見上げれば満天の星が広がっている。
なのに地上から三尺余りのところには白い霧が雲のように広がっていた。単純に上空と地上の寒暖差が織り成す自然現象なのかもしれない。だが今の炭治郎には不吉な未来を現しているようにしか思えなかった。まあ、しかし。そのどちらであったとしても、身を隠すにはうってつけの夜である。
「さあ、たん君は久遠ちゃんを探しなさい。髪の毛からつま先まで、どこでも好きな臭いで良いわよ?」
「……俺は変質者ですか」
カナエの確信犯的な妄言に、真面目な炭治郎はいちいち返事をする。
昼間の疲れに加え、現在進行中の疲労も溜まりつつある炭治郎の声に力はない。女性に振り回されるのは久遠という存在で多少は慣れてきているが疲れるものは疲れるのだ。
それでも、久遠の臭いを探らなければ事態が進まないのも確かである。
幸いなことに、鬼殺隊本部の最奥となる産屋敷家の周辺からは特徴的な臭いはしなかった。逆に前方に位置する本部からは大火のごとき臭いが充満している。これはみな、昼間に出会った柱達の臭いだろう。間違っても近づきたくないと思いつつ、警備がずさん過ぎるのではないかと不思議に思う。
カナエからの情報によれば、御館様こと産屋敷耀哉は決しておおげさな警備を自身の周りに置かないらしい。それは鬼殺隊の最大戦力である柱を一個人の警備に使用するのは間違っているという信念かららしいが、半年に一度となる柱合会議であっても変わらないとは頑固にもほどがある。
しかして炭治郎達からしてみれば好機以外の何者でもなかった。これだけ
「………………う」
この場に居る人間にしか聞こえないような声で禰豆子が鳴いた。
炭治郎の羽織をつかみ、何か自分の意思を伝えたがっているようだ。
「禰豆子も一緒に探してくれるのか? ……そうだな、禰豆子も久遠さんが心配だもんな」
「うっ!」
礼の言葉を言う代わりに、炭治郎は妹の頭を撫でてやる。おそらくではあるが、禰豆子には炭治郎達鬼殺隊士ほどの鋭敏な感覚はない。
だがその代わり、説明のできない「何か」を持っていることは確かなのだ。それを証明する存在が目の前に居る。母:葵枝に変装したカナエを、当時の禰豆子は見破っていた。
東京に居た頃、そして那田蜘蛛山から鬼殺隊本部に来るまで。久遠と禰豆子は本当の姉妹のように笑顔を向け合っており、その繋がりを忘れるわけがない。
幼児とそれほど変わらぬ体躯となった禰豆子は、真っ直ぐでつぶらな二つの瞳をジーっと屋敷の方へ向けている。そんな妹に習い、炭治郎も己が嗅覚に全神経を集中させていた。
………………………………。
竈門兄妹の探索は続く。
一歩、歩いては探り。また一歩あるいては探る。その光景は猟師の相棒である猟犬そのものだ。
「………………う?」
ふと、禰豆子が違和感を感じ取った。その先は白い霧の覆い隠され、屋敷の中を伺い知ることはできない。だが炭治郎の鼻も、僅かばかりではあるが懐かしい臭いを感じ取った。
「やった、……久遠さんの臭いだ。みつけたっ!」
そう、小さきながらも喝采の叫びを炭治郎があげた時。
「お前ら、何やってんだ?」
竈門兄妹の頭上から昨日聞いたばかりである男の声が降ってきた。
職務上の理由で名すら教えられないと言っていた、那田蜘蛛山から鬼殺隊本部へと案内してくれた隠の男。その人である。
炭治郎と禰豆子が驚きで動けないなか、カナエは神速のごとき俊敏さを見せつけた。
事実、隠の男は「お前ら、何やってんだ?」という台詞を全て言えたわけではない。実際には「お前ら、な――」くらいまでであり、その先の言葉は炭治郎が脳内で予測したにすぎなかった。
ではなぜ、隠の男は最後まで言葉を口にできなかったのか。その点については呆れるほどに単純明快だ。胡蝶カナエが反射的に、肘鉄を男の鳩尾に埋めていたからだ。自分は呼吸が使えるほどの才能がなかったと、この鬼殺隊本部までの道中で漏らしていたように、隠の男に抵抗するだけの力量はない。
それにしても「やりすぎだっ!」と叫びそうになるほどの一撃だった。いくらカナエが自重の軽い女性だとしても、地から突き上げるような肘鉄は肋骨の下から直に内臓へ衝撃を与える急所である。下手をすれば内臓破裂で命さえも危うくなるとカナエは理解しているのだろうか。
地に膝をつき、激痛のあまり意識を飛ばしそうになりながらも、隠の男は自らの職務を全うするかのように顔を上げた。その表情には驚きの色がありありと表れている。
男の使命は夜番の見回り。御館様が表だって護衛を置かない代わりに、こうして人知れず隠の者達が警戒している。更にこの男は鬼殺隊に入ってからそれなりの年月を重ねていた。
「ゴメンね後藤くん、全てが終わったら宿舎へ送ってあげるから」
「花柱様……? 亡くなったはずではっ」
それはつまり、花柱であったカナエの顔を見知っているということにだ。
他に人を呼ばれては厄介だとばかりに、カナエは腰から日輪刀を半身ほど引き抜く。その刀身には花粉のような粉末が付着しており、吹き付ける風にのって周囲に拡散されていった。まるで周囲に立ち込めた白い霧に色がつくかのようで。それはまるで薬のようでもあり、はたまた毒のようでもある。
「……これは?」
「眠りの花粉。花柱の本領発揮ってやつね。たん君は吸っちゃ駄目よ?」
これは明らかに鬼を滅するための呼吸ではない。どちらかと言えば、後藤と呼ばれた隠の男同様、密偵役を生業にする者が使う技である。ただ鬼を相手にするだけならば、首を斬っておしまいだ。
「ゆっくりとお眠りなさい。夏だから風邪をひくこともないでしょう」
「……待ってくれっ、……しょう――」
言葉半ばで意識が闇へと引き込まれる。
隠の男:後藤がもう口を開くことはもう、少なくとも今夜においてはありえなかった。
◇
屋敷の外周で起きた喧噪を、僅かながらもピクリと反応した者がいた。他ならぬ、捕らわれの御姫様となった神藤久遠だ。その様子は先ほどまでの姉との邂逅から、丸一日が経過した今も変わり無い。藤のツタを編んで作られた拘束縄で身体の自由を奪われ、その上で石壁に備えられた鎖で張り付けにされていた。服装もまるで天に捧げる生贄にでもしようというのか、白衣に緋袴という巫女服に着替えさせられている。
そこは地下牢。現代においては久しく使われることのなかった、鬼の研究用として過去の当主が作らせた牢獄だ。
力なくうつむき意識を失っている久遠の前には姉である産屋敷あまねと、蝶屋敷にて休んでいるはずの胡蝶しのぶが居る。
「奥方様、本当に……よろしいのですね?」
「無論です。鬼舞辻 無惨本人ではないとはいえ、鬼殺隊千年の歴史上初となる『最初の鬼』の血を調べられるのです。何を
脇に用意された机には様々な医療器具が整然と並べられている。
一言だけ確認の言を取ると、しのぶは数ある器具の中からメスを手に取り前へ進み出る。
個人的な感情で言わせてもらうなら、気が進みはしなかった。そこまで付き合いが長くないとはいえ、目の前の少女としのぶは共に語らい、口喧嘩までした仲だ。鬼の血を引いているとはいえ、その玉のような肌を切り裂くのは抵抗がある。
だが千載一遇の好機であるという奥方の言い分もまた、どうしようもないほどに正しい。
これは命令だ。鬼殺隊内でもっとも医学に精通しているのも自分だ。ならばこれは、蟲柱:胡蝶しのぶがやらねばならぬ使命なのだ。
「(……貴女も馬鹿ね。けっきょく、人と鬼が共生する未来なんてありえないんじゃない)――ではまず、血液検査から。その後に、鬼の体を調べるべく。……人体解剖を始めましょうか……」
しのぶは内心で目の前の少女に苦言を呈しつつ、これからの実験内容を口にする。
医学の発展はおびただしい動物実験と、人体解剖の賜物であることなど言うまでもない。しかして普通、死して検体となった人を解剖するものだ。生きている検体を実験するには、ねずみなどの動物を用いて検証する。
久遠は鬼だ。人でもなく、かといって動物でもない。そんな検体をこれから……生きながらにして切り刻まなければならない。
自分で宣言したとおり、まずは注射器による血液採取だ。なのにも関わらず、しのぶの手はこれから先に待つ苦行を思い震えていた。この有様では注射針を正確に刺せるかどうかも怪しい手付きだ。
(――ごめんなさい、久遠。神様どうか、お許しを――)
しのぶは手を動かし続ける。
心の中でただひたすら、懺悔と謝罪を繰り返しながら。
最後までお読み頂きありがとうございました。
隠の男:後藤君と久遠さんがピンチです。
特に久遠さんの現状がやヴぁいです。服が斬り刻まれるようなお色気展開ではありません。狂気の沙汰というやつです。
鬼殺隊側からしてみれば、無惨直系の血をひく久遠さんは貴重な被験者となります。彼女の身体を調べれば、もしかすると無惨の力の根源に迫り、あわよくば弱点なんかも見つかるかもしれません。
あまねさんはもはや姉の情を捨て去っています。一方のしのぶさんは未練たらたらです。
急げ炭治郎! 久遠さんが危ないぞっ!!
これより先は壮絶なネタバレ展開の連続となる予定です。
よろしければもう少し、お付き合いくださいな。
ではまた明日っ!