悪ノ王子――ボカロ(悪ノ娘)二次小説――   作:PlusⅨ

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第五話・リン、カイト~街で見かけた、青い彼~

 路地でリンを最初に見かけたとき、カイトは彼女をレンだと思った。

 

(……なぜ、国王ともあろう者が、こんなところにいるのだ?)

 

 フードの下から時おり垣間見える美しい顔立ち、輝くような金髪。

 

 みすぼらしい服を着ているが、その全体から立ち昇る気品は隠しようも無く、この掃き溜めのような裏路地ではどうしようもなく浮いて見えた。

 

 それにしても……

 

(なぜ、女装までしているのだ?)

 

 随分と念の入った変装だった。

 

 変装が上手すぎて、どこからどうみても少女にしか見えない。

 

 それも美少女だ。

 

 すれ違う者たちの視線が、自然と“彼”に集まっていた。

 

 現に、自分も目を離せないでいる……

 

(危ういな)

 

 女装少年に目を惹かれている自分の趣味嗜好の問題とは別の意味で、カイトは危機感を抱いた。

 

 “彼”は人目を惹き過ぎている。

 

 ほとんどが興味本位であるためにすぐに逸らされていくものの、中にはしつこくまとわりついてくる視線がいくつかあった。

 

 カイトは周囲を見回し、その視線を確認する。

 

 およそ七~八人といったところか。

 

 行商が三人、“彼”に押し売りを仕掛けようと、声をかける機会を狙っている。

 

 それ以外の連中は、好色そうな目をしたゴロツキどもだ。

 

(……まずいな)

 

 ああいう連中に目をつけられたとなると、厄介だ。

 

 カイトはそれとなく周辺に注意を払いながら、“彼”の後を尾け始めた。

 

 しばらく尾け続けているうちに、また別の視線に気づいた。

 

(………もうひとり、妙な奴がいるな?)

 

 ゴロツキどもの後ろに、小柄な影。

 

 ボロボロのコートに、水兵帽を深く被り視線を隠しているが、それでもその下から時おり覗く鋭い視線が、“彼”とゴロツキを交互に見ている。

 

(只者じゃないな。……レン国王の護衛か?)

 

 恐らく親衛隊の一人だろう。ご苦労なことだ。

 

 しかし、護衛がついているのなら、わざわざカイトが心配して着いていく必要など無かったわけだ。

 

(バカバカしい)

 

 つい日頃の癖で庇護欲が出てしまったが、考えてみれば相手は国王だ。

 

 女装でお忍びなどと何の悪ふざけか知らないが、その身辺は常に守られていて当然だ。

 

 カイトが日頃から面倒を見ている、貧民街の人々とは違うのだ。

 

 カイトは“彼”から目を離し、他の場所へ行こうとした。だがその時、

 

「か、買います」

 

 透き通るような声が、カイトの耳に届いた。

 

 この喧騒渦巻く闇市で、それほど大きな声でもなかったのに、闇に指す一筋の光のように輝くその声。

 

(レン国王ではない?)

 

 王宮で聴いた、変声期を迎えた少年の声ではなかった。

 

 その声は間違いなく少女のもの。

 

 驚きに再びそちらへ目を向けると、“彼”…いや彼女は、行商の一人から織物を買おうとしている所だった。

 

 しかし、その買い方がいかにもまずい。

 

 行商が提示した値段を、それもかなり高額にもかかわらず、値切ることなく買ってしまったのだ。

 

 しかも、その場でその金額を支払ってしまった。

 

 周囲の行商たちがそれを目にして、一斉に彼女に群がっていく。

 

(まずいことになったぞ!)

 

 そう思ったときにはもう遅かった。

 

 周囲を顧みない行商たちの客の取り合いが始まり、その煽りをくらって、通りが一気に喧騒と化した。

 

 人の動きが激しくなり、彼女に向かって駆け寄ろうとしたカイトの進路を塞ぐ。

 

 肝心の護衛はといえば、カイトよりも彼女との距離を空けていたために、人の渦に巻き込まれ見えなくなってしまっていた。

 

 さらにまずい事に、先ほどのゴロツキどもが、明確に彼女へ狙いを定めたようだった。

 

(くそっ)

 

 カイトは焦った。

 

 ゴロツキどもにとって多額の金を持ち歩いている美少女なんて存在は、格好の獲物だ。

 

 そういう人間に対し、彼らが容赦ない残虐性を発揮することを、カイトはよく知っていた。

 

 カイトは人混みをかき分け彼女のもとへ進みながら、同時に、例の護衛らしき小柄な水兵帽の男を探した。

 

 しかし、混乱にまぎれ、その姿は見当たらない。

 

 そもそも、あれがレン国王で無いのなら、彼も護衛ですらないのかもしれない。

 

 そうこうしている内に、闇市にさらなる混乱が襲いかかった。

 

 警備兵の取り締まりである。

 

 それも最悪なことに、不正行商の一斉摘発を狙った不意打ちだった。

 

 騎馬兵を中心とした警備兵の容赦呵責ない突撃によって、路地はパニックに陥った。

 

 そのパニックの中、ゴロツキどもに抱えられ、連れ去られていく彼女の姿が見えた。

 

 ゴロツキどもは集団で隊伍を組み、あたりかまわず人を突き飛ばして去っていく。

 

 カイトもまた、混乱の中をそのあとを追いかけ走った。

 

 しかし、ゴロツキどものように人を突き飛ばすような真似はしない。

 

 カイトは激流のような混乱の中を、まるで泳ぐようにすり抜けていく。

 

 足さばき、体さばき、そのどれをとっても常人離れした動きだ。

 

 それでも、カイトの周囲の人間を傷つけぬような走り方では、ゴロツキどもの数と腕力に任せた強引なやり方に追いつくことができない。

 

 せいぜい、見失わないようにするのが精一杯だった。

 

 ゴロツキどもが混乱を抜け出し、別の路地へと消えていく。

 

 カイトが混乱の闇市から抜け出したき、彼らは既にその複雑に折れ曲がった路地の奥へと消えてしまっていた。

 

 路地を奥に進み、二~三度曲がると、もう人気はなくなり、先ほどの混乱が嘘のような静寂に包まれた。

 

 彼女の姿は見えない。見失った……

 

「………」

 

 カイトは立ち止まり、目を閉じ、耳をすませた。

 

 

 

 

 

 

 

 ………助けて

 

 

 

 

 

 

「っ!」

 

 聴こえた。

 

 見つけた。

 

 カイトはすぐさまその方向へと走り出す。

 

 路地を走り、曲がり、そしてその場に辿りついた。

 

 じめじめとした薄暗い路地の奥で、四人の男達に囲まれ、組み敷かれた少女がいた。

 

 その服は引き破られていて、露わになった白い肌と、虐げられ苦悶に泣く少女の表情が、カイトの目を打った。

 

(――国王の双子か!?)

 

 こんな状況にもかかわらず、出し抜けに少女の正体を思い出した。

 

 先日、王宮へ赴いた時に国王のそばにいたメイドだ。

 

 国王の双子の姉がメイド長をやっているというのはカイトも聞き及んでいた。

 

 臣籍降下して国政に関わる立場でも無いので、あの時はさほど注意を払わなかったが、しかしレン国王と見間違うほどの少女となれば他には居ないだろう。

 

 その少女が襲われている。

 

 その光景に、カイトは得体の知れない感情を覚えた。

 

 怒りのような、

 

 そして、もっと暗い別の何か。

 

 カイトは何の躊躇いもなく、ゴロツキどもに向かっていった。

 

 男達の髪をつかみ無理やり投げ飛ばす。

 

 刃物を持ち出した男の手と顎に、蹴りを叩き込む。

 

 背後から襲いかかって来た男をかわし、その首に手刀を打ち込む。

 

 残った四人目の男は、戦うまでもなく戦意を喪失していた。

 

「仲間を連れて去れ。それと……次は見逃さぬぞ」

 

 ゴロツキどもが去ったのを見届け、カイトは、路地の隅にうずくまる少女のそばに寄った。

 

 噛まされていた猿轡は少女自身が取り去っていた。

 

 羽織っていたフード付きマントはどこかで失くしたようで、破かれた服を両手で押さえながら、背中を丸め座り込んでしまっている。

 

 カイトは自分のコートを脱ぎ、少女の震える肩に被せた。

 

「立てるか?」

 

 そう問うと、少女は力なく首を横に振った。

 

 カイトは肩と背中に手を回して、労わるように支えながら、リンを立たせた。

 

「しかし驚いたな。国王の姉ともあろう者が、なぜここにいる?」

 

 カイトの言葉に、少女が顔を上げ、キッと睨みつけてきた。

 

「そ――」

 

 反論しようとしたのか、何かを言おうとしたその唇が動きを止め、そして激しく震えだした。

 

「あ……ぅあ……ぁ……ぁうう」

 

 出てきたのは、嗚咽だった。

 

 少女の全身が震えだし、奥歯がガタガタと音を立て、足腰に力が入らなくなったのだろう、カイトの胸にすがりつくように倒れ込んだ。

 

 張り詰めてきた緊張の糸が、ついに耐え切れなくなってプッツリと切れたようだった。

 

「うぁああ………わぁぁぁぁぁ……」

 

 己の胸に顔をうずめ、子猫のように震え泣く少女の背中をさすりながら、カイトは少女の名前を思い出そうとした。

 

(………)

 

 不思議と、思い出せなかった。

 

 日頃から人の名前や顔を覚えるのは得意で、一度でも会えば忘れない。

 

 この街でも貧民街の人々、浮浪児や娼婦に至るまで記憶している。

 

 この少女も王宮で見かけているし、まして国王の姉だ。名前を聞いていないはずがない。

 

 それなのに、なぜか彼女を見て思い浮かべてしまうのは、レンの名ばかりだった。

 

 少女が落ち着くのを待ちながら、カイトは、例の護衛らしき男が現れるのを待っていた。

 

 しかし、どうしたことか一向に姿を現さない。

 

 襲われ、服を破られた少女をこんな場所に放っておくわけにも行かず、カイトは彼女を知り合いの下へと連れて行くことにした。

 

 少女はカイトに大人しく従って付いて来た。

 

 複雑な路地を幾度も曲がり、辿りついた先は、貧民街にある一軒の小さな教会だった。

 

 裏門の立て付けの悪い扉をくぐると、顔なじみのシスターがちょうど裏庭で洗濯物を干しているところだった。

 

 あら? と、シスターが勝手に敷地へ入ってきた二人に目を向けた。

 

「カイト、今日はどんなお客様をお招きしたの?」

 

 そう言ったシスターの声と表情は朗らかで、突然の訪問でも心から歓迎しているようだった。

 

「路地で襲われていた」

 

 カイトは短くそう答え、彼の背後で静かにうつむく少女を、そっとシスターの前に押し出した。

 

 シスターは優しさと慈しみの目で、少女を眺め、そして全てを察したように頷いた。

 

「わかったわ、あとは任せて」

 

「頼む、メイコ」

 

 シスター・メイコはニッコリと微笑むと、少女の肩を抱いて教会の中へと連れて行った。

 

 カイトは二人を見送ると、踵を返して裏門から外へ出た。

 

 外に人気はない。

 

「………」

 

 カイトは教会の塀に沿って、その周りをゆっくりとした足取りで歩き出した。

 

 二周ほどしたところで、他の路地から、女が二人、姿を現した。

 

 派手な色使いのボロボロの擦り切れたドレスに、けばけばしい化粧。

 

 きつい香水の香りを身にまとった娼婦たちだった。

 

 この二人には、見覚えがある。

 

(アンと、ローラか)

 

 二人はカイトの姿を見つけると、黄色い声を上げながら近づいてきた。

 

「はぁい、お兄さん。ちょっと遊ばない?」

 

 娼婦のひとり、アンに腕を取られながら、カイトは聞き返した。

 

「こんな昼間から何をするつもりだ?」

 

「ナニするのに、夜も昼も関係ないわァ」

 

 ローラが脇からカイトの首に腕を回し、抱きついてくる。

 

 そして、カイトの耳元で、小さく囁いた。

 

「デルが、カイト様をお呼びです。本音亭にお越し願いたいとのこと……」

 

「……わかった」

 

 要件を伝え終えて離れていこうとしたローラを、今度はカイトから引き寄せた。

 

「カイト様?」

 

「左の路地の奥に、コート姿で水兵帽を被った小柄な男がいる。わたしをずっと尾けていた奴だ。注意を惹きつけてくれ」

 

「かしこまりました」

 

 ローラがスっと離れていく。

 

 カイトは傍らで腕を絡ませたままのアンに、自ら身を寄せ、

 

「では、行こうか」

 

 さも娼婦を買った客のように、路地を歩き出した。

 

「うふふ~、カイトさんとデ~トォ♪」

 

 ローラが向かった路地の奥の方に耳を澄ますと、そこからローラの甘ったるい客を引く声と、戸惑ったような少年の声が微かに聴こえてきた。

 

 どうやら、うまく注意を惹いてくれたようだ。

 

 カイトはアンに連れられ、街の迷宮のような路地の奥へと消えていった。

 

 

 

 

 一方、教会の中に連れられたリンは、メイコから替えの服を渡されていた。

 

「ごめんね、こんな服しか無くて」

 

 それはツギハギだらけの服。

 

 しかしよく洗濯されているため清潔で、穴やほころびも丁寧に補修されていた。

 

 リンはその服に着替えると、元の自分の服をメイコに渡した。

 

「ひどい有様ね……」

 

 メイコは、リンの服のゴロツキたちに乱暴に引き裂かれた胸の部分を見て辛そうな表情をしたが、それ以上は何も言わず、裁縫道具を取り出した。

 

 空いた席をリンに勧め、メイコもそばに座って服の修繕を始める。

 

「あ、ありがとうございます」

 

「ううん、気にしないで。こういうの、好きでやってることだから」

 

 修繕が済むまで、お茶でも飲んでくつろいで頂戴。メイコは笑みを浮かべてそう言った。

 

(すごく柔らかい笑顔……)

 

 いいな、とリンは思った。

 

 ふと、亡くなった母を思い出し、リンの心がかすかに痛んだ。

 

 お茶は、ネルという少女が運んできてくれた。

 

 メイコと違ってシスターの服を着ていない。

 

 リンの借りた服と似たような修繕だらけの服を着て、縁の欠けたカップに薄い茶を入れて彼女はやってくると、

 

「……どうぞ」

 

「あ、どうも」

 

 少しぶっきらぼうにお茶を置かれて、リンは緊張しながらその少女を見上げた。

 

 ネルは、座っているリンをじっと見下ろしていた。

 

「あ、あの…?」

 

 視線が気になったリンがおずおずと尋ねると、ネルは

 

「ん? あぁ、ごめんごめん」

 

 そう言って、頬を指でかきながら、

 

「えと、その、あ、アンタさ……げ、元気だしなよっ!」

 

「へ?」

 

「その、なんていうかさ、事故だよ、事故みたいなもん。馬車に轢かれるようなもんさ。だから、命があっただけ儲けものじゃん」

 

「は、はぁ」

 

「だから、無事だったんだからさ、気にすることないし、忘れちまえばいいんだよ。それに、悪い奴とかは、カイトさんに頼めばきっと懲らしめてくれるし!」

 

「え? カイト?」

 

「そうだよ、カイトさんってのはさぁ――」

 

「ネル」

 

 と、メイコが少女の言葉を遮った。

 

「心配しなくても、この子はカイトが連れてきたのよ」

 

 メイコがそう言うと、ネルはパッと表情を明るくした。

 

「え、そうなの? なんだそっかぁ、よかったぁ……あれ? ってことは、カイトさんが教会に来てるってことじゃん!」

 

「あぁ、彼なら直ぐにどこかへ行ったわよ」

 

「えーっ!? どうして引き止めておいてくれなかったんですかぁ!?」

 

「そんなこと言われてもねぇ」

 

 リンは彼女たちのやり取りを傍から眺めながら、彼女たちとカイトは一体どんな関係なのか疑問に思った。

 

 いや、そもそもカイト自身が何者なのか。

 

 彼がこの街の下層階級出身なのは先日に知ったことではあったけど、まさかさも当然のように路地をうろついていて、親しそうな知り合いまでいて、その上、ゴロツキ数人をあっさりねじ伏せて見せるなんて、明らかに一介の声楽士の域を超えている。

 

 リンがそれをメイコとネルに訊こうとしたとき、教会の奥の部屋から、

 

「姉さん」

 

 と、少年の呼ぶ声がした。

 

「姉さん、台所がなんだか焦げ臭いよ。オーブン焼きすぎじゃないの?」

 

「うぇ!? まじ!? ちょ、ネロ、オーブン早く開けて! おやつのブリオッシュ焦げちゃうし!?」

 

 ネルは慌てて奥の部屋へと駆け戻っていった。

 

 そのネルの様子に、メイコが、裁縫を続けながらクスクスと笑った。

 

「ごめんなさいね。突然あんなこと言われて、びっくりしたでしょう?」

 

「いいえ、そんなこと……私のこと、心配してくれたんですよね」

 

「あの子、不器用だから」

 

 そう言って苦笑いするメイコの表情は、それでも、優しさに溢れた母親のようだった。

 

「あの……」

 

 と、リン。

 

「カイト……さんって、いったい何者なんですか?」

 

「何者? う~ん、まぁ、この街出身の歌うたい、ってところかしら。なんだか最近、あっちこっちで評判も上がっているそうね」

 

「知り合い、なんですよね?」

 

「幼馴染……というか、姉弟みたいなものかしら。私たちは、ここで一緒に育ったから」

 

「ここで?」

 

「孤児院なのよ、ここ」

 

 メイコはそう答えると、繕っていた服の余り糸を歯で噛み切った。

 

「はい、出来た。……う~ん、ちょっと縫い目が曲がっちゃったかしら?」

 

「あ、いいえ。直して頂いただけでも充分です」

 

 リンはすぐに自分の服を受け取ろうとしたが、メイコに、

 

「まぁまぁ」

 

 と押し留められた。

 

「もうすぐおやつの時間よ。せっかくだから、食べていきなさい」

 

 半ば強引に連れて行かれた広い食堂には、十数人もの子供たちの姿があった。

 

 四~六歳くらいの幼児から、十三、四ほどの、リンと同年齢くらいの子もいる。皆、この孤児院に暮らす孤児だとメイコは教えてくれた。

 

「ほらほら、みんなお皿を並べるの手伝ってよ」

 

 最年長になるであろうネルが、子供たちに指示を下しながら、忙しく動き回っていた。

 

 その中で、リンより一つか二つほど年下の少年が、リンを席に案内してくれた。

 

「どうぞ」

 

 と椅子まで引いてくれたあたり、なかなか品も良い。

 

「ありがとうございます」

 

 礼を言うと、少年はニコリと笑みを返し、隣接する台所へと消えていった。

 

 その後を追うように、ネルも台所へと小走りに入っていく。

 

 直ぐに台所から、先ほどの少年と、ネルの遣り取りが聞こえてきた。

 

「姉さん、これ、もう持っていくよ?」

 

「うん、ネロ、お願い」

 

 どうやら、さっきの少年がネルの弟、ネロだったようだ。

 

 ネルとネロの姉弟が揃ってトレイを持って食堂に現れると、席に着いた子供たちが一斉に歓声を上げた。

 

「ブリオッシュだ、ブリオッシュだよ!」

 

 ネルとネロが子供たちの前に皿を置くたびにそんな声が上がる。

 

 やがて、リンの前にも、そのブリオッシュなるものが置かれた。

 

 ブリオッシュというのは、ケーキの一種である。

 

 きめの細かい小麦粉に牛乳とバターと卵を加えて練った生地を焼き上げて作る、ふっくらとした食感の甘いお菓子だ。

 

 しかし、リンの目の前にあるものは、白い粉砂糖が振りかけられた、ただの小さな黒パンだった。

 

「主よ」

 

 リンの隣に座ったメイコが、胸の前で両手を組んだ。

 

「今日も我らに糧を与えてくれたこと、そして新たな友人とお引き合せくださいましたことを感謝致します」

 

 メイコに続き、子供たちも同じ言葉を繰り返した。

 

 祈りの言葉を終え、メイコは、子供たちに向き直った。

 

「みんな、今日も新しいお客様が来てくださったわよ。お名前は、……ええと?」

 

「あ、リンです」

 

 言いよどんだメイコに、リンは慌てて答えた。

 

 そういえば、リンはまだ一度も名乗っていなかったことを思い出す。

 

 何があったかさえも訊かず、メイコはリンを受け入れてくれていたのだ。

 

 それは子供たちも同じようで、彼らはリンが同席しているのを気にも留めずブリオッシュにかぶりついていた。

 

 きっと、客の存在など珍しくもないのだろう。

 

 例外といえばリンの向かいに座ったネルくらいのもので、常に気にかけるような視線をリンに向けていた。

 

 それがありがたくもあり、けれど自分の正体まで探られてしまいそうで、少しだけ後ろめたくもあった。

 

「……いただきます」

 

 リンは小声でそう言って、目の前のブリオッシュなるものに手を伸ばした。

 

 焼きたてのそれは温かったが、表面はビスケットのように固く、指でちぎることができない。

 

 周りを見ると、子供たちはそのまま大口を開けてかぶりついていた。

 

 メイコやネル、ネロも大口こそ開けていないが、そのまま口に運んでいる。

 

 それでリンも、そのままかじってみた。

 

 わずかに前歯で削り取ったその欠片は、ほとんど味がなく、表面にかけられた微かな粉砂糖が、口の中にほんのりとした甘味を与えただけだった。

 

 恐らく、ただの黒パンなのだろう。

 

 それでも、

 

「うわ、甘いっ、すごい甘いよコレ!」

 

「当たり前だろ、だってブリオッシュだぜ」

 

「おいし~」

 

 砂糖がかかっているというだけでブリオッシュだと喜ぶくらい、この子達にとってはご馳走なのだ。

 

 そう思うと、リンは胸がいっぱいになり、一口以上、食べられなくなった。

 

 皿の上にブリオッシュを戻したリンを見て、ネルが不安そうに、

 

「どうしたの?」

 

 と訊いてきた。

 

「も、もしかして不味かったとか?」

 

「い、いえ、そうじゃなくて、みんなの大切なお菓子なのに、突然やってきた私が無遠慮に食べちゃって申し訳なくて」

 

「なぁんだ、そんなことか。よかったぁ。いいよ、気にしなくても」

 

「でも、私のために誰かの分が減っちゃたんじゃ?」

 

「そんなことないよ。それは、もともとアンタの分だからさ」

 

「え?」

 

「ウチの食事は、いつ誰かが来てもいいように少し余分に作るんだ」

 

「じゃあ、もし誰も来なかったら?」

 

「そんな日はめったに無いけどね。でも、そういう時はこっちから近所に配りに行くってかんじかな」

 

 ネルの言葉に、

 

「だって」

 

 と、話を聞いていた子供たちの一人が声を上げた。

 

「ごはんも、おやつも、みんなで分けあって食べるのが一番おいしいって、シスターがいつも言ってるもんね」

 

「ええ、そうよね」

 

 子供の言葉に、メイコはにっこりと微笑んだ。

 

 ネルが、リンに言った。

 

「だから、それはアンタのブリオッシュだよ。まぁ、実際はちょっぴり甘いだけのただの硬いパンだけどさ……その辺は、みんなで楽しく食べることでカバーってことで」

 

「そうだね、独りで食べるには、姉さんの料理はちょっとね」

 

 と、ネロが澄まし顔で言う。

 

「言ったわね、ネロ、あとでお仕置きしてやる!」

 

「そう簡単に捕まらないよ」

 

 姉弟のやりとりに、子供たちが明るい笑い声を食堂に響かせた。

 

 出された食事はとても粗末なものだけど、その雰囲気はとても温かった。

 

(普通の家族って、こんな感じなのかな……?)

 

 リンは、自分の幼い頃を思い出す。

 

 父も母もまだ生きていた頃、回数は少なかったが、家族揃って食事をとったことがあった。

 

 王宮の会食の間で、こんなふうに明るく笑い合うような、そんな雰囲気ではなかったけれど。

 

 それでも、リンはただ家族と共に過ごせるその時間が嬉しくて、その日をいつも心待ちにしていた。

 

(レンもここに居たら……)

 

 きっと、もっと楽しいだろうな。

 

 リンはそう思い、そして、あることを思いついた。

 

「あの、このブリオッシュ、持ち帰ってもいいですか? 食べさせてあげたい人がいるんです」

 

「ん? あぁ、良いよ、持って行きなよ。もしかして、食べさせてあげたい人ってさ、アンタの家族?」

 

「はい、弟です」

 

「弟? じゃ、アンタもお姉ちゃんだったんだ。うわ、なんか嬉しいなぁ。あ、そうだ、食べかけだけど、こんなんで良かったら私のも持って行きなよ!」

 

「い、いえ、そこまでして――」

 

「――そうだ、ネロのも持って行きな!」

 

「ちょっと、姉さん。勝手に僕まで巻き込まないでよ!?」

 

「いいじゃん、同じ姉弟のよしみってやつよ」

 

「意味わかんないよ」

 

 ネロはぶつぶつ文句を言ったが、

 

「まぁ、でも半分くらいなら」

 

 そう言って、ブリオッシュを持つ手に力を込めて、半分に割った。

 

「リンさん。はい、どうぞ」

 

「いえいえいえいえ、本当にこれ一個で充分ですからっ!」

 

 リンは必死に強い調子で断った。

 

 ネロに続いて、他の子供たちまで自分の分を差し出そうとしていたからだ。

 

 その様子を、メイコがニコニコと笑みを浮かべながら眺めていた。

 

 結局、リンはメイコの分をもらう事になり、それで、その場は収まった。

 

 

 

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