随分と間が開いてしまったので第3-9話[妹殺し]を読み直してから見ていただけると助かります。
第3-10話[本物の妹は]
「おにいちゃんなんか、おにいちゃんなんか。だいきらあああああああああああいっ!!!」
「違うっ! 俺は、君のお兄さんじゃない!!」
炭治郎の目の前で鬼の少女が泣いている。
どんなに可愛らしくとも、どんなの禰豆子に似ていようとも。この少女は自分の妹ではない。区別するなら万回殺しても足りない鬼の仲間だ。そんなことは分かりきった事実だ。だが頭で理解していようとも、炭治郎の身体が鬼の少女を斬るなと拒絶する。
ふと、炭治郎の視界から藤華の姿が消えた。
(――っ!? 右? 左? 違う……、後ろっ!!)
狂気に身を委ねた藤華の動きはこれまでより数段速い。もはや目で追うことは叶わず、自慢の鼻による「臭いの川」をたどって先を読むしか今の炭治郎には手立てがなかった。
しかし鼻はどこまでいっても眼の代わりにはなり得ない。数瞬、判断が遅れるのだ。
炭治郎は半ば勘で、両足の力を抜き体を地面へと落とす。
「なら……、ならっ! あたしの、あたしのおにいちゃん、どこぉ!!?」
背中から藤華の叫び声が聞こえる。やはり炭治郎の読みは的中していたのだ。
数瞬前まで炭治郎の首があった箇所に藤華の爪が走ると同時に、この二年間で伸びた後ろ髪が宙を舞った。本当にギリギリの間合いだ。もう一瞬、判断が遅れていたのなら跳ぶのは髪ではなく首であっただろう。
(……危なかった。この子が言葉を発した分、時間がかかったから避けられたんだっ!)
そう思いつつ、前方へと転がって間合いを取りながらも姿勢を整える。
再び眼前に捉えた鬼の少女は、炭治郎の言葉でいうならば「滅茶苦茶」だった。姿形のことを言っているのではない、「臭い」だ。
赤い臭いに、青い臭い。怒りの赤と悲しみの青、喜怒哀楽のうち、怒と哀の感情がグチャグチャになって彼女の周囲に吹き荒れている。大きさこそ池と水溜りくらい違えど、炭治朗はその臭いに覚えがあった。駄々をこねて炭治朗や禰豆子を困らせている時の末の弟、六太の臭いだ。
もはや鬼の少女は幼児と同様に駄々をこねているだけでしかない。自分の、自分だけの兄という存在を探しているだけなのだ。
それでも、今の炭治郎にとって強敵であることには変わりない。
基本的に炭治郎は、相手が見にまとう感情の「臭い」を読んで戦い方を組み立てる。しかし狂乱の最中にいる藤華には「戦略」というものが存在しないのだ。
ただ、何も考えず。無鉄砲に、感情の荒ぶるままに暴れまわっているだけでしかない。これが熟練の剣士であるならば、かえって読みやすいのかもしれない。だが生まれつき人の「臭い」を嗅ぎ、心を読み、対応することが身体に染み付いた炭治郎にとってはこの上なくやっかいだ。
「やあああああああっ! もう、やああああなのおおおおおおおっ!!」
駄々っ子が地団駄を踏むかのように、藤華は炭治郎に襲い掛かってくる。身体能力だけはよほど数多くの人を喰らってきたのか、凄まじいの一言だ。
「――くっ! なんとかしないと、なんとかっ!」
脳裏に焦りばかりが募ってゆく。
致命傷ではないものの、炭治郎の身体中に爪跡が残されてゆく。その出血によって最後には動けなくなるのだ。
眼前の光景を見守る、猪頭やモヒカン頭・無表情娘らといった候補生達は動かない。だが決して、負の感情からではない。これは炭治郎の修行なのだ。この先、鬼殺隊士になれば更に危険な鬼が待ち受けているという事実を知っている。
彼等にとって、炭治郎は同志ではあっても友ではない。この死闘で命を落とすのならば、炭治郎という男もそこまでの男であったというだけだ。
この戦いに割ってはいることが許されるのは、――あえて言うなれば、相棒と呼ばれる存在のみ。
共に生き、共に死ぬ。
炭治郎にとって、そんな存在は、一人しかいない。
そして、そんな存在は。この場に決して居るはずのない人物だった。
――お兄ちゃん、避けて。
その言葉は、決して声として響いたものではなかった。
炭治郎の耳ではなく、脳に直接響く声。他の誰もが聞こえない、兄だけが聞こえる声だった。
周囲に群生する針葉樹の上から飛び出す影。
両手に脇差のような刀を持ち、口には使い込まれた斧が鈍い光を放っている。この型を用いる存在は、炭治郎の記憶の中では一人しかありえない。
鬼化による身体強化に加え、「鬼の呼吸」により更なる速さを手に入れた異端の怪異。
とっさに横へと転がるように跳んだ炭治郎は、その姿をしっかりと視界に納めていた。
「なんで。……どうして此処に?」
炭治郎の問いに答えてくれる者はいない。
鱗滝に作ってもらったであろう面をかぶり、顔を隠していても。その人物が誰であるかなど、言うまでもない。
「どうしてお前が此処にいるんだよぉ……。禰豆子」
炭治郎の声は、他の鬼殺隊候補生には聞こえないようなボソリとした声だった。
最後までお読み頂き有難うございました。
藤襲山に禰豆子は入れないんじゃ? と思う方もいるかもしれませんが、それは今後のお話で……。
後編は五話程度の予定です。