少し時間がかかってしまった。
夜も更けた頃、シェーンと買い物という名のデートを終えて地下鉄の駅に降りたアーシェは、二級車両の座席に腰を下ろしてほうと浅く息をする。
どうしても駄々をこねるものだから、アーシェは仕方なく彼女を家に連れて行くことにしたけれど、さすがに車で行けば良かったかな。と、地下鉄道に揺られながら後悔した。
地下鉄内の空気は呼吸が苦しくなるほど汚れていて、まともに空気を吸うことが難しい。
ガーニーよりはよほど速くて料金も安いが、逆に云えばそれだけしか良い点がなかった。
新聞”アラン・タイムズ”によれば、政府がシティのトンネルに設置した排気ファンによって、地下鉄の空気は以前に比べると非常に良くなったそうだが、バベッジ卿曰く、この排気ファンの設置はまだ実験段階であり、ロンドン各所のトンネルに設置するには性能不足も甚だしいとのことだ。
「貴女、いつもこんなひどい乗り物を使って通学してるの?」
これ見よがしに眉を顰めながら、口元を上品な柄のハンケチで覆うシェーンに、アーシェは癖みたいに肩を竦め「慣れたものさ」
「明日から車で迎えに来るわ。こんな物に乗ってたら、身体を壊してしまうもの」
「ええ? いや、大丈夫だよ。そんなに気を遣わなくても」
「ダメよ、貴女はもうわたしのモノなんだから。わたしの云うことを聞きなさい」
「ず、随分と強気に出たね」
「こうでも云わないと、従ってくれないでしょ? それに、アーシェに何かあったら困るもの。だから……、ね?」
反論できなくて、思わずまた肩を竦めてしまう。
地下鉄というのは利便性だけを詰めた乗り物である。硫黄を含んだガスの排気は充分ではないし、下水の吐き気を催す酷い匂いだって捨て置くことはできない問題なのだけれど、急進派はこのことに口を噤むどころか、雇われのやぶ医者の意見を公式の見解として発表した。
排気ガスが喘息の治療を促進するならば、そもそもこの排気ガスに塗れたロンドンで肺を病んだりしないだろう。
不意に、とりわけ強い衝撃が客車に走った。
ブレーキがかかったのだろう。天井から吊るされた機関ランプの灯が一斉に揺れて、乗り合わせた客の顔を照らす。
紳士面をした貧者に、上衣に酒をこぼした酔っ払い。
それに堅苦しい雰囲気を纏った老人聖職者。彼は娼婦に軽蔑の視線を送っている。
くだらない。
アーシェは神父に対して軽蔑の眼差しで見た。彼女だって必死に生きているのだ、軽蔑すべきはそれを知らずに軽蔑する神父自身ではないか。
汽車が完全に止まってドアーが開くと、アーシェはシェーンの手を引いてすぐに汽車を降り、足早に自分の部屋へ向かう。
これ以上地下鉄の悪い空気を、彼女に吸わせたくなかった。
階段を上って外に出ると、恐ろしいほど冷え込んでいた。
真夜中のイーストエンド、ホワイトチャペルは道の先が見えないほど霧が濃くて、機関街灯の明かりがあってもなお暗い。
人通りもやけに少なかった。普段なら遅くまでやってるはずのクラブやパブに明かりはなく、仕事帰りのサラリィ・マンの姿も、逞しく駆け回る浮浪児の姿もなかった。
誰もいない。
不自然なほどに。
いくら治安の悪い地区だと云っても、ここまで人がいないのは異常だ。
アーシェは訝しく眉をひそめて、辺りを見回す。
十年近く住んでいる彼女であっても、こんなことは初めてだった。
「どうしたの?」
「いや」
背筋にいやなものを感じた。
急ぎ足で辿る家路はいつもの通り、いつもと変わらないはずなのに、何故だか全身が汗ばむ。
思い出すのはあの噂。切り裂きジャックの模倣犯のこと。
あまりに静かなものだから、もしやスコットランド・ヤードが封鎖しているのを知らずに、道路を歩いているのではないだろうか。そんな不安さえ過るほどだ。
まったく、あり得ない。
アーシェは穏やか得ない心中を無視した。
と、その時だった。
甲高い音が聞こえた。
背後。それもすぐ後ろから
いつも聞く列車の汽笛。
けれど、何故だか。
ひどい違和感があった。
同じ音のはずなのに、それはまったく別のものに思えて。
アーシェは戦慄を覚えた。
「ね、ねえ。何か、変よ……こんな時間に、列車なんて走ってたかしら……?」
まさか。
そんなはずない。
そんなはずがない。
二人の呼吸が止まる。
ザリッ。
靴底が石畳を擦る音。
フゥフゥ。
荒い息遣いが耳を叩く。誰かの気配がした。
それは後ろにいた。
二人は振り向いて、その瞬間、言葉を失った。
腹の底から湧き上がるこの感情を、はたして誰が的確に表すことができるだろうか。少なくとも、彼女自身は的確に表現するだけの言葉を、持ち合わせてはいなかった。
胸の奥底から恐怖が、怖気が、戦慄が、呼吸を止める。
続けざま、強烈に視界が歪んだ。
極度の恐怖と、呼吸困難によって引き起こされた眩暈。思考もできず、意識が途切れそうになって、けれども恐怖が気を失うことを許さなくて。
あまりの苦しさに、我知らず喘いでしまう。震える瞳から自然と涙が零れ、喉からは引きつった声がばかりが出る。
狼だった。
振り返った二人の視界に映ったのは、巨大な狼だった。
毛むくじゃらで、黄ばんだ鋭い牙を剥き出しにして、涎を垂らして、二足で立つ狼。耐え難いほどに腥(なまぐさ)い血の臭いを纏ったそれは、街に流れる噂の正体。おとぎ話の中にしか存在しないはずの怪物。
すなわち。
「ひと……? おお、かみ……っ……?」
声が出た。
酷く掠れていたけれど、喉に詰まっていた空気を吐き出すには充分すぎる量。僅かに、ほんのちょっとだけ、全身に酸素が回ったの自覚する。
ぐらついた視界はぴたりと定まり、全身の感覚が戻る。遠い世界から帰ってきたような錯覚を感じた。
シェーンを庇うように後退りつつも辺りを見回す。
誰もいない。
助けてくれる者は。
狼が低く唸り、今にも飛びつかんと口を開けた。
だらだらと口端から滴る赤黒い涎が、これから襲い掛かってくる”猟奇”を二人に認識させた。
「っ、シェーン! 逃げて!」
アーシェが言葉を発するよりも早く、人狼は大口を開けて彼女の目の前に迫る。逃れることのできない恐怖に、目を瞑る以外の選択肢はなかった。
そして。
けたたましい音が響く。
目を開くと、そこには見慣れた光景があった。
薄汚いシミだらけの板張り天井と、使い古した機関ランプのか細い明かりだ。アーシェリカ・ロゼッティの寝室だ。
「あ?」
我知らず、間の抜けた声が出た。
彼女には家に辿り着いた記憶がなかった。
服は外出用のままで、壁の時計は朝が来たことを示している。
シェーンと家路を辿ったのは憶えているのだが、途中からばっさりと記憶が抜け落ちていて、いったい自分の身に何があったのかさえ思い出せない。
上体を起こして身体を検めれば、はたして身体には失くした記憶の残光があった。
傷跡!
切り裂かれ血の滲んだシャツ、肩口に噛みつかれた痕、おおよそ尋常のものではない三本の巨大な爪跡が、鎖骨から下腹部まで伸びているではないか!
ゾクリと。人外に出会った恐怖が、吐き気と共に蘇ってきた。
声なき悲鳴を上げてアーシェはベッドから転げ落ちた。
隣に寝ていたシェーンもつられてベッドから落ちたが、今の彼女には気にする余裕もない。
おぼつかない足取りのまま洗面台に向かい、喉元で抑えていた胃液を全て吐き出す。二、三度吐いてようやく落ち着いた。
鼻奥から漂うすえた臭いが生きている実感を与えてくれた。
「アー……シェ……?」
シェーンの心配した声が聞こえてきて、はたと恐怖の中から意識が浮上する。「どうしたんだい」と答えれば、驚くほど掠れた声が出て。正面の鏡に視線を移せば、強張り憔悴した自分の顔があって。何故かわからないが、アーシェは衝動的にその顔に頭突きをして、消し去ろうとした。
もちろん、結果は鏡と額が割れただけだった。
「アーシェ、どうしたのアーシェ」
ひどい音を聞きつけてやって来たシェーンは、歩く屍みたいなアーシェの姿を見て悲鳴を上げる。
その驚愕と恐怖と混乱ぶりはあわや失神してしまうのではないかとさえ思えるほどで、まったく筆舌にし難い。あまりの様子にアーシェは逆に冷静になってしまった。
困ったふうに笑いながら「シェーン、あたしは大丈夫だよ。ほら、生きてる」
思ってもないことを云えば、彼女は半ば乱兇しながら首を振り「噓だわ!」とだけ叫んで両手で顔を覆い崩れ落ちすすり泣いた。
ここに至っては宥める術もない。アーシェはやはり肩を竦める他なかった。
数分。
いや、数十分だろうか。
なんとか落ち着いたらしいシェーンに寄り添って、自身の肌の暖かさを伝えようと涙にぬれた彼女の頬をそっと撫でた後、アーシェはこう語り掛けた。
「大丈夫、大丈夫だよ。あたしは生きてる。幽霊じゃあこんな風にキミを触るなんて、できないだろう? こんな傷跡があるけれど、少なくとも死んではいないのさ。まあ、なんで生きているのか自分でも不思議なんだけれど、ともかくあたしはちゃんと血が通った人間の、アーシェリカ・ロゼッティのままだ」
「そうなのかしら……でも、でも……」
「信じられないのは、あたしも同じだよ」
呆れたような諦めたような表情のまま鼻柱を指先で掻くと、アーシェはすっくと立ちあがって、もはや服の原形をとどめていない上衣を脱ぎ捨てる。
自分たちに何が起こったのか定かではないが、目の前の現実から目を背けるのが最善だとアーシェは思った。
「……今日はアカデミーに通う日だ」
漠然と呟く。
後になってみれば、ここで何も考えずただ茫然とした気持ちでいたことは最も愚かな行いだと気付けるが、とにかく。
今のアーシェには現実を直視するだけの余裕がなかった。シェーンにもなかった。
時間に追われているわけでもないのに、アーシェは”アカデミー用”の衣服をクローゼットから取り出して、せかせか身に着けていく。
外出用の大量生産されている粗雑なものとは違う、高級感の漂う上質なシルクのシャツと丈夫なズボン、鹿革の丈夫なブーツ、それに仕立ての良いウールのコートは、彼女にとっての一張羅だ。
「さあ、シェーンも準備をしないと。ああ、そうだ。キミは一旦家に帰らなきゃ」
「……ええ、迎えを呼ぶわね」
促されて、シェーンは懐から何かを取り出す。手のひらより少し大きいそれは、小型の機関通信機エンジン・ダイヤル・フォンと呼ばれる代物で、蒸気機関発祥の地たる大英帝國では一般的な小型の機関通信機だ。
彼女のそれはオーダーメイドの品であり、丸い懐中時計型の見た目に違わず時計としても機能する。蓋を開いて、二つあるうちの右側面に付いたダイヤルを回して歯車に刻印された数字を合わせれば、数秒後には実家の通信機から若い執事のくぐもった応答が届いた。
およそ十分で迎えのガーニーが来くると云う。はたして十分きっかしにガーニーが来ると、シェーンは不安を抱いたままアパートメントを去っていった。
ひとりになってしまったアーシェは、なんだかぬるま湯の中を素足で歩いているような気持ちの悪さと居心地の悪さを覚えて、自分の身体を抱きしめた。
ロンドンへ来てから久しく感じていなかった孤独が、じくりと足元から這い上がっている。
アーシェは愛用の鞄と共に部屋を出た。
鍵をかける手が震えていた。