蠱毒の儀式を実行してから、僅か数分。決着の様相が、見えてきた。
神の闘争は、信一にとって慣れ親しんだもの。見える者であれば誰もが腰を抜かす凄惨な光景に、彼は特に感じたものは何もない。ただの、いつも通り自分がやっている事。それが神同士となっただけ。
最初から、わかりきっていた結果だった。
神の蠱毒で生き残った最後の神格。それが何であるかくらい、始める前から知っていた。
狐面を被り、着流しを着崩して纏った半裸の格好をした神。両拳両足は神の血に塗れ、傷らしい傷を一切負っていなかった。……それが何であるかなど、聞かれるまでもない。何せ、倒した覚えの無い神なのだから。
『最新の神』として、佐河信一から分離された神格。ありとあらゆる荒神・軍神を下した、彼の力と才の象徴。
司る権能は、『賭博』と『戦争』。最も若き神でありながら、最も強き神。勝負事において、無類の力を発揮するかの一柱は、神話の神々を相手に無双の力を見せつけた。
肉体が朽ちた後に、その精神は高天原へと召し上げられるだろう現代の神。『人間』佐河信一が死んでいなければ普通は相まみえることのない……いわば、彼の未来の成れの果て。
「よう、俺」
未だ名付けられていない、無名の神。神の名は、後世の人間が勝手に付ければいい。
信一はあえて、その神を己と呼称する。
神に
『最新の神』は、信一の未来の姿。これより力を積み上げた信一の、絶頂期そのものと言うべきもの。
己の最強の姿。逆を言えば……己の限界と言える。
その上、蠱毒による怨念と憎悪を背負い、力を増幅させている。
蟲で行う蠱毒と比べ物にならないほどに、禍々しい。蠱毒を潜り抜けた信一の半身は、邪神と言っても過言ではない。
ただ在るだけで、空気を震わせる。結界の外に出してしまったら、大災害が起きるのは必至だ。……そうならないための保険も用意はしているが、使わないのが大前提だ。
災害を相手に、『人間』佐河信一が、勝てるはずがない。超自然の暴威の前には、信一は紙切れ程度の頼りなさしかない。
「──限界なんざ、無い」
その現実を、彼は鼻で笑う。
目の前にいる存在が己の到達点であるなど断じて認めない。
そんなもの、誰が決めた。神か?ならば話は簡単で、その神を打倒し、そうではないと証明する。
邪神から放たれる波濤は、常人であれば身も心も砕く。ただ在るだけで滅びを招く呪いの風を振りまく。
肉体は凡夫のもの。才は大半が失われ、神を見る程度のものしかない。
しかし信一は、自尊心と意地で肉体と精神の限界を容易く超えた。
才能も、力も。失ったところで、何の困るものではない。
「効かねーっな!」
笑う、嘲笑う、嗤う。
効かぬと、通じぬと、神を相手に見下し続ける。
こんなものなのかと、ああ所詮は神であったなと、吹けば飛ぶ程度の力しか持たぬ信一は余裕の態度でいる。
全身の骨が軋みを上げているのを無視する。筋繊維がプツプツと切れていくのも知らぬ顔。普通であれば立っていることが不思議なほどの激痛が信一に走っているというのに。
そしてあろうことか、一歩一歩踏みしめて神へと前進する。
痛いどころではない。失神して当然の行為をやっている。だというのに、涼しい顔で、自分と神との距離を詰めていく。
佐河信一は、負けたくない。弘世命に、男神蘇芳に、須賀京太郎に、能海治也に……!
だが、納得のいく負けであるのならそれでいい。まだ、許容は出来る。敵であり、友である彼らになら、認めることは出来る。
……しかし、神に、自分の成れの果てに、僅かでも劣っているなど、死んでも認めない。
彼らは神など眼中にないほどに強い──佐河信一は、親友たちをそう信仰している。彼らに勝ちたいと心の底から思うからこそ、信一の敵対者である彼らへの強さに対する深い信頼と信用がある。
そして、彼らからも。佐河信一は強いと全幅の信頼と信用が置かれていることを感じている。
『俺たち以外に負けたら承知しない』……言葉にせずとも、伝わってくる。
その信頼が、泣きたいほどに嬉しい。
その信用が、身を砕くほどに奮わせる。
────それを裏切るなど、出来るわけがない。
────それを裏切ることが、死ぬより辛い。
「……間合いだ、かかってこい」
神に間合いなど、本当は関係はない。そういうデタラメがあるからこそ、神と呼ばれいる。
それでも信一は、身を滅ぼす暴風が一番強い神の近くまで詰めた。
全身が悲鳴を上げている。死んでいなければおかしい呪いの奔流に、笑い続けたまま平然としている。
あくまで自分が迎え打つ立場で、神が挑戦者。一度たりとも、己を下に置いていない。
あまりにも傲慢な信一の態度に、神は己が宿っていた肉体といえど容赦はしないと判断。跡形もなく消し飛ばすべく、拳を振りかぶる。
死にたいのであればそうしよう。そうなることが目的ならば、引導を渡すのもやぶさかではない。
死が、迫る。拳は信一のこめかみ目掛けて打ち出され、止まらない。
当たれば、信一の頭蓋はザクロのように弾けて消し飛ぶどころではない。文字通りに血霧となって、跡形もなく影も残さない。形だけ人の形こそしているものの、神は人とは全く別の存在なのだから。
絶命させるには、十分な一撃。人命を摘み取る脅威を、信一はまばたきせずにじっと待つ。
グシャリ、と骨と肉が潰れる音。
ドサリと、肉塊が倒れる音。
「……そんなもんか」
こめかみより流血こそしているものの、信一は五体満足で健在。
肉と骨が潰れたのは、神の拳と腕。
倒れたのは、神の方。
尻もちついて呆然と、砕けた拳とひしゃげた腕を見ていた。
どうしてアレは生きていて、こっちの拳は砕けている。逡巡する余裕の無いこの場所で、隙を作る。
はっと気づいた神は、すぐさま立ち上がろうとするが、信一に顔面を蹴られる。
狐面は割られ、素顔が露わになる。信一に似た容貌であるが、蠱毒の呪詛を背負っているせいか白髪であり、火傷の痕が顔のいたる所に残されている。
「で、どうすんだ俺」
仰向けに倒れた神を起き上がらせないために、胸元を踏み付ける。
嗜虐的な笑みを浮かべ、己から生まれた神を見下す。これこそが正しい姿で、本来の姿なのだと。
圧倒的な力を持つはずの己が、無力なはずの人間を相手に遊ばれている。神は意味がわからず、混乱している。
人が神を上回るわけがない。そんな存在がいるわけがない。仮にいたとしても、この身は神格最強。名だたる神話の神を尽く屠った最強だ。
勝てない存在など、存在してはならない──。
「ハハッ!何だ何だ、お前俺から生まれた
ふと、信一は思い出す。人から神に祀り上げられた者は、人であった頃の記憶や感情は全て消え去り、
たとえば、菅原道真。たとえば、平将門。共に人から神へと祀り上げられた前例であり、祟り神である側面も持ち合わせている。
怨念や悪霊であれば、信仰は生まれない。だが、人が崇めて思いを祈りを込めてしまったら。それは如何なる邪な存在であろうとも神となる。
神という存在は、想いの力というものを必要以上に吸い込んでしまう。それが神というものの性質で、祈りを糧に力を得ている。しかし吸い込めば吸い込むだけ、かつて人であった個の意思である記憶や感情は消えていき……やがて完全に消滅し、権能を振るうだけの
ならば、その神の情けない姿も説明がつく。蠱毒によって神々の憎悪を背負ってしまい、力こそ増大したものの
これは、ただ力のあるだけの人形に過ぎない。ただの、心無き機械でしかない。
ならば、信一にもう負けはない。
「空っぽなヤツに、俺が負けるわけがない」
己を打倒することが出来るのは、意思の力。決して神の暴力ではない。熱のない空虚なだけのものに、自分を、そして彼らを超えるなどあり得ない。
物が上から下へと落ちることが当然のように、それが当たり前だと認識している。揺らぐことのない彼の中の常識で、その想いが、祈りが、本来ならば起こり得ない人が神を下に敷くという現実に、捻じ曲げている。
無論、これは並大抵のことではない。神のような圧倒的な破壊をもたらす暴力装置を前に、平然とそう思い込むことは常人では不可能。
人として壊れていなければ、狂気に駆られていなければ。大事な何かが、抜け落ちていなければ……。決して、そうはならない。
佐河信一が佐河信一たらしめているのは、才能でも力でもない。その傲慢なまでの自負と精神性が、彼の力の源となっている。それが今、ここに証明された。
「お前に心があるってんなら、足掻け。悔しいと思ってんなら、反逆しろ。そっちの方が俺は嬉しいんだが」
人であるのならば、普通はそう思う。足蹴にされて怒らない人間など一部を除けばいやしない。そしてその反抗を、信一は快く歓迎する。
だが、神は所詮は力の塊。意思なきもの。
どちらが上か、格付が済んだ。ならば、潔く消える。それが神というもの。
光と溶けて、神は信一の中に返り消える。
失望し、やはりそんなものなのかと舌打ちする。
才能と力が再び信一に備わり……否、儀式を行う前より力が格段に増している。
神の蠱毒の呪いと業を背負い、咀嚼し、力に変えている。そんなことを可能にするのは、当代では佐河信一以外存在しない。
新しく増した力に、信一は良しとする。こんなものだな、と。
「──よし、もう一回だ」
そう言って、破損した結界の修復と、自らに還った神々の蘇生と、儀式の準備を始めた。
そう、もう一度。もう一度、神の蠱毒を実行する気でいる。
神は信仰がある限り不滅。信一が調伏してきた神々はいずれもメジャーな軍神荒神ばかり。そしてそれらを下した『最新の神』も信一自身が己を信仰し続ける限り死に絶えることはない。
何度でも、何回でも、繰り返すことが出来る。
信一は最初から、この神の蠱毒を一度だけで終わらせる気などさらさらない。自分の力と才能が強くなればなるほど、蠱毒で争いあう神々の力は増していく。そして生き残った神を下し、再び己に取り込んでいく。
繰り返し、繰り返し、儀式を執り行うことに意味がある。
所詮は神。神は道具。今の信一にとっては、
「じゃ、やろうか」
佐河信一は牙を研ぐ。決戦の日に向けて。
限界を嘲笑い、踏み潰す。神だろうと御しえない、規格外。
故、彼をこう称する至ったのだろう。
如何なる神にも、魔物にも、妖にも、たとえることの出来ない化物。
──『怪物』と。
同時刻。東征大学付属震洋高校、麻雀部校舎。修羅の殿堂と呼ばれるこの場所の一室、この部の監督職のために設けられた監督室にて。彼ら二人は何かを感じ取った。
弘世命と能海治也。この修羅道の支配者と盲目の天才は、共通したものを察知した。
気晴らしに打っていた将棋盤から顔を上げ、お互いに確認するように頷いた。
「信一だな」
「そう、ね」
「感じからして無茶な方法でやってるな。京太郎に影響されたか」
鹿児島から、ここ静岡まで伝わるほどの波濤。相当な無茶をしていることを、同じ天才である治也には感じて取れた。
恐らくは、長野にいる京太郎と、どこにいるのかも知れない蘇芳も、同じものを感じたはずだ。
宿敵同士、そして親友同士。誰も彼もが際者ばかりで、化物たち。自分以外の変化を感応するという異常な現象は、彼らにとってさほど珍しいことではない。
「……命」
「何?」
「どうする気だ、お前は」
「どうするかって聞かれても。何が聞きたいの?」
パチリと、命は一手打つ。
そしてすかさず、治也は打ち返した。
「お前じゃ、アイツらに勝てんぞ」
駒に手を伸ばそうとした命の手が、止まる。
「……どうして、そんなこと言うの?」
「どうして?言わないとわからないか?」
「ええ、わからないわ」
命の表情は、普段と変わらないように笑顔による鉄壁のポーカーフェイスに覆われている……ように見える。
だが、治也が見れば……信一にも蘇芳にも、京太郎にだって、今の彼を見れば
心を読ませないことに関すれば、五人の中でも随一。己すら図りきれない底知れぬ闇を抱え、深淵から覗く化物。治也ですら、彼の心を読むのは無理に近いと断言したこともある。
だが今、命の手の内が手に取るようにわかってしまう。彼と付き合って長い治也ですら、そんな彼を見たこともなかった。
それを、今の盤面が証明している。治也の圧倒的優勢。あと数手で、命は詰む。
将棋に限らず運に頼らないボードゲームにおいて、誰も治也に勝てた試しはなかったが、三人の中で最も治也を手こずらせることが出来るのは命において他にいない。読心能力と超高度な演算能力を持つ治也に、閉心術とブラフで何とか命は拮抗し対抗することができる。
「この局、始めてまだ三十分も経ってない。お前と打てば、一局一時間は軽く過ぎるというのに」
その半分足らずの時間で、もう詰みに差し掛かっている。その原因は、命の閉心に綻びがあったからだ。
心を読み、誘導し、一網打尽にする。まるで
……こんなにも弘世命というものは脆弱であったか?
「焦り、か?」
「……」
「勝たなきゃいけない東征大部長の立場か?違うよな、
「……」
「俺たちに置いて行かれることが怖いか?違うよな、俺たちはお前を見放さない。お前が俺たちを見放さないように」
「……少し、黙って」
「京太郎、だろ。アイツが、俺らに与えた影響は大きい」
「……黙れ」
「俺も、信一も、蘇芳も、そしてお前も。京太郎が打ってる姿に痺れた。だから信一も無茶やってる。俺も無茶やりたいと疼いてる」
「黙れ」
「羨ましいんだよ、あんな楽しそうに麻雀打ってるアイツがな」
「黙れ!」
治也の胸ぐらをつかみ、彼を知る全ての人が驚くほどの凶相で命は睨みつけていた。
それは、姉である菫でさえ見たことのない
「離せ、命」
しかし、治也は動じない。この程度、何でもないと鼻を鳴らす。
命の怒りの形相を、治也は見えない。しかし、見えないからこそ治也は本質を視ていた。
弘世命の、怒りの形。それを脚色せず、劣化せず、ありのままを。
その形は、その色は、凡夫のそれであった。
「……いつまで、寝ぼけてるつもりだ?」
「何が言いたい……!?」
「
ギリギリと歯軋りを鳴らしながらも、命は治也を解放する。
だが、苛立ちは収まらない。
「あの時から、あのインターミドルの決勝から、お前の時間は止まっている」
「知っている」
「お前をそうさせたのは、俺たちだ」
「望んで成った」
「お陰で、心が
「遊ぼうか、
────どうだ、弘世命くん。