というわけで、かなり遅れてしまいまして申し訳ありません。
ベストを、己の最善を尽くせば、結果は付いてきてくれる。相手が誰であろうと、自分の麻雀を貫けば良し。原村和はそう信じて疑わなかったし、それでずっと結果を出してきた。
麻雀が運が絡む競技というのは百も承知で、偶然があることくらいわかっている。しかし自分の麻雀は、自分の
それはこれからも変わらない不変。そう信じ続けた。……そう、信じたかった。
「その間{8}待ちな、変えない方がいいぞ。この局だと唯一和了出来る牌だから」
「黙って下さい!」
ただの初心者、麻雀に不慣れな男子部員、というのが須賀京太郎であった。原村和が知る彼であった。
だがあの日に、
あんな運だけの麻雀は、いつまでも続かない。いずれどこかで破綻する。京太郎がそんな麻雀を真似てしまえば変な癖がついてしまう。部の中で、内心一番強く彼の東征大行きに反対していたのは他ならぬ和だ。
あの強さに、憧れを抱くのは無理もない。だが、憧れでは強くなれない。モノを言うのは結局のところ地力なのだ。
彼らの麻雀は確かに華々しく派手だ。しかし、華々しさだけを見て真似しても、雀士に必要な土台が出来上がらない。あんなものは派手なだけなのだ。
初心者だからこそ、基礎基幹が出来ていなければならない。今の時期こそが最も大切なところだ。
東征大という場所が京太郎を成長するための場所になるなど、和は欠片も信じていなかった。中学時代に優れた成績を残した男子が選抜されるエリートの巣窟。その男子の中には和も舌を巻くほどの優れたデジタル雀士が入学することもあるが、後日公開された牌譜にはもう、その雀士はデジタルなど見る影もないほどに成り果てていた。
京太郎が勝ちたいと願っていたのは和も知っていた。あれだけ経験者である自分らに負けておきながら平気なわけがない。だから彼に、牌効率の手ほどきをしたりもしたのだ。デジタルの打ち方を、彼に教えたのだ。
デジタルが身につくのは時間がかかる上、周りの部員は彼を大きく上回っている。成長しているという実感は無かったかもしれないが、それでも今は耐え忍ぶ時なのだ。
「上から目線で見下してきて見下されるのは嫌か。這いずり回ってる癖によ。……ああ、だから脚引っ張って引き摺ることは得意なんだな」
「何を……」
「俺の成長を阻害してたのは他でもない、和の牌効率だ。信一先輩といて苦労しなかったことはなかったけど、一番最初の関門はコレだったよ。マジ苦労した」
京太郎が一番最初にぶち当たった壁。そして一番長く塞ぎ続けた壁。それが、和より教えられた牌効率だった。
デジタルは選ばれた領域。それこそ本物以外に扱い切れない代物。それを中途半端に身に付けられたモノを忘れなければ、その先に進むことが出来なかった。
今を思えば、あんな窮屈に縛られて平然としていた自分に驚いている。和の操り人形で打っていた事実は実ることのない停滞を強いられていた。
その呪縛から解放された心地よさは、言葉に出来なかった。自分の体は、こんなにも動くのだと改めて認識させられた。
「何の根拠があって……!」
忘れなければこうなれなかった、と。和のデジタルをこき下ろす京太郎にその理由を追及する。
デジタルが成長を阻害するなど、決してありえない。そう信じ切る和には、京太郎らが取った行動には合理性が見られない。
「無い」
根拠など、無い。むしろ、要らない。
小難しい理屈は要らない。
京太郎が京太郎として、『魔王』として君臨している理由はたった一つの理由だけでいい。
「俺が打ちたい牌を、俺がツモりたい牌を、俺が選んで俺が決めてこそ、俺の麻雀だ!」
これは、かつての自分の代弁にして叫びだ。
そのたった一つの自由を、京太郎は持っていなかった。
そんな当たり前を、京太郎は彼女に取り上げられていた。
デジタルが天才のみに許された打法。その真の意味を、京太郎は自由となった瞬間に悟った。
天才が打ちたいと思った牌が、自然と優れた牌効率となるのがデジタルなのだ。
天才と呼ばれる人種は、そういうことが自然と出来てしまう。そう納得できてしまう説得力がある。
自分が天才ではないということくらいは、京太郎も自覚している。才能ではどう足掻こうとも信一や治也に及ばないことも理解している。それでも自分には、天才たちに負けない武器があることも誇っている。
故に、
和 打:{9}
逡巡の無い和のいつもの打牌ではなく、そこには躊躇いが見えた。
明らかに心が揺れている。動揺を隠すことができなくなっている。のどっちモードで殻に篭もることができなくなった。
オープンリーチで晒された京太郎の手牌に、{8}が三枚ある。和了牌はほぼ枯れたと言って良い。
入れ替えた方が早い。一々口出しされることではない。
和:{二}{二}{三}{四}{白}{白}{白}{発}{発}{発}{中}{中}{中}
それを証明するように数巡後、張替えを完了させる。彼女もまた一流、デジタルが崩れようともそれを補う運を持っている。自覚しているかしていないかは別として、原村和は高精度のデジタルに目が行きがちだが、この運も決して見過ごせる要素ではない。
如何に極限にまで優れたデジタルであろうと、運が最悪であれば絶対に勝てない。来る牌全てが当たり牌であったなら勝てる勝負も勝てない。そういう意味では、原村和という雀士は才覚に恵まれていた。
運に頼らない雀士でありながら運に恵まれている、という皮肉。それに彼女が気付いたらどう思うのだろうかと、京太郎はせせら笑う。
(勿体無い。自分の武器の把握すらしていないのか。いや……)
自分が恵まれ過ぎていただけか、と京太郎は己の幸運に感謝する。
極上の目標、極上の手本、極上の環境が揃った場で、京太郎は徹底的に己と向き合い、自身を磨き続けた。
極限状態に身を置き、自分に出来る事と出来ない事を並べ、自分の中にある全てのモノを揃え、無いモノをあるモノで補い、それでも足りない場合は絞ってでも捻り出した。
常に、求めた。常に、餓えていた。
それが京太郎と彼女たちとの差。狂おしいまでの渇きは、現実を捻じ曲げた。天運を待つのではなく、天運を掴んだ。
(その上そっぽ向いた。テメェの運に)
運に頼ろうとする限り……通常、須賀京太郎に勝つことなど出来はしない。卓の支配者は『魔王』にあり、運という不確定要素にして甘えたものに誰も頼らせない。
絶対に屈せず、絶対に折れず、負けないと吠え続ける自我。現実を歪める想いを卓に叩きつけ、たとえ虚勢に見えようとも諦めない者を京太郎は尊び、尊敬する。自分が弱者だったから、逆境の中で強くなろうとする者たちがどうしても眩く見える。そういう者たちと、全力の勝負がしたい。
そんな願望が、京太郎の中にあった。
……だがこの局に限り、支配を緩めた。運の要素を完全に消さなかった。運で付け込める余地が存在した。
「両面の{二}-{五}待ちか。あーあ、絶対出ねえ待ちだ」
京太郎が打った後、一巡回った和のツモの時に嘆くように呟いた。
「……!」
変えた待ちをピタリと当てた京太郎に、和は動揺する。
牌が透けて見えているのかと彼女は一瞬考えてしまったが、そんなオカルトはあり得ないとその考えは振り払う。そんな非科学的な発想は逃げでしかない。
「デジタルが通用しないって理解したら、未練がましく持ってないですっぱり捨てれば良かったのに。拘り続けるのもまた強さだけど、捨てるのもまた強さだぞ」
──耳に入れない。
「『本物』は理だけに頼らない。だから『本物』で『天才』なんだ。和だって、あんな機械擬きなんかに頼らずともやっていける地力があるのに」
──何も、聞こえない。
「確かに正しいよ。そんなオカルトありえない。ただ、目に見えない確かなモノがあるだけ。ソレすら否定できるのか、お前は」
──何も、聞くな。
「認めろよ、和」
──何も……!
「……あ」
和 打:{8}
「お前がお前の運を裏切ったら、勝てないぞ」
ツモった{8}は手から零れ落ちて、河に落下する。
待ちを変えていなければツモっていただろう牌。京太郎に一矢報いることができただろう一撃を与えられたはずだった。
運から背を向けたというのは、こういう意味だ。のどっちという自分を追い求めるために、数字を優先させた。運という要素を切り捨てた、いつものことだ。
裏目になるのは仕方がないこと。そう納得させる。
もし、たら、れば……そんな仮定に意味などない。
「運なんて、ありえません!」
和はデジタルを選んだ。確率を譲らなかった。
運など、所詮は偏りに過ぎない。そんなものを頼りになど出来ない。
自分のデジタルは10回やって7回勝つ。勝率を高めることに専念している。
京太郎はそんな彼女に、呆れて怒る気にもなれなくなった。
「偶然だろうと実力だろうと、負けたら同じで、終わりだろうが」
「……!ですが!」
「次は、あるのか?無いだろう」
「……」
何も、答えられない。京太郎の言葉は正しいのだから。
この時、この一瞬、この今はたった一度しかない。チャンスはたった一回しかない。そんなことは、和が一番良く理解している。
負けたら、ここから……長野から離れなければならない。和が彼女の父と交わした約束だ。
離れたくない。もう二度と、友達と離れてしまうのは嫌だから。
負けられない。負けたくない。そういう気持ちがあるのは、和の心の内に潜らずとも京太郎は伝わっていた。
だからこそ、腑に落ちない。負けられない理由があるのなら、あんな
ただ牌効率が優れているだけでは話にならない。その程度では、インターハイの強豪相手では通用しない。東征大で打ち合った女子のトップレベルたちは、そう納得させる力を持っている。それくらいのことは、和もわかっているはずだというのに。
……不条理に、不合理に身を委ねることができない。確率というものを、数字というものを絶対視している。そんな和の思考回路に、京太郎は答えを導き出した。
「ああ、妥協してるのか」
「っ!」
「麻雀だから負けてもしょうがない。なんだ、結局のところ運ゲーって認めてるじゃないか」
和の内を、ずばり当ててしまう。触れられたくない領域に、触れてしまう。
行動が確率に左右される。セオリー通りに動いてしまう。決して、確率の低い方へと流れたりはしない。だから安定のデジタル雀士として名を馳せるようになった。
それでも絶対の確率など、存在しない。0%も100%も、在りはしない。そんなことは和は最初からわかっていた。
百戦して百勝する雀士などいない。三割勝てば上等とされる麻雀で、コンスタントに勝ち続けてきた。……そう、言い訳をし続けてきた。
いかに
ただただ、認めたくなかった。手が届かない場所だから。自分では絶対に、届く気のしない所だったから。
麻雀には、説明のつかない力を持つ雀士がいる。単なる確率や統計では決して測れない、魔物染みたモノが。そういう者らがいることなど、和は最初から知っていた。
可能性を、理屈を超えた存在。そういうモノらと戦うために、目を背けた。ただただ偶然なのだと、ただただ運なのだと、言い訳を続けてきた。
この部室で、信一が言っていた言葉は何もかもが正しい。麻雀はクソゲーである。運で全てが決まるゲームなのだから。
「何がデジタルだ、笑わせる。妥協と、逃げと、自分を正当化させるための言い訳か」
のどっちモードなど、妥協の極みだ。集中するために視野を狭窄させ、牌と点棒のみに視点を集中させている。不必要と断じた情報の一切を切り捨てて。
原村和という妥協塗れの打ち手の極点がそうなのなら、ああいう欠陥だらけの機械に成り下がるのは当然と京太郎は納得した。
「わ、わたし、は……」
何も、言い返せない。のどっちはおろか、雀士原村和が壊れていく。
総ては、妥協。ずっと逃げてきた。向き合うことすら出来なかった。そして今更、立ち向かうことも出来なかった。
自分は何もない。ただ計算することだけが上手で、空っぽであることを認めることが怖くて。
京太郎 打:{東}
京太郎がツモったのは、単騎待ちの和了牌。そしてそれを当然のごとく河に出して和了放棄。
「ゲームオーバーだ、和」
そしてそのまま、誰もツモれずツモらず流局。全員が聴牌。結局、和は大三元を和了することが叶わなかった。
逆さ十字に磔られた
「貴方に……何がわかるんですか!」
「何が?妥協ばっかで甘えてるヤツの考えなんて、俺にはわからないな」
京太郎に、和のことを理解できない。
完全麻雀体質。極まった資質を持つ故に、こと麻雀において京太郎に諦めという単語は存在しない。
足掻くことが常。もがき、苦しみながら歩みを止めないのが当たり前。それが須賀京太郎だった。
不屈であることが才能であるのなら。この世で最も才に恵まれた雀士は間違いなく京太郎だ。
「インハイで勝ちたいって思わないヤツはいないんだ。想いが無えんだよ、お前の麻雀は」
「気持ちで麻雀に勝てるなら、苦労はしません!」
「じゃあ、何でそんなに軽い?何でそんなに空虚だ?だから妥協してるんだって言っているんだ」
和の麻雀には何もない。熱が伝わらない。魂が感じられない。その気になれば、出すことだって可能なはずなのに。
勝利のために必要な材料になりえない。だから、機械に徹し、感情を消す。
出せるものを出し惜しみしている。それを妥協と呼ぶのだ。
気持ちで麻雀に勝てたら苦労はしない。だが、それが勝負を分かつ材料になることだって京太郎は知っている。
無いよりはいい。吐き出せるモノは総て出す。勝ちたければ、そうするべきだろう。
「妥協を許さない。それが真のデジタルだ」
同時にそれが、天才の条件。飢え続けることが、腹を満たせない狼であることが、追求し続ける者こそが天才と称される最低条件。
そもそもデジタルとは、勝つための打法である。勝つために、洗練化され尖鋭化され、負けたくないがために生み出された。
言うなれば、デジタル打ちとは絶対勝利主義者。例に、『天才』能海治也は妥協をしない。盲目であることを言い訳にしない。使える情報は鋭敏化された四感で余すことなく拾い上げ、使えるモノはデジタルだろうとオカルトだろうと区別しない。そして、必要とあらば自我すら武器にし、想念で現実を捻じ曲げたりもする。
──原村和にそこまでのことが出来るのか。
「牌山の重さでどの牌がどこにあるのかわかんのか?視線移動を観察して、どんな牌勢なのかわかんのか?心拍、脈拍、脳波、体温、表情、発汗、眼球運動、エトセトラ!その他諸々を総て把握して、総ての情報を吟味し、関連付けて、その上でその場その場の最上の牌を引き寄せる力を発揮出来るのか!?」
つらつらと挙げられる無茶振りのオンパレードに、和は頭が痛くなってくる。まるで漫画に出てくるような技能の数々……その内のたった一つでも出来れば強大な武器になる。
これだけ出来て、ようやく最低限。京太郎はデジタル打ちとして認めることが出来る。京太郎は天才ではない。故に、ここまで妥協する。
治也と付き合いの長い者たちであれば、もっと厳しい基準が設けられただろう。治也本人であったなら自分以上でなければデジタルと認めないに違いない。
「そ、それがデジタルと言うんですか!」
「デジタルとは、そうだろう」
それ以外に京太郎はデジタルとは認めない。妥協を許さない打法なのだから、これでも譲歩している方である。
だから、天才のみに許されている。そんなことが出来るのは『天才』しかいないから。
だから、能海治也のみに許されている。『天才』と呼ばれる資格があるのは彼くらいしかいないから。
「俺もそろそろ、弄るのは飽きた」
積み上がる百点棒。東三局四本場。ドラは{西}。
圧政と搾取に飽きた。和を弄び、拷問を続けることに飽きた。
震える手で、牌を取っていく彼女ら。もう、戦意と呼べるモノは何一つとして残っていない。
和 打:{九}
「ロン」
──決着はあっさりと訪れる。
{一}{一}{一}{二}{三}{四}{五}{六}{七}{八}{九}{九}{九} {九}
「九蓮宝燈、32000の四本場は33200」
影も残さず、消えていく
一巡目からのロン。遊ぶことに飽きた京太郎は、本来の差を見せつけた。
容赦なく、トバした。力に任せた麻雀だった。
彼女らに胸に去来するのは悔しさではなく、安堵であった。
(後味、わっる……)
口の中にインスタントコーヒーの素を一瓶分入れられた気分を、京太郎は味わっていた。苦味ばっかりで、むせかえりそうになる。
なるほど、いい気分ではない。進んで味わいたいものではないと、学習する。
世の中にはこれが病みつきになる者もいると聞いたが、とてもではないが京太郎には理解に苦しんだ。
「和。俺は謝らないからな」
京太郎は俯き、何も反応しない和へとそう告げる。咲も優希も、どうすればいいのかわからない。
自分は何も間違ったことをしていない。何も間違ったことを言っていない。何も、後悔はしていない。だから謝らない。
席から立ち上がり、京太郎は部室から出ていこうとする。もう、今日は打ちたい気分ではない。帰って、家で不貞寝をしたい。
誰も、京太郎を止めることができない。もう、居る世界が違う。彼にとってここは、余りにも狭すぎた。
「あら」
部室の扉に手を掛けようとした瞬間、向こう側から開く。
麻雀部部長の竹井久と染谷まこが、このタイミングで部室に入ってきた。
「すいません、部長。復帰初日から悪いんですけど、サボらせて頂きます」
「…………そう」
久は、京太郎に何も聞かない。何があったのか、何も問わない。
彼女たちに、彼を止める力はない。彼らと同類になった彼を、止める手段はない。
そのまま京太郎は、久とまこの脇を通り抜ける……正確には彼女らが京太郎に道を譲る形となった。弱者は強者に道を譲る。そのルールを守らされた。
部室で卓についたままの一年生トリオの惨状を、チラリと見ただけで何が起きたかなど大体は察しがついた。
彼女たちの知る須賀京太郎は、もうどこにもいない。そう納得させるだけの材料になっていた。
「須賀くん」
「……なんですか」
「私は、ここに来ることを強要はしないわ。好きに参加すればいいわ」
「……明日、また来ますよ。ここ以外、俺には行先がないですから」
部室を去っていく京太郎の背中は、闘牌中の雰囲気とうって変って……とても、寂しいものであった。
『魔王』の面影など、どこにもない……ただ一人の、孤独な高校生でしかなかった。
幼少期の頃にコーヒーの素を大匙分を舐めて、一日中苦しんだ記憶を未だに忘れていない……。
おかげで今もブラックを飲むのに抵抗がある時分……。