「はいもしもーし……って」
合宿後の平日、昼休みの頃。昼食を食べていた竹井久に、マナーモードに設定しっぱなしのスマートフォンが震えた。
携帯の着信した電話の番号は、『藤田靖子』。佐久フェレッターズのプロ雀士にして、『まくりの女王』の異名を持つ久の知り合い。
プロの身で割と忙しい身分の彼女が、自分から電話してくることに珍しいと少し思いながら、電話に出た。
「……何でアンタが出てくるのよ」
「藤田から借りた。ちょっと伝えたいことがあるんでな」
電話の向こう側の人物は、佐河信一であった。その声を聴いた瞬間、久の顔がわかりやすいように嫌な顔になる。
佐河信一と竹井久は、スタンスがまるで違う。探しに動く者と、来ることを待つ者。対照的とさえ言っていい。
動く者でなければ、欲しいものは見つからない。やらなければ、得られない。
一方で、久は待ち続けた。悪待ちを貫き通していた。
決して良好とはいえない、清澄の環境。この長野県内で麻雀を本格的にやろうとする選手は名門風越女子に取られていき、好き好んで廃部寸前の麻雀部があるだけの清澄に入る酔狂な者はほぼ皆無に等しい。
昨年の秋ごろ、久は清澄に入学した信一を麻雀部に招こうとした。ユースチームで不和を生んでいるという彼を、
だが信一は、その誘いを一蹴し、彼女のスタンスを鼻で笑った。
曰く、気に入らない。何もかも手を尽くした気になっている久が、信一には受けいれられなかった。
──求めよ、さらば与えられん。信一にしてみれば異教の教えであるが、この一句ばかりは深く共感し、気に入っていた。
待つことそのものが悪いとは思わない。しかし、待つことを許されるのはありとあらゆる手を打った後でなければならない。そう主張し、曲げない信一は、動かない久を好ましく思わない。
それ故、麻雀部部長兼学生議会長──竹井久と、不良少年──佐河信一は同校においては有名人ではあったが……彼らの間は犬猿の仲であった。
「須賀くん絡み?面と向かって言えないことなの?」
「前者は肯定。後者は俺の都合だ」
どういう都合にせよ、この男の勝手な都合に付き合っていられない。
そもそもこの声を聴くのも苦痛なのだ。話すことなど何もない。
無視して通話を切ろうとした瞬間──。
「おおっと、切るなよ。切ったら絶対後悔するぜ」
まるで今の自分を見ているような口ぶり。思わず背後に振り返るが、誰もいない。
先に行動を刺されてしまった上で通話を切ったら、負けた気分になる。
「……話しなさい」
「県予選まで京太郎を俺が預かる予定だったがな。こっからは京太郎自身に任せることにした」
「つまり、麻雀部に返してくれるというわけね?」
「誰がそんなことを言った。京太郎に任せるっつたろ。部活に出るのも、そのままサボんのも、京太郎次第だ」
その辺勘違いするんじゃないぞ、と信一は念押しする。京太郎は決して、彼女らの奴隷ではないのだと。
京太郎の自主性に任せる。麻雀部に出ようが、出なかろうが、それを選ぶのは京太郎である。
もし、彼女たちが強制して麻雀部に縛り付ける気でいるのなら。その結果、京太郎の力を鈍らせるものになるのなら。
──信一は、彼女たちを雀士として殺すことを躊躇わない。たとえ、京太郎から恨まれる結果になろうとも。
「面倒見切れなくなったってわけ?無責任にも程があるわ」
「かもな。元々教えるなんざ、専門外だったし。悪い言い方すりゃ、見くびってた所もあるからなぁ……」
「……どういうこと?」
「わかんねぇ?どうして俺がわざわざ電話越しで伝えてんのか。どうして藤田の携帯からしてんのか?治也と命ならその時点でわかんだが……ああ、すまん。比べる対象が違い過ぎたわ」
「アンタたちみたいな人外と一緒にしないで」
素で読心術を使うような
人と化物の常識は違う。棲む世界が違うのだ。
たとえ形が人型に見えたとしても、その中身は化物だ。外見に騙されてはいけないのだ。
「俺、インハイ出るから」
「はい?」
「従って、ユースも辞める」
「な、なんで……」
「そうさせたヤツがいる、って考えねえ?普通」
中学からプロユースとなった信一は、ユースで不和を生んでいる原因になっている。プロを容易に上回る突出し過ぎた実力と、慇懃無礼な態度、そして練習はサボり続ける。これで実力が伴わなければ即座に辞めさせられていただろうが、信一にはそれが許される力があった。
即戦力で、プロの頂点に立つほどの実力……それこそ、プロデビュー以来から現在まで一切の黒星もなく男子最強の座に最も近いとされる、能海治也に対抗できるほどに。
故に、フェレッターズの
せめて高校卒業までプロデビューを控え、万全を期した後にフェレッターズのスーパーエースとして活躍させる。そういう絵が経営陣にはあった。
無双の如く勝ち続ける最強のエース。それが生み出す利益はかなりのもの。ウィード・キッズが治也をエースに据える以前と以後では、ファンの人数が大幅に増している前例がある。
故に、真一は多少の我儘が許されていた。活躍を約束されたスターとして。
そんな待遇に、信一は退屈と思いながらも辞める気にならなかった。
──その理由が、昨日出来た。
「まさか、須賀くん?」
「
「はぁ!?」
ユースに何の未練もない信一は、辞めるきっかけさえあれば躊躇いなく辞める。そのきっかけが出来てしまった。
それこそが須賀京太郎である。佐河信一が、弘世命が、能海治也が、男神蘇芳が。万夫不当の強者共が、京太郎を愛しい御敵と認めたのだ。
久は信じられなかった。あの佐河信一が、彼を敵と見ている。それはつまり、京太郎が彼らと同格の力を有しているという証明である。
京太郎が麻雀部から離れたのはほんの数日間だ。その僅かな時間で、あの化物たちに並ぶ力を得たというのはどう考えても信じられない。
「……う、嘘よね?」
「俺が嘘言う理由がないな」
そうでもなければ、信一が京太郎と離れる必要はなくなる。そして、ユースを辞める理由もインターハイに出場する理由も消失する。
全て、偽り無い事実。この数日間を京太郎と行動を共にした信一は、彼の実力が自分らの背中を捉える場所までいることを肌で感じている。
「そんな俺からアドバイス。くたばりたくなかったら、京太郎に本気を出させるな。手加減は覚えたようだし、本気を出せって言わなけりゃ絶対出さないと思うぞ」
「……それは、どうも」
「おう、泣いて感謝しろ」
信一に気を遣われるという屈辱。久は自然と携帯を握る力が強くなる。怒りを声に表さないのを、必死で抑えている。
「ま、何だ。俺はこれから錆落としも兼ねて修行に行ってくる」
それが後者の理由。このままもう修行場へと直接行き、大会まで長野に戻ってこないつもりでいる。
信一には時間がない。大会までに自分の力を全盛期の頃に取り戻すばかりか、それ以上の実力を得なければならない。京太郎の、未だ加速し続ける予測以上の進化速度を加味した上でだ。
錆を落とし、全盛期の力を取り戻すのはそれほど難しくない。修行場で小一時間瞑想していれば勝手に取り戻せる。信一もまた、それほどのデタラメに相違ない。
しかし、それでは京太郎には勝てない。それどころか、命にも、蘇芳にも。結局のところ、何も成長していないのと変わらないのだから。
笑えてくるほどの高難易度。無茶振りも良い所である。
彼らに勝つには、今以上の力を得なければ話にならない。それが
これまでにないくらいに、追い詰められている。焦燥感と重圧でいっぱいだ。今にも壊れそうなほどに、心が締め付けられている。
──だが、それがいい。ああ、面白い。笑いが、止まらない……!
「どこに行くつもり?」
「
古巣へ。地元へ。佐河信一の
生まれ育った故郷で、力を得た場所で、自由を欲した自分を閉じ込めようとした檻だ。
いつかは戻らなければならないと思ってはいた。忌々しく、近づきたくもない場所。それでも佐河信一が佐河信一である限り、付きまとってくる場所だ。
遅かれ早かれ、決着はつけたいと思っていた。まさか、こんなにも早く必要に迫られるとは思いもしなかったが。
今一度、回帰する必要があるのだ。置いてきたものを、取り戻しに。
止まっていた時計の針を、進めなければならない。
「じゃ、そういうことで」
プツリと、通話が切れる。
一方的にかけてきて、一方的に切ってきた。勝手極まりないあの男が、腹が立つ。
振り回すのはいいが、振り回されるのは彼女は我慢ならない。子供の理屈だが、それは譲れない。
そしてすぐさま揺れるバイブレーション。着信元は先程と同じ靖子の携帯。
「久」
「靖子、何アイツに携帯貸してるのよ」
「佐河を引き留める条件で打たされたんだ。私が勝ったらユースを辞めるのを無しに。負けたら好きにするようにとな」
「で、返り討ちにされたと」
「アイツに勝とうなんて無理にも程があるくらい、わかっているだろう」
フェレッターズに信一を止める程の戦力はない。プロの最前線を戦う歴戦の雀士であろうとも、彼には遠く及ばない。どうしても止めたければ小鍛治健夜か能海治也を呼ばなければ話にならない。
それでも打たなければいけないのがプロの悲哀だ。負けるとわかっていても、牌を握らねばならない。
靖子は元々、経営陣の信一に対する方針には懐疑的であった。普通はそれでいいだろう。丁寧に育て上げてからプロに送り出すというのは何も間違ってはいない。
しかし、信一はどこからどう見ても普通ではない。前例が通用する相手ではないのは、対外試合で何人ものプロを引退に追い込んでいる時点で証明している。
あの世代の四人は、例外なく化物だ。誰も彼もが不世出。誰も彼もが、一時代を築いて当たり前な程の最強共なのだ。
「聞いていないか、アイツがユースを辞めた原因」
「……多分、うちの部員」
「東征大じゃないのか?清澄にそんな有力視されるようなヤツが……」
「今年麻雀を始めたばかりの子。腕はド素人そのものよ」
「……アイツの考えてることはまるでわからない……」
その素人のために、信一はプロユースを辞めた。靖子はそれが信じられずにいる。
天才の考えが理解できるとは思わないが、それでも無茶苦茶がすぎる。
少なくとも、久が知っている須賀京太郎は素人に毛も生えていない程弱小だった。信一に認められる程になるなどとてもあり得ない。
仮に彼の言を信じるにしても、この短期間で、どんな魔法を使えばそうなる?
確かめなければ、ならない。麻雀を離れた京太郎が、どのように変貌しているのかを。
「ま、何にせよ。ソレに壊されるなよ」
「気を付けはするわ」
通話を切り、久は大きなため息を吐く。とんでもない置き土産を残してくれたな、と。
しかし、事態はそう悪いことばかりではない。この状況を好転させる材料を見つけ出せと、別視点から見る。
信一は手加減を覚えたと言っていた。それはつまり、常識的なレベルでの強さをも身に着けているということ。要は、本気にさせなければいい。
信一と行動した京太郎がどうなったのか、久もまた、興味が尽きない。彼がどんな危険物になったのか。
久は信一という人格を信用こそしてはいないが、信一の力には全幅の信頼を置いている。それは彼女だけでなく、彼らを知る者であれば共通している事であった。
その力が清澄の全国制覇の一助になるのなら……使えるものは何でも使う。たとえそれが、身を滅ぼすほどの劇薬だったとしても。
──放課後が、待ち遠しい。
清澄高校麻雀部、その部室。
須賀京太郎はパソコンでとある牌譜を見ていた。
アクセスしているページは東征大麻雀部のホームページ。毎日、練習や試合の牌譜を配信、公開し続けている全国でも稀有なページだ。
ちなみにこのホームページをデザインしたのは弘世命。器用そうで何でも出来そうな人だとは思ってはいたが、こんなことまで出来るのかと京太郎は思っていた。
その牌譜は、昨日の物──合同練習最後に行われた、あの四人の対局の物だ。
データとして並べられた物を見ているだけでもその異常さが伝わってくる。これが極致に至ったモノたちの麻雀であると。
「半端ないなぁ……」
彼らはこれが、欠片も極致でも究極でも無窮でも思っていないだろう。自分たちはまだまだ先がある、そう信じ切っている。
だから強い。だから負けない。未完成だと思い続けている限り、彼らに停滞はない。
──そんな彼らに、どう勝てばいい?
京太郎は最初から行き詰まっていた。
どうやって強くなる、という手段がない。それも問題だ。問題ではあるが、次の問題に比べるとどうしても翳ってしまう。
本当に問題なのは、どういう方向で強くなればいいのか。それが京太郎にとっての大事だった。
自分には、
打ち手には打ち手の数だけスタイルが存在する。百の雀士には百の打ち方があって当然なのだと、信一が京太郎に教えられたことだ。
信一を始めとしたあの四人に、京太郎に教えられることは何もない。つまりここからは、京太郎自身が模索し、得なければならない。
無形。ただ表すなら、今の京太郎のスタイルはソレだ。謂わば、東征大式。弘世命のデッドコピーそのものと言っていい。
ありとあらゆる
麻雀を愛しなさいという薫陶を受け、京太郎の異常な資質の高さと相まってその力を急激に高める結果となった。相性の良さは凄まじく、それ故にそれ以上の発展はできなかった。
あくまで無形。形無きもの。今の京太郎は力の塊、有り余るエネルギーそのものと言って良い。燃料が多いだけで、勝てるものではない。東征大で培ったものは、基礎の基礎だった。
そして最も不安定な状態でもあり、ふとしたきっかけで全戦力状態になりかねないということを、京太郎は察している。
あくまで、燃料。故に、
一日……否、一秒でも早い
残りの目指す方向性として、信一と治也は論外。あれらは天性の才能があって成り立つモノ。才能の乏しい京太郎には無縁の代物だ。
同じように蘇芳もあり得ない。同じタイプが故に最も近く、最も遠い。治也は一纏めにしていたが、まるで違うものだ。決して、目指せるものじゃない。
京太郎は悩む。なまじ多過ぎる容量を得てしまったために、よっぽどの例外でなければ何にでもなれる。しかし彼らはそのよっぽどだ。生半なモノでは、追いつけない。追い越せない。
参考に出来るものが何も無い。独自のスタイルの創始という問題が、こんなにも難しいとは思わなかった。
「どうしたものかなー」
「どうしたの、画面とにらめっこして」
「ああ、咲」
幼馴染の宮永咲が横からパソコンの画面を覗いてくる。
牌譜に並ぶ名前を見ると、途端に苦々しい顔を彼女は浮かべた。
「え、これって……あの人の」
「信一先輩ら……あの世代のインターミドル決勝卓のメンバーだよ」
「……うわぁ、これ麻雀?」
画面に映るソレは。思わず、咲がそう口をこぼすほどに異常なモノであった。
ずらりと並ぶ、超常の牌譜。運や偶然では絶対に説明のつかない対局の記し。
一打一打が、殺すつもりで打っている。その気迫が、熱が、データ上だけであっても濃く伝わってくる。画面を見ただけでコレなのだ。直に対局を見てしまったら吐いて倒れてしまうのではないかと彼女は震える。
まさにコレは、神話の世界の闘争。ねつ造された牌譜ではないのかと言う方がまだ信じられる。
「これも、麻雀だ」
京太郎は、肯定する。これも、麻雀であると。
「咲。俺、コイツらに勝ちたいんだけどさ……どうしたらいい?」
「ええっ!?」
「咲ならどう戦う?治也先輩以外は今年のインハイに出てくるから、治也先輩以外の三人と同卓して」
「無理無理無理!絶対無理!」
信一以外の人を咲は知らないが、それと同格の実力者が三人を相手にする。あの不良が三人いて、同卓して打つ……考えただけでも咲はぞっとした。
あの紅蓮地獄を、未だ夢に見るのだ。オカルトに対しての感受性が高いためか、彼の残した爪痕が今でも深く残っている。
「勝つつもりでいるの、京ちゃん……」
「そういうもんだろ、麻雀って」
絶望的な差があることくらい、京太郎にはわかっている。残っている課題は山積みで、それを全てこなしたとしても勝てる保証は一切ない。相手にしているのは、そういう連中なのだ。
だがそれが諦める理由にならない。無理と断じる理由にならない。
困難上等、強敵最高。楽しくて楽しくてたまらないと、顔がニヤけてしまう。
今この瞬間、彼らと戦っているのだ。この対局までの準備期間を含めて、彼らは戦争しているのだ。
「……京ちゃん、変わったね」
東征大で、京太郎の身に何が起きたのか。どういう変化をもたらしたのか。
麻雀の修羅が集う場、東征大。そこがどんな過酷な場所なのか、咲には想像もつかない。
しかしそこで、京太郎に少なくない影響を与えたのは瞭然だった。
「そうでもないぜ。元々、こうだったんだと思うんだ」
男の子というのは、大概そうなのだ。強いものに憧れて、強くなることに夢中で。しかし年数を重ねていくと、それ以外のことにも目が向いて行ってしまって。
京太郎や彼らの場合、心が子供に帰って、その方向性が麻雀に向いただけなのだ。
「あのバチバチした部室も悪くなかったけどさ、やっぱここが俺の居場所って感じがする。一番、落ち着くんだ」
自分は清澄の須賀京太郎である。あの東征大の戦場を経験したからこそ、帰属意識が一層強くなった。
「……やっぱ、咲がいるからかな」
「え、それって……」
──どういう意味なのか。すかさず京太郎に聞こうとする咲であったが。
「よーっす!美少女雀士ゆーき様の登場だじぇ!てうおっ、京太郎久しぶりだな!」
「ええ、お久しぶりです須賀くん」
「おう、和に優希。合宿の土産話、聞かせてくれよ」
新たに入ってきた優希と和に遮られて、それ以上先を聞くことができなかった。
「うし、四人揃ったことだし。打つか」
麻雀部の一年生組がそろい踏みし、面子が揃う。
どんな合宿だったのか。どんな合同練習だったのか。それは打ちながらでも話せること。いや、打ちながらの方がどれほど成長したのかが肌で理解できる。
早速卓に付こうとする京太郎たち。和も優希も、東征大から帰ってきた京太郎の成長ぶりを楽しみにしている。
……ただ一人、咲は不機嫌そうな顔を浮かべた。
「……京ちゃんの、バカ」
「何か言ったか、咲?」
「なんでもない!」