「なんで、……どうして!?」
敵地である
炭治郎は自身の身体に起きた変異を信じられずにいた。
それと同時に、感覚的にではあるが異変の原因にも心当たりがあった。
帝都東京で今の自分に訪れるはずのなかった平穏。そんな穏やかな生活の中で、炭治郎はかつての温厚な少年の姿を取り戻していた。いや、取り戻してしまったと言った方が正しいのかもしれない。
他ならぬ鬼の手によって自分の命よりも大切な家族を鬼へと
それに加えてこの那田蜘蛛山討伐隊に参加してから突きつけられた「裏切り者」という風評被害。心の支えであった妹とは離れ離れになり、新しき友人となった伊之助と善逸は自分の事だけで精一杯だ。
その平穏が、悲しみが。「気熱の呼吸」から炎を奪い去ったのだ。気熱の蒸気を作り出すはずの
「ね、ねえ。遠ざかるどころか、段々と俺の体に蜘蛛が登って来てる気がするんだけど……」
善逸がガクガクと震えながら、自分の現状を伝えてくる。
蜘蛛に限らず、生き物という存在は危険だと判断したなら逃げてしまうし、快適だと思うなら近づいてくる。炭治郎の「水」が沸点に達しなかったことで、蜘蛛達は此処が暖かくも住みやすい場所と認識した。これが灼熱の空気であるならば、蜘蛛達も危険を察知して逃げていただろう。だが湿度が高く、中途半端に暖かい空間は虫がもっとも好む環境だ。炭治郎の中途半端な気熱は害虫を追い払うのではなく、逆に集めてしまう結果となっていた。
「もう、もう良いよな? ……そもそもこんなちっちぇ虫に、俺様が恐れる必要なんかねえんだよっ!」
身体中を蜘蛛が這い回る嫌悪感は伊之助とて同じらしい。
それまでは炭治郎の言葉に従って動かずにいた伊之助も、身体がプルプルと震え始めている。もとより我慢強い性格でもないのだろう。もはや辛抱などできるはずもない。
「もう少し、もう少しだけ待ってくれっ! くそっ、出ろ。……出てくれ、俺の気熱ぅ!!」
炭治郎は現状を打開すべく
しかして、そんな努力だけで戻るほど鬼殺隊の呼吸は甘くはなかった。先ほどまで皮膚から出ていた僅かな湯気も周囲に消え溶け、……しまいには僅かばかりの液体が日輪刀の背から湧き出る。それは師である鱗滝が才無しと否定した「水の呼吸」であった。
「……そんな」
振るえ続ける手の中、日輪刀から湧き出た僅かばかりの水が
そして、悲劇は更に連鎖する。
「うがあああああああっ! カサカサカサカサ、うざってぇんだよぉ!!」
「もういやあああああああああああああっ!!」
我慢の限界を越えた伊之助が暴れだし、恐怖に耐え切れなくなった善逸が悲鳴をあげている。
那田蜘蛛山討伐隊:
規律なき集団はもはや暴徒でしかない。夜盗や山賊と呼ばれる集団と、軍隊などに代表される戦闘集団との決定的な違いはここにあるのだ。隊の長が手足となって人を操るからこそ、戦力は最大に発揮される。
炭治郎はこの班の指揮官ではない。本当の指揮官は、後方にて
血走った瞳が狂気に染まり、
「やはり裏切ったな貴様っ! わざと俺達を誘い込み、蜘蛛を集め、此処で始末するつもりだったんだろう!?」
「違うっ、俺は……、俺はこの状況をなんとかしようとっ!」
「だまれっ、そもそもなぜ貴様の妹だけが鬼に殺されていないのだ。俺達の兄妹や家族は一人残らず殺され、食われたというのにっ!!」
「そ、それは……」
「真実を言い当ててやろうか。……それは、貴様達兄妹が鬼に魂を売ったからだ。身体も魂も、何もかも鬼へと売り払ったからだ。違うかっ――――!!!」
「ち、が……う。俺は、おれはっ!」
先輩隊士の糾弾を必死に否定する炭治郎。だがあの時、なぜ鬼舞辻 無惨が自分達兄妹を殺さなかったのか。それは誰にも分からない。
もしかしてこれもまた、あの鬼が仕組んだ未来なのだろうか。もはや自分の意志が本当に己のものなのかさえ信じられない。完全に蜘蛛鬼の罠に
こうしている間にも、蜘蛛達は足から腰、腰から脳天までも
絶対絶命の窮地であった。隊士達は僅かばかり見える口から憎しみの言葉を吐き、蜘蛛の隙間から憎悪の視線を向けてくる。炭治郎の鋭敏な嗅覚が、赤い怨嗟の心を臭いとして届けてくる。
炭治郎の望みはただ、仇を討ち、家族を救いたいだけである。それがこれほどまでに難しく、そして罪深いものなのだろうか。
「あ、……ああっ。アアアアあああああああああああああああああああっ!!!」
今、この場に。
あの頼れる助言を授けてくれる師、鱗滝左近次はいない。自らを盾として守ってくれた冨岡義勇もいない。悲しみに包まれた時、優しく慰めてくれる久遠もいない。
何よりも、相棒として。これから先、共に戦ってゆこうと誓い合った大切な妹である禰豆子もいない。
炭治郎は今、新たな岐路に立たされていた。
己の力のみで、この窮地を脱しなければならないのだ。
それが出来なければ、死あるのみ。そんな現実が自分の真横にまで、炭治郎の頬を撫でるかのように感じるほど間近に迫っていた。
◇
体内に毒がまわり続けて、どれほどの時間がたっただろうか。
もはや明確な意識もあるわけがなく、朧気な意識で炭治郎は思う。
先輩隊士の糾弾もあながち間違いではない。自分は気熱によって毒を熱処理できるから大丈夫、その安易な考えから毒蜘蛛の排除役をかって出たことが裏目にでたのだ。
その代償は果てしなく重い結果となって戻ってきた。部隊の全滅という最悪の結末と、仲間であるはずの隊士達から突きつけられた憎悪の念である。
(俺の失敗で班を、……伊之助や善逸という大切な友人さえ殺してしまったんだ。裏切り者と言われて当然じゃないか……)
炭治郎の心はもはや折れかけていた。
視界は随分前から真っ暗だ。外から自身を見るなら巨大な蜘蛛の山に見えたことだろう。加えて全身の皮膚という皮膚を噛まれ、毒が周り、こまかく
そんな瀕死と呼ぶに相応しい状況の中、炭治郎は想う。
本部に残してきた禰豆子は無事であろうかと。
これだけ用意周到に罠を張り巡らせていた蜘蛛達だ。もしかすると本部の方へも何らかの罠を仕掛けているかもしれない。
いや、たとえ蜘蛛の襲撃がなくとも。これまで自分に向けられていた鬼殺隊士達の差別的な憎悪が、ついに禰豆子へと向けられるかもしれない。
昼間の鬼など、決して外に出られぬか弱い存在でしかない。
もし、外へ引きずり出され。日の光に焼かれていたのなら。
炭治郎は人間さえも殺す、本当の化物へと変貌するだろう。
禰豆子、ねずこ。
禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ、禰豆子、ねずこ。
僅かばかりに残った命の灯火で、ひたすら妹の名を念じ続ける。
「……やめろ、…………やめてくれ」
最後の力を振り絞って口を開けば、蜘蛛は何の遠慮もなく喉奥まで入り込んできた。これでもはや、言葉も口にすることも、息をすることさえできない。
ただただ、自分の命より大切な妹の無事を祈る。
それが今わの際に想う兄、竈門炭治朗の最後となる願いであった。
――視界が完全に暗転し、炭治郎は走馬灯という名の夢を見る。
ここは那田蜘蛛山対策本部。接収された木造民家の一つだ。
「……っ! ――――っ!!」
ドン、ドンと。
炭治郎の目の前で、禰豆子は必死に木箱から脱出しようともがいていた。その周囲には不敵に笑う何者かの影。それがもはや人なのか鬼なのかさえ解らない。
逃げてくれ。頼むから、禰豆子だけでも逃げてくれ……!
自分はどうなろうが構わない。生きる事さえ罪だと言うのなら死んでやる。
だから、せめて。禰豆子だけは……。禰豆子だけは……っ!!
どんなに願おうとも、炭治郎の望みは叶わない。もはや今わの際に見る夢さえも、闇の中へ閉ざされようとしている。
薄れ行く意識の中、もう一人の影に光りがさす。
その人物の正体は。父でもなく、母でもなく、妹でもなく。
どれだけ呪っても呪い足りない宿敵、鬼舞辻 無惨の愉悦に満ちた笑顔だった――。
最後までお読み頂きありがとうございました。
前半戦の山場に突入し、炭治郎君が可愛そうなほどに追い詰められています。
ちゃんと(?)後で救ってあげるからね。ごめんね。とでも言いたくなりそうです(汗
前回と今回のお話で炭治郎君は「気熱の呼吸」を失ってしまいました。
「理性の水」を「復讐心の炎」で気化させた呼吸が気熱です。
しかして東京での平穏な日々と義勇の献身が炭治郎の心から復讐の熱を奪い、隊士達から裏切り者認定された悲しみが拍車をかけてしまっています。
果たしてこの先、一体どうなってしまうのやら。
どうぞ、今後のお話をお待ち下さい。
自分の文が読者様に伝わっているのか不安な日々を送る作者より。