(さよなら……。炭治郎、禰豆子っ!)
「水の呼吸 拾壱ノ型 凪」の絶対切断領域へ、死を覚悟した葵枝の身体が飛び込んでくる。
血液のような赤黒い爪を振りかぶりながら襲い掛かる速度は、まるで紗枝の身体ではないかのような俊敏さだった。下弦の伍、十二鬼月である累の糸は、操られる者の能力を数倍に高めるまでの効果を誇っている。本来、累が自分の
それに比べれば、ただ一人の鬼を思い通りに操るなんて造作もない。
炭治郎という名のひよっこも、更には水柱である義勇も。累から見れば、バカバカしいくらいに情に甘い軟弱物だ。
この世界の法則は弱肉強食。
力の弱い者は、強い者によって生かされているだけなのに。それすら理解できない人間は愚かにすぎる。精々、自分達の力の源にするほか価値がないのに。
なんでこんな簡単な理屈が理解できないんだろう?
ほら、今もかつては自分の母だったというだけの存在に刃を向けることができない。ひよっこの情に影響された水柱だって結局は同じだ。
累は内心、この後に待ち受ける自分の状況が楽しみで仕方がなかった。
自分もようやく、人間の中で最高の肉だと噂される「柱の肉」を喰らえるからだ。それに加え、夜叉の子と稀血の子の肉も付いてくる。これだけの上物を喰らったのなら、上弦の肆は固いだろう。未来における自分の姿を思えば、舌なめずりが止まらない。
だが――――。
「……えっ?」
累が驚きの声を漏らす。
予想通り、義勇は「凪」の結界に紗枝の身体が侵入しても一切動きを見せなかった。
その代わりに紗枝の身体を攫っていったのは此処に居る三人目の鬼、禰豆子だ。この中で一番脚力に自信があり、俊敏な鬼の少女。
阿吽の呼吸と言えば良いのだろうか。兄との間で交わされた瞬時の目配らせにより、自分の役目を理解した禰豆子は後方から紗枝の身体を奪い返したのだ。そのまま後方に居る鱗滝のもとへと退却し、渾身の力を籠めて紗枝の身体を押さえつけている。
「ね、ねず、こ……?」
「うううううう…………」
突然の事態に混乱する紗枝の声と、禰豆子の唸り声が重なり合う。
「……馬鹿じゃないの? それくらいで僕の糸は止められないって、さっき言ったよね?」
何かと思えばそんな単純な策かと言わんばかりに、累の中指がクイっと曲げられる。たとえ禰豆子が普通の鬼における倍の腕力を持っていようとも、累の糸によって強化された紗枝の力には及ばない。
……そんなことは百も承知。この短い時間で竈門兄弟が編み出した策は、ここからが本番であった。
「かあちゃん、ごめん。……ごめんよ。……我慢してな?」
そう、母に語りかけた炭治郎の手にあるのは。
かつての炭治郎の愛斧であり、今では禰豆子が持つ第参の武器と化した懐かしの仕事道具だった。
◇
――――ベキッ、ぐちゃ。
人間にとっては聞きなれない、しかして鬼にとっては食事の折によく聞く音が鱗滝邸の庭先に響き渡る。
しかし竈門兄弟にとっては二年前に一度、聞いた音だった。
人というモノの形をした鬼の頭蓋骨を割り、脳を潰す。
竈門兄妹が鱗滝と出会う切欠となった場所。狭霧山から一山はなれた神社での、禰豆子による始めての鬼喰らい。
その光景を今、ここに再現する。
ただし、あの時とは目的は正反対だ。炭治郎は、愛する母を解放するために。
何度も、何度も。斧を紗枝の頭蓋に叩きつけた。
「なっ、何を。何をやってるんだ!!?」
敵である累までもが驚きの声を張り上げる。
「鬼のっ、弱点はっ! 首だっ!! でも、身体の機能自体はっ、元人間である鬼も俺達と変わりないっ! ならっ、お前の糸が母ちゃんを操る起点はっ、ここだっ!!!」
普通の人間では到底出来ないし、やろうとも思わない手段を炭治郎は選択した。今だに額のアザからは血が流れ落ち、瞳からは大粒の涙が零れ落ち、顎で溶け合い血の涙となって土へと落ちる。こんな手段は取りたくなかった、母の身体を毛筋一本でさえ傷つけたくもなかった。
でも、それでも。
炭治郎に染み付いた経験の中から導き出された、母を救う唯一の手段が、コレだった。
母は、葵枝は。
拾壱ノ型「凪」の領域を通り抜けて襲い掛かってきた。結果、義勇は葵枝の身体を斬りつけはしなかった。
それは、葵枝の身体と累の指が糸によって繋がっていないことを意味する。先ほどまでの累が指で動かすような動作は虚偽の策略であったのだ。
ならば自然と葵枝の身体は、遠隔操作されているという結論に辿り付く。
人体の構造は複雑だ。例え十二鬼月の血気術であろうとも、人の身体を精密に操るには「すべての起点」が必要になる。身体の全ての箇所に信号を送り、統括する人体の機関。
それは「脳」以外にありえない。
累はこの時。
「狭霧山に居る鬼殺隊士と鬼を殺して来い」と命じた御方の言葉を思い出していた。
上下左右の概念が意味をなさない本丸の中、琵琶の音が木霊する。まるで波に飲まれた身体のように視界がぐるぐると回転するが、不思議と床に着いた足が浮き上がることはない。累の主人は、そんな琵琶の音を響かせる女の横で楽しそうに口を開いた。
「十二鬼月、下弦の伍であるお前でも、とても楽しい戦となるぞ。累?」
「と、いうと?」
人の姿に扮しているとはいえ、主人に対して敬語も使わない累。子供の姿はこういう時に得という話でもないのだろうが、主人は殊更楽しそうに言葉を続けた。
「相手は柱となったばかりの水柱。そのオマケは新米一人に鬼崩れが一人。更には『盾』も持たせた。……これでは逆につまらない、そう思うか?」
「……うん」
「安心しろ。私が面白いと言ったのはな、そのオマケの方だ」
「…………」
含み笑いを続けながら主人は言葉を紡ぎ続ける。そのじれったい言い様に、累は沈黙をもって抗議した。面倒だからさっさと結論を教えてほしいのだ。
「鬼の娘の方はな、世にも珍しい『稀血の子』だ。鬼化しているとはいえ、その肉は累を高みへと上らせてくれるだろう。だがな……」
そらきた、ここからが本題だ。でも鬼殺隊の柱より面白いとはどういうことだろうか。
「鬼殺の新米はな、『夜叉の子』だ」
「……やしゃのこ?」
「うむ、人の世には極稀に生まれるのだ。『鬼よりも鬼らしい心根をもった夜叉の子』が、な」
累の主人はそれ以上、何も教えてくれなかった。
「あとは見てのお楽しみとしておけ」という言葉のまま、累はこの場に立っている。その結果がこの光景だ。
主人が授けてくれた「盾」は今、他ならぬ息子の手によって破壊され続けている。もちろん、盾の再生さえ完了したのなら元通り。元の累の盾として活用できる。だがそれを十分に理解しているようで、親子の自傷行為は止まる気配を見せない。
もはや必要なしとばかりに、冨岡義勇は「凪」を解除する。これで正真正銘の一対一、水柱と下弦の伍の決闘である。
冨岡義勇の右足が一歩、前へと進み出る。それと同時に累の左足が一歩、後ろへと後退した。
これまでが自分の思い通りの展開となっていたためか、途端に場の空気が変貌した気がした。対峙するまでは「盾」なんて必要ないと思っていた累だ。だが、目の前に居る水柱はその身に膨大な怒りを内包している。
それは、下弦の伍たる累でさえ後退させるほどに満ち満ちていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
大至急、他の楽しい小説を読み心を安らげてください。
いや、ホント。どうしてこうなった。
読者様もそう言いたいでしょうが、作者の中の炭治郎君は壮絶な解決策を選択してしまいました。
炭治郎君にとって本来、鬼とは殺すものであり生かすものではありません。
それでも母を生かしながら抵抗なく拘束する手段を、今までの経験から模索した結果がコレもんです。
ちなみに、累が他の人間を遠隔操作できるというのはオリジナルです。原作の母鬼以上の事ができないと、カッコがつきませんもんね。
どうか気持ち悪いと思わずに今後もお付き合いいただければ幸いですorz
もう一度言おう。
どうしてこうなった!?