝つ」
「そっち?」
ミクが、がっかりしたような表情を見せた。
リンが呆れ顔でため息をつく。
「もう、剣術しか頭にないんだから。そっちじゃなくて、大切な花嫁をしっかり守ってやってくれ、って言ったほうよ」
「ああ、そっちか」
ようやく合点した。
「で、どうなの?」
と、ミクが期待半分、不安半分の表情で。
リンが、少し睨んだような目で、レンを見る。
「……リンにどやされるのが嫌だから、本心だと言っておく」
「全然うれしくな~い。リンちゃん、リンちゃん。レン君こんなこと言ってるよ」
「レン、明日のおやつのバナナは無し」
「バナナはおやつではなく、主菜になると思うんだ」
「国王に対しバナナ禁止令を発布します」
「国王権限で却下する」
「規定により、メイド長が国王に対して発布する法律は、各大臣の承認を得た時のみ廃案とすることができます」
「なんだ、そのわけのわからない法律」
一体どこの誰がそんなもの決めたんだ。
と文句を言いかけて、そう言えば自分で決めたんだ。と、思い出した。
国王に即位したとき、リンを王宮に呼び戻すために色々と無茶な法律を押し通したのだった。
まだ年端もいかない子供のワガママみたいな法律ばかり、よくぞあの大臣たちが通してくれたものだと思うが、今から思えばあの連中にも、リンを呼び戻す必要があったわけで、その辺りで思惑が一致したのだろう。
かと言って、レンとしては大切な双子の姉を、また政争なんぞに利用されたくはない。
そのためにも、レンはなるべくリンとの結び付きを強くしておきたかった。
メイド長が国王に対してのみ異様に強い権限を持つのも、この両者の関係がそれだけ強いことを内外に示すためのものだった。
……そのために好物のバナナが犠牲になってしまったのは、レンにとっては悲しむべきことだが。
ガクポとキヨテルが下がったあとも、貴賓席には折に付け、次々とお目通りを願うものが現れた。
その一人一人に応対しているうちに時間はあっという間に過ぎていく。
舞踏会も中盤に入り、ひっきりなしに続く応対もようやく一息ついた頃、
「ねぇレン君、ガクポを紹介してくれたお返しに、私からも紹介したい人がいるんだけど」
「へぇ、誰?」
「声楽家のカイト、って聞いたことある?」
「あるような、ないような――」
「ミ、ミク様。カイトって、本当にあのカイトですかっ!?」
「リン、知ってるのか?」
「知ってるもなにも、声楽家のカイトって言えば、神の声を持つ男として有名な天才的な歌い手よ。諸国でも大人気で、招待するにしても何ヶ月も前から予約が必要なんだから」
「ふむん、諸侯に引っ張りだこの天才ねぇ。……ガクポみたいだな」
「まぁ、剣士の世界で例えるならそうなるんでしょうけど……そんなことより、ミク様、本当にそんな有名な方を紹介してくださるんですか?」
「うん、先月からウチに滞在してくれてたんだ。今日の舞踏会にも、一緒に来てくれたんだよ」
「え、えぇっ!? もうこちらにいらっしゃるんですか!?」
興奮を隠しきれないリン。
レンとしては、リンのその反応はあまり愉快なものではない。
「ちょうどいい。じゃあ、さっそく一曲、歌ってもらおうじゃないか」
気まぐれな国王を演じてそんな要求をしてみるが、ミクとしては最初からそのつもりだったらしく、あっさりと了承した。
「すぐに初めていい? じゃ、そう伝えるね」
その意を受け、ミクの従者が伝令に出て行った。
それからほどなく、会場の楽団に新たな譜面が配られた。
その譜面とともにカイトの件も伝わったのだろう、楽士たちのあいだにも興奮が高まったのが、レンの目にもすぐに分かった。
楽団がひと呼吸を置いて、その譜面の演奏を始めた。
テンポの速い軽やかな笛の音から始まったその曲は、打楽器と弦楽器が重なるように追走し、まるで草原を吹き抜ける風のような調べとなった。
貴賓席の真向かいにあたる、舞台の幕が開く。
――
Toerekunya en rai heya muhe.
Toya pahara para heya ryohe.
Para tyura 『Pane Pane』 ryotwurehe ryotsene beredore to raya to lu herajya.
――
その声を聴いた瞬間、レンは総毛立った。
なんという深く澄み渡った声か。
それでいて力強く、押し寄せてくるような何かがある。
――
Para thuryoe parahamaha ryomasa.
To rafajya thurye hedora ryoka tobanehe.
Thie ryehe to mea meryo thue li 『Pane...jya. Pane,jya! Pane dhiria!!
――
ステージに立つ男は、歳は二十半ば程か、細身の優男だった。
それなのに、一体その身体のどこからこれほどまでの声が出せるのか、それほど、その声は鍛えられていた。
(隙がない……)
その姿に、レンはガクポとの真剣勝負を思い出した。
危険な刃を突きつけられた時と同じ圧力を、この声に感じる。
声を出す。その行為一つに全身全霊をかけて挑んでいる。この舞台は、カイトにとってまさに真剣勝負なのだ。そう、感じた。
音楽に疎いレンでさえ、一見一聴でそう感じたのだ。
レンよりも音楽に詳しいだろう、この舞踏会に集まった者たちは皆、一様に息をのみ、目と耳と心を歌声に奪われていた。
――
Karyotse ne tera.
Kakato la hera.
Para to jyathima kurufe tse kakado thiya.
Karyotse ne tera.
Kakato la hera.
Tsekuro fa neba nekuto ra fahetwu thia.
Pane! Jya terathi herara.
Pane! Jya faryoma herye.
Pane! Jya farero tseryone tore tsere hene...
――
一際伸びのある声を響かせて、カイトは最後の一小節を歌いきった。
楽団も演奏を終え、大広間に静寂が降りた、その一瞬のあと。
爆発的な拍手と歓声が沸き起こった。
ミクも、そしてリンも、顔を紅潮させ、熱狂的な拍手を送っている。
それを横目で捉えながら、レンも拍手を送った。
身近な女性たちの心を簡単に捉えてしまったカイトに対して、少年らしい嫉妬心を覚えはしたものの、その歌声の素晴らしさには敵わなかった。
カイトは万雷の拍手の中、落ち着いた素振りで優雅に一礼すると、顔を上げてレンを見た。
レンや、リンの瞳の青さとはまた違う、深い海のような紺碧の色を湛えたその瞳。
レンの隣で、ミクが従者にカイトを呼ぶようにと言付けた。
ステージへ走った従者からそれを聞き、カイトが貴賓席に向かってステージを降りる。
彼に魅了された聴衆が、その周りに人垣を作ったが、すぐに彼がどこへ向かうかを悟り、大人しく道をあけた。
まるで海が割れたようにカイトの前に道が開く。
彼はその中央を静かに歩き、レンの前へと立った。
カイトが頭を下げる。
「陛下、お会い出来て光栄です。カイトと申します」
「見事な歌声だった。聞き惚れたぞ」
「もったいなきお言葉、感激の極みにございます」
「顔を上げよ、カイト」
「はっ」
カイトが顔を上げ、その視線がレンと合った。
紺碧の瞳から発せられる、強い視線。
何かを訴えかけるような、挑むような、そんな強い何かが、そこにはあった。
(まるで剣士の目だな)
レンはそう思った。
なにかしらの覚悟を持った男の目だった。
「カイト、何か言いたいことがあるなら、申せ」
そう聞くと、カイトはその瞳に、一瞬、動揺の色を見せた。
だがすぐにそれは隠され、カイトはその端正な顔に微笑を浮かせた。
「恐れながら陛下、お許しくださるならばもう一曲、お聞き願いませんでしょうか」
その申し出に、会場中に期待のこもったざわめきが起こった。
ミクとリンも、嬉しそうな表情を見せている。
「良いだろう」
「ありがたき幸せ」
カイトはその場から下がると、楽団の方へ行き、少しばかりの打ち合わせをした後に、舞台へと上がった。
楽団が低く穏やかな前奏を始める。
聴衆の関心が全て舞台に集まり、カイトは、歌いだした。
――
輝く星々の下に向かう人
薄暗い光さえ失った
彷徨い苦しみの階段を昇り行く
天国への門は閉じられた
人々は苦しみに喘ぐ 見えない光 見えない明日
少女は人買いに手を引かれ 売れらゆく
飢えた家族が手を取り合って 最後を迎える
その挽歌に神は泣いた
――
大広間の聴衆は、誰ひとり身じろぎもせず、その歌声に聴き入っていた。
しかしその内実は、始めこそその歌声に静かに聴き入っていたものが、歌詞の内容に気が付くにつれ、それはまったく別の意味の静寂となっていった。
――
かつて祝福された大地の揺りかご それは眠りに沈み
慰めの雨は止み あるべき姿の
希望に満ち溢れた世はいずこ
包み込む闇夜の中で 語り継ぐ
どこまでも続く憐憫の歌
――
低く抑えられた穏やかな調べに乗せて、カイトの哀切に満ちた歌声が、聴く者の心を震わせた。
だがそれは、憐憫でも、同情でも、まして共感や感激ではない。
この美しく哀しい歌に対する反応はすべて、困惑、恐怖、そして怒りだった。
カイトは、あろうことかこの国を支配する階級が勢ぞろいしたこの場所で、この国の窮状を訴えたのだ。
それはつまり、ここに居る者たちへの批判に他ならない。
ましてや、それを国王の前で行うなど!
この言語道断の振る舞いを前に、ミクでさえもが顔面蒼白になっていた。
演奏する楽士たちも、この歌の意味に気づいていたが、しかしいかなる魔術か、カイトの歌声に捕らわれてしまったかのように、彼らは演奏を止めることができなかった。
聴衆もまた同じ、この歌がどれだけ自分たちに批判的であっても、聴かずにはいられないのだ。
まさに神の声を持つ男のみがなし得る行為だった。
カイトがついに歌い切り、楽士たちも呪縛が解かれたかのように演奏をやめた。
大広間に静寂が落ちる。
こんどは、それが破られることはなかった。
拍手を送るものは、誰ひとりとしていなかった。
誰もが、次に聞こえてくるのは国王の激昂と、衛兵を呼びつけこの不敬者を投獄せよと命じる声だろうと思っていた。
しかし、レンの声はいつまでたっても聞こえてこなかった。
代わりに聞こえてきたのは、規則正しい寝息の音だった。
すーっ、すーっ、と実に気持ちよさそうに寝息を立てていたのは、レンだった。
レンは貴賓席で、肘掛に頬杖をつき、こっくりこっくりと頭を前後に揺らしていた。
その頭が大きく前に傾き、座っていた姿勢が崩れかけたところで、レンはハッとして上体を起こした。
「ん? ……あ、あぁ。すまない、どうやら眠ってしまったようだ」
大広間中の視線を受けて、レンは苦笑した。
「最近、公務で疲れていてね。それに、あまりにも穏やか演奏と美しい歌声だったものだから、ついつい心地よくなってしまった。せっかく歌ってくれたのに、失礼した」
レンはそう言って、大広間を見渡した。
「皆、拍手を忘れる程の素晴らしい歌声だったようだ」
「え、ええ。確かに素晴らしい歌“声”でしたわ、陛下」
とっさにリンが相槌をうち、拍手を始めた。
「え?……あぁそう、歌“声”! うん、本当にいい歌声だったよ」
ミクも、その意図に気づき慌てて拍手を送る。
その拍手はすぐに聴衆にも伝わり、大広間は再び万雷の拍手に包まれた。
“歌”の内容ではなく、“声”の美しさに送られた拍手の中、カイトは舞台の上から、じっとレンを見つめていた。
レンは、その視線を受け止めた。
(この男、死を覚悟していたな)
道理でガクポとの真剣勝負を連想したわけだ、とレンは納得した。
命懸けの批判。
この舞台は、彼にとってまさに真剣勝負だったわけだ。
ここに集った者たちがその批判を真摯に受け止めるとは到底思えなかったが、それでもインパクトは十分にあった。
かといって、カイトの無礼を責め、彼をこの場で処断すればこの舞踏会は完全に崩壊する。
それは同時に、この国の混乱が、隣国の緑公国をはじめとした諸国に知れ渡ってしまうことにもなる。
外国だけではない。
舞踏会の失敗の話題は国内にも広がり、未だに根深い過去の因縁を蒸し返す羽目にもなるだろう。
そうなれば政治の混乱はさらに進み、民衆への苦しみがまた増えることになる。
そうしないためには、カイトの批判を真摯に受け止めるか、さもなくば徹底して無視するかのどちらかしかなかった。
……今のレンには、無視することしかできなかった。
カイトが、レンに向かって深々と頭を下げ、舞台袖へと消えていった。
レンはそれを見送りながら、耳の奥に残るカイトの歌声を反芻していた。
かつて祝福された大地の揺りかご それは眠りに沈み
慰めの雨は止み あるべき姿の
希望に満ち溢れた世はいずこ
包み込む闇夜の中で 語り継ぐ
どこまでも続く憐憫の歌……