まずは、この屋敷で旅の疲れをゆっくりと癒してください――。
炭治郎一行を散々振り回したあげくに久遠がのたまった言葉は、初見で聞くなら慈愛に満ち溢れていた。だがその前がその前すぎたので、とてもじゃないがすんなりと受け入れられなかったのだ。それでも申し出は有難く受け入れざるを得なかったのだから、すでに炭治郎の立場はだいぶ弱い。
第一に、母である紗枝をうかつに人の街に連れ出すわけにもいかないという事情がある。鬼となってから人と触れ合った経験が長い禰豆子はともかく、あの悲劇から二年もの間鬼の手の内にあった母は自分を律することができない。何時どこで鬼としての本能を爆発させるか分からないのだ。
「炭治郎、アンタどうするの?」
それでも紗枝は竈門兄妹の母である。息子の将来を心配するのは当然のことだった。
「どうすると言われても……、突然すぎるよ」
「優柔不断ねえ……、こういうのは一期一会。アンタがたらたらしていると優良物件をかすめ取られるわよ! キパっと決めなさい、キパっと!!」
確かに母の言うとおり、久遠は優良物件である。資産家であることは言うに及ばず、鬼の禰豆子や紗枝にも理解がある。そしてなにより炭治郎に好意をもってくれている。これだけの条件が並べば、母が息子に発破をかけるのも無理はない。
この先あるはずもない、完全無欠な良縁なのだ。
「……私もすぐに返事をよこせとは申しません。炭治郎君にも心の準備というものが必要でしょう。まあ本来、これは男性が女性におくる言葉のような気もしますけど」
「う――――っ♪」
そんな久遠の言葉が母と共に炭治郎を追い詰める。そう、先導する久遠から若干離れているとはいえ、これは両人が居る場所で行われた母子の会話であった。かなり小声での会話だったのだが、きっちりと久遠の耳にも届いていたらしい。これが鬼としての力なのか、それとも単に地獄耳なのかは分からない。だが禰豆子も久遠の胸の中でご機嫌だ。
着々と外堀を埋められていく実感も、沸いてこようというものなのだ。
そんな炭治郎をよそに、本日の目的地に到着したようだった。
「先生、久遠です、お邪魔してもよろしいですか?」
「おひいさま、出迎えもせずにもうしわけありません!」
「いえ、今も患者様を治療中なのでしょう? お忙しいでしょうけど、ぜひ先生にもご紹介したき御方がいらっしゃいますの」
「紹介したい、御方?」
「はい。私の未来の旦那様です」
「――――――はい?」
木と障子紙でつくられた引き戸、その中から医療器具をガチャーンとぶちまける音がここまで聞こえてくる。
そりゃあ、そうだろう。というのが炭治郎の素直な感想だった。この引き戸の先に居る人物が、彼女とどんな関係なのかは知りえない。だが久遠から飛び出た単語は、慌てさせるには十分すぎるものだった。
未来の旦那様、と紹介された炭治郎とて顔を真っ赤にしている。別に了承したわけでもないのに、なにやら無性に気恥ずかしいのだ。
見上げてみれば「医務室」という表札が入り口に掲げられている。どうやらここが昨日、母がお世話になった場所に間違いないようだ。
「ご、ごめんなさい~!」
「久遠様、……お願いですから珠世様をからかわないでください」
無性に疲れた声を出しながら迎え入れてくれたのは、この部屋の主である女性ではなく小間使いの少年だった。
「ああ、
「……ねぎらって下さるなら余計な仕事を増やさないでください。毎夜のように貴方が捕獲してくるせいで、こっちはてんてこ舞いなのですから」
「それはほら、若いうちの苦労は買ってでもしろ。と言いますしね♪」
「はぁ、もういいです。……中へどうぞ、丁度いま散らかったところですから」
「お気遣いなく~」
「…………」
愈史郎と言う名の少年は皮肉いっぱいの返答で迎え入れたが、それぐらいで久遠が怯むわけもない。銀色に輝く医療器具が床に散乱するなか、炭治郎達は医務室の中へと足を踏み入れた。
愈史郎が忙しいというだけあり、意外と広い医務室内には十台ほどの治療用ベッドが全て使われていた。それぞれが真っ白なカーテンで囲われており、どんな人が寝ているかは窺い知ることはできない。だが炭治郎の鋭敏な嗅覚は、その正体をつきとめていた。
(ここに居る患者は全員、……鬼だ)
たとえ視界に捉えなくとも炭治郎は理解する。鬼独特の赤い臭いが、この部屋には充満しているという事実を。これまで凶器と狂気でしかぶつかってこなかった相手が、ここでは治療されているのだ。炭治郎より数倍の人生経験を持つ鱗滝でさえも初めて見る光景だったようで、天狗面の裏で瞳を見開いているようであった。
だが鬼である紗枝や禰豆子にとっては決して居心地の悪い空間ではないらしい。禰豆子はいぜんとして久遠の胸の中だし、紗枝もある程度は勝手知ったる様子だ。
「皆さんのご容態はいかがですか?」
「体調自体は安定していらっしゃいますよ。ただ……」
「やはり、食肉衝動だけは一朝一夕というわけにはまいりませんか」
食肉衝動。
おおよそ、美人さんの口から出る言葉とは思えない単語だ。鬼たる本能、人を喰らわずにはいられない強迫観念のことである。
「鬼という存在は脳髄の奥底まで『人を喰らい、力をつけよ』という命令が刻み付けられています。たとえ本人が拒否したとしても、食べずにはいられない。理性の乏しい鬼ならば尚更ですね」
患者である鬼の方へ視線を泳がせながら、珠世先生は無念そうな顔を見せる。その表情はなんとか救ってあげたいという、医師としての慈愛が籠められていた。
「ちょうど診察も一段落したところです。愈史郎、お茶の用意をお願いできますか?」
「はいっ、ただいま!」
この愈史郎と言う少年は、先生である珠世に心酔しているらしい。先ほどまでの疲れた顔が嘘のように走っていった。
どうやらまた、ここで炭治郎の既成概念が木っ端微塵に吹き飛ぶらしい。この東京に来てからというもの、驚きの連続でいい加減慣れてもよさそうなものだと誰もが思うだろう。しかしてそうは問屋が卸さない事もまた、誰もが思っている未来の事実であった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
鬼女医、珠世先生の登場です。
原作よりも少々お茶目な女性としております。なぜかって? 久遠さんのオモチャにしやすいからです(ゲス
それに伴い、愈史郎君は珠世先生に心酔しつつも苦労人な設定とさせてもらいました。
原作では鬼を人間へと戻す薬を開発していますが、この作品ではもう一つの目標を抱いてもらっております。
そのもう一つとは。。。?
今後のお話にご期待ください!