カイトが、リンを一時的にとはいえメイコの庇護においたのは、ある意味危険な賭けでもあった。
しかし、心身ともに傷つきかけた少女をかくまうのに、これほど安全な場所もなかった。
それに、メイコがどんなに優れた頭脳の持ち主でも、さすがに国王の顔を間近で見たことが無いことをカイトは知っている。
まして、その双子の姉が街を忍び歩いているなどとは想像もしないだろう。
そして何より、メイコは革命組織の裏の指導者である以前に、やはり慈悲深いシスターであると、カイトは信じていた。
メイコは、自分を頼ってきた無力な少女を見捨てるようなことは、絶対にしない……
だが、メイコからリンを送り届けるよう頼まれたとき、カイトは背筋に寒気を覚えた。
リンを送ることが嫌だったわけではない。
別にメイコから言われずとも初めからそうするつもりだったし、そのためにわざわざリンのマントを引き取って教会に戻ってきたのだ。
しかし、メイコから、
「このお方を……」
と言われたとき、カイトは彼女の恐ろしさを改めて思い知った。
おそらく、
いや、間違いなく、メイコはリンの正体に気づいている。
リン自身が正体を明かした様子は無い。
メイコは、リンの振る舞いや雰囲気、そして言葉の端々の断片的な情報から気づいたに違いない。
メイコとは、それほどの洞察力を持った女だった。
それゆえに果たして、カイトにリンを送らせるというメイコの意図が、修道女としてのものか、それとも革命家としてのものか、それが図りかねた。
しかしどちらにしろ、カイトは自分がメイコの意図のままに動かされていることを自覚していた。
メイコにとって自分はもはや姉弟同然の幼馴染ではなく、革命に至るまでの手駒のひとつに過ぎないのだろう、と。
革命によってこの国の人々が救われるのならそれでも構わない、と覚悟していた。
しかしやはり、自分の意図はメイコにすべて見透かされているのに、自分は彼女の意図を図りきれないのは、幼馴染として釈然としないものがあった。
そのメイコに比べれば……と、カイトは思う。
このリンという少女の意図を図るのはずいぶんと簡単だった。
お忍びでこの国の現状を調査しにきた。
おそらく、そんなところだろう。
ただ、あの少年なら双子の姉ではなく、自分自身で赴いてくるのではないだろうか?
それぐらいの気概は持っていそうな少年だった、とカイトは思った。
そして、そこまで思ったところで、カイトは自分が軽い失望感を覚えていることに気がついた。
なぜ、ここにいるのがレンではないのか、と。
レンにこの街の、この国の現状をその目で見てほしかった。
そして、国王としてどうあるべきか、その考えを聞いてみたかった。
レンに、もう一度逢いたかった。
カイトは足を止めて、振り返った。
少し後ろを歩く、リンを見る。
「……どうかしましたか?」
リンも足を止め、怪訝そうな表情でカイトを見つめ返す。
「………」
カイトはしばらく無言のまま、リンをまっすぐに見つめ続けた。
彼の端正な顔立ちはどこか寂しさをはらんでさらに精悍になり、
その青い瞳は氷のような冷たい光をたたえながら、
リンの目をまっすぐに射すくめていた。
ゾクリ、とリンは背筋に冷たいものを感じた。
それは恐ろしさと同時に、喜びと興奮がない交ぜになった、これまでに経験したことの無い感情だった。
「な……なんですか。何か、言ってください…っ」
リンが自分の感情に戸惑いながら、それでもやっとのことでそう言うと、
カイトは、
「……いや、なんでもない。すまなかった」
そう言って、ふっと目をそらした。
リンは、再び前を向いて歩き出したカイトの背中を追いながら、彼の視線から逃れられたことに安堵した。
けれど、その一方で物足りなさをも感じていた。
もう少し見つめられていたかった……
そんな思いさえ抱いた自分の心に、リンは驚いた。
そんなときに、
「そういえば」
とカイトから声をかけられ、リンの心臓は跳ね上がった。
「は、はいっ」
「ネルと友人になったそうだな」
「え…ええ」
「また会いに来ると、約束でもしたのか」
「そうですけど、なにか?」
「本当に、また来れると思っているのか?」
その言葉に、リンは一瞬答えに詰まりそうになったが、それでも、はっきりとした声で答えた。
「はい、思っています」
「ほう?」
カイトの足が止まり、その目が、再びリンに向けられた。
「そう何度も物見遊山で王宮を抜け出せられるほど、気楽な立場では無いだろうに」
「確かにそのとおりですが、私は別に物見遊山で街に出てきたわけではありません」
「わたしの歌を聴いて、この国の窮状に目を向ける気になったとでも言うのか。そのためにお忍びで街に出てきた、と?」
「うぬぼれないで。レンはあなたに言われるまでもなく、この国の窮状を憂いていたわ」
「わたしに言われるまでも無いというのなら、なぜ今になってなのだ。それに、なぜレン自身がこの街に降りて来ない……!」
カイトの言葉は静かではあったが、その奥底に、レンがここにいないことに対する苛立ちが明らかに含まれていた。
そのことに、リンは眉をひそめた。
「……あなたは何を言ってるの? メイド長である私でさえ気軽に出歩ける立場じゃないことを知ってるのに、国王であるレンに出てこいですって? 矛盾しているわ」
リンの反論に、カイトは、はっと顔を曇らせた。
その反応に、リンは、カイトの素の感情に触れたのだと、直感的に悟った。おそらく、カイト自身でさえ気付いていなかったであろう、その感情に。
「あなたは……レンに逢いたいのね。でも、ここにいるのはレンじゃなく私だった。それが悔しいんでしょう」
「悔しいだと、バカな事を……」
カイトはそう吐き捨てたが、狼狽の色を隠しきれていない。
しかし彼はすぐにその感情を押し殺し、そしてこう言った。
「……いや、確かに悔しいのかもしれない。国民として、国王に直に現状を知ってもらえないのでは、悔しくて当然ではないか」
「まるで取り繕ったような正論ね。私には個人的な感情で逢いたがっている様に思えるけど」
「もう一度会えるなら、今度は歌ではなく議論をしてみたいものだね。彼が国王として、この国のために何をすべきか論じて差し上げよう」
「では、論じてみてください」
「何を、誰に?」
「私に、この国のためにすべきことを」
「君にか? メイドでしかない君に論じて何になる」
「ただのメイドじゃありません。これでも元王位第二継承者、国王の姉です」
「レンに代わって、女王として即位でもする気か」
「バカを言わないでください。私はつまり、レンの代理としてここにいるということです。あなたが望むとおり、本当はレン自身が街に出てくるつもりだったのよ」
「何だと?」
カイトが意外そうに目を見開いた。
「レンは本気で街へ忍び出ようとしていたわ。どうしても自分の目で国民の様子を見たかったのよ。そのために周到な準備までしていた」
「まさか……無謀な真似を考えるものだ」
自分で言ったことなのに、カイトは呆れた様に呟いた。
それなのに、その表情はどこか嬉しそうに、笑っていた。
「だから、私が止めたのよ。私が代わりに見てくるから、という条件付でね。私は双子の姉だから、レンが見たいと思ったものを見て、聞きたいと思ったことを聞いてくることができる。だから、私を送り出してくれたの」
「それさえも無謀だ、とレンは思わなかったのか。君は女なんだぞ」
「覚悟はできていたわ」
「わたしがいなければ君は今頃、路地裏で裸にされて慰み者になっていただろうさ」
「あなたに助けてもらったことは感謝しています。でも、あの経験のおかげで私はこの国が抱えている問題の根深さを改めて知ることができたわ。街に出てきた甲斐はあった」
「それは良い経験をしたものだ。だったら、もう一度襲われてみるか?」
カイトが、笑った。
その瞳の冷たさが表情全体に広がった、冷酷な笑いだった。
「……っ!?」
リンはその冷たさに思わず後ずさる。
その背中に、路地の壁があたった。
カイトが距離をつめ、壁際のリンの両脇に手をつき、リンの左右をふさぐ。
目の前に迫ったカイトがリンの耳元に唇を寄せ、低い声でささやいた。
「今度は助けは来ないぞ。最後まで犯されたら、この国の問題の本質まで理解できるかもな」
「……それでこの国が良くなるなら、喜んでこの身をささげるわ。でも――」
リンは、カイトの胸に手を置いて、そっと押し返した。
カイトはあっさりと引き下がった。
「――レンの代用品として私を抱きたいだけなら、そんなのはごめんだわ」
「……君が何を言っているのか、さっぱり理解できないな」
「ええ、私もよ。こんな……」
こんなこと。
まるでカイトはレンに恋していて、その面影をリンに求めているけれど、
リンは私だけを見てほしいと願っているなどと……
闇を濃くしていく夜の下で、リンは自分の顔が赤らんでいくのを自覚した。
だがその一方で、カイトもまた己の想いに困惑していたなどとは、知る由も無かった。
二人は自分の心を見つめると同時に、お互いを見つめ合っていた。
二人とも自分の心に答えを見つけられないまま、沈黙の時間だけが過ぎていく。
……一分?
……二分?
もっと長くも、もっと短くもあったような時間の後、
「カイトっ、カイトじゃないか!?」
路地の影から投げかけられた声に、二人の時間は破られた。
路地から声をかけてきたのは、酒瓶を片手にぶら下げた浮浪者のような身なりの男だった。
彼は瓶を煽ると、歯のかけた口を開けて、ニッと笑った。
「本音亭に顔を出したって噂は本当だったんだな。お帰り、カイト!」
途端に、路地にわっと人の気配が溢れた。
それまで夜の暗がりで息を潜めていた人々が、光を浴びて活き活きと息を吹き返したようだった。
二人はたちまち人の渦に包み込まれた。
その誰もが、
「カイト、カイト」
と、嬉しそうに彼の名を呼び、無邪気な笑顔を浮かべながら彼に触れようとしていた。
「カイト、あんたがいない間、この街の静けさと言ったらなかったよ」
「通りにも、酒場にも、どこにも歌声が無くなっちまった」
「赤ん坊を抱えた母親の子守唄でさえ、すすり泣きのようだったんだぜ。あんたが歌ってくれなきゃ、誰も歌い方を忘れちまうのさ」
「みんな歌い方を忘れちまうくらい、ひどい世の中なのさ」
二人の周りで、人々は口々に嘆きあった。
いつの間にか二人を中心に、人々は路地のあちらこちらや建物の戸口、窓辺にそれぞれ腰や足を落ち着け、様々な世間話に興じていた。
リンには、それが不思議な光景に思えた。
ついさっきまで、ここに人の気配は皆無だったのだ。
それが、カイトが現れた途端にのびのびとしたコミュニティが復活した。
カイトの存在が、この路地にのしかかっていた重圧を取り払ったのだろうか。
「おや、カイトさん。その子は誰だい? 綺麗な娘さんだねぇ」
近くに居た酔っぱらいのトロリとした目が、リンに向けられていた。
「道に迷っていたので、案内していたんですよ」
カイトがにこやかに答えながら、かすかな声でリンに耳打ちした。
「……フードを深くかぶっていろ」
リンは慌ててフードをかぶりなおす。
酔っぱらいが笑った。
「カイトさんにとっちゃただの案内さ。だがその娘さんにとっちゃバージンロード以上の思い出になりますぜ。将来の花婿も可哀想に」
わっ、と明るい笑い声があたりに響いた。
からかわれているのだろうか?
リンは恥ずかしくはあったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「聞いておくれよ、カイトさんっ!」
一人の中年女性が、目に涙をためながらカイトの足元にすがりついた。
「どうしました?」
「今日の市場の騒ぎで、ウチのオレンジが全部ダメになっちまったんだよ。もう売り物になりゃしない」
中年女性はそう言って、傍らの籠を指し示した。
籠の中には、皮の破れたオレンジが大量に詰まっていた。
リンはそれで思い出した。
この中年女性は、あのときリンにオレンジを売りつけようとしていた行商だ。
カイトは籠の中のオレンジを手にとって、ひとしきり調べると、
「わかりました、わたしが引き取ります。とりあえず本音亭に持って行きなさい。デルが預かってくれるでしょう」
カイトの答えに、行商はホッと表情を崩した。
ありがとう、ありがとう、と何度も礼を述べながら籠を抱える行商。
リンの周りで、何人かがそれについて話し出す。
「あれも可哀想なやつだよ。店税が払えなくて店を潰され、旦那は囚人として未払分の強制労働だもんな」
「カイトが引き取ってくれなきゃ、あいつも首を吊っちまうとこだった。……だけど、いつまでもこれじゃなぁ」
リンの耳に響くのは、そんな疲れと諦めが混じった声だった。
不意に、路地に物悲しい弦楽器の調べが流れ出した。
路地の片隅の木箱に腰掛けた一人の老人が、弦の緩んだギターで、ポツリ、ポツリと歌いだした。
――
輝く星々の下に向かう人
薄暗い光さえ失った
彷徨い苦しみの階段を昇り行く
天国への門は閉じられた
人々は苦しみに喘ぐ 見えない光 見えない明日
少女は人買いに手を引かれ 売られゆく
飢えた家族が手を取り合って 最後を迎える
その挽歌に神は泣いた
――
間延びしたメロディと調子はずれの音程だったが、その歌は確かに先日、カイトが王宮で歌ってみせたものだった。
力なく、気だるく歌われたそれは、カイトの歌声と違って悲壮感を持っていて、この歌が本来、彼ら庶民の間で広く歌われていることを示していた。
周りで世間話が止み、その歌が静かに拡がっていく。
――
かつて祝福された大地の揺りかご それは眠りに沈み
慰めの雨は止み あるべき姿の
希望に満ち溢れた世はいずこ
包み込む闇夜の中で 語り継ぐ
どこまでも続く憐憫の歌
――
「やめろ、やめろ、辛気くせえやいッ」
最初に声をかけてきたあの酔っぱらいが、わめきながら老人からギターをひったくった。
「カイト、歌ってくれ。元気が出てくるようなやつをさぁ!」
酔っ払いからギターを投げられ、カイトの手に収まった。
カイトは、少し困ったように笑い、そしてリンに目を向けた。
(歌ってもいいか?)
カイトの目は、そう問いかけているようだった。
なぜリンに断る必要があるのか。
そんな必要などあるはずもないのに、なぜかリンはそう思い、そして、
(歌ってほしい。あなたの歌声が、聴きたい……)
リンは自然と、頷いてしまっていた。
カイトは慣れた手つきでギターの弦を締め直すと、二、三回爪弾いて音程を確かめる。
路地に、先程とは違った、期待に満ちた静寂が落ちた。
カイトの指が軽やかに弦の上を走り出し、テンポの良いリズムを奏で出した
その喉から、伸びやかな声が発せられた。
――
空の紡ぐ朝日をたたえ
誰かが歓喜を記す
時の回す季節をなげき
誰かが憂いを綴る
乾く者が求めるままに
この声 惜しまず捧ぐ
旋律の杯 言葉の酒 飲み干して 放つ歌
癒す花にも 貫く剣にもなる
魂を 這う境界 隔てる全てを越え
嗚呼 遠く響けよ
――
折しも、空に月が出ていた。
既に高く昇った丸い月はさえざえと輝き、青く白い月明かりが路地に降り注ぐ。
月光の下で、伸びやかに歌うカイト。
その姿に、周りの人々は息を飲み、
目と、
耳と、
心を、
奪われていた。
それは、リンもまた………
――
覚めた人は軌跡を刻み
険しい旅路を進む
過ぎた街は記憶と朽ちて
わびしい平野に還る
映す瞳 染める心に
この声 あまさず捧ぐ
打ち鳴らす海 爪弾く空 奏でに 連ねる歌
巡り流れる青い世界に 光る
魂を 解く臨界 遮る全てを越え
嗚呼 深く響けよ
旋律の杯 言葉の酒 飲み干して 放つ歌
白い夢にも 赤い嵐にもなる
魂を ゆさぶる声 幾重も時代を越え
嗚呼 とわに響けよ
――
あれから少しだけ時間が経って……
人通りの無くなった大通りを、リンとカイトは歩いていた。
月は相変わらず明るく輝き、ランプで足元を照らす必要もない。
青い夜は静けさを伴って二人を包み込んでいた。
あたりに響くのは、石畳を歩く二人の足音だけ。
リンとカイトのあいだに会話は無かったが、不思議と、お互いにその沈黙を不快とは感じなかった。
二人は互いの存在に余韻のようなものを感じながら、ゆっくりと歩みを進めた。
やがて、例の秘密通路の出入り口がある橋の近くまで来た頃。
リンは、
「ここまでで結構です」
そう言って、足を止めた。
「まだ王宮までだいぶ離れているが、ひとりで帰るつもりなのか?」
「は、はい……えと」
秘密通路の孫座を明かす訳にもいかず、リンは少し考え、思いついた理由を言った。
「その……この先で迎えがくる手はずになっていて、あの、あ、あなたといると色々とまずいような、そうでもないような……」
しどろもどろの言い訳だったが、カイトは少しだけ周囲を見渡すと、
「そうか」
と頷き、納得してくれた。
リンとしてはホッとしたが、まさかカイトが本当にリンの護衛らしき者の気配――例の水兵帽にコートの小柄な男――に気づいていたとは夢にも思わなかった。
リンは、カイトから離れ、ひとり歩み去ろうとしたが、ふと足を止めて振り返った。
「そう言えば、まだちゃんとお礼を言ってませんでした」
「礼?」
「はい、襲われていたところを、助けていただいたお礼です。……ありがとうございました」
「別に、改めて礼をされるほどのことじゃない。それより、次は気をつけたほうがいい」
「次?」
「ネルと約束したのだろう? また会いに来る、と。だが今度何かあっても、わたしが必ず助けに行けるわけではないからな」
カイトの言葉に、リンは少し驚いて、
そして、かすかに笑みを浮かべた。
「わかりました。次は、気をつけます」
「ああ……」
「……それでは」
リンはカイトに背を向け、歩きだそうとした。
けれどその時、石畳のくぼみに足を取られ、リンは躓いてしまう。
「あっ」
カイトが、素早く反応した。
リンの背後から腕を回し、彼女の身体を引き寄せる。
リンは、カイトに背後から抱きすくめられた。
一瞬、時間が止まってしまったかのように、二人はその動きを止めた。
「………」
カイトは、リンを離そうとしなかった。
「………」
リンも、離れようとしなかった。
「……………」
「……………」
リンは抱かれたまま、自分の胸の高鳴りと、彼の胸の鼓動を、耳に感じていた。
リンを抱く腕に微かに力がこもり、その耳元に、カイトのかすかな呟きが、落ちた。
「もう一度……逢いたい……」
「……どっちに?」
私?
それとも、レン?
「………」
カイトからの返答はなく、彼はリンを抱いていた腕を、静かに解いた。
リンが離れる。
「……さようなら」
リンは振り返ることなくそう告げて、小走りに去っていった。
カイトは、今度こそ遠くなっていく彼女の背中を見送りながら、己の心を省みた。
逢いたい、と思わず漏れ出た言葉は、間違いなく自分の本心だった。
ただ、リンを抱きしめたとき、カイトの心に浮かんだのは、レンの姿だった。
あのとき、王宮で命懸けで対峙した、強い目をした美しい少年の姿。
それを、リンに見透かされた。
そのことに、カイトは呆然として立ち尽くしていた。
その間に、リンの姿が通りの角へと消えていく。
カイトがそれを見送った、その時―――
「――っ!?」
突如として激しい殺気を背中に感じ、カイトは振り返りざまに身構えた。
10mほど先に、小柄な影が立っていた。
目深にかぶった水兵帽にフロックコート。
例の尾行者、恐らくリンの護衛と思われる男だった。
「動きなさるなよ、カイト殿」
その影が言った。まだ少年の声だ。
言うやいなや、少年の右手が振られ、そこから冷たい光が放たれた。
短剣だった。
投擲された短剣は、月明かりを反射しながら鋭く風を切り、カイトの足元に突き刺さった。
下は石畳だ。
短剣は、その石畳のわずかな隙間に、正確に刃を滑り込ませていた。
少年が懐から、新たな短剣を取り出しながら、言った。
「逃げようとすれば、次は当てる」
物言いは静かで落ち着き払っている。
だが、少年から発せられている殺気は、本物だった。
カイトは足元に目を落とした。
石畳に突き立ったそれは、偶然ではない。
月明かりしかない暗い通りで、ここまで正確に短剣を投げ放つ相手を前に、逃げるすべはなかった。
しかし、カイトは疑問に思い、少年に問うた。
「……そこまでの腕を持ちながら、なぜ初めから当てなかった?」
「親衛隊ともあろう者が、背後から不意打ちなどせぬ」
「やはり、そうか」
「我が名は黄国王親衛隊隊員、オリバー。カイト殿、我に代わりリン様を暴漢からお救いくださったこと、まずは礼を言う」
少年、オリバーはそう言った。
だが、礼を言うためだけに短剣を他人の足元に投げつけるはずがない。
オリバーの言葉とは裏腹に、その声にはリンを彼自身の手で救えなかったことへの悔しさと、そして、それだけではない憤りがありありと含まれていた。
「だが……」
と、オリバーは続けて言った。
「貴殿ともあろう者が、リン様の素性に気づかぬはずがない。その上でリン様に対しての数々の振る舞い、見過ごしてはおけぬ……っ!」
語尾を荒げたオリバー。
カイトは、内心で舌打ちする。
闇市の騒ぎに巻き込まれてリンを守れなかった役立たずに言われる道理はない――
――そう言い返してやりたかったが、同時に、彼に尾行され続けていることを知りながら、それでもリンに対して衝動的に迫ってしまった自分の迂闊さを呪った。
オリバーにとって、そんなものを見せ付けられるのは、二重の屈辱を与えられたに等しいものだったろう。
「カイト、貴殿に決闘を申し込む。足元の剣を取られよ」
拒否できぬ。
カイトはそう覚悟し、足元に突き立つ短剣の柄に手をかけた。
短剣はいともあっさりと抜けた。
刃はそれほど正確に石畳の隙間に刺さっていたのだ。
それがオリバーの力量の高さを如実に示していて、カイトは背筋に冷たいものを感じた。
二人の距離がさっと詰められ、互いに間合いに入る寸前で、止まった。
お互いに短剣を右手に構え、半身になりながら、その切っ先を相手に向ける。
その切っ先が、相手の出方を伺うように、かすかに上下する。
それは今にも触れ合いそうな位置にあったが、
カイトがわずかに前に出れば、オリバーはほぼ同時に後退し、
オリバーがすかさず踏み込めば、カイトは素早く引いた。
そうして、剣が触れ合うことなく、静かな駆け引きが続く。
だが周囲の空気は、呼吸を許さないほど、張り詰めていく。
(隙がない……)
両者、同じ思いを抱いた。
瞬きすらできない、わずかな綻びが、お互いの勝敗を決める………
………一瞬のことだった。
声なき気迫とともに、二人の足が大地を蹴った。
それぞれの短剣が、鋭い弧を描きながら交差すると同時に、二人の身体がすれ違う。
「うっ――!?」
「――っく!?」
カイト、
オリバー、
両者どちらもが、同時に苦悶のうめき声を漏らした。
それでも、互いに素早く振り返り、短剣を構える。
二人は、互いに相手の傷を見た。
カイトは、左手で脇腹を押さえていた。
その指の間から、血が滲み出す。
対するオリバーも、左手で傷を押さえていた。
しかも、それは顔面だった。
オリバーは斬られた左目を手で覆いながら、残った右目を血走らせ、カイトを睨みつけていた。
「終わりだ、オリバー」
カイトは、左手に感じる血の熱さが左の太ももにまで広がっていくのを感じながら、言った。
「お互いに深手を負った。引き分けだ」
「まだだ、まだ戦えるっ!」
オリバーが、少年特有の甲高い声で叫んだ。
若いな、とカイトは顔を歪める。
若さと熱さが、オリバーに我を忘れさせている。
「冷静になれ!」
カイトは怒鳴りつけた。
「このまま続ければ互いに死ぬぞ。親衛隊員ともあろう者が、リンをたった独りで帰すつもりかっ!」
「――っ!?」
その言葉に、オリバーはハッと息を飲んだ。
迷いがはっきりと現れたオリバーの顔を見ながら、カイトはゆっくりと構えを解く。
「……くそ」
と、オリバーが悔しげにつぶやきながら、彼も構えを解いた。
「カイト……この勝負、預けた」
「再戦する気はない」
カイトは短剣を地に置くと、そのままオリバーに向かって滑らせる。
オリバーは左目を押さえていた手を離し、足元に返って来た自分の短剣を拾い上げた。
露わになったオリバーの顔の左半分は、真っ赤に血塗られていた。
オリバーは残った右目でカイトを一瞥すると、さっと身を翻して、通りの影へと消えていった。
カイトはそれを見送ると、彼もまた、脇腹を手で押さえたまま、その場を立ち去った。
人気のなくなったその場には、二方向へと続く血痕が、点々と残されていた………
国王の私室で、レンは窓辺に佇みながら、リンの帰りを待っていた。
庭園を照らしていた月も今は雲に隠れ、窓の外は暗い闇に閉ざされている。
その窓に見えるのは、ガラスに映る自分の姿だけ。
だが、レンの目はその己の姿に、双子の姉の面影を重ねていた。
(リン……)
遅くとも日付が変わるまでには帰ってくる計画だった。
その時刻には、まだだいぶ余裕があったが、それでもレンの心は不安と後悔の念でいっぱいになっていた。
複雑な城下街で道に迷ってやしないか。
危険な目にあってやしないか。
そんな想像をする度、胸が張り裂けそうになる。
やっぱり自分が行くべきだった。
いや、今からでも遅くはない。外へ出て、リンを探しに行くのだ。
そう思い、クローゼット室の扉の前まで行っては、我に返って引き返す。
そんなことを、いったい何度繰り返しただろう。
レンは窓辺から離れると、広い室内をぐるりと歩き回り、そして、部屋中央にある夕食の乗ったテーブルの前に腰を下ろした。
ルカが運んできてくれた遅い夕食。
二人分のそれも、もうすでに冷め切ってしまっている。
ルカが夕食を運びに来たとき、リンの事はクローゼットの整理中だと言って誤魔化した。
けれど、その彼女がクローゼット室から姿を現す気配はまるで無かった。
レンは冷めた夕食を眺めながら、指でコツコツとテーブルの隅を叩き始めた。
別に意味のある行為ではない。
ただ、静かに座っているということができなかった。
指先の一つでさえ、虚しく動いてしまう。
「………」
レンはしばらく苛立たしげに卓上を指でコツコツと叩き続けていたが、やおら立ち上がると、壁にかけられていた自分の剣を掴み取った。
そのまま、ずかずかとクローゼット室に向かって歩みだす。
レンがクローゼット室の扉に手をかけようとした、そのとき、
それよりも早くクローゼット室の内側から、扉が開かれた。
開いた扉の向こうに、意外そうな顔をしたリンが居た。
「れ…レン?」
「――リンっ!」
持っていた剣を放り出して、レンは、リンに抱きついた。
「わ、ちょ、ちょっとレン――」
「――リン、無事でよかった。大丈夫だったか? 怖い目に遭わなかったか?」
レンは一度リンから離れると、彼女の髪を撫でながらその顔を覗き込み、そしてもう一度抱きしめた。
「ごめんよ、リン。やっぱり僕が行くべきだったんだ。いや、そんなことをすれば、今度はリンがこんな想いをするんだよな。それがどんなに辛いことか思い知らされたよ。もうこんな無謀な真似はさせない。僕も考えないよ。だから許してくれ、リン」
リンを抱きしめたまま一息に言葉を吐き出すレンに、リンは目を白黒させた。しかし、その抱きしめる腕が微かに震えていることに気づき、リンはレンの思いを汲み取った。
「……許すもなにも、むしろ私は感謝しているわ。レン」
リンはそう答えて、すがりつく弟を優しく離し、幼い子をあやすようにその頭を撫でた。
「レン、私を街に出してくれて、ありがとう」
「……リン?」
「あなたに話したいこと、話さなきゃいけないことがたくさんあるの。でも、……ごめんなさい。今夜は休ませて?」
リンは、レンの頬に軽くキスをして、部屋の扉へと向かっていった。
扉に手をかけ、リンが振り向く。
「おやすみ、レン。明日になったらちゃんと話すから、待っててね」
「……ああ。わかった、待ってるよ。おやすみ、リン」
リンが部屋を出ていく。
レンはそれを見送ったあと、投げ捨てた剣を拾うのも忘れて、近くの椅子に身を投げ出すように座りこんだ。
「……!!??」
その手が頭に伸び、金色の髪を激しくかきむしる。
「…リン、どういうことなんだ、リンっ!?」
抱きしめたとき、嗅ぎなれた彼女の香りの中に、他の誰かの匂いを感じた。
誰かが彼女に触れたのだ。
それも、残り香を漂わせるほど、強く。
「オリバーっ!」
レンは、密かに護衛に付かせておいた少年の名を呼んだ。
すぐに、クローゼット室の奥から、オリバーが姿を現した。
「リンにいったい、何があったんだ!?」
強い口調でそう訊きながらオリバーに目を向けたとき、レンは、
「うっ!?」
と、息を飲んだ。
水兵帽にコート姿のその少年は、顔の左半分を包帯で覆っていた。
しかもその表面は、血でどす黒く染まっている。
「オリバー、その傷はどうした!?」
思わず駆け寄ろうとしたレンに向かって、オリバーはその場に跪いた。
「陛下。このオリバー、一生の不覚にございます」
「いったい、リンやお前に何があったと言うんだ。いや、今はそんなことは後回しだ。早く手当をせねば」
「いいえ、陛下。私は平気でございます。このお見苦しき様をお許しいただけるなら、すぐにでもご報告申し上げとうございます」
「そんなこと……」
レンはすぐに手当させようと思ったが、見上げてくるオリバーの残った右目がただならぬ光を発しているのを見て、それを諦めた。
「わかった、報告しろ」
「はっ」
オリバーは、リンが秘密通路を出てすぐに浮浪者の死体と出くわしたこと、
大臣や有力貴族の御用達の店先で、野良犬のように追い払われたこと、
そして闇市で騒ぎに巻き込まれ、それに乗じて暴漢たちにさらわれてしまった事を詳細に報告した。
「り、リンが……さらわれた!?」
さすがのレンも、これには声を上げた。
怒りや驚きよりも、悲鳴に近い声だった。
「混乱の中、私は人波に遮られ、リン様に近づくことさえ出来ませんでした。ようやく追いついた時には、リン様は四人もの男達に囲まれ、組み敷かれている最悪の状況……」
オリバーの報告を聴き、レンは真っ青になっていた。
レンは、肩を小刻みに震わせながら問うた。
「それで、リンはどうなった!?」
「カイトによって、救われました」
「カイトっ!? まさか、あの、カイトか!?」
「はっ。声楽士カイト、まさしくその男にございます。私がリン様に駆け寄るよりも早く、別の方向からカイトが突然現れ、リン様を襲っていた男達に挑みかかりました」
「……四人もの男を相手に、たったひとりで立ち向かったというのか?」
レンの目が、スっと細められた。
剣士の目になった、とオリバーは思った。
声音に冷静さが、そして青ざめていた顔にも、落ち着きが戻っている。
「あの男、只者ではございませぬ」
オリバーは、カイトの戦いの様子を、間合いの取り方から体捌きに至るまで、詳細に報告した。
レンはそれを聞きながら、目を閉じた。
瞼の裏に、カイトの戦うさまが思い浮かぶ。
オリバーがその時の様子を語り終えると、レンは目を開け、
「凄いな……」
と、呟いた。
その顔には、かすかに笑みさえ浮いている。
「ところで、そのときリンは無事だったのか?」
「はっ、襲われた直後にカイトが来ましたので、お身体に差し障りはなさそうでしたが……そ、その、お召し物を多少破かれてしまいまして……」
それを報告したとき、その時のリンの姿を思い出したのだろう、オリバーの顔に初めて少年らしい恥じらいの色が浮かんだ。
この忠義心の厚い少年にとって、敬愛するリンの素肌を目にするのは刺激が強すぎたのだ。
同時に、レンにとってもこの報告は衝撃的ではなかろうか、という不安も頭によぎったが……
レンは意外にも、
「そうか、その程度で済んでよかった」
と、落ち着きを失わないまま頷いた。
「それで、その後はどうなったんだ?」
「は、はい……リン様はその後、カイトに連れられ、メイコというシスターが営む孤児院に保護されました。その場で調べたところ、カイトはどうやらこの孤児院の出身らしいとのこと。その縁で街中にも頻繁に出没し、貧民を中心に何かと世話を焼いているそうでございます」
「なるほど。リンを助けたのも、日頃からの人助けの一環か」
「そのように思われます。しかし、カイトはリン様のご素性に気づいておりました」
「僕の顔を知っているんだ。当然だな」
「しかし、それを知ってなお、あの男は……」
オリバーの唇がわななき、声が震えだした。
彼は、カイトが、リンを孤児院から連れ出して帰路についたとき、何度となくリンに迫り、挙句の果てにリンを後ろから抱きしめたことを話した。
「リン様がカイトから離れるのを待って、私はカイトに声をかけました。もともと、リン様が秘密通路を通るところを隠すためにも、カイトの注意を引くつもりでした。ですが……畏れ多くもリン様に対して、あのような振る舞いにおよぶなど言語道断の所業。私はそれが許せず、カイトに決闘を挑みました」
「……そして、その傷か」
レンは、冷静にそう言った。
オリバーの振る舞いは、理由はなんであれ私闘である。
国王の親衛隊ともあろうものが、命令もなく私闘に及び、挙句に傷をつけられるなど、それこそ言語道断であった。
しかしレンはそれには触れず、代わりにこう続けた。
「まさか、お前ほどの腕の持ち主に、正面から傷をつける者がいるとはなぁ」
オリバーは若年ながら、親衛隊でも五指に入る剣の遣い手だ。
レンとは、年齢や体格も近いこともあって稽古で打ち合うことも多く、その実力はよく知っている。
稽古であり、しかも国王とその部下という立場から本気で打ち合ったことはないが、もしやれば三本中二本は確実に取られるだろう。レンはそう踏んでいる。
「しかし、カイトとて無事ではあるまい。相討ちか?」
「右脇腹に傷を負わせましたが深手ではありませぬ。命に別状はないでしょう」
「そうか」
レンのその言葉には、どこか安堵の響きがあった。
オリバーが言った。
「私が愚かでした。リン様をお救いできなかったばかりか、一時の激情に駆られて私闘に及んだ挙句、顔に傷を負っておめおめと引き下がってくるなど、陛下の御威光に傷をつけたも同然にございます」
オリバーは見上げていた顔を、床に叩きつけんばかりに下げ、ひれ伏した。
「決して許される行為ではないとわかっております。ですが、せめてこの命を持ってお詫び申し上げたく願います!」
「オリバー……顔を上げよ」
レンが膝をつき、オリバーの肩に優しく触れた。
「お前に責は無い。リンに気づかれないように護衛しろなんて無茶を言った、僕の責任だ」
「し、しかし陛下は私を信頼して……」
「そうだ。お前ならこの無茶な任務でも遂行できると信じていた。そして、その信頼は今でも変わらない」
「陛下……?」
顔を上げたオリバーに、レンは優しく微笑んだ。
「リンがさらわれ襲われたとき、お前は確かにその場に追いついていた。たまたまカイトが少しだけ早かっただけだ。もしカイトがいなくても、リンはお前に救われていたよ」
「へ、陛下……」
レンの言葉に、オリバーはまた顔を伏せそうになった。
泣きそうだった。
しかし、レンはそれを許さなかった。
「立て、オリバー。立って胸を張れ。リンは無事に帰ってきた。お前は難しい任務をやり遂げたんだ」
「しかし、私は無断でカイトに決闘を……」
「お前の気持ちもよくわかる。僕だってその場にいたら、間違いなく決闘を挑んでいただろうな」
レンは笑って、そして、
「むしろ、よく挑んでくれた。正々堂々の立ち合いの結果なら恥ずべき傷など何もない。剣士ならむしろ良い敵と巡り合ったことを喜ぶべきだ。……と、ガクポなら言うだろうな」
「陛下、恐縮です……」
張り詰めていたオリバーの表情が緩み、その右目から一筋の涙がこぼれた。
「ゆっくり傷を癒せ。レオンには僕から話しておく」
オリバーは、残った目で泣きながら退出していった。
一人になったレンは、再び椅子に腰掛け、そしてすぐに思い出したように自分の剣を探し出した。
剣は、リンを迎え出たときに投げ出したまま、クローゼット室の扉の近くに放置されていた。
レンはそれを拾い上げると、鞘から引き抜く。
刃を正眼に構え、深呼吸し、目を閉じる。
瞼の裏に、あの男の姿が浮かび上がった。
(カイト……)
先日、王宮で対峙した時に見た、覚悟を秘めたあの目、あの声。
そこに、リンから漂った残り香が加わった。
(……リンに香りを残したのは、お前だな)
レンの足がわずかに踏み込み、その切っ先がかすかに動く。
思い浮かべたカイトに向かって斬り込もうとしたのだ。
しかしその姿には、オリバーから聞き及んだ戦いの様子も加わって、まるで隙のないものになっていた。
(強敵だな)
そう思った瞬間、ブルっと全身が震えた。
武者震いだ。
かつてガクポから聞いたことがある。
剣士は、乗り越えるべき相手と巡り合ったとき、感動に打ち震えるのだと。
レンは、国王ではなく、ひとりの男としてカイトの強さを認めた。
身分も権威も関係ない。ただ純粋に己の力だけで乗り越えたい相手。
そんな男が、今、リンを挟んで、レンと対峙していた。
リンを巡って向かい合う、二人の男。
恋敵、という言葉が、ふとレンの胸をよぎった。
そうだ、まさしく恋敵だ。
(負けたくないっ!)
レンは強くそう思った。
だが、そこにあったのは、
怒りでも、
焦りでも、
嫉妬でもなく、
いっそ清々しいまでの対抗心だった。
「もういちど逢いたいぞ……カイトっ!」
力強く踏み込んだレンの剣先が、鋭く空を斬った――