悪ノ王子――ボカロ(悪ノ娘)二次小説――   作:PlusⅨ

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第四話・リン、レン~君は国王、僕はメイド~

 長い会議をようやく終えたレンは、自室に戻るや否や、着替えもせずにベッドに倒れこんだ。

 

 ほどなくして部屋にやってきたリンが、ベッドにうつ伏せになっている弟の姿を目にして、複雑な表情を浮かべた。

 

「レン、起きて。疲れているでしょうけど、せめて着替えないと」

 

「ん……あぁ、そうだな」

 

 レンは薄く目を開けると、ベッドで寝返りを打ち、仰向けになった。

 

 そういえば、とレンが仰向けのまま訊いた。

 

「ミク姉の様子はどうだった?」

 

「お仕事大変だね、頑張って。……ですって」

 

 リンは、ミクが王宮を去り際に告げた短い言葉を伝えながら、彼女がどこか上の空だったように見えたことを思い出した。

 

(もしかして、カイトのことを考えていたのかしら)

 

 そうなのかも知れない。

 

 そう思うと、婚約者から相手にされていないレンが不憫になってきた。

 

 もっとも、リンは、当の本人が既にミクとカイトの関係を知っているなどとは思ってもいなかった。

 

 そのレンも、リンが、ミクとカイトの関係を知っているとは夢にも思っていない。

 

 だからレンは、もしリンがそれを知ってしまったら、ミクとは幼い頃から親交があるだけに、裏切られたような気分になって傷つくかもしれないと思って、ミクのあっさりとした別れの態度にも深く突っ込まず、ただ、

 

「そうか」

 

 とだけ答え、ベッドから上半身を起こすと上着を脱ぎ始めた。

 

 リンは、レンが服を脱いでいるあいだに寝間着を用意するため、クローゼットに足を踏み入れた。

 

 国王専用のクローゼットともなれば、メイド達が使用する控えの間とほぼ同等の広さがある。

 

 大量の服が並ぶ倉庫同然のクローゼットに分け入り、寝間着をとって部屋に戻る。

 

 レンが、上着を脱いだ上半身裸の姿で窓際に立ち、外を眺めていた。

 

「ちょっと、なんて格好で窓際に立っているのよ」

 

「ん? あぁ」

 

 考え事でもしていたのか、気の抜けた返事をするレンに寝間着を押し付け、リンはベッドに脱ぎ捨てられたレンの服を片付けにかかった。

 

 ベッド脇に腰掛け、上着を膝の上で畳みながら、ふと、レンを見る。

 

 彼は、寝間着を手に持ったまま、まだ窓際に佇んでいた。

 

 いつも着替えのたびに目にしているが、こうして改めて見てみると、上半身裸のレンの身体は、日頃の剣術の稽古のおかげで非常に引き締まっていて、無駄な肉というのが一切なかった。

 

(昔は女の子みたいだったのに……)

 

 細かった二の腕にも筋肉が張り、なで肩だった両肩も幅広くなって、胸板も厚い。

 

 脇腹もたるみなく締まり、腹筋も割れていた。

 

 かつて女の子とさえ間違えられていた華奢な身体つきの幼い弟はもういなかった。

 

 そこに立っているのは、日に日にたくましい男へと目覚しく成長していく、少年の姿だった。

 

 リンは、しばしぼうっとレンの姿を見つめていた。

 

 だが、不意に、レンもまたリンを見ていることに気がついた。

 

 レンが、真面目な顔つきで、じっとリンを見ている。

 

(え? ……あっ)

 

 リンは、レンと目があって初めて、自分が弟の身体をまじまじと見つめてしまっていたことに気がついた。

 

 カッと顔が熱くなり、慌ててレンから目をそらす。

 

 膝の上においた上着を畳む作業を再開したが、それなのに、いまだレンの視線を感じていた。

 

 おずおずと視線を戻すと、レンは同じ格好のまま、やはりリンを見つめていた。

 

「ちょ、ちょっとレン、何?」

 

 早く着替えなさいよ。

 

 そう言おうとする前に、レンが口を開いた。

 

「いや、リンって美人だよな。って思って」

 

「――は?」

 

 姉に向かって何を言っているんだコイツ。

 

 しかも双子に向かって。

 

 そう思っているあいだに、レンがするすると近寄ってきた。

 

 彼はリンの顔を覗き込むように身体を寄せると、その頬に手を伸ばした。

 

 レンの剣だこだらけの手のひらは固く、そして火照った自分の顔よりもなお高い体温を、リンは頬に感じた。

 

 その目の前には、吐息がかかりそうなほど近くに、レンの顔がある。

 

 それはさらに近づいてきて、リンは思わず離れようとして、身を引いた。

 

 だが、ベッドに腰掛けていたため、リンはそのまま後ろに倒れこんでしまう。

 

 レンはそのまま前に出てきて、仰向けになったリンに覆いかぶさるように、ベッドに両手を付いた。

 

「ちょ……ちょっと、レン?」

 

(あれ? もしかして私、半裸の弟にベッドに押し倒されちゃってる?)

 

 思いもしなかったありえない状況に、リンの頭は混乱をきたした。

 

 レンは真剣な眼差しでリンを見下ろしながら、その頬に触れていた手を離し、下へと滑らせる。

 

「なぁ、リン」

 

「れ……レン……」

 

「そのメイド服を……脱いでくれないか」

 

「っ!!!!???」

 

(ダメダメ、それはダメ。ちょっと、レン、なに考えてるのぉっ!?)

 

 あまりのことにリンは悲鳴すら上げられなかった。

 

 

 その間にレンの手は、リンの胸元、腹部を過ぎ去り、腰元へと伸ばされ――

 

 

 

――その膝の上に畳まれていた上着を手に取った。

 

 

 

 レンはその上着を広げると、リンの上半身に合わせるようにして被せ、そして上体を起こし、少し離れてその姿を眺めた。

 

「うん、やっぱり似合うな。僕そっくりだ」

 

「は?」

 

「なぁ、リン。ちょっとお互いの服を交換してみないか?」

 

「はぁっ!?」

 

 リンは、レンの肩を手で押して、その身体を押しのけながら起き上がった。

 

 肩に触れた手の内の、しなやかで張りのある筋肉の感触を努めて意識しないようにしながら、リンは、隣に座り直したレンに言った。

 

「さっきから何を考えているかと思えば……本当に何考えてんのよ」

 

「互いの立場を入れ替わってみないか、ってことさ。僕がメイドで、リンが国王」

 

「真面目な顔して馬鹿なこと言わないで。だいたい、なんでいきなりそんなこと言い出すのよ?」

 

 そこまで言って、リンは、その理由に思い至った。

 

「ねぇ、レン。もしかして、今日の会議で何かあったの……?」

 

 そう訊くと、レンの表情が暗く沈んだものになった。

 

(ああ、やっぱり)

 

 きっと、今日の会議でなにか酷いことでも言われたに違いない。

 

 それできっと、国王という立場に嫌気が差してしまったんじゃないだろうか。と、リンは思った。

 

 だから、こんなことを言いだし――

 

「リン、実はね……」

 

「うん」

 

 暗い表情のままで話し始めたレンに、リンは思わず居住まいを正した。

 

「……今日の会議に向けて色々と資料を調べているうちに、民衆の生活がかなり苦しいということが見えてきたんだ」

 

 レンは、税金未払いのために投獄される人間が年々増えてきているらしいと言った。

 

 ほとんどが低所得者層であり、彼らは投獄された上で、財産から未払い分を強制徴収されるのだ。

 

「不景気で財政難が続く中、かつての権力闘争の軋轢もあって、まだ国内の一部では政治的混乱も残っている。そのしわ寄せは全部民衆に向かっているのが今の現状だ。……知れば知るほどひどいものさ。カイトが命をかけて批判に来たのも無理はない」

 

「……っ!?」

 

 カイト。

 

 その男の名がレンの口から出たことに、リンの胸がざわめいた。

 

 レンは続ける。

 

「こんな現状にもかかわらず、大臣たちは改善しようとするどころか、この状況を利用して自分の利益を上げることしか考えていない。これじゃ、この国はひどくなる一方だ。だから、この国のあり方そのものを変えなくちゃならない」

 

 レンの口調が少しづつ熱を帯び始めた。

 

 だけど、とレンは言った。

 

「だけど、今の僕にはまだまだ知らないことが多すぎる。民衆のための政治をしようにも、その民衆の生活を僕は見たことさえない。だから……」

 

「だから……まさか?」

 

「そう、そのまさかさ」

 

 レンはここでようやく、いつもの笑みを見せた。

 

「私に国王をやれって言うの!?」

 

「幸い、明日は特に重要な用事もないし、リンでも全然問題ないと思うんだ」

 

「問題大アリよ!」

 

「大丈夫、僕らは双子だよ。きっと誰にもわからないさ」

 

「バレるわよ。もう昔とは顔つきも体格も変わってきているんだから」

 

「そうかな?」

 

 そうよ。と言いかけて、リンはまたレンの身体を意識しそうになった。

 

 そもそも、いつまで上半身裸でいるつもりなのやら、いい加減に服を着てもらわないと目のやり場に困る。

 

「馬鹿なこと言ってないで、さっさと服を着なさい」

 

「メイド服を?」

 

「あんた、本当に着てみたいの?」

 

「実は憧れていた」

 

「冗談よね?」

 

「うん、冗談。でも入れ替わりたいってのは本気だ」

 

「言っとくけど、メイドになったって民衆の暮らしぶりなんかわからないわよ。だいたい、私だって一応貴族なんだし」

 

「わかってるよ。そもそもメイドの仕事をしてみたいってわけじゃない。僕にそんなことが出来るとも思えないし。……僕の目的はね、直接この目で民衆の暮らしぶりを見て回ることだ」

 

「王宮を抜け出す気なの? どうやって!?」

 

 どうやって、と思わず聞き返してしまったことをリンは後悔した。

 

 この弟のことだ。抜け出すと言ったなら、既にその算段が立っているに違いないのだ。

 

 リンが危惧したとおり、レンはよくぞ訊いてくれた、とでも言いたげな笑みを浮かべた。

 

「実は、この王宮には抜け道があるんだ。王族のみにその存在を代々伝えられてきた、秘密の脱出通路さ」

 

「脱出通路? でもそんなの私、聞いたことないわよ?」

 

「うん、僕も最近までは知らなかった。なにしろ父上は突然亡くなられてしまったからな。だから母上も知らされていなかっただろう。僕が即位してから、自分でいろいろと昔の資料を調べていくうちに偶然に見つけたんだ」

 

 レンは一度ベッドから立ち上がると、机の鍵のかかった引き出しを開けて、そこから丁寧に巻かれた数枚の紙を取り出した。

 

 どうやら地図らしい。

 

 レンはそれを持って、またベッドのリンの隣に腰掛けた。

 

「この通路はかなり古いものらしくて、ここ百年ほどは使用された痕跡もなかった。だけど、ちゃんと王宮の外には繋がっている」

 

「まさか、自分で確かめたの?」

 

「いざという時に役立つと思ってね、隙を見てはこっそり潜り込んでいた。どうやら王宮の外だけでなく、王宮内のあちらこちらにも繋がっているみたいで、内部はまさに迷路同然さ。一人じゃ限界があったから、レオンとアルにも打ち明けて、親衛隊とともに新たに地図を作り直した。それが、この地図さ。親衛隊も同じものを持っているけど、最高機密扱いだ」

 

「親衛隊も知っているなら、彼らに止められるわ」

 

「彼らは僕しかその存在を知らないと思っているからな。国王が王宮内に居るのに、メイドがそこを通ってるなんて思わないさ」

 

「入れ替わらないわよ」

 

「どうしても、ダメ?」

 

「ダメ。……っていうか、私が国王をやりたくないんじゃなくて、レンが一人で街へ行くことに反対なの。治安も良くないって聞くし、危ない目にあったらどうするの?」

 

「それは覚悟の上さ。それに、そんな状況だからこそ、自分の目で見知っておきたいんだ」

 

「やめて。レン、あなたは国王なのよ。万が一のことがあったらこの国は大混乱に陥るわ。それに……」

 

 リンの声が、震えた。

 

「リン…?」

 

「……お父様や、お母様が亡くなられて、その上あなたまで失うなんて、私、絶対に嫌よ」

 

「……」

 

 リンの言葉に、レンは流石に言葉を失った。

 

 姉の気持ちは、レンにも痛いほどよくわかった。

 

 レンは上体を倒し、ベッドに寝転がり天井を見上げる。

 

 リンは、そんな弟の姿を眺めた。

 

 リンだって、弟の気持ちはよく理解しているつもりだった。

 

 単なる思いつきや、遊び感覚でこういうことを言い出す男じゃなかった。

 

「ねぇ、レン。他の人に頼むとかじゃダメなの?」

 

「……それで納得できるくらいなら、こんなこと考えないさ」

 

 でしょうね、とリンも思った。

 

 きっと既に色々な手段を使って、様々な情報を収集しているに違いないのだ。

 

 その上で、彼は自分の目で確かめたいのだ。

 

 頭で理解するだけではなく、身体で、肌で、心で実感したい。

 

 その態度は、国王としての責任感であり、そして、レンなりの国と民衆に対する思いやりの表れなのかもしれない。

 

 リンはそう思いながら、ベッドに仰向けになったレンを眺めた。

 

 レンはしばらくそのまま天井を見上げ考え込んでいるようだったが、不意に、何かを思いついたような表情を見せ、そしてリンを見た。

 

「あ――」

 

「……レン?」

 

「――…いや、なんでもない」

 

 レンは自分の思いつきを否定するかのように、すぐにまた目をそらした。

 

 それだけで、リンには弟が何を考えていたか、直ぐに悟った。

 

「ねぇ、レン……」

 

 リンは、少し迷った末に、口を開いた。

 

「………私が行くわ」

 

「ダメだ!」

 

 レンが起き上がりながら即座に否定した。

 

「危ない目に遭うかもしれないって言ったのは、リンじゃないか。そんなことさせられるか!」

 

「あなたが行くよりよっぽどマシよ。それに、民衆の様子をどうしても知りたいんでしょう?」

 

「そんなこと……いや……」

 

 レンが顔を歪め、ベッドから立ち上がった。

 

 そのまま部屋の中を歩き回り、そして窓際に立ってじっと外を眺め始める。

 

 最近気がついたことだったが、これはどうやらレンの癖らしかった。

 

 真剣に考え事をするときは、いつもああやって窓際に立って外を眺める。

 

 そこまで考え込むということは、リンの身を案じると同時に、リンになら任せてもいいという信頼もあるということなのだろう。

 

 そう思うと、リンは、レンの力になってやりたいという思いが強くなった。

 

「レン、私にやらせてくれないかな。私はレンのことをよくわかっているつもりだし、レンが見たいと思っていることを見てくることができると思うの」

 

「だが……危ないぞ」

 

「そうね、気をつけるわ。でもね、レン。私は以前、この王宮の外で暮らしていたから、あなたよりかは世間のことを知っているつもりよ」

 

 何しろ、貧乏貴族でしたからね。

 

 リンの冗談めかした言葉に、レンは苦笑を浮かべた。

 

 レンは、しばらくそのまま迷った末に、頷いた。

 

「……リン、頼む」

 

「ええ、任せて」

 

 レンを安心させるように、リンは微笑んだ。

 

 レンは深刻な表情でもう一度頷き、そして―――

 

 

 ―――盛大にくしゃみをした。

 

 

「ふぇっくし! ……なんだか寒いな」

 

「秋の夜に、いつまでもそんな格好でいるからよ。風邪ひくわよ」

 

「風邪ひいたら添い寝して温めてくれない?」

 

「風邪が移るから嫌よ」

 

「じゃあ、予防のために今から添い寝して――わぷっ」

 

「さっさと着替えなさい」

 

 リンは、ベッド脇に放置していた寝間着をレンの顔めがけ投げつけてやった。

 

 

 

 

 

 

 リンが貧乏貴族だったのには理由がある。

 

 リンは臣籍降下した際に、領地と館を所有することになったが、その領地は王家の直轄領から分け与えられたものだった。

 

 前述したように黄の国の王というのは絶対王政の君主ではない。

 

 国内の領土は各貴族や有力領主によって所有されており、それぞれが自治権を持っている。

 

 国家として統一されているのでその権限はそれほど強くはないが、それでも国王の一存で各領地を勝手に取り上げたり与えたりすることはできないのだ。それには議会の承認がいる。

 

 まして、リンの臣籍降下は当時の国王であった彼女の母によって半ば強引に進められたものであったから、当然、議会の承認など得られるはずも無い。

 

 したがって、リンには王家が直接所有する直轄領の一部を贈与されたのだ。

 

 だが、いくら王家とて、リンに有力貴族と肩を並べられるほどの領地を気前よく分け与えられるほど多くの所領がある訳ではない。

 

 それどころか、大臣職を務める有力貴族たちをかろうじて上回る程度であり、あまり多くの所領を割いてしまえば、大臣たちを下回ってしまう恐れもあった。

 

 そのため、リンに与えられた領地は非常に僅かなものであり、しかも直轄領の中でも辺鄙で貧しい地方の土地だった。

 

 新領地でのリンの生活は、貧乏貴族どころか、貴族ですらなかった。

 

 館は荒れていて、雨漏りがひどく、すきま風がどこからともなく忍び入ってきたし、庭園は雑草だらけだった。

 

 しかも、雨漏りを修繕しようにも費用がなく、すきま風に凍えようとも暖炉にくべる薪さえ事欠く始末だった。

 

 領地からの収入だけでは生活を賄えず、ルカをはじめとした数少ない使用人たちは、雑草だらけの庭園を自ら耕し、畑をつくった。

 

 しかしそれでも生活が苦しかったため、使用人たちは幼かったリンを養うために、王宮から持ってきた自らの服や装飾品を質に入れさえもした。

 

 リンも幼心に家臣たちの苦労を察していたので、どんなに生活が窮乏しようとも不平ひとつ漏らさなかった。

 

 むしろルカたちが反対したにもかかわらず、自ら進んで畑を耕し、服の修繕を行い、時には領地内の村に出かけては、そこで食料や物資を調達してくることさえあった。

 

 村での調達、といっても領主として取立てに行ったわけではない。

 

 畑で採れた野菜や、それに王宮から持ってきたアクセサリーなどの小物を持って、必要なものと交換してもらうのだ。

 

 とても領主たる貴族のする真似ではなく、村人の中にはリンのことを領主とさえ知らない者も多かった。

 

 それでも、村人たちのリンに対する反応は好意的なものだった。

 

 貧しい土地であり村人の生活は苦しいものであったが、彼らも村のすぐそばにあるボロボロの屋敷に住む領主の窮乏は目にしていたし、その領主がひどい治世をするような人物ではないとも知っていた。

 

 もっとも、それが村をよく訪れる少女だと気づいているものは少なかったが。

 

 そんな事情もあって、リンは自分の治める領地を直接見知って理解していった。

 

 リンの領地は、古くから養蚕業が盛んであり、上質な絹織物を生産する土地として有名な土地であった。

 

 その質は諸国でも評判になるほどであり、一時は黄王国の主要な輸出品目の一つにさえ数えられていたこともあった。

 

 しかし、リンが生まれる数年ほど前から、緑公国で同じくらい質が高く、しかも安い織物が生産されるようになった。

 

 そのため、この土地の織物は諸国で売れなくなり、やがて緑公国産の織物が黄王国内にも輸入されるようになるにつれ、国内でさえ売れなくなってしまった。

 

 安い輸入品に対抗するために値を下げたものの、品質は高いままで維持したので、この土地の織物業は支出が増えるどころかひたすら赤字を出し続け、次々と潰れていった。

 

 残された養蚕業で絹糸の輸出をはかったが、緑公国は絹糸に関しては既にほかに産地を確保していたため、これさえも衰退していった。

 

 今では数件の養蚕農家と織物業者が細々と生きながらえているだけである。

 

 リンはそのような土地で、幼少期を過ごしたのである。

 

 

 

 

 

 国王の私室を丸一日をかけて掃除する。

 

 計画当日、リンはそのような口実を設けて、ひとりでレンの部屋に入った。

 

 レンの部屋はプライベート空間ということで、余人はみだりに立ち入ることができない。

 

 特に掃除などはレンの意向もあって、メイド長たるリンただ一人のみが行うことを許されていた。

 

 というより、レン自身が様々な調べ物や剣術の稽古などを行って部屋をよく散らかすので、リンが例のメイド長の特権を使って、

 

「国王付メイドはいかなる時でも国王の部屋を掃除できる」

 

 という法律を作ったのだ。

 

 レンが流石にそれは勘弁してくれというので、法令は「メイド長に限り」というものに変更されたのだが。

 

 というわけで、リンが掃除のため一人でレンの部屋に入ることは珍しくもなく、まして大掃除ともなれば一日仕事になるのも当然だった。

 

「ご昼食はどうなされますか?」と、訊くルカに、

 

「勝手に済ますから用意しなくてもいいわ」と、リン。

 

「ご夕食までには終わるのでしょうか?」

 

「うん…と、なるべくそうするつもりだけど、たぶん終わらないかも。その時は陛下と一緒に部屋でいただくわ。私の分も運んでおいて」

 

「かしこまりました」

 

「じゃあ今日一日、メイド長代理をよろしくね」

 

 いつもどおりルカに後を任せ、いつもどおりレンの部屋に入る。

 

 ただいつもと違うのは、掃除などをする気はこれっぽっちもないと言うことだった。

 

 部屋にレンの姿はなかった。

 

 彼は今、親衛隊の目を引き付けるために、彼らの剣術訓練に参加しているはずだった。

 

 リンは部屋の鍵を内側から掛けた。

 

 他に部屋の鍵を持っているのはレンのみなので、これ以上誰かが入ってくることはない。

 

 リンはクローゼット室の戸を開け、前日のうちに持ち込んでおいた私服に着替えた。

 

 それはツギハギだらけの、襤褸といってもいい服だった。

 

 リンがかつての旧領から持ってきたものだ。昔はよくこれを着て村へと出かけていた。

 

 変装のつもりではなかったが、何度も使って修繕を繰り返しているうちに、貧しい村人たちとほとんど大差ない服になってしまったものだ。

 

 王宮に戻る際、レンから用意された支度金でそれなりの服を用意することができたので、ルカなどから、「こんな服は処分してしまいましょう」と言われたものの、村人たちとの交流の思い出もあって捨てるに偲びなく、こっそり持ち込んできたものだ。

 

 最後に袖を通してから二年の月日が流れていたが、もともと自身の成長を見越して大きめのサイズで仕立てていたため、ほぼ問題なく着ることができた。

 

 問題があったとすれば、胸周りの布が随分と余ってしまったくらいのものか。

 

「ここもちゃんと成長しているつもりだったのに……」

 

 でもまだ成長期だし、これから発展するのよ。

 

 と自分に言い聞かせながら上着の余った部分を着こなしで処理して、それからレンが用意しておいてくれたランプと、地図を手にした。

 

 ランプに火を灯し、クローゼット室の奥へ分け入る。

 

 秘密の脱出通路への入口は、驚いたことにクローゼット室の奥に存在していた。

 

「まさかこんなところに扉があったなんて、二年間、毎日出入りしていたのに全然気付かなかったわ」

 

 リンは呆れたようにつぶやきながら、部屋の一番奥にある壁の一部を手で押した。

 

 壁が長方形に区切られて奥へと下がる。

 

 次に横方向に力を加えると、壁もスライドして、そこに人一人がくぐり抜けられる大きさの入口が開いた。

 

 奥には、下へと続く階段が伸びていた。

 

 ランプで足元を確認しながら、慎重に階段を下りる。

 

 通路は大人二人が並んで歩けるほどの幅があった。

 

 百年使用されていないという割にはホコリも少なく、空気によどみもない。

 

(親衛隊が厳重に管理しているんだわ)

 

 いざという時にレンを、そしておそらくリンも守るために、彼らは人知れず常に備えているのだろう。

 

 そう思うと、その親衛隊を出し抜くような行為をしていることに、少し罪悪感を覚えた。

 

 長い長い階段を下りていくと、やがてその先から水の流れる音が聴こえてきた。

 

 この階段は、王宮の地下を流れる水路につながっていた。

 

 黄王国の城下には、古くから地下水路がいくつも走っており、街の各地に設置された水汲み用の噴水池に生活用水を提供していた。

 

 水源は城下の東西を流れる河の上流にあり、その水は王宮の地下を通り、そこから街の各所へと水路が伸びていた。

 

 脱出通路は、その水路を利用したものだった。

 

 階段を下りきると、そこは自然洞穴のように岩肌がむき出しになったトンネルで、足元を水が静かな音を立てながら流れていく。

 

 その脇に人間が歩けるように道が整備されていた。

 

 トンネル内の空気は冷たく、リンはフード付きのマントを羽織っていたにもかかわらず、ゾクリと身体を震わせた。

 

 その悪寒は空気の冷たさだけではなく、トンネル内を埋め尽くす闇の濃さに対するものでもあった。

 

 ランプを掲げても十歩先ぐらいまでしか光は届かず、思わず足がすくんだ。

 

 それでも、リンは意を決して歩き出す。

 

 水路は途中でいくつも枝分かれや合流を繰り返していた。

 

 地図によるとどうやら王宮の各所にも繋がっているようだ。

 

 まさに迷路であるが、その分かれ道の一つ一つに比較的最近に描かれたと思われる数種類のマークが記されていた。

 

 そのマークは地図にも描かれていて、それぞれが通路の行き先を示していた。レンが親衛隊と共に新たに付けた目印だった。

 

 それでもランプの明かり一つを頼りに暗い道を延々と歩いていくのは精神的にもかなり辛いものがある。

 

 時間の感覚さえ麻痺してきそうで、これで地図がなければ不安と恐怖で一歩も進めなくなっていただろう。

 

 たった一人、長い通路を自分の足音だけを聴きながら歩いているうちに、ふと、その反響に混じって別の足音が重なっているように聞こえた。

 

(……私の他に誰かいる!?)

 

 立ち止まり、咄嗟に振り返った。

 

 しかし、ランプの明かりは頼りなく、自分の背後に誰かがいるのか、いないのか、それさえわからない。

 

 リン自身が立ち止まった今では足音も聞こえなくなったが、水音だけが流れるその静寂の中に、闇に潜む何者かの息遣いが聞こえてきそうな気がした。

 

 きっと、気のせいだ。

 

 そう思おうとしても、一度抱いた疑惑は言い知れぬ不安と恐怖となってリンの心臓を締め上げた。

 

 リンは背後の見えない恐怖から逃げるように、足早に先を急いだ。

 

 長い長い通路の先、闇を払う柔らかい光が見えてきた。

 

 出口だ。

 

 リンはそのことを地図で確認すると、ホッと安堵の息をついてランプの火を消した。

 

 出口に近づくにつれ、水音も大きくなる。そこは城下街の西側の河へと出る放水口だった。

 

 放水口には鉄柵が設けられており、人が出入りできないようになっている。

 

 その鉄柵越しに、ゆったりと流れる西の大河と、対岸へと伸びていく橋の裏側が見えた。

 

 橋は、この放水路のちょうど真上に架かっており、河岸の上や橋の上からは放水路は見えないようになっていた。

 

 例え放水路から誰かが出てきても、その姿を見られることはない。

 

(本当に脱出通路として考えて造られていたのね……)

 

 リンは感心しながら、放水口の鉄柵の一本を握った。

 

「えっと、右に三回……左に五回だっけ」

 

 レンから教えられたとおり、握った鉄棒を左右に回す。

 

 カチリ、と音がして鉄棒は簡単に外れ、人間一人が通り抜けられるだけの隙間が出来た。

 

 ランプを放水口の内側の影に隠し、鉄柵のあいだをくぐり抜ける。

 

 外に出ると、河流を渡って冷たい風が吹き付けてきた。

 

 その寒さに、リンは首をすくめる。

 

 晩秋の季節もじきに終わり、冬が来ようとしていた。

 

 リンは鉄柵を元に戻す。

 

 河に向き直ろうとしたとき、リンは足元にあった何かに躓いた。

 

「――あっ!?」

 

 たたらを踏みつつなんとか踏みとどまる。

 

 振り返ったその先に、放水口のすぐそばでうずくまる人影があった。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

 放水口から出てくるところを見られた、という焦りよりも、人が倒れているという事実の方に意識が向き、リンは慌ててその人影に近づき呼びかけた。

 

 しかし、相手には何の反応も無い。

 

「寝てる…の?」

 

 不審に思い、屈みこんで様子を観察してみた。

 

 男性、なのだろうか。

 

 うずくまった全身をマントでくるんで横になっているので、詳しい外見はわからない。

 

 しかし下半身がわずかにマントからはみ出していて、しかもそこから見える足は裸足だった。

 

 履いているズボンの裾はほころび、脛や膝の部分にも穴があいている。

 

 その足を両腕で抱え込むようにして、汚れて真っ黒になったマントをかぶっている。

 

 橋の下をねぐらにしている浮浪者か何かだろうか。

 

 いっそのこと放っておけばいいのだろうが、リンにとってはこんなところで人が寝ていること自体が異常に思えたし、それに、躓いてしまった負い目もあって、無視するということが出来なかった。

 

「あ、あの、こんなところで寝ていると、風邪ひきます…よ?」

 

 声をかけながらおずおずと手を伸ばし、そのマントに包まれた身体を揺する。

 

 力を込めるどころか、なるべく優しく揺すったつもりだったのに、その身体はバランスを崩したようにグラリと大きく揺れ、そのままゴロゴロと河岸の坂を転がり始めた。

 

「――え?」

 

 呆気にとられて見送ってしまったリンの視線の先で、その男はうずくまった格好のまま、水音を立てて河に落ちた。

 

「う…そ……?」

 

 水面から覗く丸めた背中が浮き沈みを繰り返しながら、下流へと向かってゆっくりと流れていく。

 

 

 

 

 

 死体だった。

 

 

 

 

 

 おそらく眠っているうちに凍死してしまったのだろう。

 

 リンは今更ながらそのことに気がついた。

 

 心臓が早鐘のように激しく脈打ち始める。

 

 呼吸が苦しくなる。

 

 全身に悪寒と言いようのない気持ち悪さが湧き上がってきて、リンは口元を抑えて、慌ててその場にしゃがみこんだ。

 

「う……うぇ……ぇっ……」

 

 放水口から流れ出る水流に向かって、苦しみに喘ぎながら何度も嘔吐を繰り返した。

 

「……ぁ……は…はぁ……」

 

 リンは優しい少女だった。

 

 王宮の庭園で怪我をした小鳥を拾った時には、自分の部屋に連れて帰り、そこで懸命に手当と看病をした。

 

 その甲斐もなく小鳥が死んでしまったときは、小さな墓を作ってその前で涙を流しもした。

 

 だが、いまリンが目の当たりにして触れた死は、小鳥の死とは感触がまるで違っていた。

 

 安易な同情の涙など一瞬で吹き飛ぶ、残酷で、無情で、無慈悲な……死。

 

 リンは今しがた自分が触れた死の感触の冷たさに震えながら、川沿いの斜面を這うようにして駆け上った。

 

 斜面を登った先は、河沿いに伸びる石畳の道路だった。

 

 人通りはなく、静まり返ったその景色に、リンの不安感はさらに募った。

 

 本当は秘密の脱出通路から出てくるところを目撃されないためにも、人は居ない方が好都合なのだが、今のリンは、人の温もりを何よりも欲していた。

 

 生きている人間のそばにいて、安心したかった。

 

 リンは懐の地図を取り出し、今いる位置を確認した。

 

 リンが今いる橋は、城下街の西側の王宮に程近い場所だった。

 

 そこには街の警備兵の詰所や、駐屯地が集まっている地域で、その関係から一般人がむやみにうろつくような場所ではない。

 

 リンの周りに人通りがないのも、ある意味当然のことだった。

 

 その辺の事情はちゃんと地図にも明記されていて、リンは、レンがかなり入念に下調べをした上でこの計画を立てていたことを改めて思い知った。

 

 地図にはさらに、これから目指すべき場所と、そこに至る道すじが色付きで記されている。

 

 リンはそれを頼りに、街を歩き出した。

 

 河沿いの道を歩きながら南下して駐屯地区域から離れると、やがて富裕層が住まう高級住宅地に入った。

 

 広い敷地を高い塀で取り囲み、その向こうに三階建てや四階建ての石造りの館が姿を覗かせている。

 

 河沿いにはそんな館が両手で数えるくらいしか建っていないにもかかわらず、一つ一つの敷地が広大なため、いくら歩いても歩いてもその長い塀が途切れることはなかった。

 

 城下街には、一番北側の丘陵上にある王宮から、その東西の両脇にある駐屯地区域を中心として、貴族や商人などの富裕層が住む高級住宅地が集中している。

 

 いわば上流階層が暮らす区域だが、こういった人々は食料や服といった生活必需品を購入する際、出入りの商人から品物を直接調達しているため、このあたりには個人商店といった類のものが無い。

 

 したがって、駐屯地区域と同様、このあたりにも人通りはほとんどなく閑散としていた。

 

 リンは誰とも行きあわないまま、地図に従って、河沿いの道から、邸宅と邸宅の間の道に入り、街の中心部へと向かった。

 

 巨大な邸宅を通り過ぎると、今度は二~三階建ての建物が密集し始めた。

 

 地図によると、商店が集まる商業区らしい。

 

 だが通りに向けて店を開けている建物はほとんどなかった。

 

 大概が寂れ、古ぼけた外観を晒していたが、時折、綺麗に磨かれた立派な建物が現れた。

 

 そこにかかる看板はほとんどが貿易商だった。

 

「あ……」

 

 リンは一件の建物の前で足を止めた。

 

 通りに向いてショーウィンドウがはめ込まれ、その向こうに色とりどりのドレスが飾られている。

 

 リンはしばし、そのドレスに見とれた。

 

 王宮の、それも国王直属のメイド長ともなれば、普段着ているメイド服の質もかなり良いものではあるのだが、リンは基本的にそれ以外の服をほとんど持っていなかった。

 

 日常のほとんどをメイドとして過ごす彼女にとっては、プライベートという概念があまりなかった。

 

 そして、リンが王宮に戻る前、一領主として地方で暮らしていた頃の私服といえば、今来ている修繕を繰り返した襤褸といった有様だった。

 

 そんな彼女だから、今、ガラス越しに目の当たりにした華やかなドレスがひどく眩しいものに見えた。

 

 リンは、ガラスの内側に飾られた、フリルのついた黄色いドレスに身を包んだ自分の姿を想像した。

 

 それは、もしかしたら有り得たかもしれない王女としての自分の姿だった。

 

 先日の舞踏会で踊ったレンとミクのように、大広間の中心で人々の注目を浴びながら踊るリン。

 

 そのとき、ともに踊っている相手は、きっと、スラリと背が高く、優しく深い海のような青い目をした男性……

 

 

 ……カイト。

 

 

(……え?)

 

 無意識のうちに思い浮かべてしまった意外な相手に、リンは動揺した。

 

 慌てて頭を振って、その想像を打ち払う。

 

 どうしてあんな男のことを思い浮かべてしまったのか。

 

 レンを聴衆の面前で批判し、ミクの想いを踏みにじったひどい男なのに……

 

 リンが不思議に思いながら目を落とすと、ドレスに付けられた値札が目に入った。

 

 そこに記されていた金額に、リンは息を飲んだ。

 

 貧乏貴族をやっていた頃にはとても手が出そうにない値段だった。

 

 そんな高価なものが、庶民に買えるはずがない。

 

 リンがそう思ったとき、ショーウィンドウ脇の扉が、重い音を立てて開かれた。

 

「この度もご利用ありがとうございました。ご注文の品は出来上がり次第お届けにあがります。どうぞ今後もご贔屓を賜りますよう」

 

 平身低頭しながら扉を開けた店員に見送られ、質の良い服に身を包んだ男が、まるで王侯貴族であるかのような鷹揚な態度で出てきた。

 

 リンはその男に見覚えがあった。

 

 大臣たちのひとり、法務大臣の使用人だった。

 

 時折王宮内でも見かけることがあったが、メイド達に対してあからさまに見下した態度をとるので、リンの周囲での評判はあまり良くなかった。

 

 そのくせリンに対してだけは、ひどく慇懃に接してくる。

 

 しかもその接し方というのが親衛隊と違って、メイド長という役職と国王の姉という出自に対して向いてるのが、これまたあからさまなので、リンとしても苦手な相手だった。

 

 その男が、ショーウィンドウの前に立つリンに目を向けた。

 

 見知った相手だけに、リンはとっさにフードを深く被って顔を隠した。

 

 男は、フン、と鼻を鳴らして、何事もなかったように通りを歩き去っていった。

 

 店員がその後ろ姿に向かって深々と礼をし、そして今度はリンの方に対して冷たい視線を投げかけると、

 

「しっ、しっ」

 

 まるで野良猫に対してでもするように、追い払う仕草をした。

 

 人を人とも思わぬその扱いに、リンは逃げるようにその場を後にした。

 

 通りには相変わらず人気はほとんどなかった。

 

 時折、遠目に貴族の使いの者と思われる人影が通り過ぎたり、窓を締め切った馬車が行き過ぎていくだけの通りを、リンはトボトボと歩んだ。

 

 リンは地図に従い、とある路地に脚を踏み入れた。

 

 そこは、人が二人ならんで歩ける程度の狭い幅の通りだった。

 

 両側を背の高い建物が囲んでいるのは今までと同じだが、その建物の種類がだいぶ変化していた。

 

 これまではそれなりに立派な石造りの建物だったのが、ここでは木造の、今にも崩れ落ちそうなボロボロの建物が軒を連ねて密集していた。

 

 太陽もかなり高くなってきているにもかかわらず、陽光は密集する家屋に阻まれ、あたりは薄暗い。

 

 地面も石畳ではなく、土がむき出しになっており、でこぼこしている上に、あちらこちらに水溜りが出来ていた。

 

 しかしここ数日、雨は降っていない。

 

 水溜りは、周りの家屋から流れ出た汚水だった。

 

 通りには汚水が発する臭気が漂い、リンは被ったフードを脱ぐことなく、鼻を押さえながら足早に進んだ。

 

 複雑で不規則な交差路を、三つ、四つ、と曲がり、その迷路のような道筋に、自分が本当に地図の通りに進んでいるか不安になってきた頃。

 

 ある角を曲がったとき、出し抜けに人で満ちあふれた賑やかな通りに出た。

 

 これまでと同じような幅の通りに、小さなテントを張った屋台が密集していて、大勢の人々が行き交っている。

 

 田舎などで月に一度か二度、行商がやってきて市が立ったときにこのような光景が起きるが、それと全く同じことがこの城下街でも起きていた。

 

 路地の奥深くで行われる、闇市だった。

 

 郊外に住む農民達が持ち込んできた品物を、業者を介さずにここで直接売りさばいているのだ。

 

 それはとりもなおさず、城下街における商業活動がほとんど機能していないことを示していた。

 

 常在的に店舗を維持できるだけの小売業がほとんどいないのだ。

 

 そのため、城下街の民衆のほとんどはこの闇市で食料や生活必需品を手に入れざるを得ず、この狭い通りに一度に多くの人々が集まることになる。

 

 リンは人混みに流されるように、その通りを歩き出した。

 

 闇市ではありとあらゆるものが売られていた。

 

 野菜、果物、穀物、肉や魚。

 

 パンやスープ、焼いた肉や魚など簡単な料理を売っている者さえいる。

 

 布生地や服も大量に売られていた。殆どは襤褸布同然だが、時折、質の良い織物を売っている者もあった。

 

 この織物の大半は、黄国産だった。

 

 今では黄国内の織物は緑国からの輸入品が主流となってしまったが、かつては黄国の誇る一大産業であった。

 

 かつては綿花や養蚕といった原料生産から加工まで国内で一手に担っていたのだが、緑公国に市場を奪われてからというもの、国産品はこうして闇市場でほそぼそと生きながらえるのみだった。

 

 だが闇市での捨て値同然の価格で高品質を維持できるはずもなく、国産品の質は年々落ちていく一方である。

 

 この辺の事情は、リンも旧領の現状を通じて知っていた。

 

 リンは人混みに流されながら通りを歩いているうちに、織物を扱っている一人の行商に目を止めた。

 

 特徴的な幾何学模様を編みこんだ高い技術を感じさせるその織物に、リンは見覚えがあった。

 

「これ、どこで織られたものですか?」

 

「ああ、こいつはカガミネ産だよ」

 

 カガミネ。

 

 それはリンの旧領の名前だった。

 

「か、買います」

 

 懐かしさと、そして旧領の窮乏を思い出し、リンは思わず値段も訊かずにそう言ってしまっていた。

 

 行商も、これには不審を覚えたらしく、まるで値踏みするような目でリンをまじまじと眺めだした。

 

 リンの格好は、マントも服もツギハギだらけだが、よく手入れされていて汚れもない。

 

 何よりもフードの下から覗く顔立ちの良さ、肌の白さ、髪の艶やかさなどが、リンの育ちの良さと恵まれた境遇を示していた。

 

 何者かはわからないが、商売相手にはなる。

 

 行商はそう判断し、リンに値を告げた。

 

「わかりました、買います」

 

 手持ちの金額で充分足りる値だった。

 

 すぐに懐を探り出したリンの姿に、行商は驚き、そしてすぐに悔しそうな表情を見せた。

 

 もっとふっかければ良かった、という顔だった。

 

 リンが金を払い、織物を受け取った途端に、目の前の行商を押しのけるようにして別の行商が現れた。

 

「お嬢さん、これも買わんか、これ!」

 

 そう言って、中身が溢れそうな籠を突きつけてくる。

 

 中身は山盛りにされたボロボロの布切れだった。

 

「え…え、あ、いえ…その…」

 

 突然のことに困惑するリンの前に、また別の行商が、やせた果実を手に横から現れた。

 

「リリアンヌ地方で採れたオレンジだよ、いっぱい買っておくれ!」

 

「ハツネ産のネギもあるぞ!」

 

 オレンジの行商が突き飛ばされ、リンの目前にネギが突き出された。

 

 突き飛ばされたオレンジの行商は、割り込んできたネギ売りに歯を剥いて抗議した。

 

 だがその隙に、周りにいた他の人々が落ちたオレンジを拾い始めたので、行商は金切り声を上げて必死に自分の商品を守ろうとし始めた。

 

 ネギ売りが相変わらずリンにネギを押し付けようとしているところへ、籠にボロ布をつめた行商が、

 

「こいつは俺の客だ!」

 

 とネギを押しのけようとし、そこに更に、最初の織物の行商までが加わった。

 

「邪魔するな、この客に最初に目をつけたのは俺だぞ!」

 

 押し合い、突き飛ばし合い、それぞれの品物がこぼれ落ちて通りに散乱した。

 

 すかさず、わっと人が集まり、こぼれ落ちた品物に殺到し始めた。

 

「わぁっ、やめろ、やめろぉっ!!??」

 

 品物を拾おうとする人々と、それを守ろうとする行商たちの間で、殴り合い、つかみ合いの乱闘が起きた。

 

 それがさらに他の人間を巻き込んだ。

 

 通りはたちまち、大混乱に陥った。

 

 一瞬前に営まれていた商業活動は、ほんのわずかなバランスが崩れただけで、略奪の場になってしまった。

 

 そのバランスを崩してしまったのは、リンだった。

 

 正確に言うなら、リンが持っていた金だった。

 

 貧乏貴族であったリンが手頃だと思った金額でさえ、ここに集う民衆にとっては信じられないほどの大金だったのだ。

 

 それを目にしてしまった者たちは節度を忘れ、それが周囲にも伝播し、狂気へと変わってしまった。

 

 その狂気が、リンにも襲いかかってきた。

 

 脇から何本もの手が伸び、リンが腕に抱えていた織物を引き掴む。

 

「いやっ!?」

 

 織物を取られまいと必死に抱え込んだリンの目の前に、悪鬼のような形相をした人間がいた。

 

 年老いているのか、若いのか、男なのか、女なのかさえもひと目では判断できなかった。

 

 両目を見開き、歯をむきだし、金切り声を上げながら、リンから織物を奪おうとしている。

 

 力任せに引っ張るその力に、織物は音を立てて破れた。

 

 相手は尻餅をつくように人混みの中に倒れ、リンも反対方向に倒れそうになる。

 

 リンは幸いにも、建物の壁に背中が当たり、倒れずに済んだ。

 

 しかし相手の方は、人混みの中に倒れてしまい、そこで蹴られ、踏まれ、もみくちゃにされていた。

 

 リンはその光景に恐怖を覚えた。

 

 人間がこうも簡単に我を忘れ、人を害し、そして恐ろしい力で害されていくその光景。

 

 思わずその場にうずくまってしまいそうになったとき、通りのどこかで、

 

「警備隊が来たぞぉっ、取り締まりだぁっ!!」

 

 悲鳴と怒号に混じって、馬のいななきと馬蹄の音が激しく響き渡った。

 

 それから逃げ出そうと、人の流れが反対方向に向かって一斉に流れ出した。

 

 壁際に寄っていたリンにも、誰彼構わず逃げ惑う人たちの肩が何度もぶつかる。

 

 リンがその衝撃によろけ、突き倒されそうになったそのとき、

 

「おい、大丈夫か」

 

 がっしりとした両手に、肩を抱かれ、支えられた。

 

 見ると背の高い男が、人波からリンをかばうように立っていた。

 

「あ、あの……っ」

 

 あなたは誰?

 

 そう訊こうとした矢先、

 

「こっちだ、こっちに来い」

 

 男がリンを支えたまま、走り出した。

 

 喧騒する群衆を押しのけるようにして走る男の周りに、気づけばさらに二~三人の男たちが付き従っていて、二人をかばっていた。

 

 男たちは一団となって混乱する群衆を押しのけ、

 

 ときに突き飛ばし、

 

 とにかくがむしゃらに通りを突き進み、

 

 そしてようやく人混みから離れた人気のない路地裏に辿りついた。

 

 そこは、さっきまでの混乱が嘘のように、静かで閑散とした場所だった。

 

 走るのをやめた男達に合わせ、リンもようやく立ち止まり、そしてホッと息をついた。

 

「あ、あの…」

 

 リンは、自分をかばいながら、あの現場から連れ出してくれた男達に向かって、

 

「助けてくれて、ありがとうござ――」

 

 礼を言おうとした、そのとき、

 

 その口を背後から別の男の手で塞がれた。

 

(え――っ!?)

 

 声も出せないまま、乱暴に背後から羽交い絞めにされる。

 

 訳も分からないうちに猿轡を噛まされ、手足を押さえつけられた。

 

「おい、こんな場所でやっちまって大丈夫か」

 

「警備隊はここには来ねえし、奴らは行商以外狙わねえ。早く身ぐるみを剥げ」

 

「本当に金持ってるんだろうな」

 

「間違いなく持ってる。コイツ、物を言い値で買ったからな。世間知らずの金持ちさ。――その懐だ」

 

 男の一人が真正面に立ち、リンの胸元を掴み、引き裂いた。

 

「―――っ!!??」

 

 悲鳴を上げ、暴れようにも男たちの力に抵抗出来なかった。

 

 男の手が無遠慮に胸元に入り込み、金の入った袋を奪っていく。

 

「おい、こいつどうする」

 

「犯したきゃ、やれ。俺はそれより金勘定だ」

 

 リンの耳元に、男の荒々しい息が吐きつけられた。

 

 そのまま人形のように持ち上げられ、今度は道路に仰向けに転がされる。

 

 目の前に、リンに覆いかぶさろうとする男の大きな影があった。

 

「!!???」

 

 猿轡の奥で叫ぶリンの両腕を押さえつけ、その両足のあいだに膝を入れて、無理やりこじ開けられる。

 

 男の体重に押しつぶされ、身動きができないリンの胸元に男の手が這い回り、その小さな乳房を乱暴に掴まれた。

 

「――――っ!!!!!!!」

 

 嫌悪感と、

 

 恐怖感と、

 

 激しい痛みに、

 

 リンの目の奥が真っ赤になった。

 

 ―怖い

 

 ―怖い

 

 ―怖い

 

 ―怖い

 

 ―助けて…レン………

 

 ―助けて……レオ………

 

 ―助けて………アル………

 

 ―助けて…………ルカ………

 

 

 ―助けて………………カイト……

 

 

 リンに伸し掛かっていた圧力が、突然消えた。

 

 リンを襲っていた男が、誰かにその髪の毛を掴まれ、引き上げられるがままに仰け反り、大きく背後へと倒れ込もうとしていた。

 

 男の髪を掴んでいたのは、細身の優男。

 

 髪を掴まれた痛みに野獣のような咆哮をあげながら暴れる男を、その優男は平然と、片手で投げ飛ばした。

 

 ぎゃっ、と悲鳴を上げて転がった男の有様に、他の男たちが殺気立った。

 

「誰だッ!?」

 

 問うた男の手には、既に短刀が握られていた。

 

「……カイト」

 

 短く答えた優男の長い脚が、差し向けられていた短刀を蹴り飛ばす。

 

 一瞬の早業だった。

 

 優男――カイトの身体が大きく回転し、二撃目の蹴りの爪先が、男のあご先を掠めた。

 

 たったそれだけ。

 

 だが、それだけで男は激しい脳震盪を起こし、足元から崩れ落ちた。

 

 カイトは軽いステップから、わずかに身体を横に傾ける。

 

 背後から襲いかかって来た別の男の一撃が、目標を見失って、虚しく宙を切った。

 

 勢い余って前かがみになってしまった男の首筋に、カイトの手刀が振り下ろされ、二人目の意識を刈る。

 

 リンを襲った男は残り二人だった。

 

 その内の一人は、最初にカイトに引きずり倒されていて、瞬きする間に仲間二人を倒したカイトの姿に呆然としたまま座り込んでいた。

 

 最後の一人は、近くに居たリンに目を向け、人質にしようと考えたのか、彼女に向かって手を伸ばそうとしたが、

 

「下らぬことは、考えぬ方が身のためだぞ」

 

 聴く者の心底を冷え込ませ揺さぶるような冷徹な声に、男は震え上がって、リンに伸ばしかけた手を引っ込めた。

 

 カイトは倒した男から金の袋を拾い上げ、そして残した男二人に告げた。

 

「仲間を連れて去れ。それと……次は見逃さぬぞ」

 

 意識を失った仲間を担ぎ、暴漢たちは逃げ去っていった。

 

 リンは、その隙に何とか自分で猿轡は外したものの、それ以上は訳も分からず、何も考えられず、

 

 自分の身に一体何が起こったのかすら理解できず、いや、理解したくもなくて……

 

 ……ただ、路地の隅で震えながらうずくまっていた。

 

 そのリンの身体に、ふわり、と大きな何かが羽織らされた。

 

「……え?」

 

 それは、男物のコートだった。

 

 カイトが、自分のコートを、服を破られたリンに羽織らせ、そして、手を差し伸べていた。

 

「立てるか?」

 

 力なく首を横に振ると、カイトは肩と背中に手を回して、労わるように支えながら、リンを立ち上がらせた。

 

「しかし驚いたな。国王の姉ともあろう者が、なぜここにいる?」

 

「そ――」

 

 それはこちらのセリフです、とリンは言い返したかった。

 

 なぜこの男が、こんな場所にいて、しかもリンを助けてくれたのか。

 

 この男は、いったい何者なのか。

 

 そんな疑問を口に出したかったが、

 

「あ……ぅあ……ぁ……ぁうう」

 

 出てきたのは、嗚咽だった。

 

 全身が震えだし、

 

 奥歯がガタガタと音を立て、

 

 足腰に力が入らなくなって、

 

 カイトの胸にすがりつくように倒れ込んだ。

 

 あの秘密の通路を通ってきた時から、張り詰めてきた緊張の糸が、ついに耐え切れなくなってプッツリと切れた。

 

「うぁああ………わぁぁぁぁぁ……」

 

 リンは、カイトの胸に抱かれながら、子猫のように震え、泣いた。

 

 

 

 

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