夜も更けた頃、アーシェの部屋には二つの影があった。
ひとつはアーシェで、もうひとつは小太りの警官だった。彼はアーシェの家を訪ねてくるなり、玄関先で様々なことを聞いてきた。友人はいないのかとか、昨夜は何処にいたかとか、まるで犯人と決めつけたみたいな云い分だった。
無理もない、アーシェは白ける。ホワイトチャペルなんて小汚い場所に淑女と鳴らした少女が一緒にいたのだから、それは目立つし、誰彼構わず噂するというもの。ヤードには昼間に会った警官が漏らしたに違いない。
「それで」警官は安物の葉巻を咥え直して、「君の職業は」
「学生です。こんなですが、王立アカデミーに通っています」
ほう、と警官が驚いた。疑念も抱いたと見える。
こんな奴がアカデミーに通っているとは思ってもいなかったのだろう。けれど本当に通っているとも思ってはいない。口からの出任せだと断じている様子だった。
それを知っていながらアーシェは朗々と話した。
「あたしは元浮浪児ですが、頭は良いのですよ」
「云うかね、そんなことを」
驚愕冷めやらぬ警官が眉を顰める。
「お疑いの様子でしたから」
肩を竦めて悪びれず答えた。
「卑しい身の上でとそしられましょうが、アカデミーは浮浪者や街娼であろうと非才ならばその手を差し出してくれます。老いも若きも、身分も関係なく、才あらばその慧眼を以って拾うのです。智に貴(あて)なく……、これはおためごかしの言葉ではない。事実、あたしは学年一位の成績ですから」
強かな弁舌は信用を生む。警官はわずか信用し始めていた様子だ。
「お望みでしたら証拠も見せますよ。アカデミーのノートを、ね」
畳みかけるように、彼を部屋に上がるように促した。
それからたっぷりと時間が経て、やっと警官は帰り支度を始めた。
将来有望の碩学が人を殺すものか懇々と話した甲斐あってか、ある程度のところまで疑いが晴れたのだ。
「協力、感謝する」
「いえいえ」
「ところで、最後に一つ訊きたいのだが、このあたりで犬を見かけたかね」
「犬ですか。見たことありませんね」
「そうか、ならば良い。くれぐれも、気を付けてな」
「お役に立てたのなら幸いです」
乱れた制服を整えた警官は失礼とも態度で心にもない礼を述べる。慣れたものでアーシェは気にした風もない。疑われるのはわかっていたから、それ用の対策もかねて色々と考えてあった。結果は上々だ。
警官の後姿を見送り、一安心すると眠くなってきた。
ひとつ大きなあくびをしてから、アーシェはシャワーを浴びるために洗面所に向かう。ふと鏡を見れば、そこにはアカデミーに入る前の自分がいる。暗く澱んだ瞳をした自分がいる。今の自分とそっくりだ。
疲れている。とてつもなく。
決めつけて、さっさと服を脱ぎ捨ててシャワールームに入った。
裸になれば嫌でも巨大な噛み痕と爪痕が目に付く。女性の身体にはあるまじきもの。触れば傷跡特有のざらざらとした感触が指先を刺戟し、ことさらに不愉快だった。
「それにしても」
改めて考えれば不思議な傷だった。
この傷というのは、致命で塞がりようのないのに、どうしてか痕だけ残して他は綺麗さっぱり治っている。あの人狼、尋常ならざる者より受けた傷は、未知なる超常の力が宿るとでも云うか。
わからないが、もしそうならば、一生消えることはないのかもしれない。嫌な考えがよぎって、アーシェは歯噛みしてしまう。肌を打つ水滴に煩わしさを感じて、アーシェはわずかに身動ぎした。
シャワールームから出て身体を拭き、寝間着に着替えた途端に眠気が襲ってきた。疲れがどっと押し寄せてきたようだ。
ネグリジェも纏わぬまま、気怠げに、乱れたままのベッドに寝転がり、睡魔に身を任せて瞳を閉じる。
数秒も断たぬ間に、微かな寝息だけが部屋を満たした。
アカデミーが終ってから数刻、クラブに顔を出すと、珍しくアーサーだけが居た。この時間だといつもならカリスが来ているのに、今日に限っては奇妙である。彼に訊いても「数日来ていない」と興味なさそうに首を振るばかりで、不安を隠せないアーシェは眉を顰めてしまう。
「まあ、そんな日もあるさ」
無関心を隠さない彼は新聞から目を離さない。
もっともな意見だ。カリスだってアカデミーの卒業生で碩学として働いているのだから、たまたま仕事が忙しくて来れなかったのかもわからないだろう。
先日の事件で過敏になっているのか。
アーシェは感情を隠すみたいに眉間を揉んだ。
「事件はどうなったかな」
話題を移すと彼はやっと顔を上げた。
「どっちの事件だい?」
「どっちもかな」
「ふむ……アラン・タイムズによれば、どちらも進展なしと報じているね。切り裂きジャックの再来はまだ何もないし、ホワイトチャペルの発砲事件は浮浪者の身元確認が難航しているそうだ」
「切り裂きジャックの再来は、また現れるかな」
「昨日の今日で現れるのが殺人鬼の再来なんて、勘弁してほしいけれど」
状況は芳しくない。
アーシェは歯噛みしたくなった。浮浪者なのだから当然だが、しかし、身元確認の難航はもどかしく思う。座して待つほどもどかしいことはない。
世論と同じくヤードを無能と断じてしまえば楽だが、あれらが出す情報を頼みにしている身の上でそれは傲慢だ。増上慢である。
「ヤードには、ぜひとも頑張ってもらいたいね」
苛立ちを顔に出さずに云えば、彼は頷いて新聞を閉じた。
「ところで」不意に彼は、思い出したみたいな声で「今夜よければ食事でもどうかな」
話題が唐突に移った。
不意のデートの誘いに、アーシェは心底溜め息を吐きたくなってしまう。
受けるのは正直気が進まない。さすがに断ったらへそを曲げるほど彼も狭量ではないだろうが、アーシェは一度この手の話で厄介ごとに巻き込まれているから、どうしても一瞬考えてしまう。
とはいえ無下に断る理由もないし、こうして誘われるのは悪い気はしないのも事実で。
ちょっとした優越感とか、そんなものちゃちなものが彼女の心に魔を指した。
「しようがない。今回はキミに花を持たせてあげよう」
「本当かい? 良し、良し……店を知ってるんだ、アーシェが気に入りそうな」
「へえ、それは楽しみだ」
心にもないことを云って笑う。
余裕ぶった態度で返せば、彼もまた余裕を見せた。
それから間髪入れずに、彼にエスコートされながら外へ出た。案内されたのはシティの一等地に立つ高級オーベルジュのだった。鋭い目つきで、顎髭を蓄えた夜間ドアマンに軽く会釈して、中へ。それからアーサーの背を追いかけていくと、落ち着いた雰囲気のいかにもなフランス料理のレストランで、まったく彼に下心が透けていた。
強引な男だ。アーシェは思いながらも、まだ悪い気のしていない自分に自嘲する。笑顔を崩さず席について、おためごかしに言葉を投げる。
「ずいぶん洒落たところだね」
「だろう? ここは俺の行きつけだから、きっと気に入ってくれると思ったんだ」
「これで料理がおいしかったら、あたしの行きつけにもなってしまうかな」
「味は保証するよ」
得意げなアーサーに対して、アーシェは見えないように肩を竦めた。
こんなにも格式高いレストラン、いくら彼が金持ちの息子とは云え行きつけとはいささか無理がある。シェーンほどの大金持ちならば少しも疑わないのだが。
「ふふ、そういうことなら、期待しようかな」
しかしこの場で指摘するのは無粋だろう。
男が見栄を張っているのをわざわざ水を差すほど、アーシェは考えなしではない。
「裏切らないよ、ここの料理はね」
彼は満足げに頷いてウェイターを呼ぶと、来る前からすでに決めていたのだろう、実に余裕ぶった態度でいそいそと料理を頼んだ。
しばらくしてワゴンで運ばれてきたのは、プロヴァンスワインと、前菜のプロシュット包みのイチジクが乗ったカナッペと、口当たりの良いあっさりしたもの。スープは牛肉のコンソメスープ、魚料理はシー・ブリームのムニエル、ソルベにはレモンのシャーベットが出され、肉料理はフォアグラのステーキで、デザートには木苺のミルフィユだった。
「うん、期待以上」
アーシェはナプキンで口を拭い、はたして美味であったと頷く。
比較的にシンプルで素材の味を活かす料理の多いコースで、ワインも料理を引き立てる良い味だ。
「キミの誘いを断る理由がなくなってしまいそうだ」
「気に入ってくれたみたいで何よりだ。また食べに来よう、今度はもう少し味付けが濃いコースを頼みたいからね」
アーサーは眼鏡を指先でついと上げ、得意になった。
さしずめ、心中で計画が順調に運んでいると、密かにほくそ笑んでいるに違いないが、アーシェはもう大人しくしている気はない。
「さて、今日はありがとうアーサー。もう帰るとするよ」
「帰る……? 最近の夜道は何かと物騒だ、明日はアカデミーも休みなんだし、泊って行かないのかい。部屋を取ってあるんだ」
唐突な言葉に狼狽える彼を尻目に、アーシェは立ち上がると、人差し指を唇に当ててウィンクした。
「悪いけれどね、アーサー。イイ女はそう簡単に靡かないものなのさ」
それを聞いて、アーサーは見惚れたみたいにぽかんとした。
平時なら自信過剰とも取れる発言が、彼への殺し文句としては完璧なのだと、アーシェは正しく理解しているのだ。そして当然、身の振り方も。
「だけど、ふふっ、キミのエスコートは良かったよ」
「そ、そうかな……それじゃあ、家まで送るよ」
「本当かい?」
「……最後まできちんとエスコートするのが、紳士だろ?」
「さすがだね、アルトリウス」
アーシェの言葉に気を良くしたアーサーは、並び立って、オーベルジュから出る支度を始めた。袖にされたのに機嫌が良いのは、恋は盲目などとよく云ったものであるが、アーシェが彼の機嫌を損なわないようにしているよるところが大きい。日頃あしらっているおかげか、随分と手慣れたものだ。
外に出るなり、肌を裂く冷たい風が吹き抜けていく。
夜のシティの活気もなりをひそめて薄暗く、繁栄の裏に隠れた闇が霧の隙間から見える。
ホワイトチャペルに比べれば少ないが、浮浪者は夜食を求めてごみを漁り、立ちんぼなどが機関街灯の下で右往左往して仕事を探す。街娼はかじかんだ手をすり合わせながら男を呼んでいる。
夜のロンドンの空気に負けず劣らず、寒々しい光景だ。
「夜は、一段と冷えるね」
「ああ、早く帰ろう」
吐く息の白さに震えた二人は、あれらを尻目に足早にガーニー乗り場へ、二等ガーニーを拾ってホワイトチャペルへ向かう。
アパートメントの前でガーニーを降りると、陰鬱としたホワイトチャペルが現した。見慣れたホワイトチャペルだが、警官があちこちに配置されていて、今はひどく恐ろしい。
「思うんだけれど」ガーニーにしばらく待っているよう告げたアーサーが、生ごみのすえた臭いに苦い顔をして辺りを見回し、
「どうしてここに住んでいるんだい。アカデミーの学生なら、シティに下宿をいくらでも借りられるだろうに」
「資金がないからね……金もないまま離れるのは、どうにも気が引けてさ。まあ、卒業したらベーカー街にでも移るさ」
今のアーシェは苦学生だ。日々の生活も何かと金がかかるし、アカデミーの学費だって頭が痛くなるほどで、とてもじゃないが他の場所に移ることができない。
切実な現実があった。
「前に云ったけれど、下宿先なら紹介できる。口利きして宿泊料を無くすことだってできるから、いつでも……」
「キミの手を煩わす気はないよ。でも、本当にどうしようもなくなったら、頼らせてもらおうかな」
曖昧に肩を竦めながらもホールへ入り、傾斜が急で煤けた階段を上って部屋の前に着くと、彼のあちこちへ彷徨う視線を気にしながら鍵を開けた。
「ありがとう、アーサー。今日は楽しかったよ」
「それは、うん、よかった」
落ち着かないのは女性の部屋に来たからなのか。まだ部屋の前だというのに初心な反応をするものだから、アーシェはからかうつもりで、耳元でそっと囁く。
「また機会があったら、よろしくね……期待してる」
「も、もちろん! 次はもっと良い店に連れていくよ!」
「……おやすみ、アーサー」