アーサーとのデートで半日以上も空けていた部屋は、夜を煮詰めたみたいに暗く、そして冷え切っている。外よりもマシではあったが、はやく放熱器を点けないと凍えてしまうだろう。
消してしまったランプに火を入れようと、ポケットからマッチ箱を取り出して、一本灯す。微かな明かりで照らされた部屋は、今朝とは違って、何故だかひどく散らかっていた。人が侵入した痕跡があった。
わずか、息が止まる。
アーシェは事件以来、常に懐に忍ばせていた拳銃を構えて、物音のひとつも聞き逃さないと、注意深く耳を澄ませて身構える。
強盗の類が入るのはままあることだ。数週間前だって部屋が荒らされていて、少なくない数のアクセサリーが持ち出されていたし、いくらか現金もなくなっていた。あの時は泣き寝入りしたが、今回はそうはいかない。
人の気配は部屋の奥、ちょうどベッドの横当たり。
あそこには小さいながらも窓があるから、きっとそこから侵入したのだろう。油断なく銃を構えたまま、すり足でベッドへ。あと一歩のところまで迫ると、マッチの頼りない灯が揺らめいて、ベッドに腰かけた男の姿を暴いた。
「人の家で何をしている」
低い声で問いかけ、銃口をぴったりと眉間に向ける。
男は、羽を休める大烏みたいに、前屈みでいる。ボロボロになった黒いコートと纏い、手拭で頭を覆っている。
目と鼻だけを露出させているから、表情も、何を考えているのもかわからない。ただ、手に持っている大きなナイフから察するに、抵抗する気があるのは確かだ。
「そんなおもちゃで脅しかい」
低く、唸るような声が、男から発せられた。短い言葉、その中に訛りがある。アメリカ大陸、それも北部の訛りだ。
「おもちゃだと思うか」
安全装置をわざとらしく外して云えば、男はくつくつと喉を鳴らして立ち上がる。
荒事には慣れているらしい、余裕を持った動きだ。
「俺にとってはおもちゃだ」
「何を……」
「この距離。銃爪を引くよりも早く、俺はお前の喉を刺せるぞ」
マッチの明かりが反射して、ナイフが黒々と光った。
脅しではない、確固たる自信を持っているゆえの力強さが、この男にはある。
「金でも盗りに来たか」
アーシェが訊くと、男は変わらずくつくつと笑って「盗みに来たわけじゃあねえんだが、まあ、似たようなものか」
はぐらかした答えだ。アーシェは舌打ちを堪えた。
「別にお前を襲おうとか、考えちゃないぜ。けど場合によっちゃあ、手荒いことになる」
男はそう云って、ナイフを手の中でもてあそぶ。
細長い身体だが、動きには澱みがない。よく手入れされたブリキの人形を思わせる滑らかさで、筋肉量はそれなり以上だとわかる。跳びかかられたら、アーシェでは勝ち目はない。
「動くなっ」
短くなったマッチが、指先を焦がそうとするのを感じながら、アーシェは歯を剥き出しに銃爪に指をかけた。
けれど男は、少しも臆さずに整然と距離を詰めて、銃を持つ手を払いのけると、そのまま節くれだった大きな手でアーシェの口を塞いで、ベッドに引き倒した。
はずみで落としたマッチ棒が踏み消されて、ついに部屋は暗黒が支配した。
一瞬の出来事に、アーシェはわずか茫然としてしまう。
それからゆっくりと、眼前にナイフの切っ先が突きだされる。肉切り包丁を思わせる分厚くて恐ろしげな刃と、峰を走る真鍮が、闇の中でもはっきりと見える。
「俺はお前を殺すなと云われてるんだが、だからと丁重に扱う気はない。あんまり抵抗するなら、大人しくさせてから連れていくこともできるんだぜ」
「ぐくっ」
「傷物になりたくなきゃ、今は従うのが賢明だろうよ……」
口ぶりからして、誰かに依頼されて来たらしい。
いったい誰がこんなことを。
声に出そうとするも、口を押さえつけられているせいで、くぐもった呻きしか出せない。
「気が強いってのも考えモンだ。売女なら売女らしく、黙って着飾ってりゃいい」
声色からして呆れた様子の男に、アーシェは目の前が真っ赤になるほど激高した。売女と罵られて黙っていられるはずがない、出来るならば今すぐに大声を上げて、この男に考えられる限りの罵詈雑言を投げつけてやりたいくらいだ。だが、目の前でゆらゆらと踊るナイフが、それを許してくれない。
「とにかく、付いて来てもらう。話はそれからだ」
男に促され、アーシェは銃を手放して立ち上がった。
背中に切っ先を押しあてられたまま部屋を出て、いつの間に現れたのか、真っ黒なガーニーに押し込められた。
ガーニーは、アーシェと男を乗せてしばらく走った。
ホワイトチャペルを抜けて、郊外の小さな寒村にある馬小屋近く。今はもう使われていないのか、廃屋と云っても差支えない家の庭まで、一度も止まることなく走り続けた。
「降りろ」
云われて素直に降りると、目の前にぽつねんと建つ家が、嫌でも目につく。
家は、おおよそ十年は経っているだろうか、窓は全て割れて、剥き出しの壁板は穴だらけ。おまけに天井の一部は崩落している。一目で人の手がほとんど入っていないとわかるほどボロボロで、軒先に吊るされた機関ランプが、かろうじて住処の痕跡を残すのみ。
屋内はさらにひどく荒れていた。置いてある家具は入念なほどに毀れ、床板は所々が腐り落ちて、迂闊に進もうものなら抜けてしまうだろうほど。
「こんなところに連れてきて、どうするつもりだ」
「別に取って食ったりはしねえよ」
訊いても小馬鹿にした返事ばかりで要領を得ない。
悪漢の類ではないようだが、しかし、人攫いをしている時点で危険な組織であることは間違いだろう。
組織。
そう、組織だ。
後ろでナイフを構える男の口ぶりから、アーシェは小さくない組織があるだと悟った。アメリカ訛りからして、人種を問わない構成なのか、またはアメリカに本拠地を置く組織か。犯罪シンジケートの可能性もある。
「ま、悪いようにしねえだろうよ」
「信用ならないな」
「俺に云われても困るんだがね」
歩調を緩めず部屋の奥へ、暗闇の階(きざはし)を下りていく。
天井から吊るされた蝋燭に導かれ、降りた先には銀の燭台が煌めく長机があった。
長机には多くの武器があった。
手前から順に、銀のナイフ、小さな木槌、鉄枷、鉄杭、そしてリボルバー式の拳銃と銀の弾丸、そして。
「連れてきたぜ」
「ありがとう、ブラッド。報酬はいつも通り、上で受け取ってくれたまえ」
壮年の男性らしき声がした。
長机の一番奥に座す者、燭台に照らし出されたその姿は、ダークグリーンのスーツを着た白髪交じりの男で。どうやら彼が親玉らしい。
そして”ブラッド”と呼ばれた背後の男は、どこか呆れた溜め息を吐いてから、場を辞した。
「申し訳ない。手が足りなくてな、粗暴な者しかいなかった」
「粗暴? ここの人間は、無暗に家を荒らして、ナイフを突きつけて脅すのが、粗暴の範囲内だと?」
「それに関しては陳謝しよう。だが、まずは落ち着いてくれたまえ」
声を荒げれば、男は落ち着いた声色で語り掛ける。
全て予想通りとでも云いたげな態度が、殊更にアーシェを苛つかせた。しかし、落ち着かなければ話が進まないことも事実、今は素直に従った方が良い。
片手で顔を覆い、わずか深呼吸してから、「わかった、落ち着こう……」
「結構。では、さっそくだが話をさせてもらう」
「ろくでもない話じゃないことを祈るよ」
「その点は安心してほしい」
反撃の嫌味に対しても余裕の態度を崩さない男は、席を立って、客人を相手するように恭しく一礼すると、最初に自己紹介をした。
「私(わたくし)の名は、デュオロンヘイン。植物学者であり、”狼憑き”の研究をしている」
”狼憑き”。
アーシェは訝しげに片眉を上げる。
思い出されるのはあの夜に刻まれた爪痕と、恐怖の記憶たちだ。おそらく”狼憑き”とは人狼の事を指しているのだろう。あれらが原因で、この怪しい男の前に引きずり出されたのか。
ならば、はたして。
「勘違いしてもらいたいのだが」考えを見透かしたみたいに、デュオロンへイン、「先の一件は我々の差し金ではない」
胡乱な話だとアーシェは鼻を鳴らす。
素性もわからぬ男の言葉を、どうして信用できようか。それに、彼は確かに今”我々”と口にした。複数人が関わっているのならば、内部にいくつかの派閥だってあるに違いないのだから、額面通りに受け取るのはまったく愚行だ。
「なら、あたしはどうしてここに連れてこられた?」
続きを促すと、デュオロンへインは「狼憑きに襲われた際に、君たちを助けたからだ」
「助けた……、どうしてその言葉を信用出来る」
「君の傷を塞いだ」
胸に手をやる。
唐突によぎった気味の悪い予感に、アーシェはわずか青ざめた。
「本来ならば死んでいた君と、君の友人を救った。特にアーシェリカ・ロゼッティ、君の傷は致命的であり、普通ならば助かる見込みもなかったが、我々には普通ではない技術がある。まだ息があったゆえ簡易ながら処置を施し、家に送り届けた」
「だから……何だって云うんだ」
「しかしそこで見落としがあった。アーシェリカ・ロゼッティ、君は狼に噛まれ狼憑きになっていたのだ。爪で裂かれただけと思っていたが、どうやら部下が確認を怠っていたようでな」
噛み痕がじくりと痛み、忌々しくも存在を訴える。
混乱と警鐘で荒れ狂う脳内で、ゆっくりと、デュオロンへインの話を反芻しながら、にわかには信じられないと首を振った。
「狼憑き、だって……あたしが……」
彼の話が本当ならば、アーシェはあの時に殺した人狼と、同じ運命をたどることになるかもしれない。理性を失って、人を喰らう獸となり、昼夜を問わず苦しむことになる……。まともじゃない、いくらなんでも受け入れがたい話だ。
けれど。なのに。
気味の悪い予感は確信となって、心中に押し寄せてくるのは、何故か。
「馬鹿なっ、何を根拠に……そもそも、狼憑きだって……そんなオカルトも鼻で笑うような話を、信じろだなんて……」
否定する。ひどく弱々しい口調で。
対してデュオロンへインは無情であった。
「ならば何故、話を大人しく聞いていた。狼憑き、この未知の言葉を聞いて何故、疑問を口にしなかった」
「それはっ、いきなりのことで」
「君は狼憑きと聞き、あの夜を思い出した。だから何も云わず、続きを促した。違うかね」
違う。云いかけて、グッと言葉を飲み込む。
これ以上の反論は無意味だと悟り、荒れ狂う心を無理やりにでも押さえつけるのは簡単なことではなかったが、無為に時間を使うよりは良いと考えて。
アーシェは自分が、頭の隅で冷静さを保っている事実に、死にたくなるくらいに嫌気がさした。今この時だけは、自分の聡明さを呪った。
「……ああ、云う通りだよ。くそっ」
悪態混じりに認めて、続けろと睨む。
デュオロンへインはわずかに沈黙してから、考えの読めない表情で云う。
「狼憑きを見過ごす我々ではない。が、だからとまだ人の身を保つ君を、獸のように狩るのも憚られる」
そこで言葉を区切ると、アーシェの表情を一瞥してから、満を持してといった態でこう提案した。
「そこでだ、アーシェリカ・ロゼッティ。君を一時的に我々の傘下に加えることにした」
傘下に加える。
云い方からして、おおよそ徴兵めいた雰囲気であり、断ることはできなさそうだ。しかし、云われるまま得体の知れない組織に入ってやるアーシェではない。拒否権がないとしても、だ。
デュオロンへインもそれはわかっているのだろう。
「もちろん、無償ではない。初めに、君の狼憑きを治すと約束しよう」
「……治せるの?」
「治せるとも。特殊な素材が必要だが、幸いにも在庫がある」
驚愕を持って訊けば、当然とばかりに答えが返ってくる。
確固たる視線からして、噓ではないらしい。それならば、協力するに値するだろう。唯一気になるのが、狼憑きを治すために必要となる特殊な素材……、ずいぶんときな臭いことだが、今この場で詮索したとて無意味だ。
「対価は」
「我々の狼狩りに協力してもらう。すでに一匹を狩り殺しているのだ、そう難しいことでもあるまい」
彼の言葉にアーシェはわずか苛立つ。
事も無げに云うが、あの時自分がどれほどの恐怖と戦っていたのか、きっとこの男はわかっていないのだ。
まあ、指摘したとて状況が変わるわけではないので、アーシェは口を開かなかったが。
「もちろん、約束は違えん。もし違えたのならば、この首を刎ねるがよろしい」
頷いて、彼は右手を差し出す。
「……、わかった。信頼はできない、でも、信用はできるように努力する」
アーシェは、その手を握った。