第八幕でございます。
原作でも大人気な、あの男のご登場です。
イメージにそぐわなかったらごめんなさい……。
決して、自然の冬山が作り出した風でも水でもなかった。
何か、速すぎる何かが通り過ぎたのだ。それは井戸から汲み上げたわけでも、周囲に降り積もった雪を溶かしたわけでもない水の波。この吹き荒れる冬山でも凍り付いていない水の流れが、自然の法則に逆らって宙を走る。
「……水の呼吸、壱ノ型。……水面斬り」
ボソリとした小さな呟きで言葉にされた声の先には、刀を持った黒髪の男が居た。
まさか、仏の手が差し伸べられたのだろうか。一瞬、炭治郎の心に希望の灯火がともる。
だが。
地獄の中に現れた仏と思った人物さえ、炭治郎にとっては仇となる運命にあった。
なぜなら。
自分の眼前を通り過ぎた水の斬撃は。
怨敵たる鬼舞辻 無惨と共に、鬼と成り果てた炭治郎の兄弟達の首をも跳ねていたのだから。
一瞬の静寂。
どうやって斬ったのか、炭治郎の目では追えるはずもない速度の一刀だった。
ただ、鉄砲水のような勢いで濁流が起こり、そのくせ標的とならなかった人物には何の抵抗も感じない。炭治郎がこれまでの人生で感じたことのない自然の法則に反した水の流れ。それと時を同じくして滑るように走る刃が、鎌で雑草を刈るかのように兄弟達の首を跳ねていった。
炭治郎は上を見上げる。
……竹雄、茂、花子、六太。
昨日まであんなに楽しく暮らしていた家族の首が、空を飛んでいる。もう数瞬後には地面に落ちて転がるだろう。
叫びたかった。
叫ぶ事で、自分の胸の中に張り詰めた悲しみを吐き出したかった。今の自分の周りには仇しかいない。愛する家族を鬼にした仇。愛する家族の首を跳ねた仇。
もはや感情という名の受け皿であるガラス容器の中身は溢れんばかり。この後に及んで、容器の心配などしていられなかった。
「うわあああああああああああああぁぁ――――――――ッ!!!」
その声が自分の喉から出ているとは信じられないほどの絶叫だった。
鬼と化した兄弟達を人間に戻す。それだけが最後の望みとして炭治郎の心を支えていた。だがそれも、この一瞬で叶わぬ夢となってしまった。
自分の身体に溢れる感情の濁流が止まらない。絶望と悲しみが荒れ狂い、その後に信じられないほどの憎しみと憎悪が渦巻いてゆく。
炭治郎は自分の魂に誓った。
今日、この瞬間を生涯わすれない。これから先の人生にどんな苦難があろうとも、この誓いだけは一生忘れるなと深く太く刻み込む。
許せない。
許してなるものか。
この場に居る二人、いつか、必ず。
自分の手で八つ裂きにしてやるっ!!!
炭治郎は立ち上がる。
何をしている。もう、こんな地面など拝んでいる場合ではない。
立て。そして傍に落ちている斧を手に取れ。
今、自分の目の前に仇が居るのだ。ならば、何をせねばならぬかなど決まっている。痛恨の極みだが鬼の方は今の自分ではどうしようもない。だが、もう一方はどうだ? 黒髪の軍服を纏った剣士はどうだ?
肌は自分と同じ色、瞳も赤く充血している訳ではない。
間違いなく鬼ではない。……人間だ。
ならば、なんとかなるかもしれない。
やれ、竈門炭治郎。
己は竈門家の長男で大黒柱。
俺がやらずして、……誰がやるっ!!!
心の中で山火事のような炎が荒れ狂う。だが、それでも。心の片隅、ほんの一欠けらだけが今の冬山のように冷たく輝いていた。
◇
「……たすけて。……助けてくださいっ!」
《まだだ、弱者になりきれ》
転がるように慌てふためきながら、炭治郎はこの地獄に乱入してきた剣士に向けてすがり付いた。
脳裏に思い浮かんだ一つの言葉。それは昨日の夜、三郎爺さんが寝しなに教えてくれた「鬼狩り様」という言葉だった。
禰豆子を抱えながら先ほどの一閃をあっさりと回避した鬼舞辻 無惨は、明確な敵意を軍服の剣士に向けて放っている。ならば、今は人である自分がどちらに付くかなど分かりきった答えだ。
「……後ろに居ろ。決して動くな」
炭治郎の必死の逃走を援護するかのように、軍服の剣士が前へ出る。彼の剣には今だ、纏わり付くかのように水の流れがたゆたっている。
次の瞬間、水の剣士と鬼による剣撃の応酬が始まった。その速さはまるで、人であることを捨てているようだった。何せ、炭治郎の眼では何をしているのかさえ見定められないのだ。鼓膜を破るかのような金属音がしたかと思えば、炭治郎の方にも火花が舞い散ってくる。
《まだ早い》
炭治郎は自分の唯一の武器である「鼻」をもって二人の感情をさぐる。
一方は漆黒に赤みが差したかのような憎しみをもって、もう一方は驚くことに炭治郎の鼻では「感情の色」を識別できなかった。
喜怒哀楽のどれも持たない剣士。呆然と見つめ続ける炭治郎の前で、鋼が衝突する金属音のみが響き渡る。
《今この場から生き延びるには、復讐を果たすには。この男を、利用しろ》
どれだけの時間が経っただろうか。最後に今までで一番大きな金属音を響かせて、鬼と剣士は距離をとった。
「……柱、……ではないか。水柱の継子か?」
「……」
「無口なのは、鱗滝に似たか?」
「――――ッ! 貴様が鱗滝さんの名を口にするなっ!!」
鱗滝という人物の名が剣士の逆鱗に触れたらしい。この時、水の剣士は初めて感情をあらわにする。
「クククッ。あの甘い水柱の継子ならば、こうすれば良い。新しき鬼、禰豆子よ。親である私が命ずる――――この男を、喰らえ」
「グググググッグゥ…………」
「どうした? 腹が減っているだろう。遠慮する事などない、罪悪感など覚える事もない。喰われる方が悪いのだ、捕食されるほど弱いという事実が罪なのだ」
その鬼の言葉は、今までとは打って変わって優しい口調で禰豆子の耳に入っていった。まるで何も知らない赤子に教えを授けるかのように。ゆっくりと、柔らかく。「鬼としての常識」を諭している。
「無惨……、貴様ぁあ!!」
水の剣士が更に怒りを顕わにする。
「ハハハッ、何を怒る? 貴様等の職務に忠実な結果ではないか。鬼殺隊は鬼を斬る非政府組織。その一員たるお前が、わざわざ鬼を斬る舞台を用意してやったのだぞ? 感謝してもらいたいくらいだ」
そう言いながら、無惨と呼ばれた鬼は後ろへと後退した。これから始まる見世物を特等席で観戦するために、この優しい剣士が兄の見守る前で妹を斬る光景を見せ付ける為に。
一方。
目の前の光景を見守りながら、炭治郎の心は恐怖に支配された顔とは真逆に冷め切っていた。
《――――大丈夫。この男は「黄色い」。禰豆子も俺も、決して見捨てない。ならば勝負は、あの鬼が斬られてからだっ!!》
最後までお読み頂きありがとうございました。
この場で限りなく無力な炭治朗君。
それでも彼には何か考えがあるようです。それがどんなものか、もう少々お待ち下さい。