小さく溜め息を吐いて、すっかり冷めてしまったアールグレイの紅茶を飲み乾す。
行きつけの小さなカフェーで、アーシェは今日の集まりで書き写したノートを見ていた。
ノートを写し終わるなりさっさと彼女の家を出たのを、彼女は少し後悔していた。思い出すのは、やはりアーサーの好ましくない態度と、カリスの関係である。もう少しフォローを入れるべきだったかもしれない。
確かにカリスはいわゆる変人の類だ。
しかしどのような人柄であれ、カリスは立派な女性だ。そして、女性には紳士的に接するべき、というのが英國紳士の基本である。
しかし、アーサーはカリスを毛嫌いしている。
その頭脳の明晰さを認めてはいるものの、彼女の性格や風貌が気に入らない。加えて、アーシェと仲が良いというのもそれを加速させていた。
彼はアーシェに、もっと相応しい友人を持ってほしいと思っていて、だからあそこまで露骨な態度で接していた。
小さい男だ、だからアーシェは彼をいまいち好きになれない。
再び小さな溜め息をひとつ吐くと同時に、カフェーのドアーが開いて見目美しい一人の少女が入ってきた。
美麗なレースの施された、黄色の華やかなドレスに身を包んだ背の低い少女は、彼女がよく知る人だった。
見違うはずもない。
あの綺麗なブロンドの髪を持つのは、親友以外に一人としていない。
「シェーン!」
驚いて声を上げると少女もびっくりして、
「あら、アーシェじゃない。どうしたの、こんなところで」
「それはこっちのセリフだよ。君こそどうしたんだい、今日は知り合いの所へ出掛けるって云ったじゃないか」
訊けば、シェーンは露骨に憂鬱を含んだ顔で、
「口を開けば自慢話ばっかりなんだもの。つまんないからこっそり抜け出してきちゃった」
シェーン・リンスは、ロンドンでは名の知れた貴族の一人娘だ。けれど、彼女自身はそのことを誇る気もなければ、むしろ嫌っている節がある。
生粋のロンドンっ子でありながら、新大陸の三文雑誌ダイム・ノベルを好む彼女は、格式ばった家が枷に思えてしかたないのだろう。
「ははっ。それはまた君らしいね、シェーン」
穏やかに笑ってアーシェが座り直すと、シェーンもアーシェの向かいに座り、愛用の煤除け傘をテーブルに立てかけた。
シェーンとの会話はとても楽しい。
彼女は博識にして気品にも溢れているけれど、いつだって自分の言葉で物事を表現する。
粗暴で感情を隠そうともしないけれど、決して自分を偽らない在り方は、アーシェも憧れるほど美しくて格好良い。
「ホントに無理。汚い欲望が透けて見えるんですもの、気付かないとでも思ってるのかしら、あのマヌケ。ああ、やだ。厭だわ、醜い男の妄想の糧になるなんて」
「まあ、君は同性から見ても美しいからね。男たちがそういう目で見るのは、しかたのないことだよ」
「男って生き物はホント救いようがないわね。滅びれば良いのに……そうだ。アーシェ、アーシェはどう? 同性から見ても、わたしは美しいんでしょう? なら、貴女から見たら、どんな風なの?」
「話す姿は年頃の女の子らしくて可愛いし、家柄を決して驕らず凛としている姿も素敵で、正直に云えば憧れる。良い女だよ、君は。あたしが男だったらほっとかないなって思う。それこそ、怪人のように君を攫っていただろうね」
「あら、そうなの? ふふっ、貴女に攫わられるなら悪くないわね……」
お互いに笑い合って、アーシェは新しく頼んだローズヒップの紅茶に口をつける。天井から吊るされた機関ランプの明かりが、シェーンの碧い瞳を輝かせた。真剣さの中に愉悦の混じった目だ。
シェーンにはそちらの気があった。
何度もさりげないアプローチは受けてきたし、一度だけだけれど、大胆な夜の誘いまでしてきたことだってある。
でもアーシェはそちらの世界に興味がないので、誘いは全部袖に振っていた。”同性愛は非生産的”なんて馬鹿なことを云うつもりはない。
ただ、恋愛そのものに興味がないだけで。
「まったく諦めが悪いんだから」
「そっちこそ、一回くらい良いじゃない。痛くなんかしないから」
「そう云われてもね、あたしは愛とか恋とか、そういうのには興味ないし」
「もうっ、アーシェのいけず」
むくれた彼女は、アップルティーで唇を濡らしてから、これ見よがしに溜め息を吐く。
いつもそう。
誘いを断るとこうして露骨にふくれっ面をする。
ここがシェーン・リンスの一番可愛いところだ。
「そう膨れないでよ。ほら、前向きに考えると良い。あたしに興味を持たせればって。逆転の発想ってやつだね」
「……貴女が興味を持つとは思えないのだけれど」
「どうかな? 案外、強引に押し通せばいけるかもしれないよ? 何せあたしは押しに弱いタイプだから。……なーんてね」
「へぇ……?」
にやりと意地悪く笑ったシェーンを見て、アーシェはもしかして失言だったかなと嫌な予感を覚える。
そしてその予感は、案の定と云うべきか、現実のものとなって彼女に降りかかった。
「実はね、アーシェ」とシェーン。「わたし、帰りたくないの」
「またわざとらしい誘い文句だね」
「あら、本当よ。今日は親戚連中の家に泊まるって、お父様が云ったんですもの。あんな奴らの家で眠るなんて、何をされるかわかったものじゃないわ」
ここで彼女は席を移ってアーシェの隣に座り、ゆっくりと妖艶な動作でしなだれかかった。
香水の匂やかが鼻腔をなでる。
吸い付くような白い肌は機関ランプの明かりを受けて煌めき、頬は上気してその妖艶さを強調していた。
「やめなよ、はしたないんだから」
女性でも倒錯してしまいそうな色香に当てられて、顔が熱くなるのを感じたアーシェは、逃げようと身体を仰け反らせる。
対してシェーンはアーシェの片腕を抱いて、
「貴女だけよ、こんなことをするのは。それに、人目なんて気にならないわ。ここにはわたしと、貴女と、カウンターの奥にいる素敵なおじ様だけですもの」
「まさか、ここは君の家の?」
「どうかしらね?」
「……と、とにかく。とにかく無理だよ、シェーン。ホワイトチャペルに君を連れて行くわけにはいかない。あそこは悪漢の巣窟なんだ」
「大丈夫よ、テムズのほとりに別荘があるの。そこへ行きましょう?」
「べ、別荘って……」
ますます腕に力を込めて、シェーンは見つめてくる。
アーシェはほとほと困り果てて、前髪を指先でもてあそんだ。
強気な笑みを湛えた彼女の顔から視線を逸らし、はさてどうしたものかと考えてみる。
自身の不用意な発言が招いたこととはいえ、まさかここまでのことをしてくるとは思ってもみなかった。そもそも、この店が彼女の息がかかった場所であることが予想の外だ。
「大丈夫。貴女の嫌がることはしないわ、優しくしてあげる。だから……、ね?」
小鳥のさえずりが耳をくすぐる。
アーシェは自分の迂闊さを呪う。
あれよあれよの間にがっちりと腕を掴まれ、席を立てないように塞がれてしまった。
ここに至っては、もう逃げることはできないだろう。シェーンの情熱を甘く見ていた。
しかし、これは蒔いてしまった種なのだから、責任を持って最後まで面倒見るのが筋というものだ。甚だ不本意だけれど。
心中で長々と弁解していみるけれど、本当に嫌ならばとっくの昔に絶交しているはずなわけで。
結局のところ。
見目美しい彼女に誘われるのは、アーシェも満更ではないのである。
「ハァ……わかった。わかったよ、シェーン。あたしの負けだよ」
降参だと片手を上げて首を振れば、シェーンは悪戯娘いたずらむすめの笑みを浮かべて、アーシェの頬に口づけをする。
「ふふっ、やっと選んでくれたわね。それじゃあ、さっそく行きましょう?」
「まあ、待ってよ。まだ紅茶を全部飲んでないんだ」
熱くなった顔をシェーンから背ける。
気が付けば、アーサーとカリスのことなんて頭から抜け落ちていた。もしかしたら、忘れたかったのかもしれない。
カフェーを出て一級ガーニーを探している間も、シェーンはアーシェから離れることはなかった。
腕に抱き着いて頬擦りしたり鼻歌を歌ったり、恋人とのデートを楽しむみたいに上機嫌なままだった。
ガーニーを捉まえてからはもっと上機嫌になって、膝の上に座ってこようとまでしたのだから、彼女の浮かれっぷりというのがわかる。当のアーシェにとっては堪ったものではないが、しかし、いやな気分ではなかった。
「さあ、シェーン。お手をどうぞ」
「ありがとう、アーシェ」
ガーニーが止まると、アーシェは努めて紳士的な態度でシェーンに右手を差し出すと、彼女は穏やかに微笑んだ。
いつもの光景であった。
リンス家が所有するこの別荘、ウェストミンスターはテムズのほとりに建つゴシック・リヴァイヴァル様式の屋敷は、元々はフランスの中流貴族が使っていたのだけれど、悲しいことにはその貴族が没落してしまい、売りに出されていたのをリンス家が買い取って現在は別荘として使っている。
小規模ながらも美しい庭園や、美麗な装飾の施された内装は、フランス貴族が使っていた確かな証拠と云えよう。
屋敷に入ると、使用人たちが恭しい態度で出迎えてくれた。
急な来訪にもかかわらず、随分と用意が良いと思って訊けば、シェーンに云われて結構前から準備していたそうだ。
すでに夕食の準備ができていて、バスルームもすでに使えるようにしてあるというのだから、アーシェは呆れてしまう。
まったく随分な根回しぶりだ。
シェーンの本気が窺い知れる。
案内に従って食堂に入ると、テーブルにはいかにも高級そうな料理たちが並んでいた。牛肉のプディングに、鴨肉のグリル、蒸し牡蠣。フルーツの盛り合わせなんかもある。
どれも一日二日でおいそれと用意できる品ではない。
結構前から、使用人の彼らはそう云っていたけれど、シェーンはいつから計画を立てていたのだろうか。
「君はつくづく恐ろしいことをするね。背筋が凍っちゃいそうだ」
「さて、何のことかしら?」
テーブルに並ぶ料理を前にして苦笑すると、シェーンはとぼけたように肩を竦めた。
ナイフで鴨肉のプティングを切り取り、口に運ぶ。肉の旨味を最大限に引き出す繊細な調理と味付けに、アーシェは思わず声を上げた。
さすが良家に仕える料理人と云ったところか。食べ慣れた焦げ臭い鶏肉のグリルとは大違いだ。
ワインも良い。アーシェはワインについてよく知らないけれど、この白く透明なワインの良さは一口でわかる。とても上質なものだ。決して庶民には手が届かないほどに。
「あら、ワインの減りが早いわね。アーシェ」
「うん。こういうのはあまり飲まないから、なんだか新鮮でね。つい」
「フフッ、貴女ならきっと気に入ると思ったわ」
「はははは……あれ……少し、酔ってきたかな」
片手で赤くなった顔を押えて、アーシェは長く息を吐き出す。
酒にはそれなりに強い方だと思っていたけれど、どうやら今回は相性が悪かったらしい。随分と酔いが回る。
「大丈夫?」
「ああ。ああ、うん。大丈夫。ワインはこれくらいにしておくよ」
「それが良いわ。飲み過ぎで倒れてしまったら、たいへんだもの」
「あたしとしては、もう倒れてしまいたいけれどね……」
「ダメよ、そしたら我慢できなくなっちゃうわ」
空けたワイングラスを置くと、アーシェは力なく笑った。