おおよそ一週間前から始まった新しい日常は、ひどく心地の良いモノだった。
ホワイトチャペルに居た頃は、もっと孤独で質素な朝だったのに、こんな温もりを知ってしまった以上は戻れそうにない。
まあ戻りたいと云ってもシェーンが許してくれないだろうが、ともかく。アーシェにとっては充実した毎日を過ごしていた。
アーサーを殺してから、すでにひと月が経っている。
あの日、命がけの追いかけっこに興じたあの夜、追い付いたブラッドに軽い応急処置を受けた後、組織の息がかかった病院に担ぎ込まれ、カリスと一緒に手当てを受けた。
幸いにもカリスに怪我はなく、極度の疲労による昏睡と判断され、一週間もしないうちに退院していった。
しかしアーシェの方は、右鎖骨の骨折と、左腕の脱臼、左手の熱傷、それに大小さまざまな擦り傷と、結構な重傷のまま一週間近くも昏睡してしまい、やっと目覚めた。
最初に見たのはシェーンの顔だった。彼女は一日も欠かさずに見舞いに来ては、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていたようで、目覚めた直後は声が枯れるくらい泣いて、なかなかに手が付けられない状態だった。
彼女は常に傍にいた。アカデミーはどうしたのかと訊けば「アーシェがいないアカデミーなんて行く意味ない」とまで云い出す始末だ。
こんな自分のために落第してはあまりにも悲しいので、なんとか説得しようとしたけれど、聞き耳を持たないで退院まで文字通り付きっ切りの看病だった。
けがの治療と並行して、人狼の治療も行われた。治療と云っても大したことはなくて、狼草を煎じた薬湯を飲むだけだ。
狼草はチベットの限られた地域に自生する薬草で、後天的に人狼となってしまった者たちを人に戻すための唯一の手段だ。
食事毎にこの薬湯を飲むわけだが、これが存外に不味い。良薬口に苦しとはどこの国の言葉だったか、まさにその言葉通りの味だったのは苦い思い出だ。
組織との関係はまだ続いていて、今まで以上に密な関係になっている。
デュオロンへインは彼女を組織に迎え入れたからもう仲間として扱っていたし、アーシェもあんなことがあった手前、全てを忘れて日常に戻るなんてできそうになかった。
まだ仮ではあるけれど組織の一員になったアーシェの任務は、情報を集めること。今だロンドンには多くの怪異が存在し、霧の夜を闊歩している。それらのウワサや目撃情報を集めてほうこくすることが、アーシェに組織に課せられた任務だ。
カリスとは入院中に会うことがなかったが、クラブで再会した時にぎこちないながらもお互いの無事を喜んだ。
彼女はやはり、イーリングで狼に変身するアーサーを目撃していたようで、誰にも話すことが出来ず怯えていたらしい。
アーシェに受けた暴行の記憶は、まだ暗く影を落としてる。きっとどれだけ時が経っても、傷が癒えることはない。
「そういえば、カリス。あの持っていた手紙はなんだったんだい?」
「あれは、ヤードに……電報を送ろうと思って……」
「人狼のことを云ったって、取り合ってくれないだろうに」
「でもその時は、さ、最善だと……」
「まあ、ある意味最善ではあったけどね」
「助けて、くれて……あの時は、ありがとう」
クラブの部屋で話していると、やはり言葉の端々に硬さが目立つけれど、自分なりに折り合いをつけてなんとかアーシェと元の関係に戻ろうとしていた。カリス自身は、アーサーを良き友人以上に思っていたから、唯一になってしまった友人を失いたくなと思っているのだろう。
アーシェも気持ちは同じだ。カリスは大切な友人で、失いたくない存在である。完全に元の関係に戻れるのはいつになるかわからないが、いつかは戻れると二人は信じている。
シェーンと一緒に屋敷に帰ると、何やらメードたちが騒がしい。またぞろシェーンが何か企んだのだろうと見れば、やっぱり彼女は悪い顔でほくそ笑んでいた。
「今度は何をしでかしたんだい、シェーン」
「変な云い方しないで。楽しいことを思いついたから、朝にちょっとね」
「はあ……使用人を困らせたらだめじゃないか」
「大丈夫よ。そんな心配しなくても、困らせたりしてないわ」
「胡乱な言葉だなあ」
「もう、そんなこと云わないでよ。ほら、行きましょう。楽しことが待ってるわよ」
「楽しいこと?」
何やら嬉しそうなシェーンに手を引かれてダンスホールに入ると、まるでパーティーでも開かれるんじゃあないかと思うほどきれいな飾り付けがされている。
天井から吊るされた機関シャンデリアは普段以上に煌びやかで、白いテーブルグロスの敷かれた長机には、氷で冷やされたシャンパンと料理が並んでいる。
呆気に取られていると、シェーンが悪戯っ子の笑みを浮かべていた。
「あのドレス、着たかったでしょう?」
買ってくれた純白のドレスを最高の舞台で着せてあげようと、彼女はこんなパーティーを準備していたようだ。
「さあアーシェ、着替えてきて。わたしも着替えてくるから」
彼女が手を叩くと、アルとメルに両腕を抱えられて逃げ道を塞がれた。こういう時、シェーンには何を云っても無駄である。
アーシェは二人に引きずられながら、やれやれと溜め息を吐いて、成り行きに身を任せることにした。
アルとメルの手際にはまったく舌を巻く。不慣れなアーシェにドレスを着せると、髪を丁寧に結い、薄く化粧を施して、よく見賀れた白のヒールを履かせる。十分も経たずにアーシェはお姫様と見違う美しい姿に変身していた。
姿見で自分の姿を見た時、彼女はこれが本当に自分なのかと疑った。いつも男装ばかりしていたから、こんなにも女性らしい姿は新鮮に映る。なんだか生まれ変わったみたいだった。
ホールに戻ると、シェーンがすでに着替えて待っていた。
どうやらアーシェのドレスに合わせて選んだらしい。黒を基調にした胸元の開いたドレスと黒い長手袋が彼女の白く美しい肌を際立たさせて、薄く紅を引いた唇はその艶やかさを強調している。もしアーシェが男であったのなら、一目で惚れていたくらいだ。
「ふふっ、見違えるほど綺麗ね」
「君ほどじゃないさ」
「ううん、貴女の方が綺麗よ。惚れ直しちゃったわ」
優しく抱きしめられて、アーシェは自分の鼓動が聞こえてやしないかと心配してしまう。こんなにも鼓動をうるさく思ったのは、生まれて初めてだった。
「すごくドキドキしてる……」
「そりゃあ、ね。君の姿を見たら、誰だってこうなるさ」
「あはっ、相変わらず上手ね」
そっと口づけをして、シェーンが手を取る。
蒸気式ジュークボックスが起動して、ジャズのスタンダード・ナンバーが流れると、二人だけのダンスパーティーがゆっくりと始まった。
「わ、わっ……こ、これでいいのかい?」
「そう、その調子よ。ゆっくりでいいからね」
右。左。右。左。
リードに従ってステップを踏む。
良家の娘である彼女にはダンスの心得があり、足を踏まないよう必至なアーシェをなんなく操った。二人のダンスは不格好だけれど楽しげだ。
「ねえ、アーシェ。好きよ、とっても」
「あたしもだよ、シェーン」
睦言を紡いで、笑い合う。
機関シャンデリアの明かりが、二人を優しく包み込んでいた。