鬼の襲来はありません。ですが色々と伏線を散りばめた章でもありますので、のんびりとした感覚で読み進めていただければと思います。
今までが今まででしたので、ちょいとしたお休みを堪能する炭治郎達をお楽しみください。
東の空から日が昇り、周囲の景色が明らかになってゆく。
あの激動の夜があけ、新たな一日が始まった。ここからは鬼ではなく、人の時間帯だ。少なくとも夕方までは鬼の襲来を心配しなくとも良い。ならば昼の間に距離を稼いでおくべきだろうと炭治郎は判断する。喉の渇きを潤した禰豆子はとっくに箱へと逃げ込み、籠の中にいる母の紗枝は夜明け前から眠り続けていた。
禰豆子とは違い、母の紗枝は明確に人であった頃の人格を維持している。それはつまり、己が鬼となった現実をすべて突きつけられたという意味でもあるのだ。精神的な負担は人間である炭治郎には想像もつかない。むしろ、幼女の頃へと人格が戻ってしまった禰豆子の方が救われているのかもしれなかった。
ならば、今この時だけは休ませてあげよう。それは鱗滝からの忠告だった。
炭治郎とてまだまだ十五歳の少年である。
死んだとばかり思っていた母が生きているならば、その胸に思いっきり甘えたいと思うのは当然と言えば当然だ。だが母とて、母である前に人なのだ。いくら子供のためとはいえ、己の心を疎かにして良い理屈にはなりえない。
それに問題はもう一つある。
十二歳の人間だった頃の意志が退行し、幼女の思考となった禰豆子は母、紗枝のことが分からなかったのだ。
炭治郎とて、この問題を気にしなかったわけではない。自分の知る長女禰豆子は、下の兄弟達にやさしいお姉さんであった。しかし今となっては次女の花子、もしかしたら四男の六太くらいまでの年齢までに幼くなっている。その事実を、自分が兄だと認識しているからと考えないようにしてきたのである。
今では実の母である紗枝よりも、二年もの年月日を共に過ごした鱗滝の方を親だと認識しているかのようだ。
(大丈夫。……人間に、戻りさえすれば。禰豆子だって、きっと……!)
そんな不確定な未来に希望を繋ぐ炭治郎。しかしてそれは、あまりに楽観的だと言わざるを得なかった。
「…………たんじろう。…………………………炭治郎っ!」
「――っ。はっ、はい!」
自身の思考に埋没しながら歩いていた炭治郎は、鱗滝の声で現実へと戻って来た。
最近は、どうにも思考が悪い方向へと傾きがちだ。こんな調子では妹も母も、ましてや仇を討つことなど到底できるわけがない。心配事を心の奥底へ仕舞い込み、今は目の前にあることだけに視線を向けようと思いなおす。
「思うことは色々とあるであろうが、今はやるべき事をやるだけだ。……心配するな、とは言えんが。お前がそんな表情をしていては家族が悲しむぞ?」
師である鱗滝が心配そうに声をかけてくれる。そうだ、この世も決して悪いことばかりではない。つい先ほど、母が生きていたことを喜んだばかりではないか。
炭治郎は両の手を己の頬にパチンと叩きつけ、気合を入れなおした。
「ありがとうございます、鱗滝さん。もう、……大丈夫です」
「うむ。それで、これからのことだが。……東京へと向かうぞ」
「東京?」
地理の知識としては知っている。帝都とも呼ばれる首都だ。おそらくは、この国で一番の都会。……そんな所になぜ?
「やはり意識が飛んでいたようだな……。
そうだ。
最終選別に合格して、いきなり無惨の腹心とも言える十二鬼月に襲われて。意識が自分の目的ばかりに執着してしまったが鬼は無惨や十二鬼月だけではない。普通の生活を送る人達からすれば、野良の鬼とて十分に抗いがたい脅威なのだ。
鬼殺隊は鬼狩りの組織。力の及ばない民を守り、結果的にその根源たる無惨を斬る。いきなり本丸を攻略しようとしても、門が破壊できなければそれも叶わない。
「……はいっ!」
腹に気合を入れなおして、炭治郎は元気良く返事を返した。
当面の目的地は決まった。おそらく数日もあれば到着するだろうとは、竈門兄妹よりも人生経験のある鱗滝の言だ。田舎から出たことのない竈門兄妹にとっては、都会という存在も興味を引く対象である。
「禰豆子、東京だぞ。とうきょうっ!」
「う? う――っ!」
新しい世界への期待を抑えきれずに興奮する、子供らしい竈門兄妹の姿がそこにはあった。帝都東京において、また新たな鬼との出会いがあるなど思いもせずに。
◇
数日後。
土ばかりであった道が石畳に代わり、横を見れば田畑しかなかった風景が見上げるほどの建物へと変貌する。この都会では果てしなく、竈門兄妹はド田舎の世間知らずであった。
道行く人は煌びやかな着物に身を包み、言葉の意味こそ理解できるがその口調は乱雑であった田舎の方言とは比べるまでもない。それに加え、あらゆる建物がお祭りをやっているのかと思わんばかりに色とりどりの旗を掲げていたのには開いた口が塞がらなかった。
竈門兄妹にとって、帝都東京はもはや異世界である。
「慌てふためくな、と言っても無理な話なのであろうが。……これも人生勉強というものよな」
苦笑しながらも、このド田舎様御一行で唯一平然としているのは鱗滝だけであった。さすがは年長者、この魔都にも来訪経験があるらしい。
「今日はなにか、特別な日なんですか!!?」
すがり付くように炭治郎は師に問いかけた。もはや頼れる存在は隣に居る鱗滝のみなのだ。
「いや? この浅草は東京でも観光名所であるからな。毎日がこのようなお祭り騒ぎだ」
見てみろ、と言わんばかりにこの地区の象徴とも呼べる神社へ顎をしゃくる鱗滝。そこには、大鬼が持っても持ちきれない巨大な提灯が門に吊るされている。田舎らしく実用的な道具にしか目に覚えのない炭治郎にとって、その存在は意味不明なばかりだ。
「鳩の餌はいかが? 今日は沢山の鳩が餌を待ってるよ」
と、鳩ポッポの豆売りおばさんが炭治郎に声をかけてきた。
「……へっ? 鳩に餌をやるの? 自分で食べるんじゃなく??」
炭治郎の疑問に豆売りのおばさんが苦笑する。
この東京には飢餓という言葉が存在しないのだ。周囲を見れば、血色の良さそうな顔つきの人たちが楽しそうに豆を地面へ投げ捨てている。その日その日の生活が精いっぱいだった炭治郎にとって「鳥に餌をあげる娯楽」は狂気の沙汰ではなかった。
そんな中で動いたのは当然、鱗滝左近次その人である。
「……一袋もらおう。禰豆子は出れぬだろうから、夜になったら感想を教えてやりなさい」
「はっ、はい!?」
炭治郎は初めての経験ばかりでひたすら動揺するほかない。
そんな田舎者の反応を、周囲の人々はクスクスと言った笑い声で迎え入れていた。新しき文化に驚愕する者を見るのも、此処での娯楽の一つであるらしい。豆袋を開けてみれば、炭治郎が見たこともない上等の豆である。これを本当に鳥に喰わせるのかと叫びたくもなった。
だがまあ、郷に入りては郷に従えという格言もある。
炭治郎はおそるおそる、地面で食事に夢中となっている鳩へ豆を投げつけた。
だがそこは新米とはいえ鬼殺の隊士、一般人とは力が違う。炭治郎にとってはゆっくり投げたつもりでも、鳩にとってはそうではなかったらしい。豆を餌ではなく、凶器として認識した鳩はバサバサと飛び去ってしまった。
「わああああああああああっ!!? ごめんなさいっ、ごめんなさい!?」
訳も分からず謝罪の言葉を連呼する炭治郎。
そんな姿をクスクスと笑いながら眺めていた一人の女性が声をかけてきた。
「突然の声かけ、失礼します。貴方様はもしや、鱗滝左近次様でいらっしゃいますか?」
「いかにも……、儂は鱗滝だが。失礼だがどこかでお会いしたこと、が……っ!?」
「えっ? ――――――っ!!?」
突然の事態に、さすがの鱗滝も声が跳ね上がる。それは炭治郎も同様であった。鬼殺隊士として長年戦場を渡り歩いた鱗滝でさえ、この間近になるまで気づかなかったのだ。数瞬遅れて、炭治郎も違和感の正体を嗅ぎつける。
突然声をかけてきた若い女性、いや少女と言っても問題のない年の頃だ。
腰まで届く黒髪は月の光を浴びて煌めき、片目は人間、片目は鬼。漆黒の着物を身にまとった女性は、ここまで接近されても一行に気付かれることなく声をかけてきた。今までの経験からすれば、まったくもってありえない事態である。
それでも目の前に立つ女性の猛攻は止まらない。驚く炭治郎達を尻目に、内緒ごとのような小声で自己紹介を始めたのだ。
「驚かせてしまい、あいすみません。私の名は神藤久遠。母は人、父は鬼の半人半鬼という中途半端な女でございます。どうか、私の世間話にお付き合いくださいませね? 鱗滝様、禰豆子様、そして……竈門炭治郎様」
もはや楽しい観光気分など、遥か彼方へと飛び去ってしまった。
なぜならば。
新たな鬼の脅威が、今まさに炭治郎達へと襲いかかっている……かもしれなかったからである。
最後までお読み頂きありがとうございました。
大正時代の浅草を描写するにあたり、色々と調べていった結果。この頃の雷門の提灯は現代と比べてかなり小さかったようです。
それでも普通のサイズに比べたら特大サイズには違いないのですが、それを承知の上で改変させていただきました。
理由などほかでもない、田舎者の炭治郎が狼狽する姿を書きたかったからです(笑
そして最後に新キャラも登場しました。
実はまったくのオリジナルというわけではなく、原作に登場する人物を改変したものになります。
さあ、誰だかわかりますでしょうか?
正解は明日の投稿にて。
よろしければお付き合いください。