蜘蛛鬼化した久遠の意識は、意外にもハッキリとしていた。
特に累の助力をしなければという強制力が働くわけでもない。逆に傷が癒え、体が軽くなったくらいだ。
「……累、どういうつもり?」
代わり果てた赤い眼球をもって、久遠は
「別に縛りつけようなんて思っていないよ、僕は。久遠姉さんが生まれ変わっただけだ。人に
「なるほど? この肌と目じゃ、もはやどう足掻いても人間社会にはもどれない。私はもう累君の姉として、この山で生きてゆくしかないってわけね」
これまでの久遠は半人半鬼とはいえ、見た目の上ではこの上なく可憐な人間の少女にしか見えなかった。
単に母の血が色濃く受け継がれたのか、それとも作為的な思惑があったのかは定かではない。だが蜘蛛鬼化した今となっては、その面影もない。
「かえって良かったでしょ? いつ鬼だってばれて、鬼殺隊に斬られるか分からない生活よりずっといいしね」
「それは久遠さんが決めることだっ! お前が決めていいことじゃない!!」
あまりに自分勝手な累の言い草に、炭治郎が反論する。だが累は、まるで炭治郎を虫であるかのように見下ろした。
「……うるさいな、そっちはそっちで遊んでなよ。人間なんて、僕らにとっては食料でしかないんだ。僕はただ、家族さえ居ればいい」
炭治郎の前には依然として操られた、水柱:冨岡義勇がいる。その後ろには義勇を操る、累に操られた母:葵枝がいる。その先にようやく、累と久遠だ。
立ちはだかる壁の大きさと多さに絶望する。いくら新しき気熱に目覚めたとはいえ、炭治郎単身でこの砦を攻略できるとは到底思えない。
「私が貴方を殺すとは、思わなかったの?」
幾重もの城壁の向こうから、久遠の声が聞こえてきた。
久遠は決して体の自由を奪われたわけではない。累はいわば、自身の城内に毒をかかえているかに思われた。
だが、
「出来もしないことを言わなくていいよ。久遠姉さんは昔からそう、操る必要さえないんだ。人間も、鬼も、どちらも殺せない。だから人間と鬼がどっちも仲良く、なんて有り得ないことを言っているんだからね」
「そんなことっ」
「あるでしょ? 現に僕に抱き締められて、抵抗もできないじゃないか。……まだアレ、忘れられてないの?」
累がそう、歪んだ笑みで指摘した瞬間。
常に余裕の笑みを忘れない久遠の顔が、初めて悲しみに歪んだ。それだけではない。蜘蛛鬼化した体は細かく振るえ、大粒の涙を流し始めている。
「やめてっ、言わないで!」
現実から逃げるように叫びながら両耳を手で塞ぎ、その場に蹲る久遠。炭治郎はこんな彼女の姿など見たことがない。
「忘れちゃったら可愛そうだよ? 実のお母さんなんだから」
「やめてったらぁ!! 炭治郎君の前で、言わないでっ!!!」
「人間のお母さんを、自分の手で殺して。……久遠姉さんが食べちゃったんでしょ? おいしかった?? お母さんの、お肉」
「いやああああああああああああああっ!!!!」
山中に切り裂かんばかりの悲鳴が轟く。
それは炭治郎も始めて聞く、久遠が隠し続けた。あまりにも重すぎる、……心の傷であった。
◇
始めて聞く久遠のすすり泣く声、それだけが全員の鼓膜をふるわせていた。
人は人の世界に、鬼は鬼の世界で生きる。それが当然であり、久遠の人と鬼の共生という理想は世の摂理から外れたものだ。それでも久遠は自らの目的に向かい、走り続ける。その決意は決して温和な表情からはうかがい知れず、自身の心にのみ秘めた想いだ。
炭治郎とて、神藤邸での生活に違和感を覚えていた。
あれだけの大きさをほこる屋敷で、何故か久遠以外の家族とは出会うことさえなかった。父である無惨が住んでいない点は当然として、母も祖父も、祖母さえもいない。雇われの執事さんや家政婦さん、珠世先生や愈史郎さんが居るおかげで賑やかな雰囲気を演出しているが、神藤の血筋に該当するのは久遠だけだ。
どんな奇跡をもって、久遠が今の財を成しえたのかは分からない。炭治郎は自分との将来を願う少女の一切を、何も知りえてはいなかった。
本当なら今すぐ久遠のもとへ駆けつけたい。
だが炭治郎の前には、決して低くない壁が待ち構えている。
「…………」
一言も口から声を出すことなく、義勇は日輪刀を正眼に構えていた。
ただしそれは正しい正眼の形ではなかった。それまでは事態の慌ただしさに気付かなかったが、義勇は隻腕である。
左肩の付け根を紐できつく締めて止血しているが、決して軽いとはいえない傷だ。
一方の炭治郎は、先ほどまで使っていた天雷刀の蒸気が消え失せている。
鬼殺隊の型は全集中の呼吸あってのものだ。
ただでさえ一度の消費が激しい気熱の呼吸だ。いくら炭治郎が成長したとはいえ、残りは一度。それが炭治郎に残された唯一の希望だった。
「……頼むから、正気を取り戻してくれっ! 冨岡義勇!!」
炭治郎は声をかけるも、義勇の口は動かない。
「無駄だよ。そいつはもう僕と葵枝母さんの操り人形だ。本人がどれだけ
「くそっ、お前は鬼の頂点である十二鬼月だろ。なのに正々堂々と戦えないのか!?」
「正々堂々? あいにく僕は蜘蛛鬼だ。罠を仕掛けて敵を捕らえ、それからゆっくり料理するほうが蜘蛛らしいだろ?」
蜘蛛姉となり果てた久遠の胸に顔を埋めながら、累が挑発の言葉を投げかける。
もはやこの場に、炭治郎と並び立って戦える者はいない。それどころか母:葵枝、そして自分を救ってくれた久遠まで累に捕らわれてしまった。味方は己一人。敵は二人と人質が二人。孤立無援という表現が的確に当てはまる事態である。
思えば昨日、那田蜘蛛山討伐隊本部で起きた乱闘事件の犯人は「自分の意志なく友に瀕死の重傷を負わせてしまった」と供述していた。それは母鬼となった葵枝を操る累の仕業だったのだ。おそらくは那田蜘蛛山の山頂にあるという蜘蛛鬼の屋敷から操っていたのだろう。それに比べれば、目の前に居る義勇を自在に操ることなど造作もない。
「くそっ、どうすれば良いんだ。……どうすれば!」
隻腕であっても強烈な義勇の斬撃を受けながら、炭治郎はこの状況を打開する策を探し続ける。
冨岡義勇の戦い方は、数ある呼吸の中でも最多となる拾壱もの型を状況によって使い分ける、技そのものにある。戦闘における一瞬一瞬において最適な型を選択し、鬼を斬る。それは連続して幾多もの型を繰り出す体力と集中力が必要だ。伊之助が父鬼との戦いで試した「獣の呼吸:全部ノ型」の理想型と言ってもいいだろう。
確かに今、義勇は水の呼吸も全集中の呼吸も使えない。
だがその有り余る体力と集中力をもってすれば、相手に反撃を許さない連撃とて可能になる。累の血気術によって強化されているなら尚更だ。
炭治郎ががら空きにしてしまった胴に、義勇の横薙ぎが迫る。自らの意志で戦っていない義勇には感情の臭いがない。そのため炭治郎特有の臭いによる先読みさえも使い物にならない。
ギィンという連続する金属音と共に、炭治郎はなんとか義勇の斬撃を
だがもう限界だ。ハッキリと確信する。
もう三合受けたのち、捌ききれなくなった義勇の日輪刀が、炭治郎の体を斬り裂く。それはこの場にいる誰もが自らの感覚で知りえた、竈門炭治郎という少年の最後だった。
「お願い、累。もうやめてっ! これからは累の言う事は何でも聞く、聞くからっ!!」
「……うるさいな。母さんはもう、黙ってなよ」
自らの意志に反して動き続ける指を放置して、母鬼:葵枝が泣き叫ぶ。自分の手で息子を殺してしまうという現実に、心がはち切れそうだった。
それでも自身の指は、非情なまでに息子を殺そうと殺意を抱く。
どれだけ泣きわめこうとも、新しき息子:累の血気術は止まらない。
「………………っ!」
声さえも出せずに葵枝は思う。
これならばいっそ、あの時。下の兄弟達と一緒に死んでおけばよかったと。そうすれば、せっかく生き残った二人の子に迷惑をかけることもなかったのだ、と。
そんな母の涙を目の当たりにして、炭治郎は覚悟を決めた。
自分が使える「気熱の呼吸」はあと一度、それは本当なら累との直接対決にまで温存すべきものだ。今、この場で死ぬか。それとも、近い未来に死ぬかの違いしかないのかもしれない。
それでも、
母の泣き叫ぶ声が一時でも止まるなら、それもまた良いのではないか。そんな諦めにも近いような想いが沸き起こる。
炭治郎の全身から蒸気が沸き立つ。手加減など元より出来るはずもない。
詫びる。
倒すべき敵より、母の涙を優先する自分勝手な決断を。
そして感謝する。
きっと、義勇の左腕は。炭治郎の愛する妹のために捧げられたのだと、不思議に理解できたから。
この人はきっと、もう二度と鱗滝の子を死なせないという、狭霧山での誓いを守ったのだ。
「……アンタは強い。強いよ、義勇さん。できれば正面から、正々堂々と兄妹達の仇を討ちたかった」
天へ指すかのように日輪刀を振り上げる。
気熱の呼吸:壱の型、真。
「てん……、らい……」
せん。
その最後の言葉が炭治郎の口から吐き出されそうになった時。
藤襲山で聞いた言葉がもう一度、炭治郎の心にだけ届いた。
――お兄ちゃん、避けて。
という懐かしい声が――。
最後までお読み頂きありがとうございました。
最近、ここに何を書けば良いのか思い浮かびません。プロ作家の方々が後書きいらなくない? という気持ちがすごく良く分かります。何を書こうと悩んで30分過ぎていることなんてザラです、ザラ。
作者の気持ちは全て、本編に注ぎ込んでいますからね(笑
また明日、朝七時に更新します。
よろしればお付き合いくださいな。ではではっ!