狼憑きを治すには、いくつかの薬草を煎じ詰めて薬とする必要があるが、出来上がるまでにはおおよそ二日を要する。それまでに狼の一匹を狩ってほしいとは、デュオロンへインの言葉。
だが、情報もなしに見つけろと云われても、困ってしまうのがアーシェだ。
「どうやって見つけろってのさ……」
朝靄の中、行きつけのカフェーで新聞を眺めながら呟く。
新聞にはホワイトチャペルで殺した人狼の詳細な身元が載っていた。
元は有名な商社に勤めていたが、接待用の資金を横領したとしてヤードに捕まっている。同時に商社もクビになり、自棄を起こしたのか、なけなしの財産も賭博に使い込み、浮浪者へ身を落としたそうだ。そうして最期には人狼となって殺されたのだから、同情はできないが憐れに思う。
問題はこの男の素性ではなく、この男を人狼にした者の存在だ。
目的も思想も不明だが、如何なる理由があろうと、人を化け物に変えるのは悪辣極まる。自分に関係がないのであれば、なあなあで過ごして煎湯を貰うだけと考えていたが、討伐しなければ人狼は増え続け、切り裂きジャックの再来事件も終わらないとなれば、ヤードから向けられた疑いの目も晴らせない。
放っておけば回り回って自分に責が返ってくるのだから、まったく度し難い。
夜道も歩けないことになることだけは、なんとしても避ければならない。
ぬるくなった紅茶を飲み乾して、新聞を閉じる。
しかし手がかりがない以上は、昼を忍んで夜を待つのが最善だ。狩るにしても、はたして人狼はどこに出るのか。情報を集めるにしても、そう簡単に尻尾が掴めるほど、相手が無警戒なはずがないのだ。
もちろん、だからと座している気はない。
幸いにもデュオロンへインは、武器は頼めば支給してくれるという。必要ならば人も寄越してくれるとも云っているのだから、甘えておくのが得策だろうけれど、アーシェはあてにしない。素性も何もわからない相手を、どうして信用できようか。どうして背中を預けられようか。
結局のところ、信じられるのは自分ひとりだけ。
世界はそういう風にできると彼女は知っている。
シェーンのこともある。早く彼女を安心させなければ、平和な日常に戻ることはできないのだ。
そこまで考えて、アーシェはふと思い出した。
シェーンは人狼に襲われた夜、傷のひとつもなかった。
きっとデュオロンへインの部下らが護ってくれたのだろうことは想像に難くないが、それなら何故、シェーンは彼らの存在を話してくれなかったのだろうか。
はたと頭を振る。
半ば恋人とさえ思っている友人が、目の前で化け物に喰われかけたのだから、詳細を憶えていないのは当然のこと。我ながら馬鹿なことを考えたものだと、アーシェは大きく溜め息を吐いた。
とにかく、情報を集めながら夜を待つことになる。
昼にことが起こらない以上、今は準備を整える時間だ。
やらなければいけないこと、決めなければならないことは多い。だらだらと過ごしている暇はない。
会計を済ませて外に出れば、アーシェの憂いた顔は、感情の見出せない冷たいものになっていた。
アカデミーには変わらないシェーンの姿がある。今日はフリルをふんだんに使った淡い赤色のドレスを着ている。アーシェはすぐにでも話しかけようかとも思ったが、何故だか口が開かなかった。
「シェーン、今、いいかな」
絞り出した声は、ひどくか細くて、シェーンが聞き取れたとは思えないほど。それでも彼女は、健気にも答えてくれた。
「アーシェ、どうしたの?」
「話を、したいんだ」
彼女は努めて日頃と同じ様子だった。
あんなことがあったのに、気丈に振る舞っていた。
「話……」
「屋上で待ってるよ」
何かを察して目を見開いた彼女に、無理やり笑いかけて、アーシェはその場を後にした。
アカデミーの屋上には、蒸気を学校中に運ぶための錆びついた配管が、所狭しと張り巡らされているから、外だというのにとても温かい。聞かれたくない話をするにはうってつけの場所だ。
アーシェは屋上に着くと、霧に煙るロンドンの街を見下ろして、ネガティブな感情を吐き出すために溜め息を吐く。
自分でもわからないくらいに胸中が荒波立って、頭がどうにかなりそうだった。カフェーでの嫌な考えが、きっと尾を引いているのだろう。そう思い込んで、感情を押さえつける。
シェーンが来る時には、もう心は落ち着いていた。
「ねえ、アーシェ。話って何……」
屋上の入り口にたったシェーンが問う。
「わかってるだろ。人狼のことさ」
振り返らずに、アーシェは答える。シェーンが僅かに身動ぎしたのを感じた。
「ええ、そうね……、そうよね」
悲しげに呟いた後、シェーンは「あの人は、どうなったの……狼は」
「さあね。身元は判明したらしいけど」
にべもなく云えば、沈黙が二人の間を通り抜ける。
重く圧し掛かる空気に潰されないように、アーシェは歯を食いしばった。
「シェーンは、あたしが襲われた後のこと、憶えてる?」
「……話したく、ない」
風が吹いた。
冷たい風だった。
「話してほしいんだ。辛いかもしれないけれど」
再び沈黙がよぎる。
それから数分、数時間だろうか。
とにかく、長い時間が経った気がする。
震えた声が、静かに響いた。
「貴女が、引き裂かれて……、噛みつかれたの。わたし、何もできなくて……」
言葉に詰まりながら、嗚咽を堪えながら、シェーンは続けた。
「でも、その時に……、人が来たの。とても大きな人……きっとヤードの人だったわ。その人が、狼に体当たりをして、助けてくれたの」
「大きな、人……?」
彼女の言葉で思い出されるのは、デュオロンへインの云っていた部下の存在だ。なるほど、彼の言葉は本当だったらしい。
ヤードの人、と呼ばれているところを見るに、警官に紛れてあの地区に居たのだろう。
「それから……わたし、記憶があやふやで……、きっと失神したんだわ。その、ごめんなさい」
「ううん、ありがとうシェーン」
振り向いて見れば、シェーンは涙を目にいっぱい溜めながら、歯を食いしばっている。アーシェはひどい自責の念に駆られて、彼女の顔を見なくて済むように抱きしめた。
「アーシェ……どこにも、いかないわよね?」
涙で胸元が濡れるのを感じながら、シェーンの問いに頷く。
「……行かないよ。キミがいる限り」
きっとこういう時、顔を見て云うのが一番なのだろうけれど、今のアーシェにはできなくて、シェーンの望む言葉を吐き出すしかできなくて。
腹の底に黒い滓が積もるのを感じた。
それは疑念。
懐疑の心。
カフェーでの馬鹿な考えが、澱みとして残っている。
常に片隅で冷静な思考を繰り返す自分が、全てを疑えとむやみやたらに警鐘を鳴らすのだ。落ち着いた生活を送って来たというに、浮浪児の頃に戻ったみたいな感覚がアーシェの中に蘇った。
「約束よ?」
「うん、約束」
背を優しく撫でて、シェーンの震える肩を落ち着かせる。
優しげな囁きに反して、アーシェの表情は冷え切っていた。
夕方のロンドンは活気に満ち満ちているが、その裏には頽廃の気配が這っている。大通りから外れて裏路地に足を踏み入れる。
澱んだ空気が漂う狭い通路には、幾人かの浮浪者が座り込み、歯車やブリキの缶などのガラクタ売りをしていたり、物乞いをしていた。
もちろんアーシェは彼らを無視して奥へと進む。彼らもまた情報を持っていたりもするが、金に見合わないものばかりで役には立たないことを、アーシェは既に学んでる。
「ランドルフさん」
路地の奥にある四つ辻で呼びかけて見れば、右の通路から聞きなれた鼻歌が響く。視線を向ければ、カラカラカラカラ、ガラクタを乗せた台車と共に現れたのはボロを纏った髭の老人、すなわち、探し人たるランドルフであった。
「やあ、アーシェちゃん。久しぶりじゃあないか」
しわがれた声の彼は、アーシェの姿を見止めると変に笑った。
ランドルフはこの界隈で知らぬ者がいないほどの情報屋であり、ヤードすら機密裏に彼を頼っているとウワサされている。この浮浪者がいったいどうやって情報を仕入れているのかは不明だが、信頼に値する人物であることは確からしい。
浮浪児であった時分によく遊んでもらった記憶から、そのことをよく理解していたアーシェは、こと情報戦においては彼を頼ることが正解だと考えた。
「少し、訊きたいことがあるんだ」
「訊きたいこと? はて、アカデミー主席のアーシェちゃんが、この老害に訊きたいこととは」
茶化した云い方で、好々爺然とした彼は笑う。
アーシェは無視して本題を切り出した。
「人狼」
瞬間、彼の顔が変わる。
仮面を付け替えたような急変、老人にあるまじき殺気の漲る変化だ。
「どこで知った……」
低い声を潜めた。咎めるような、突き放すような、凍えるほどの冷たさで。これはきっと恐れからくるものだとアーシェは予想した。
はたしてそれは当たっていたのだろう、彼の顔色は悪くなっていく。口に出すことすら憚られるのか、口にできない事情があるのか。
どちらにしろこの状態では聞きだすのに苦労するに違いない。
「話す気はないのかい」
「悪いがの。口の軽い仲間が一人、喰われておるんだ。こんな老いぼれでも、命は惜しいのでな。……、イーリングの方で犬が出た。それくらいしか知らん」
ランドルフは視線を辺りに彷徨わせて、わずかに唸り、それきり口を閉じて話さなくなった。
やはり人狼の居場所を聞き出すのは難しい。せめて何か手がかりでもと思ったアーシェはひどく苛立ってしまう。抑えきれぬ失望と憤怒が全身を襲った。
とはいえ、この短いやり取りの中で、わかったこともある。
人狼の秘密を探るのは危うい行いだ。命に係わる行いだ。
マフィアの話でならよくあるが、人狼となれば話は大きく変わってくる。そも存在自体が幻想だというに、まるで存在を認めるこの反応、裏には想像もつかない何かがいるとさえ邪推できてしまう。
あるいは、これこそランドルフの伝えたい事実なのか。
とにかく。
元から尋常ではなかったこの事件は、かなり根深いところに差しているのだろう。国家まではいかずとも、何かしらの巨大な組織が行っていると考えつくのは容易い。
「なるほど、なら訊かずにおくよ」
「それがいい、ああ、それがいい」
しきりにランドルフは頷く。いよいよもって恐ろしくなってきたのだろう、唇が少し青ざめている。
アーシェは彼に、少なくない情報料を払ってから、その場を去った。
次なる目的は、人狼の居そうな場所に当りを付けることだ。
路地から大通りに向かう歩みを止めず、胸のポケットから携帯機関通信機を取り出して、カチカチとダイヤルを回す。親愛なる知人、カリスに意見を聞くために。
呼び出し音が五回なった後、彼女は応答した。
「……、ぃ……」
ひどく掠れた声がした。まるでひどい風邪でもひいたみたいだ。
アーシェは何か病気でもしたのかと思いながら、彼女に問う。
「ああ、カリス。少しいいかな、狼男について訊きたいんだけれど」
瞬間。
通信機からけたたましい音が響いた。
思わず足を止め、耳から離してしまう。
不思議な反応をするものだ、そう考えたのも束の間、はたとアーシェは通信機に向かって「カリス! 今君の家に行く、逃げずに待っているんだ……っ!」
叫んですぐさま通信を切って走り出した。
あの反応は、間違いなく何かを知っている。
アーサーに誘われた時、話だと数日はカリスの姿を見ていないと云っていた。それだけなら偶然と片付けられたが、今しがたの通信機越しの反応は決定的だ。
どういう関係なのか、どこまで知っているかもわからないが、直接会って問いただすだけの価値はある。
カリスの住居はロンドン西部、アウターロンドンのを構成する地区のひとつであるイーリングだ。主に極東の人々が多く在住し、住居区画のはずれには舶来品を並べた露店があり、彼女はそこで怪しい品々を買い溜めているらしい。
ホワイトチャペルからは少々距離があり、地下鉄で行ってもおおよそニ十分はかかる。それまでにカリスが逃げるかもしれない。まさしく時間との勝負だ。
アーシェは最寄りの駅を目指して駆け出すのだった。