地下鉄に乗ってホワイトチャペルを出て、テムズ川岸に向かう。
ここには複合施設、ランドマークのロンドン塔がある。広大な敷地には大小さまざまな塔が乱立しているが、うち真新しいものがあった。
北西に建てられたこれらの塔は、二人の通っている王立アカデミーだ。
アカデミーは一七七〇年からロンドン塔に設立された教育施設であり、多くの碩学を輩出してきた由緒ある場所だ。
知識に隔たりなくあらゆる学問を修めるため、ここでの授業は厳しくあるが決して──相応の努力が必要になるが──無駄にはならないだろう。
多くの生徒が行きかう瀟洒な正門を前にして、アーシェは今日初めて自分の身体になった気がした。
人ごみに紛れても孤独が消えるわけではないが、それでも幾ばくかの安寧が身体に満ちた。
石畳の道路を抜け大理石の床が眩しい教育塔へ入ると、こちらに気付いたらしいアーサーが寄って来た。
「おはよう、アーシェ。なんだか疲れた顔をしているね」
「ああ、おはようアーサー。そうだね、悪い夢を見た……かもしれない」
「妙な云い方をするね。まあいいさ、それより一緒に朝食でもどうかな」
彼の提案にアーシェは頷きで返した。
硝子天井が設けられたグレート・ホールにある食堂は、講義まで時間があるせいなのか、キッチンでソーセージ・サンドイッチを受け取った時には十組あるはずの長テーブルは既に大半が埋まっていて、喧騒は耳を聾さんばかりである。
少し彷徨って見つけたのは、辛うじて三人分ほど空いた壁際の薄暗い端っこだけだった。
「いつも思うけれど、この冷え切った椅子に座るのは気が引けるな」
「底冷えするよ。身体も、心も」
冷たさに唸りそうになるのを堪えて座り、さっそく湯気の立つサンドイッチに齧り付く。
味を感じないことに、アーシェは眼を背けた。
「昨日の話だけど」ふと思い出したように彼が云う。
「また”出た”らしいね」
呼吸が止まった。
時間が色を失った。
「出た、だって?」
「恐ろしいことにね。ホワイトチャペルでホームレスが一人犠牲になったそうだよ」
震えた声で訊けば何でもない答えが返ってくる。
生きている以上は自分のことではないとわかっているが、あの悍ましい記憶からして関係ないとは云い切れない。それが何よりも恐ろしくて、衝動に任せて首を掻き毟りたくなってしまう。
「君が住んでいる地域だろう、あそこは。用心するべきだ……、いや、そもそもあそこから離れた方が良いかもしれないね。そうだ、俺が部屋を用意してあげようか。父さんの持ってる貸家のひとつがちょうど空いていてね、アカデミーに近いから便利な場所だと……聞いてるかい?」
この後、どうやって過ごしていたかアーシェは憶えていない。
は考えた。けれども予想に反して「いいえ」数秒を置いてきっぱりした表情で云う。
「わたしはね、ただ待つだけの女じゃないの」
「けどっ」
「怖いでしょうね。間違ったら、きっと死ぬかもしれない。でも、怖いのには耐えられるけど……独りぼっちになるのは、もっと耐えられない」
「……いいの?」
シェーンは強気に笑った。それが答えだった。
まずガーニーで向かったのは事件があったというホワイトチャペルだ。自分たち以外の被害者がいるのならば、現場でスコットランド・ヤードに、いったいどんな状態で、どんな風に殺されたのか、話を聞くのが手っ取り早い。
ホワイトチャペルに着くと、多くの警官が物見に来た浮浪者や新聞記者を現場から避けたり、ホワイトチャペルを隙間なく巡回をしていた。
厳戒態勢のひりついた雰囲気の中、近くの警官に訊けば場所は地下鉄駅前から少し歩いたところのうらぶれた路地だという。
もちろん現場には規制が布かれているため近付けないが、それでも事件の委細を話を聞くことはできた。
アーシェがホワイトチャペルに住んでいると云えば、恰幅の良い彼はすぐに話してくれたからだ。
「獸に、食べられていた?」
「まったくひどい有様だった」
警官が云うには、被害に遭った男性のホームレスの死体は、食い千切られた跡が複数あったらしい。
裂かれた痕もあったが、切り裂いたと表現するより力任せに引き裂いたみたいだったと云った。いつもの切り裂きジャックの再来の手口とは違うとも云っていた。
アーシェはこのあたりで野犬が出たなんて話は少しも聞いたことがない。見たとするなら、やはり昨夜の人狼だけだった。
「……っと、すまない。女性に訊かせる話ではなかったな」
「いえ、ここに住んでいる以上は知らなければいけないことです」
背筋をうすら寒いものが走る。
娼婦よりもはやくこの近くに来ていたら、死体安置所へ送られていたのは自分たちだったかもしれない。
だがそこまで考えた時、やはり何故喰われずに済んだのか、二人の間に疑問が横たわる。アーシェの致命傷と思える傷が塞がっているのも奇妙だった。
「ありがとうございます、警官さん」
「お二人とも気を付けて。何かあればすぐ我々にお知らせを」
「ええ、頼りにさせて頂きますわ」
優雅に一礼して警官から離れて、アーシェは顎に手を当てて考える仕草で呟いた。
「人知の及ぶ事象じゃない」
シェーンは辺りを見回してから、むんずと腕を組んで「あの狼男が、切り裂きジャックの再来なのかしら」
「可能性は高い。現に娼婦が一人死んで、あたしたちも襲われたんだ」
奥歯を噛み締めて、恐怖を殺した。
二人は夜を待った。
人狼が相手ならば夜を待つのは悪手かもしれないが、正体がわからない以上はどうしようもない。
幸いにも武器は持っている。
アーシェの家にはモーゼルと、ストックを切り詰めたウィンチェスターライフルがそれぞれ一挺あったし、シェーンは父と鳥撃ちに行ったりするほど銃の腕には覚えがあった。
「なんでこんなもの持ってるのよ」
「知り合いに貰ったのさ。良いオジサンだったよ」
誤魔化して、銃弾を装填したモーゼルをシェーンに差し出す。
ウィンチェスターライフルは前時代の銃だったし、何より、アーシェにとっては手に馴染んだ物だからどうしても自分で持っていたかった。
夜霧に覆われたホワイトチャペルには、昼にも増してスコットランド・ヤードの警官たちが配置されている。手持ちの機関ランプを持っているのか、か細い明かりがあちこちで揺れていた。
見つかっては少々面倒なことになるか。
二人は目立たぬよう闇に紛れながら、事件現場の近くまで進んでいく。
途中、シェーンは気が付いた。
「浮浪者の一人もいないわ」
薄汚い路地裏で、犬みたいに鼻をひくひくさせながら彼女は、
「昼間はいたの。貴女が警官に話を聞いてる時、わたしはよくよく周りを見てたわ。その時は、確かに浮浪者が大勢物見に来てたのに」
「それはヤードが……、いや、襲われる前は人っ子一人いなかったんだ。可能性は充分にある」
昨晩は予兆として人の気配がなかったのだから、ヤードが浮浪者を排除したと思い込むのは軽率だ。アーシェは素早く視線を表通りに走らせた。
はたして警官の姿はなかった。
ごくりと、シェーンがつばを飲み込んだ。
瞬間。
表通りに影が降り立った。
「っ!」
アーシェが表へ飛び出して銃爪を引く。
計五発の銃弾が影に吸い込まれ、獸の悲鳴が夜闇を駆け抜ける。
「仕留めた……!」
確かな感触があった。
影はうずくまっているが、不規則に大きく震えているばかりで暴れる素振りはない。時折り聞こえる呼吸はくぐもった咳が混じっている。肺に穴が開いた証拠だ。
心中でしっかり十秒数えてから、アーシェは銃を下げずにゆっくり影へ近付いた。
「死んだの……?」
「まだ生きてる。もう長くないけれど」
シェーンが駆け寄ってその姿を見止めると、小さな悲鳴を上げて立ち止まる。
はたしてその正体は人狼だった。
ずんぐりとした体形、薄汚れた毛並み、両手には鋭い爪を、大きな口から悍ましい牙を覗かせるそいつは既に虫の息だけれど、濁った瞳でこちらをじっと見つめていた。
「何よ、これ……」
「狼男だよ、たぶん」
「……死ねば、元の人間に戻れるのかしら」
彼女の呟きが、恐ろしいほど闇に響いた。